新型インフルエンザの恐怖 3/30
今インフルエンザ関連のニュースはは、タミフルによる子どもたちへの副作用の問題が主なものです。わが家は大丈夫だろう、と根拠もなく楽観主義でいたりしていますが、今日、朝日新聞アスパラクラブの中高年向け新聞に新型インフルエンザのことが出ていて、ちょっと怖くなりました。
新型インフルエンザは鳥インフルエンザから進化したウィルスから感染するもので、もしこれが発生したら、最悪の場合2500万人が感染、死者64万人になるだろうと予想されているそうです。専門家の中にはこの数字を甘いと指摘し、死者215万人と試算する人もいるということです。
そう言えばこんなニュースを前にもテレビで見た覚えがあります。えっ、冗談だろ、と最初は思っていたのだけれど、大惨事は人々が無関心でいる何気ない時、何気ない場所から始まるものです。ちょっと用心しようと気持ちを引き締めました。
予防法は、不要不急の外出は避ける、人混みの中でできるだけマスクをつける、外から帰ったら、必ず手洗いとうがいをする、部屋の湿度を50%程度に保つ(乾燥しないようにする)、などだそうです。実行しましょう。
テレビそのものが捏造である 3/27
ぼくが民放を見る気がしない理由の一つは、過剰演出です。昨日も水泳世界選手権の男子平泳ぎ百メートル決勝で、実際のレースが始まるまでにありとあらゆる映像を映し、そこにアナウンサーの絶叫がかぶさっていました。そして頻繁に挿入されるCM。
民放のこんな進め方はだいたい予想できるから、ぼくは台所仕事をしながら適当に見ていたのですが、それでもうんざりします。決勝の競泳そのものはたった1分。そのためにプロデューサーたちはあの手この手で視聴者をつなぎ止めようとするわけです。
でも、果たしてそこまでする必要があるんだろうか? ……というような疑問を投げかけることすら、テレビ界の人たちからはバカにされてしまうのでしょうね。
今朝の新聞に「あるある捏造問題」調査委報告のニュースが出ていました。その中で委員の一人がインタビューで、情報汚染について「事実を曲げない」という放送法に反する捏造の有無だけを見るのは間違いで、「過剰な演出」とか「論文の一部の剽窃(ひょうせつ)」といった複合的な要素がある、と言っています。
その観点に立てば、今のテレビ番組のほとんどは捏造と紙一重なんじゃないですかね。NHKの「プロフェッショナル」を見ていてもときどきそれを感じます。カメラアングルや映像の編集や音楽の使い方などでものすごく劇的に造り上げられているのです。まるでアサヒスーパードライのCMじゃないかと思ったことがある。NHKはいつも、やれ保守的だ、古くさい、頭が固い、などと、いろんな批判を受けて、つい民放の真似をしてしまう時があるけれど、浮き足立ってはいけないのですよ。テレビの役割は他にもあることをもっと示した方がいいのであって、みんなが右習えで同じことをやるようでは、日本はますます首相の言う、訳のわからん「美しい国」になってしまいますよ(笑)。
蝶、現る 3/23
今日、光が丘公園で3種類の蝶を見つけました。いよいよですよ。ツマキにヤマトシジミにキタテハです。ツマキの方は近づいたら逃げてしまいましたが、キタテハはしっかり撮影できました。
春先なので、まだ動きが鈍いようです。何しろデジカメですから、ぐっと近づかないと撮れない。モタモタしてたら逃げられるから、とにかくシャッターを切る。お、大丈夫そう、と思ったのでちょっと近づいてもう1枚。まだ大丈夫なのでもう1枚、もう1枚。ってことで、こんなにアップで撮れました。

佐川急便のがっかり新マーク 3/21 
数日前、新聞を見ていた娘が「あれえ、佐川急便のマークが変わる。つまんないのになっちゃう」と言いました。見てみたら、ほんと、つまんないマーク。そして昨日の朝刊では一面広告でデカデカと発表されていました。今までの方(下の画像)がずっと味があったじゃありませんか。旧マークは会社の創立者、佐川清氏が作ったものだそうですが(今日初めて知った)、なかなかのセンスです。
それに比べて新しいマークは、どうしてこういうものがいまだに通っちゃうんだろう、と思うような出来です。制作にある程度の金をかけられるはずの大企業で。読売系列のニュースでは「人目に触れる機会が多いドライバーのユニホーム とロゴマークを同じにすることで、企業の認知度を高めることが狙いの一つ」などと報じてますが、ビジネス界ではいつもこんな空虚な言葉がまかり通っているのですね。これは佐川急便がプレスリリースのために用意した表現でしょうか?
