日本シリーズか新庄シリーズか 10/27
今年の日本シリーズはあまり関心がなかったけど、日ハムが優勝を決めた最終戦は6回裏から見てました。
民放のスポーツ中継は、映像もアナウンスも過剰演出が鼻について好きになれないのですが、今回の放送もそうでした。中でもすごく不可解かつ不愉快だったのは、新庄に異様なほど肩入れしていたこと。ホームランを打ったセギノールやMVPの稲葉はそっちのけで、新庄ばかり映して、アナウンサーは必死にドラマチックに仕立てようと同じセリフを繰り返していました。素人受けするストーリーで視聴率を上げようと言う魂胆が見え見えです。何なの、あれ? チームのゲーム運びや勝利よりも、新庄の引退ばかりを追いかける中継姿勢は、ゲームを楽しみたい野球ファンをバカにしているのでは?
ちなみにぼくはヤクルトファンです。今年は3位が決定してから気が抜けたのか、連敗で終わってました。情けない。来年はがんばれ、古田! ところで先日NHKのスタジオパークで、「Shall
We ダンス?」の監督、周防正行さんもヤクルトファン(こちらは筋金入り)ということを知り、喜んじゃいました。
失うこと 10/24
新潟大震災からもう2年が過ぎたなんて信じられません。ここ数年、地震や大雨の災害が各地で頻発していますが、災害の映像を見るたびに思うことがあります。
災害で人命が失われることは言うまでもなく悲痛なことですが、家が破壊されること、水で流されてしまうことも悲惨なことです。それは単に物理的に生きていけなくなると言うだけでなく、その人たちの思い出も失ってしまうことだからです。昔、『岸辺のアルバム』というTVドラマがあったけど、アルバムや日記帳やいつも使っていた鍋や食器や、着ていた服がなくなってしまう。生きてきた証しがなくなってしまう。どんなに辛いだろうって思います。ぼくなんか、子供が幼稚園時代に作ってくれたプラプレートをなくしただけで、ショックだったんだから。
いくつかのテレビ番組で、住民の方たちが復興に尽力している様子が報告されていましたが、まだまだ傷はあちこちに残っているとは言え、深い悲しみから立ち直ろうとしている姿は、見ていて頭が下がります。がんばれ、新潟!
歌詞の盗作 10/22
歌詞の盗作ニュースが立て続けに2件起こっています。ひとつは槙原敬之が作詞した「約束の場所」の歌詞が「銀河鉄道999」のセリフを無断使用だと漫画家松本零士さんが訴えている事件。もう一つは、アニメ「ゲド戦記」の挿入歌「テルーの唄」の歌詞(監督の宮崎吾郎作詞)が萩原朔太郎の詩「こころ」と酷似していると、詩人の荒川洋治さんが「諸君!」11月号で告発している事件。
絵にしろ音楽にしろ文学にしろ、自分がどこかで見たり聴いたり読んだりしたものが無意識のうちにそのまま自作に現れてしまうというのはよくあることです。でも、お金が発生する事柄なら、自分が発表するものに類似したものがすでに世に出ているかどうかくらいはきちんと調べるべきですよ。事務所のスタッフもいるんでしょう。そして、仮にわざとでなかったとしても、酷似していたら自分から取り下げるくらいの潔さが欲しいですね。それがプロなんじゃないですか。槙原さんは抗議に反論して、訴訟も辞さない構えのようですが、この逆ギレは見苦しい気がします。
漱石公園に行った 10/18
きのう、仕事の打ち合わせで早稲田に行ったついでに、漱石ゆかりの地を訪れました。漱石の生誕地、喜久井町。でもそこには特別な史跡は見つかりませんでした。そのすぐ近くに終焉の地があり、ここは今、漱石公園になっています(写真)。すごく小さな、どこにでもあるような公園ですが、漱石がここで小説を書いていたのかと思うと、ちょっと感慨深いものがありましたね。
神楽坂もおおいに漱石と関連の深い場所ですが、昨日はそこまで散策する時間はなかったので、また今度。去年は『我が輩は〜』を生み出した千駄木の住居跡にも行ったし、漱石がまた近しくなりました。
地酒がおいしい 10/16
ぼくは福井の人間なので、このサイトではよく福井の自慢をしています。若い頃は福井出身ということにちょっとコンプレックスを持ってたのに、変わるもんだ人間は。今日もその自慢の一つ。地酒の「黒龍」です。
