HOME Page へ Tokyo 古田会 News No. 86 2002/07/28 日曜日 12:07 更新
T o k y o 古 田 会 N e w s
−古田武彦と古代史を研究する会− No.86
Jul.2002
http://www.ne.jp/asahi/tokfuruta/o.n.line
代 表:藤沢 徹
編集発行:事務局 〒167-0051 東京都杉並区荻窪1-4-15 高木 博 TEL/FAX 03-3398-3008
郵便振替口座 00110−1−93080 年会費 3千円
口座名義 古田武彦と古代史を研究する会
目 次
*閑中月記 第十九回 神籠石談話 古田武彦
*定期講演会報告
第一部 古典批判―古代史への新しい通路 飯岡由紀雄
第二部 (夜の部) 藤沢 徹
*大国主考 第二回 意外な接点「志古・?・東?国」 飯岡由紀雄
*対馬・壱岐の旅に参加して 堂前幸太郎
*対馬・佐護紀行 鈴木 浩
*友好団体の会報から
教室便り
*改新の詔を読む会
福永晋三
*神功紀を読む会 福永晋三
*お知らせ
*会長コーナー 藤沢 徹
*事務局便り 高木 博
*編集後記 飯岡由紀雄
総会資料
* 平成13年度活動報告
* 平成14年度活動方針
* 平成13年度会計報告
意外な接点「志古・?・東?国」
杉並区 飯岡由紀雄
会報前号85号で天孫降臨胎動の地、比田勝の傍に「志古・シコ」という地名を持つ島の発見と大国主の別称である葦原醜男(アシワラノ・シコ・ヲ)、黄泉醜女(ヨモツ・シコ・メ)が何らかの関係があるのではないかという提示をさせていただいたが、私の記事を読んだ藤沢会長が気になって辞書を検索したところ「?・シコ(ヒシコの略)」の字を得たがどうでしょうかとの問いかけがあった。
この文字は偶然同号の吉田さんの投稿記事でも触れられていましたが、『漢書』【注@】を始め、中国の范曄(はんよう・AD398〜445年・南宋・順陽の貴族)によって書かれた『後漢書・倭伝』に登場する東?人(トウテイジン)、二十余国からなっていたという東?国(トウテイコク)、古田先生によって朝貢に際し特産品である魚を貢したためにその国名に魚偏を与えられて中国から見て東の端に位置し魚を貢物としてやって来た人・国として記録されたのであろうと喝破されながら同書の位置情報の不足から未だに日本のどのへんにあった国であるのか、論争を重ねながらも決着を見ないのは吉田氏の記事にある通りであり、会員の皆様の知るところで興味の尽きないところであります。
【注@】
『漢書』百二十巻からなり、中国二十四史の一つ。後漢(AD25〜220年)の班彪(はんぴょう)の志を継いで子の班固(はんこ)が著わした前漢(BC202〜AD8年)の史書。『史記』に倣って紀伝体とし、班固の妹班昭によって補作された。『史記』、『後漢書』とあわせて三史という。
左に古田先生が東?国を論ずる場合に注意しなければならない「まとめ」を『邪馬壹国の論理・古代に真実を求めて』昭和50年10月30日朝日新聞社刊から取り出してみます。適宜、該当の読み下し部分をあげています。
@『漢書』地理志の倭人と東?人(とうていじん)の「歳時貢献」記事は、ワン・セットの史料として扱わねばならぬ。
*
会稽海外、東?人有り。分かれて二十余国を為す。歳時を以って来り献見すと云う。 (漢書・呉地の項)
* 楽浪海中、倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以って来り献見すと云う。 (漢書・燕地の項)
A中国の正史に記載された「歳時貢献」という史料の性格上、両記事の信憑性は高い。
B東?人は、少なくとも三世紀後半には、中国史書の上から姿を消した。
*銅鐸の下限(三世紀)がほぼ一定しているのに対し、上限は前漢期とするものと後漢期とするものがある。もしかりに後者に従えば『漢書』段階の東?人は、銅鐸作成直前期の、同圏の国々≠ニいうこととなろう。しかし前者の場合は、まさに直接に相応する。
