ペンタブレットを買った 11/29
ペンタブレットというのは、コンピュータで作業をするときのマウスのような道具です。ペンの形をしているので、マウスよりはるかにデリケートな動きができます。これを先週末ついに買いました。理由は、今ものすごく遅れている仕事を少しでも間に合わせるため。
慣れるのに時間がかかる、と人からも言われていたし、インターネットで見た体験談にもそう書いてありました。確かに買ってきた最初の日は思い通りにポインターが動かず、変なところで変なボックスが開いて、思ってもいない作業を始めたりとかして、手こずりました。まるで初対面の犬を散歩につれて行くみたいなものですね。リードでこっちの体がぐるぐる巻きになったみたいに……。
今週の月曜日から本格的に使い始めたのですが、でも朝から晩までずっとやってたら、慣れましたよ。そして、慣れてくると、これは非常に便利だというのがわかりました。ぼくのイラスト制作でよくやるのが、手書きの線をスキャンしたあとPhotoshop
で着彩するという方法ですが、ペンタブレットはこの着彩の幅をグンと拡げてくれました。実例と報告は後日。
紅葉に誘われて 11/25
光が丘の木々も、紅葉が美しくなってきました。銀杏並木が陽光を反射してまぶしく輝いています。
数日前からその美しさに心が騒いでいたのだけど、今日の昼、写真に撮らなきゃ手遅れになるぞと思って外に出たら、信じられないくらい多くの人たちがデジカメやケータイで並木を撮ってました。驚いたことに、年輩の男性3人が折り畳み椅子に腰掛けて写生なんかもやってました。いやー、みんなこの美しさを愛でようと思っているんですね。
そう言えば、『国家の品格』で藤原正彦さんは、日本を救うのは情緒であると言ってます。その意見、ぼくも大いに賛成です。この本についてはまたぜひお話ししたいけど、今日は美しい銀杏を眺めることができて、心が豊かになりました。
銀杏の黄 ひときわ高く 輝けり
勤労感謝の日 11/23
今日は「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」日だそうです。今まで定義をきちっと確かめたことがありませんでした。さらにぼくの無知ぶりを露呈するのは、この日が戦前の新嘗祭(にいなめさい)だったということ。で、その新嘗祭とは何かというと、天皇が神々に新米を供え、自身でも召し上がる、宮中の行事。収穫感謝祭みたいなものですね。それがどうして勤労感謝になったんだろう?今度調べよう。
さて、ぼくも仕事が混んでいるせいで、今日は勤労の日です。 折しも経済財政省は昨日、景気がいざなぎを超えた、と表明しました。でもそんな実感を持っている人は何割いるんだろう?幸福感の乏しい、こんなギスギスした社会なのに。
勤労感謝の日が「純粋に勤労を喜び生き甲斐を感じられる日」であればほんとうに喜ばしいことなんだけど、働くことを心から感謝できる環境は昔に比べてずっと少なくなったような気がします。まじめに働いている人たちの汗の上にあぐらをかいて儲ける、ずるい人たちばかりが増えている世の中だから。
サンカコク 11/20
2日ほど前のニュースで、面白いことを言ってました。と言っても、面白いというのは、ぼくがそう感じただけであって、内容はごく普通のことです。
アナウンサーはこんなふうに言ってました。「APECでは、6か国協議のサンカコクのうち5か国が顔をそろえることになり……」一瞬頭がこんがらかりました。えっ、どういうこと?6か国が3か国で5か国?どういう計算だ?アナウンサーは文章を誤読したんじゃないか?
