連休の初もの 4/30
明日から5月です。月が変わる前にサイトを更新しておかなくては……なーんて、そんな必要性はまったくないけど、身辺雑記を。
昨日、ぼくは教会学校のピクニックに出かけたのですが、その前後に、今年の初ものを2種類、見たのです。ツバメとルリタテハ。
最初は朝8時過ぎ、出がけに車を走らせていたら、頭上の電線にツバメが一羽だけとまっているのを発見。おー、ついにやって来たか。というので、一句浮かびました。
連休に 一番乗りか つばくらめ
そして夕方、ピクニックから帰ってきたときに、駐車場で車を入れていたら、目の前にチョウチョが飛んできました。見ればルリタテハ。こんな時に捕虫網なんてあるわけないけど、これは捕まえたかった。帽子で試みましたが、当然失敗。車を入れた直後にケータイでわが家に電話をして、応対した子どもに捕虫網を持ってすぐに降りてきてくれ、と頼みました。
網を受け取って、今度こそ捕まえようとしましたが、蝶の動きは素早く、結局逃げられました。残念。今年最初の収穫になるかと思ったのに。
連休のさわやかな一日の、なんてことないトピックでした。
関係性とデザイン 4/24
深澤直人というプロダクトデザイナーがいます。この人の『デザインの輪郭』という本が、非常に面白い。
ぼくはたびたび言うのですが、デザインは一般の人に関係なさそうで、実はすごく深い関わりを持っています。決して美術の中の狭い一分野ではないのです。だから、デザインを語ることは、ある意味、世界や人生の哲学を語ることでもあるのです。深澤さんの本は、原研哉さんの本と同様、デザイン以外の分野の人にもお勧めです。
本の中で著者は、デザインするときに環境との関係性を見ている、と述べます。そして次のような言葉が続きます。「礼儀がないとか、マナーが悪いとか、だらしないとかいうことは、精神的なことよりも、関係性が見えない、インタラクション(引用者注:interaction)の欠如だと思います。」
まったく正しい指摘だと共感しました。そしてぼくは、最近各地で発生している、花壇荒らしのニュースを思い出したのです。ああいうことをやっている連中は、たとえ外見は良識ある市民を装っていても、社会や環境との関係性を著しく欠いているわけだから。
人間教育の一環として、学校や企業でデザイン教育を取り入れてみてはいかが?
靴が、靴が…… 4/20
きのう、息子の高校入学式がありました。妻は息子に、式だからいい靴を履いて行きなさいと、ぼくがスーツを着るときに履く靴を物置から取り出してきました。ここ数年履いていませんでしたが、まだ新品同様です。息子はぼくより体が大きくなっていますが、いくつかの衣類や靴はまだ間に合います。しかし、息子は嫌がりました。
ぼくは妻と本人より15分ほど遅れて出ることにしたのですが、出発の時、玄関で靴を履こうとしたら、息子に勧めた靴が残っていました。どうやらいつものスニーカーで出かけたもよう。だったらぼくが使おうと思い、数年ぶりにその靴を履いて出発しました。
目的の駅を降りてから学校まで歩いたのですが、途中、交差点に近づいたとき、信号が青のうちに渡っちゃおうと思い、ぼくは走りました。そしてさらに信号待ちをして直角の方向に進んだわけですが、横断歩道を渡り終わったころ、なんだかガムか何かを靴底にくっつけて歩いているような変な感覚を覚えました。
何だろうと思って足もとを見ると、ワワワワ! なんと、靴の踵がぱっくりと割れているじゃないか!いったいどういうことだ、これは! 手で押さえても元には戻りません。割れた踵部分を拾って、持っていたビニール袋に入れ(いつも持ち歩いているものがこう言うときに役立つ)、そうっと歩き始めましたが、歩けば歩くほど、ボロボロと靴底がこぼれていきます。踵がどんどん低くなってくる。点々とこぼれる靴底を拾いながら歩くぼく。スーツを着た中年オヤジがいったい何をやってるんだっていう情けない姿です。人に見られたくなかったけど、足もとに靴底のクズが次々にこぼれて行くんだから、隠しようがありません。
学校に着いたときも、受付で人の後ろに回ろうとしたのですが、親切に先を譲られました。何食わぬ顔をしようと思っても、何食わぬ足はできない。立ち止まってるわけにも行かないから、なるべく他の人たちが通らないところを歩いて、会場へ行きました。