Cこの両者の史料事実を前漢・後漢期の日本列島内の青銅器分布圏と対応させると「倭人=銅矛圏」、「東?人=銅鐸圏」となる。
D翰苑の三韓項の東?人記事も、右の帰結を裏づけている。
*翰苑(かんえん)三十巻から成り、唐の張楚金著、顕慶5年660年成立。第30巻目の蕃夷部(匈奴、烏桓、鮮卑、夫余、三韓、高麗、新羅、百済、粛慎、倭国、南蛮、西南夷、両越、西羌、西域<後叙>)が男爵西高辻家伝来品として太宰府天満宮に残る。中国には現存しない。
*境は?壑(ていがく)に連なり、地は鼇波(ごうは)に接す。南は倭人に届き…
雍公叡の注(831年以前に成立)
?壑は東?人の居、海中の州なり。鼇波は海を倶にするなり、(海)を有するなり。
これに対する古田先生の解説:
?壑は東?人の住まい。壑は普通「たに」のことであるが、ここでは地下住居、穴蔵のことであろう。弥生期の竪穴・横穴住居のことであるまいか。
鼇波は、東海の蓬莱山のある島を「鼇山」と言うので「東海」のことを指している。ここでは三韓の東の海なので日本海のこととなろう。通釈すると、
三韓の地は、東の海に接し、その向こうは東?人の地(地下住居)に連なっている。南は倭人の国に届き…≠アういう意味だ。
『後漢書・倭伝』の記事
会稽(かいけい)海外に、東?人(とうていじん)あり、分かれて二十余国と為る。また、夷州および?州(せんしゅう)あり。伝え言う、
「秦の始皇、方士徐福を遣わし、童男女数千人を将(ひき)いて海にいり、蓬莱(ほうらい)の神仙を求めしむれども得ず。徐福、誅を畏(おそ)れて敢て還らず。遂にこの州に止まる」と。世世相承(あいう)け、数万家あり。人民時に会稽に至りて市(いち)す。会稽の東冶の県人、海に入りて行き風に遭(あ)いて流移し?州に至る者あり。所在絶遠にして往来すべからず。
(岩波文庫、以下同じ)
ここに至るまでの中国側の記事を少し見てみましょう。
『史記』(BC93又は91年完成)
@「斉人徐市(福)蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)三神山の僊人をもとめ、童男女数千人を発して海に入る」(巻六・秦始皇帝本紀二十八年(BC219)
『前漢書』(前出)
A「会稽の海外に東?人あり、分かれて二十余国となる。歳時をもって来たり、献見すという(巻二八下・地理誌・呉地の条)
『三国志』
B「将軍衛温・諸葛直を遣わし、甲士万人を率いて海に浮び、夷州および亶州を求む、亶州は海中にあり」
(『呉誌』巻二・孫権伝・黄竜二年(AD230)
C「初め、権、偏師を遣わし、夷州および珠崖を取らんと欲し、皆以て遜に諮(はか)る」(『呉誌』巻十三・陸遜伝)
D「権、将に珠崖および夷州を囲まんとし、皆先ずjに問う」(『呉誌』巻十五・全j伝)
『後漢書』
E「東夷倭奴国王、使を遣わして奉献す。」(巻一下・光武帝本紀・中元二年正月条(AD57)
F「冬十月、倭国、使を遣わして奉献す。」(巻五・安帝本紀・永初元年条(AD107)
その謎に満ちた国・東?国に使われた「?」の字がヒシコ・シコの字に辞書に拾われているという。慌てて広辞苑を調べました。載っていました。そういえばこの読みPCで「?」の字を拾う度に出ていたようなのですが気が付きませんでした。
シコイワシ、カタクチイワシの別称。となってくると、東?人が朝貢に際し持ち込んだのは縮緬雑魚・タタミイワシということになります。塩漬けもあるそうです。これなら十分に朝貢のための長期の搬送移動にも耐えそうです。
これまでも、福永君、高木さんなどと機会ある毎に、東?国について議論を重ねていたのですが…会稽の海外【注】であって(黒潮ルート上?)、魚をその特産品としたということなのだけれども、その魚は何なのだろうと。
