賢くなろう  1/31
 
ヤフーのクリックリサーチというアンケートで「あるある大事典」で紹介されていた健康法を試したことはありますか、という質問がありました。回答する前に「ない」が57%と予想し
て、ぼく自身は「ない」をクリック。そしたら、結果は「ある」が59%でした。実行してる人の方が6割近く。
 テレビの影響力の大きさに今さらながらびっくりしてしまいます。納豆が全国的に品切れ状態になったというニュースを聞いて、73年のオイルショックによるトイレットペーパー品切れ騒ぎを思い出しました。あの頃から日本人はそれほど賢くなっていないと言うことなんでしょうか。根っから信じ切っているにせよ半信半疑であるにせよ、これだけ多くの人たちが雪崩を打って一つの行動に出るというのは、やっぱり空恐ろしいことです。
 ねつ造が次々と明るみに出ているけれど、今さら何をという印象です。テレビも一種のカルト宗教的側面を持つ。適度に突き放してつきあい、胡散臭さをかぎ分ける力は持っておいた方が良さそうです。

「リンクですよ」復活  1/29
 
もうずっと長い間、掲示板とリンクコーナーは廃止していましたが、「リンクですよ」の方を久しぶりに復活することにしました。昨日の夕方メールチェックをしたら、ぼくが最近イラストと装丁を手がけた本(左の記事)の著者からご挨拶のメールが届いていました。ぼくが挨拶のメールを送ろうかどうしようか迷っているうちに本ができちゃって、先方からお便りをいただいてしまったわけです。その中に「リンクさせていただきました」と書かれていました。
 そんなこと考えてもいなかったので、たいへんありがたかったのですが、さて、こっちに相互リンクをする受け入れ態勢がなくなっていることを思い出しました。そうか、じゃあ久しぶりにまたやってみるか、ということで、再開です。以前リンクさせていただいたサイトの多くはリンク切れになってしまっていたので、また少しずつ始めていきたいと思います。
 掲示板についても友人のYくんから「やってくださいよ」と言われているのですが、こちらは今のところ再開の予定はありません。ごめんなさいm(_ _)m!

アゲハが羽化!  1/25
 
昨日の夕方、図書館へ出かけて、ついでに公園も散歩してきたのですが、帰宅したら子どもたちが玄関に出てきて「ちょっと面白いものがあるよ」と言いました。「おお、何や、カブトムシか」と冗談を言いながら入っていったら、なんと、居間の壁にアゲハチョウが!
 去年の秋に取ってきた蝶の蛹が3匹、家にずっといて冬を越しています。ほんとうは6匹だったのだけれど、すでに3匹は寄生虫のために10月には殻が食い破られていました。残った3匹も危なそうだな、と話していました。年末の大掃除の時には何でも捨てたがる妻が「これもういいでしょ」と言ったのですが、「いや、もうちょっと待って」と頼んでそのままにしてもらいました。
  捨てなくて良かったよねえ。こんなに美しい蝶になったんだから。ちょっと小振りだけど、かわいいですよ。
 でも、残りの2匹はどうも死んでいるような予感があるのです。1匹は軽すぎるし、もう1匹は腹の部分に小さな穴があいているから。昆虫の世界はデリケートなんだ。

グーグル革命なんて  1/22
 
ゆうべ放映されたNHKスペシャル「グーグル革命」は、概略の紹介と部分的な問題の指摘に終わっていて、期待していたほどのものを伝えてはくれませんでした。時間枠を90分ほどに拡げてもっと深く掘り下げて欲しかった。
 アメリカは理念で作られた国家だから、人工的なものが理屈抜きで社会の根幹にあるようです(もちろんそうでない面もしっかりあるのですが)。その進化形の一つがグーグルということなのでしょうか。サイボーグ国家と言っていいかも知れません。人間が人間でなくなることに恐怖感を持たず、むしろ積極的にそれを目指しているような感じがします。
 ほとんど感覚的な感想なんだけど、グーグルが発展すればするほど、テロや戦争や殺人事件や自殺が今以上に増えるだろうなあ、と思いました。滅亡に向かって進んでいるのに、ひたすらテクノロジーの幻想にしがみついて、世界のほとんどの文化を破壊し人々の幸福を犠牲にしながら突き進んでいく巨人――今のアメリカはそんなイメージです。
 荒涼たる廃墟を舞台にした近未来映画を見たような気分になりました。