この件に関してインターネット検索をしたら、いくつかのブログがこのことを取り上げていました。みんな酷評しています。「非常口のピクトグラムかと思った」「え、ひったくり?かっぱらい!」などなど。正常な感覚を持っていれば誰だってそう思うはず。関係者だけが裸の王様になってしまっているようです。
天は二物も三物も与える
3/15
朝日新聞で「現役高校生の天声新語コンクール」というのがあります。競技は、実際に掲載された天声人語の第1段落が与えられ、それに続く文章を90分間で書き上げるという内容。今年で3回目なんだそうですが、参加者は今回2400人。このコンクールで、娘の友達Kさんが優秀賞を受けました。先週の土曜日に新聞で発表されていたのを妻が発見、みんなでびっくり。でも納得。
Kさんは、娘の1年後輩で小学校のマンガイラストクラブ時代からずっと親しくしていて、今は同じ音楽教室に通ってアンサンブル演奏もやっています。ぼくは直接話したことがないのですが、才能豊かな子だというのは以前から感じていました。実は毎年娘宛に送られてくる年賀状のファンなのです。さらっと描いているのだけど、絵のタッチとユーモアセンスは抜群で、ぼくはひそかに(というか、娘を通じてご本人にも伝えたのですが)この子はイラストレーターで食っていけると確信しているのです。
しかし、本人は絵の道には進む気はないとのこと。確かにこんなコンクールで優秀賞を取るくらいの文才もあるのだから、いくらでも可能性は広がっていそうです。
ひかりONEにした 3/12
わが家の電話とインターネットを先週末にKDDIの「ひかりONE」に変更しました。今まではADSLでした。実は1月にプロバイダーから、光withフレッツ(NTT)に変更しませんか、という案内のハガキと電話が来たのです。それまで、光にすることは考えていなかったのですが、費用がそれほど高くならないのであれば、という条件で申し込みました。ところが後日NTTから電話があって、お客さまの団地はまだ光ファイバーの設備がありません、と言われ話はおしまい。
なんだ、それだったら案内なんか送るなよ、いい加減なことやってるなと思って、プロバイダーに料金関連の質問メールのついでにひとこと文句を言っておきました。
数日後、KDDIのちらしが郵便ポストに入っていました。そうか、こっちなら光ファイバーに接続できるんだと思って、さっそく申し込み、10日には工事も終了。ケーブル接続やメール設定は何とか自力で終わらせ、完全に光に移行しました。
でもね……、通信の速度が速くなったとはあまり思えないのですよ。
志村ふくみさん 3/7
話は前後しますが、2月25日の新日曜美術館は染織家の志村ふくみさんを特集していました。実はかなり前に大岡信さんが新聞でこの人について語っていたのを読んでから、関心は持っていたのです。特に、色への関わり方という点で、ぼくの知らない世界を見せてくれると思っていました。
期待に違わず、素晴らしい番組でした。この人の語ることは一つ一つが哲学です。自然の草木から色を引き出して糸を作り、着物を織るのですから、それは当然自然科学でもあるわけだし、そこからさらに生を考える哲学が導き出されるところがすごい。人はどんな仕事からもある程度の人生哲学は得るものですが、この人の場合、自然が背景にあるから、より本物で普遍的になるのだろうと、ぼくは推測します。
ぼくは数日後、さっそく図書館で志村さんの『 一色一生』という本を借りてきました。今読んでいる最中。3日前に見た浮世絵の話とも通じるものがあって、日本の伝統文化に流れる水脈の深さを知らされています。いやいや、それだけじゃない。印象派だの、クレーの抽象画ともつながっていたりするんですよ。
浮世絵版画の奥深さ 3/5
昨日、NHK新日曜美術館「完全復刻!よみがえる東海道五十三次」からNHKスペシャル「歌麿 紫の謎」まで約2時間、立て続けに浮世絵版画関連のたいへん面白い番組を見ることができました。そして改めて浮世絵版画の芸術性の高さ、日本人の手仕事の器用さ繊細さを知ったのです。
版画には実に数多くの種類があり、木版画だけでも現代では様々な手法・表現へと発展を遂げています。その中で浮世絵版画は、中国から取り入れた技法を江戸時代に究極にまで高めた製作法で、ゆうべの番組を見ていて、日本人だからこそ到達した高みだと思いました。
ぼくが小学生の頃、永谷園のお茶漬けにおまけで東海道五十三次の小さなカードが入っていて、それを集めるのが趣味でした。意外にこんなところから日本美術への関心や鑑賞眼が培われるんですよね。もちろんこういうおまけは美への導入部にはなっても、本物の美しさを味わうことはできません。復刻した版画をぜひ見に行こうと思っています。何、3月14日まで?急げ!
ひとり日和
3/2
1月に芥川賞をとった『ひとり日和』(青山七恵)を読みました。先日の週間ブックレビューにゲスト出演した著者の話を聞いていて、読む価値ありそう、と思ったのです。
21歳の女性フリーターと71歳のおばあさんの1年間の同居生活を四季の移り変わりを織り交ぜながら描いたもので、これと言って特別なことが起こるわけではないところが気に入りました。
細かい心理描写が上手です。でも実際に人との交流の中で相手がこんな風に考えていて、そしてそれをこんな風に言葉化していたら、ぼくにとってはあまり覗きたくない世界だな、と思いました。例えばこんな一節があります。「歳は離れていても女同士だ、敵対心や連帯感が混じり合ったところで、わたしたちの視線はぶつかる」それは男性と女性の違いなのかも知れませんが、ぼくはごめん被りたい。
新聞の紹介などでは、主人公の成長とか自立とか言ってますがそれはあたっていませんね。「成長」も「自立」もしていないような気がする(厳密に議論し始めると、言葉の定義が必要になってくるので、深くは突っ込まない)。この小説では電車が一つのモチーフになっていますが、主人公は自分の人生を自分の足で歩くのではなく、電車にのっかってどこかへ運ばれる、というような生き方をしているように見えるのです。
2人の男性と別れた主人公が、3人目を見つけたところで小説が終わりますが、その関係はとても希薄で、結局何人好きになっても、この子はちっとも変わっていない。全部自分の世界の中で起こる自分のための物語でしかないのでしょう。この子は誰ともまだ本当には出会っていないんだと思いました。同居していた女性とさえ。ある箇所で主人公はこんなことを言ってます。「わたしは、誰かを自分としっかりつなぎと合わせておくことができない」
こういう子が目の前にいたら、つきあいきれない、ちょっと疲れるなあ、とあれこれ考えてしまったのですが、これって実にオヤジ臭い反応ですよね。でもそんなふうに、この人物が実在するかのようにぼくが考えてしまうと言うことはつまり、主人公がリアルに描かれていて、この小説がよく書けているということなのでしょうね。
2月の「ごあいさつごあいさつ」
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