【注】中国の統治権の及ばない(「外」がそれを表しているのだろう。「中」、「内」は当時の中国が自国の統治権が及ぶと認識していたかあるいは実際に統治権及ぼしていた場合の表記形式ではないかという古田先生の意見があることを高木さんが述べていました。)
現在、日本を代表する西の魚は「ブリ」、東の魚は「カツオ」なのですが、朝貢に際しての保存方法を考えると「ブリ」では油が多そうですし、「カツオ」は鰹節という手がありますが
果たして当時の中国人が正史に記録するほど、感激して削って料理したのだろうかと考えると今一つ得心が得られるところまで行かないでいた。
それがタタミイワシということであるなら湯もどしすることでスープとして手軽に料理されたり、塩漬けなどの保存食として食されたのではないか。小魚でカルシュウムに富み、内陸部に都(洛陽)を構え、ただでさえ不足がちになっておこる骨などの病、たとえば「クル病」などの薬としても重用されたのではないでしょうか。
福永君によるとこの時代、カルシウム不足による骨の発育不全の病に苦しんでいた人々が多かったらしいのです。その後漢(AD25〜220年)以来の人々の記憶をして范曄(はんよう)の時代に、中国に朝貢した国で会稽の海上・黒潮ルート上であって、東方に位置し「ヒシコ・シコ・?」を貢物として持参し、来朝してきた国と記録されたと考えられそうです。
会稽海外と記録されたその東?国の位置ですがタタミイワシの特産地、現在では東海地方といわれているようですが四方を海に囲まれた日本は各地にその可能性がありそうです。
大分、高知、和歌山などでも手広く生産されているようです。
整理してみますと
@ 黒潮ルート上・海岸沿いにあること
A 会稽と往来可能であること。史料に記録された様に、徐福の子孫達と同じ様に東?人は会稽に来て貿易、定期的に朝賀をしていた。そして会稽から貢物は内陸部の都・洛陽へ運ばれていったのかもしれない。
B 徐福渡来の伝承を持つ地であること。東?人紹介の後に突然、徐福と徐福の子孫達の話があるということは東?人と徐福、徐福の子孫達が相互に知っていた可能性を窺わせますし、記録した范曄もそれまでの記録史料からそのことを知っていたものと思われる。東?人と徐福・その子孫達はあるいは同一の地域に居住していたのではないか、あるいは、もう一歩踏み込めば徐福の末裔達が黒潮あるいは黒潮傍流である対馬暖流を逆流して会稽に至った東?人である可能性も無くは無い。後漢書の作者である范曄は前史を引き継ぎながら自分と同時代の知り得た知見を史書に盛り込むという気鋭の精神の持ち主だったのではないかという古田先生の指摘(邪馬「壱」国→邪馬「台」国)を考えると東?人を紹介した後に徐福の話が突然続くというのは両者に何らかの関係があることを示唆していると考えても無理は無いのではあるまいか。あるいは読者が、そのように読むことを期待して記述されたとも思える。
それともう一つ、現在までも日本各地に「ヒシコ・シコ・?」を呼ぶ場合に冠詞のように付けられている「縮緬・チリメン」と関係のある所であること。現在の有名な産地はこの冠詞の様に付けられている言葉から察するに、ここから各地に広がって行ったとも考えられそうです。
そういう場所は日本広しといえどもただ一箇所しか思い浮かびません。
若狭湾を抱く丹後、丹波地方です。
6千基に及ぶ古墳を抱え、浦島伝説、アメノヒボコ、ツヌガアラシト、タジマモリなどの海外往来の伝承を伝え、日本の民話、昔話の8〜9割に及ぶ物語の原型を宿す地、元伊勢・籠神社、若狭彦・姫神社、気比神宮、背後に大江山、出石を擁する地。
記紀世界が描き出している領域の東の端に位置し、古田先生を始め、最近の福永・藤田氏の追及によれば記録Bに見えるように「兵士狩り」にやって来た呉人が戦乱の地に帰るのを嫌い、そのまま住みつき、手に覚えの精銅の技術を生かして作り出したのではないかと言う「三角縁神獣鏡」(鏡の銘文は会話体の白話形式・庶民の使う文字であるという)の中心をなす世界として描かれ、神功皇后の出身地・大森神社が存在する丹後、丹波地方が『後漢書・倭伝』に記録された二十余国から成る「東?国」の中心域だったのではないでしょうか。