エッシャーとコンピュータ  1/19
 
先週エッシャー展を見に行って、この人は実にコンピュータ的発想のアーティストだったんだなあと、つくづく思いました。ダリ以上ですね。天才はコンピュータのない時代でもとっくにこういうことをやっているのです。
ダ・ヴィンチもそう。
 この展覧会で面白かったのはエッシャーの作品をもとにしたCG作品。それらは決して、今はコンピュータが普及している時代だからコンピュータで展示してみましょう、という安易なものではなく、コンピュータを使ってこそエッシャーの面白さをより深く味わえる、という必然的な作品に仕上がっていたのです。
 文系と理系ではコンピュータの使い方はやはり違うと改めて感じます。でも、日ごろの経験から確信するのは、文系理系を問わず、基本的に自分にできないことはコンピュータにはできないということです。自分の中にあるものをさらに拡げるために使ったときが最も効果的なわけで、自分の中にないものをコンピュータが生み出してくれることはまずない、と言っていいでしょう。

展覧会の見方  1/15
 
土曜日(13日)に、スーパーエッシャー展を息子と一緒に東急文化村へ見に行きました。最終日だったので、今までのぼくの経験をはるかに上回るめちゃ混みでした(ぼくはいつも同じ台詞を言ってるな。まったく情けない)。開場時間から10分程度の遅れで到着したのに、もう入場制限をやっていて、数十人の列ができていました。待つこと約10分。入ったらそこも人、人、人。げんなりしたけれど、我慢して見続けました。でも、よくあることだけど、展覧会はだいたい最初のところで混んでいることが多いのです。みんな最初は気合いが入っているから一所懸命見る。でもしばらくすると少しずつ人は減ってきます。佳境に入った頃にはみんな疲れてしまっていて、ソファで休んでいることが多いのです。でも展覧会は、そこからが面白い。
 エッシャー展でも、彼の代表的な作品展示は観客が疲れた頃から始まっていました。だから展覧会では変に生真面目に最初から見ようとするのではなく、混んでたら躊躇せず、すっ飛ばしてしまった方がいいと思いますよ。見たいもの、いいものから見るのです。で、余力があったら最後にもう一度最初の方に戻ればいいのです。
 先日も書いたけど、最近では音声ガイド付が当たり前になっていて、解説のある作品の前では人が動きません。これもちょっと困りもので、何とかして欲しいと思うのですが、防衛手段としては、自分のペースで動くしかありません。
 特にエッシャー展では、音声ガイドが普通より凝っていて、Nintendo DS Liteを使って、ゲーム風な案内になっていました。だから子どもも大人も、作品よりもゲーム機ばかりをのぞいていて、よけい流れが滞る。ぼくとしては「おまえら何を見に来たんじゃ」と文句を言いたくなる気分。ヴァーチュアルばかりに接していて本物を見なかったら、それはまるで、旅行に行って写真撮ることばかりに必死で実物を楽しまないのと同じじゃないか。企業の戦略にまんまとはまっているよなあ。芸術鑑賞って何? そんな根本的な問いかけをもう一度した方がいいんじゃないかと、まじめに思いますよ。
 さて、 エッシャー展の会場を出たのがお昼頃。そしたら、入り口のところで係員が「ただいま大変混み合っていますので、入場制限をしております。」とアナウンスをしていました。ふと横を見ると、階段をものすごい人数の行列がゾロリゾロリと降りていました。なんと、地下1階に入場するために3階まで人が並んでいたのです。ぼくたちも少し待たされたとはいえ、2時間ほどの間に、最初とは比べものにならないくらいの列ができていたわけですね。息子と二人で、「早めに来て良かったなあ」と言ってました。
 最後に、展覧会を見るためのもうひとつのコツ。会期の初めの方に見に行きましょう。終了間際は悲惨です。