こう言うときの孤独感は恐ろしい。公衆の面前でぼく一人が恥をさらしているような感覚にとらわれました。保護者席に妻の姿を探しましたが、すぐには見つかりません。みんながぼくの足元を見ないことを願いながら、なるべく近くの空席を見つけてすわることにしました。
カバンを椅子の下に置いて、後ろから見られないようにしましたが、ふと目を落とすと、そこにもボロボロと黒いクズが……。式では全員起立も数回あって、そのたびに冷や汗。式が終わるころには、踵だけじゃなく前の部分もパカパカとめくれてしまっていて、もうちょっとで底抜けの靴になるところでした。
結局、式が終わってから妻が近くの靴屋さんで安いスニーカーを買ってきてくれて、それに履き替えて何とかこの件は解決。
新品同様だと思っていた靴だったけど、何年も履かないうちに靴底が完全に劣化していたのですね。この安物め! と、ぼくは毒づくのでした。しかし、こんなの生まれて初めて。実に忘れがたい入学式になりました。それにしても、息子が履かなくてほんとに良かった。
ユダヤ文化論 4/16
『私家版・ユダヤ文化論』(内田樹著、文春新書)という本を再読しています。一度読んだくらいでは判らなかったと言うことと、どうしても覚えておきたい言葉があったので再読しているのです。今度、「この本が面白い」で取り上げます。
ぼくは若いころからユダヤ人の文化や歴史に興味があり、旧約聖書にも深い関心があります。それは遠い世界の話ではありません。むしろ日々を生きていく上での切実な問題を、ぼくはユダヤ人文化の中に見るのです。
内田さんの著作に興味を持つようになったのは、4年前に『子どもは判ってくれない』を読んでから。この人の面白いところは、複雑なもの・わかりにくいものを決して分かりやすくしようとはせず、むしろわかりにくいままに提示しようとしているところです。ユダヤ文化も、内田さんに言わせれば本質的にわかりにくいものであるらしい。この本では、レヴィナスというユダヤ人哲学者の考え方が紹介されていますが、これがまたわかりにくくて、わかりにくさが二乗にも三乗にもなります。しかしぼくが強く心惹かれたのは、レヴィナスの聖書(ユダヤ人ですから当然旧約)の読み方でした。なるほどこんな捉え方もあるのだと、とても新鮮だったのです。
地頭力だって? 4/12
先週、NHK「クローズアップ現代」で「地頭力(じあたまりょく)」というトピックを取り上げていました。この言葉をタイトルにした本が書店のビジネスコーナーに並んでいるらしい。初めて聞く言葉だったけど、英語ではcreative
thinkng あるいはraw intelligence と言うらしいから、とりたてて目新しい概念でもないことがわかりました。
ああ、またか。本やらセミナーなんかの消費促進をねらった造語に過ぎないのです。日本には「頭が良くなりたい」症候群が蔓延していて、こういう情報を見聞きすると、時流に遅れちゃいけないと、必死になって追いかけるところがあるように見えます。
しかし、みんなが騒いでいる「頭の良さ」は、いかにも薄っぺらです。その目的や動機は単に、経済活動の利益になるかどうか、だけなのです。「地頭力」なんていう安っぽい造語をつけるところにその本質が表れています。今や学校教育も経済活動の視点からのみ価値を判断されているところがあるしね。
ほんとうの知性はそういうものではないし、ほんとうに賢い人はおそらく、そんな言葉を本気で相手にはしていないだろうなと、ぼくは思っています。
春の祭典 4/9
月曜日に渋谷のオーチャードホールへ息子とクラシックコンサートを聴きに行って来ました。「トヨタ・マスター・プレイヤーズ、ウィーン」というウィーンフィル、ウィーン国立歌劇場、そして名古屋フィルの共演です。前日に思いがけず、お友だちの杉山さんからチケットをいただいたもので(ぼくの人生ではいつも「思いがけず」がキーワードなのです)。