9月に帰省した折、中学時代の友人4人とまた会って、しゃれた料理屋で楽しくおしゃべりをしながら食べたり飲んだりしました。その時のお酒の中に、これがあったのです。
今月7日に東京南青山にある福井物産の発信拠点「ふくい南青山291」で、地酒の試飲会・販売会をやっていたので、喜んで出かけましたよ。黒龍にもいろいろ種類があるけれど、ぼくが買ったのは純米吟醸。お値段は720mlで1377円。お手頃でしょ。
おとといから飲み始めたのだけど、やっぱりおいしい。どうおいしいかというと、まろやかさ、やわらかさ。口に含んだときにいやみがまったくないし、すっと喉を通る。でも味は決して単純ではなく、奥行きがあります。どうぞこのお酒の名前を覚えて、チャンスがあったら飲んでみてください。
ケータイついに買った 10/14
ぼくはケータイは好きではありません。日本全国の所有台数は今や9千万台だそうですが、ぼくはこの点でもマイナーの牙城を守り続けたいと考えていました。生活をそれに振り回されたくない。ケータイの必要性が生じるのは事故などの緊急時くらいだ。
……と思っていたら、先日ほんとに緊急事態が発生してしまいました。不注意で荷物を電車に置き忘れてしまったのです。最終的に荷物は戻りましたが、解決するまで友人のケータイを使わせてもらいました。持っていないことの不便さを、こんなとき思い知らされる。
今ではどんな書類でも、携帯電話番号記入は当たり前のようになっています。先月、母が入院した福井県立病院では、付添人の連絡先は携帯電話しか記入欄がありませんでした。もうそんな時代なんですね。
ケータイ包囲網がじわじわと迫っているなと感じ続けてきたのですが、先日の忘れ物でついに投降。とは言っても、おそらくぼくの使い方は中高年風カンタンケータイなんだろうけど。
ゴキブリ、ハードボイルド 10/12
たいていの虫は好きですが、ゴキブリだけはだめです。特にあの黒々としたクロゴキブリは一生好きになることはないでしょう。レストランで時たま見かける小型のチャバネゴキブリくらいなら平気ですが。
つくづく思うんですが、ゴキブリほど人間から愛されることを徹底的に放棄し、なおかつ人間に寄り添いながら生き延びてる生き物はいませんね。形、色、動き、どれをとっても愛らしい要素は全くありません。たとえば、サンダルで踏みつぶしても、サンダルを通して気持ち悪さが足を駆け登ってくるような気味悪さがあります。
愛される要素がなければ、ただ存在すると言うだけで殺される運命にあるわけで、それは種の存続のためには不利になりそうなものだけれど、ゴキブリは人間の情けと駆け引きをしようとは考えていないようです。
その潔さに感心したり、嫌われ方に少し同情したりしながらも、姿を見かければやっぱり血眼になって抹殺をはかるぼくであります。
「始皇帝と彩色兵馬俑」展 10/6
大雨の中、また展覧会に行って来ました。こんな天気だから意外にすいているのでは、と高をくくっていたのが大間違い。めちゃ混みとまでは行かなくても、結構な混雑ぶりでした。東京の企画展でゆったりと見て回ろうなんてのは、実現不可能な夢ってことですね。
NHK世界遺産の番組で8月に始皇帝のお墓を紹介していました。日本の古墳をはるかに凌駕するスケールで、そこからはおびただしい数の素焼きの人形(日本だったら埴輪なんだけど、ここでは等身大のリアルな像なのです)が近年発見され続けているそうです。今日見たのはその展覧会。中国の歴史も、高校時代に受験のために勉強してたけど、ほとんど忘れています。久々に勉強したような気がしました。
それにしても、始皇帝の墓はエジプトのピラミッドにも似て、想像を絶する権力を誇示しているのです。あきれるくらい。展示されているものは確かに見事な工芸・美術品なのだけど、ぼくはどうしても、圧倒的な権力に絡む血の匂いを感じ取ってしまうのでした。
また元に戻しました 10/4
娘のコーナー(Kaai's Gallery) はあまり更新できそうにないので、トップページからはずしました。コーナーそのものはちゃんと残してありますが、次回の掲載はいつになるかわかりません。学校で制作する作品を定期的に家に持って帰るわけじゃないから、タイミング良く掲載できないのです。夏休み前、1学期分を一度に持って帰りましたが、その時にはこっちが忙しくて写真撮影の時間がとれなかったし。