すさんだ世相は今年も  1/12
 
素朴な感情として、ぼくは新年を穏やかな気持で迎えたいといつも思うのですが、年末年始でも悲惨な事件はけっこう生じるものです。自然災害は時を選ばないから仕方ないとしても、人が原因の事故や事故くらい控えてもいいんじゃないかと思います。でも、世の中には一年の区切りだのめでたさだの、そんなことは関係ねえよ、という人たちが必ずいるものです。
 バラバラ殺人事件(こういう言い方、最近しませんね。遺体切断とか解体とか。どうしてでしょうね)が正月を挟んで連続で発生しています。どちらも家族による殺人。「憎しみ」の一言では片づけられないような、人の精神の闇を見せつけられる事件です。今日はまた茨城でも遺体が発見されたそうだし、こんなことも当たり前になっちゃうのかと空恐ろしくなります。
 
人を出し抜くことばかり考えるような社会になっちゃったから、こんなことが次々と起こるようになるような気がするわけです。
 あなたの心にモイスチャー。……なーんていう標語、ダサイなあ。1/19追記:ここはおじさんらしく、「渇いた心に藤沢周平」ってのは? あ、これも聞いたことあるような。

模様替え  1/6
 
年末から妻が、部屋の模様替えを宣言していましたが、昨日ついに決行されました。今年高校受験の準備に入る息子のためにも部屋のスペースを作ってあげなくてはいけない、というのです。今は四畳半の広さをぼくと共有しているので、お互いに狭く、しかも本棚はぼくのものばかりで占められていて、確かに息子には申し訳なく思っていました。先日、息子は「ぼくの場所は机の上だけなんだよな」とうらめしそうにつぶやいていました。ごめん、ごめん。
 しかし模様替えとか引っ越しは面倒なんですよねえ。現在の家にも12年以上住んでいて、かなり物が増えてきました。足の踏み場もだいぶなくなってきている。ぼくは立花隆さんや井上ひさしさんとと同じで、ものは捨てられない性格なんだけど、妻はあれも捨てる、これも捨てる。家族の物も本人が知らないうちにどんどん捨てます。
 いつかはやらなきゃいけないとわかってはいましたが、恐れていた日が、ついに2007年の初頭に訪れたのです。模様替えは今日も明日も続きます。

ダリ、ダリ♪  1/1/07
 新年あけましておめでとうございます。今年もまた精一杯、いやいやそんなに気張らずに、続けていきたいと思います。よろしくお願いいたします。
 一年の計は元旦にあり、と言うわけではありませんが、文化的な元日を過ごしました。「ダリ回顧展」を見に行ったのです。4日に終わってしまうから、行くなら今日、ということになって。元日も開いているというのは珍しいですね。正月というのに(いや、正月だから?)めちゃ混みでしたよ。音声ガイドつきの絵の前では人が動かない。またしても人の頭を鑑賞しに行ったようなものです(あながち大げさではない)。
 しかし、展覧会そのものはたいへん面白かったです。ダリはそれほどぼくの好みではないのですが、こんなふうにまとめて作品を見たら、前よりは好きになりました。ご存じのように奇抜な絵が多いのですが、デッサン力は驚くべきものがありますね。その確かな技術に支えられて、あのものすごいシュールレアリスムの絵を造り上げていったわけです。
 驚くことはいっぱいありますが、あの発想と表現を、コンピュータのない時代に実行していたということに、まず驚嘆せざるを得ません。あ、ふとエッシャーを思い出しました。今、東急文化村でエッシャー展もやっていて、これも見に行く予定。この人もコンピュータのない時代にめちゃくちゃコンピュータ的創造を行っていった人です。
 話を戻しましょう。ダリの絵は構成や表現がまるでCGのようで、今の時代に生きていたらどんな作品を作ったことだろう、と思いました。でも、たとえCGであんな絵を作れるにしても、手書きでしっかりと描かれた絵は迫力と存在感がありますね。安らぎなどとは全く無縁のものですが、ふだんわたしたちが抱くことのない、あるいは心の奥深くに眠っている感情や思いを呼び覚ますような性格を持っていると、見ていて感じました。
 何か不思議な元日の過ごし方でした。

12月の「ごあいさつごあいさつ」