素晴らしいコンサートでした。第1部はいくつかの歌劇からソプラノとテノールの歌、第2部はオーケストラによる序曲「レオノーレ」第3番と「春の祭典」。どれも素晴らしくて、最初から最後まで身を乗り出して聴き続けました。中でも「春の祭典」は生演奏でなければ味わえない迫力と豊かさで、ああ、こんなに素晴らしい曲だったんだと改めて知りました。名前は知っていたけれど、ラジオでたまに流れていても、ほとんど聞き流していたのです。
特に打楽器の演奏は心を揺さぶるものがあり、吹奏楽で打楽器を担当していた息子も興味深く聴いて心動かされたようでした。
この曲のCDをぜひ買いたいものだと思いました。もちろんそれは、美術の展覧会で図録を買うのに似て、実物(生演奏)とは別のものであると、じゅうぶんに承知の上で。
ベン・ハー死す 4/8
アメリカの俳優、チャールトン・ヘストンがなくなったというニュースが流れていました。ついに、という印象です。後年の「全米ライフル協会」会長をやっていたのは、ぼくはあまり好きではありませんでしたが、それは往年の名演技の価値とは関係のないこと。
チャールトン・ヘストンといえば何と言っても「ベン・ハー」ということになるでしょう。ぼくも劇場やビデオで何度見たのだろう。この映画はぼくの好きな映画のベストテンには間違いなく入ります。
世間ではよくこれと並べて「十戒」を代表作として取り上げますが、聖書を題材にした映画だからと言って同等に扱ってもらっては困ります。原作、脚本、演出、演技、音楽、すべての点で雲泥の差です。「十戒」はただの娯楽スペクタクルに過ぎません。まあ、あれに出たから彼はベン・ハーに抜擢されたという功績はあるのでしょうが。
近々追悼記念で彼の主演作がいくつかまたテレビ放映されるんじゃないかと思いますが、ぼくとしてはビデオで持ってるベン・ハーはいいから、ぜひ「エル・シド」を見てみたいものです。
ラジオ体操 4/5
息子と早朝ジョギングをやっていると、公園でちょうどラジオ体操に出くわします。高齢者がほとんど。トラック競技場のあちこちにいくつかのグループがあり、ゆるやかにつながっているような感じです。ラジオがいくつか数カ所においてあるから、あちこちから少しずれて伴奏が聞こえてきます。
以前にも気づいたことですが、体操の一つ一つの動作が人によってけっこう違っているのですね。ぼくは小学校1年の時に習った動きを今もしっかり覚えているつもりなのですが、見ると正しい動きをしている人は多くありません。お年寄りだと体が固くなって動かないというのもあるでしょうが、それだけではなさそうです。何でそうなるの?というくらい不思議な動きをする人もいます。いや、あれは踊っているのか。
でも……、と走りながら考えました。人はみなそんなふうに、誰かから同じことを習ってもそれぞれの癖で解釈して身につけて行くんだろうなあ、と。ものによってはそれが問題を引き起こすこともあるけれど、何か新しいことを生み出すこともある。しかし、ラジオ体操くらいは細かいことをあまり気にせず、のびのびとゆるやかにやれば、それがいちばん心にも体にもいいのでしょうね。
桜もいいが梅もいい 4/2
もう4月になってしまいました。昨日の強風にもかかわらず、桜の花はまだいっぱい枝々を埋め尽くしています。
先週末に家族で長瀞へ行ったのですが、そこの桜はほとんどがまだつぼみで、開花までにはあとひと息というところでした。
駅から西の方角に宝登山(ほどさん)というそれほど高くない山があるのですが、その頂上あたりに梅百花園がありました。たくさんの梅の木が植えられていて、どれも花がきれいに咲いていました。ゆっくり見て歩く時間はありませんでしたが、桜とはまた違った趣を楽しむことができました。
平安の少し前まで、花とは梅を指していたということですが、ほどよい間隔で枝を飾っている花の様子は、慎みのある美しさですね。そして梅の良さはやっぱり香りだなあ。天気予報で桜前線の話ばかりしているけれど、こんなところにもメディアによる価値観の均一化が現れているような気がします。ぼくたちはもっとごくふつうに、桃や梅の良さにも目を向けて味わいたいものです。
3月の「ごあいさつごあいさつ」
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