ちょっと経ってからわかりました。「サンカコク」って「3か国」じゃなくて「参加国」だったんですね。
新聞の記事だったら、同じ文でも目から頭にはいるから何の疑問も抱かなかったでしょう。 音で聞いて初めて感じるおかしさです。でもこの原稿を書いた人、読まれたときの効果を計算していなかったでしょうね。日本語は同音異義語がやたら多いんだから、テレビやラジオでは耳で聞いてわかる言葉を心がけていただきたいもの。
でも、この偶発的シャレは笑えて楽しかったです。
をかしな日記 11/16
きのふ、一日(ひとひ)空さはやかに晴れ渡りけるが、ゆふがたになりて一天俄(にはか)にかき曇りて、雨降り出し、いかづちも轟きわたりき。はたとすさまじき音と共に、団地のかたへに雷の落つるを聞けり。そは、まことにミサイルの落ちたるがごとき音なりき。
日あらたまりて、学校より戻りたる息子の伝へけるに、ゆふべの雷はわが中学校の避雷針に落ちたるなりと。校内放送ことごとく止みて、チャイムも鳴らざりき。授業の始まりと終はりと、誰ぞ告ぐべきかは。
しかして生徒の一人、いたづらを思ひつき、師をからかはんとて、時計の針を五分早めよとぞ仲間に言ひける。ある師、授業を行ひたまひしが、四半時あまり過ぎたる頃、男の子(おのこ)申せり。「師よ、習ひ事の時間はそろそろ終はりにあらずや」師、「あれ、今日(けふ)は時の過ぎゆく事まことに疾(と)し」と驚きたまひて、教室を出(いで)たりと。いとをかし。
↑こんな擬古文を作ってみました。実話です。現代語訳はなくても意味わかりますよね。
それぞれの秋 11/10
わが家のベランダには花や植物が雑然とありますが、手入れが悪いので、枯れたものがたくさん。それでも気にせずに毎日水をやり続けていると、それぞれの花の個性が伝わってきます。ほっといてもたくましく生きるものと、繊細な手入れを必要とするものと。
今ちょっと不思議なのは、カントウタンポポがやたら元気に育っていることです。もちろん花は咲いていませんが、葉っぱが植木鉢から溢れるくらいに増えているのです。
夏前にいったん枯れたあとも水をやり続けていたら、8月の終わり頃から急に盛り返してきました。理由がよくわかりません。10月からは暖かい日が続いているせいで、花が季節を間違えているのかも知れません。
アゲハの幼虫に葉っぱをすっかり食べられてしまった山椒の木も、今では少しずつ新しい葉を出してきています。晩秋とは言っても、緑が盛んになるところもあり、冬への移り変わりも一様ではありません。
ここで一句。
飼い亀の 動き鈍りて 秋深し
不覚の涙とドライアイ 11/4
昨日の夕方コンピュータで作業をしながら聴いていたラジオ番組が、何かの朗読でした。ある小説家が娘を白血病で失うという内容の、エッセイのような物語でしたが、抑制の利いた淡々とした描写が説得力を持っていて、最後に不覚にも涙が出てしまいました。
最近、年をとったせいで涙もろくなってきたようです。と言っても、何でもかんでもやたら涙するわけではありません。巷に氾濫する大げさで薄っぺらで、これ見よがしな押しつけ感動にはますます辟易しています。それよりもむしろ、日常生活の中の何気ない言葉や光景や音楽につい……、ということが多くなったのです。どうしよう、こんな感じで年をとったら70歳過ぎたころにはどうなってるんだろう。
まあ、それを精神の後退とか老化という解釈もできるかも知れません。でも、いじめや虐待、世界情勢の危機といった、人を不安にさせるニュースばかりが溢れている異常な世の中で、きっと体や心がどこかでまともになりたくて、そんな信号を送って、涙になって出てくるんだろうと(老化とは認めたくなくて)思います。
数ヶ月前、NHKFM音楽番組で、DJのつのだひろさんが昭和31年(ぼくが生まれた年)特集をやっていました。年代の特集では毎回、その年の流行語を挙げます。昭和31年(1956年)の流行語の中に「ドライ」というのがありました。若者がドライになった、と言われていたそうです。確かによく使っていた。へえ、この言葉はこのころから使われ出したのか。今はあまり聞きませんから、当たり前すぎてだれもいちいち指摘しなくなったのでしょうか。
この言葉を紹介したとき、つのださんがこんなことを言いました。「若者はドライなんじゃなくて、何もわかっていないだけなのです。人は歳をとっていろんなことがわかってくると、自然ウェットになってくるものなんですよ。」いいこと言うなあ。
毎日、コンピュータに向かっているとドライアイになると言うけれど、こちらのドライはほんとうに目が乾くこと。でも、コンピュータをやっていて、ラジオから流れてくる歌や言葉に涙するのなら、ドライアイにもちょうどいいかも知れません。涙もろくなるのはいいことだ。
電話登録、親子の戦い 11/1
慌ただしい日々の中で更新できないでいるうちに、月が変わってしまいました。
さて先月、ケータイを買ったことはご報告しました。さっそく固定電話のくるくる電話帳というものに番号を登録し、名前は「チチウエ」としました。ところが2、3日したら子どもたちが、「実態と合わない」という意見で「オヤジ」に変えてしまいました。何を言うか。
もちろんぼくはすぐさま「チチウエ」に戻したのですが、またあっという間に変えられるのです。
そこできのう、ぼくはちょっと見つけにくいように、「ヤサシイオトウサマ」としました。
ところが 夜、外出先から電話を入れたら、妻が「ヤサシイオヤジってなってるよ」と返事。こりゃいじめだよな。
そして帰宅後、今度は息子が「すぐに名前が出てくるように『ア』から始まる名前にしておいたよ」と言いました。見ると「アブラギッタオヤジ」。戦いは果てしなく続きます。
10月の「ごあいさつごあいさつ」
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