そういうわけで、このページはまた以前のレイアウトに戻って、右側のスペースが少し変わりました。
ところでおとといの午後、打ち合わせから帰宅した時、この棟の階段で、なんとヤモリを見つけました。すぐに捕まえて、今ケースの中で飼っています。こんなところで見つけるなんて思わなかった。以前飼ってたヤモリは衰弱したので飼育を断念し、今年の春公園に放しましたが、今度のはまだかわいい子どもです。カナヘビに比べると餌の好き嫌いがあるので大変ですが、なんとか育ててみようと思います。
ディープインパクト 10/3
ぼくはふだん競馬にはまったく興味がないのですが、ディープインパクトが出場したおとといの凱旋門賞レースは見ました。マスコミはずっと前から騒いでいたから、若干それに乗せられて。NHKも当日はニュースの時間から盛り上げていましたが、マスコミの扱い方が何となくサッカーW杯を連想させ、もしかして結果もそんなふうになるんじゃないか、といういやな予感が脳裏をかすめました。
競馬を見たことのないぼくは、どう鑑賞すればいいのかさえわからず、ただ「がんばれ、がんばれ」と叫んでいるうちに、あっけなく勝負がつきました。わずか2分あまり。それなりにドキドキして見てたけど、終わってみたら3位。
サッカーや野球と比べてあまりにも短時間の(でも100m走よりは長い)勝負は、こんなものだったのか。あんなに騒いでいたレースがこれだったのか。うーん。やっぱりがっかりして、すぐにテレビの電源を切りました。
でも、3位に終わったからと言って、ディープインパクトに文句を言う気はありません。素人がとやかく言うことではないのです。何も知らない人間に競馬の楽しさがわかってたまるか、と通の人は言うに違いありません。勝負は馬の速さだけではなく、かけひきもあるだろうし。少なくともランキングのライバルよりは速くゴールしたわけだから、勝敗には競馬特有の要素があるのだと思います。それは今のぼくにはさっぱりわからないことです。
ただ、馬の美しさはぼくにもじゅうぶんにわかりました。スタイルと言い、つやつやした毛並みと言い、走るフォームと言い、美しい動物だと思いました。ダ・ヴィンチは馬が大好きでスケッチもたくさん描いていますが、なるほど好きになるのもうなずけます。実物を間近に見たら、きっとほれぼれするんだろうな。
日本語のめんどくささ 10/1
おととい、出光美術館へ「風神雷神図屏風」展を見に行きました。面白かったですよ。展覧会の内容については、「絵、なに?」でお話ししましょう。ここでは別の話題。
つくづく日本語はひととの関係を重視する言語なんだ、と感じることがしょっちゅうあります。たとえば、自分のことを何と呼ぶか。みんな昔よく、英語のI
(アイ)
に相当する日本語は、わたし、おれ、ぼく、などなどたくさんあって、いやあ日本語って複雑だねえ、ということを言ってましたが、それはつまり、日本語が、話す人と聞く人の関係で成り立つ言語であるという理由から来るのです。しかもその用語に常にニュアンスがつきまとう。
ぼくは家では子どもたちに自分のことを「お父さんは○○する、お父さんは○○だ」というふうに言ってますが、これがめんどくさい。しかし「パパ」だったら短くていいという問題でもありません。「お父さんは」という、相手との関係を主語にすることで、内容の客観性や中立性がなくなるわけです。で、ときどき「ぼくは」というのですが、すると妻が「子どもにその言い方は変だ」という。いや、変なのは日本語の方です。
「わし」が、中年男性としては子どもたちに対しても、同年輩に対しても使える言葉なのでしょうか。でも、ぼくには「わし」はまるで似合わないし、かと言って「おれ」という柄でもない。「ぼく」が最も頻繁に使う用語だけど、これを年下の人に向かって言うのは、確かに人によってはちょっと変に聞こえるかも知れません。英語の
I とかフランス語のje に相当する普遍的な言葉があればなあと思うのですよ。
わたしたち日本人は、無意識のうちに相手との関係に気を配りながら言葉を発しているわけで、それに費やすエネルギーは実はとてつもなく膨大なんじゃないでしょうかね。
9月の「ごあいさつごあいさつ」
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