藤田友治さんも『新・古代学』第4集で?州は「たんしゅう」で徐福渡来伝承地であることを絡めて、丹後半島を有力な候補地に指摘していますし、昨年は加悦町で卑弥呼の時代から200年以上さかのぼる弥生中期後半(紀元前2C〜紀元前後)とされる吉野ヶ里の墳丘墓に匹敵する方形・貼石(はりいし)墓をもつ日吉ヶ丘遺跡が発見され、丹後最初の王墓か?と注目を集めているようです。「アマ・アメ」と呼ばれる領域の東の端に位置し立国されたことを意味するとしか思えない「天の橋立」という地名も現存しています。
ついでに、記紀などの文書中に現れる「立つ・立て」という言葉は「立国あるいは建国」の意味で解釈され直さなければならないのではないかと思っています。
スサノオが歌ったとされる「八雲立つ」も縄文の越支配から脱却を果たした、輝かしい弥生「出雲(王朝)」建国を歌ったものの一つであろうと思います。その誇らしさの弥生の人々の長きに渡る記憶をして、この歌がスサノヲとイナダヒメに始まる出雲の歌として伝えられてきたのではないかと思います。
こうした話を福永君、高木さん達に話していたところ、昨年秋の古田先生同行の丹後旅行に先立つ会員有志(平田、福永、私)による事前旅行(昨年八月)の際に、福永君が「天の橋立」で、この地名も同様に解釈出来ることに気付かれた。
「天(アマ・アメ)と呼ばれた領域の橋(端・ハシ)に立国あるいは建国された地」であると。
タタミイワシの製法は海のルートで対馬の志古からこの地域に持ち込まれたのかも知れません。
志古人(シコビト)の作るものが「ヒシコ・シコ・ザコ(ジャコ)」と呼ばれて現在までも残ったと考えられるのですが如何でしょうか。
中心域である丹波、丹後、若狭から和歌山、富士山の東海地方にまたがる20ヶ国、古田先生によれば日本海から太平洋に跨る地域であった可能性が濃厚であるという。
燕地に属する倭人と対立し、対馬暖流遡行ルートが使えなくなった時に太平洋・黒潮遡行ルートを和歌山、室戸、足摺(あるいは瀬戸内)を抜けて鹿児島から島伝いに、呉地である会稽に行っていたのかもしれません。
以上、対馬の志古から「シコ・?」、
「東・?・国」、倭人国のさらに東に位置し「シコ・?」を貢物に中国の天子に朝貢した国として、一石を投じてみました。
会員の吉田さんの東?国・東北・関東説また佐野さんの宮崎・串間説などの意見がありますので、また楽しく紙面が盛り上がれば幸いです。
ご意見、ご批判を待ちたいと思います。
2002年5月22日 記了
念願の場所とお土産と
対馬・壱岐の神々を訪ねる旅に参加して
大阪高石市 堂前幸太郎
四日間ともお天気に恵まれた旅だった。きっと第一番目の訪問先がよかったのだろう。
小船越・阿麻?留神社。ここの鳥居の下に立つことが念願だった。
もちろん旅行の無事と天候を祈った。天照様は願いを聞き届けて下さった。
境内は思っていたよりも狭くこじんまりしていたが、樹木が見事だった。楠、椿、框…。
案内して下さった現地の方から、樹皮がまだら状の印象的な樹肌の木の名前を教えて頂いた。現地ではコガノキ。図鑑で調べたら、カゴノキ(鹿子の木)。確かにシカの子供の背中のもようだ。
今回巡った対馬・壱岐の神社は、全体にこじんまりしていたが、ご神体や樹木を含む雰囲気が良かった。目には見えないが、時を超えた素朴な祈りのようなものが確かに感じられ、我々を迎えてくれた。
この旅での念願の場所は三つ。小船越・阿麻?留神社。豊玉町仁位・和多都美神社。壱岐・原の辻遺跡。とにかく現地に、この足で立ってみたかった。
壱岐で買ってきた「ウニみそ」で一杯やりながら旅のお土産を手に取り眺め、濃密な対馬・壱岐の四日間の旅を思い出す。
お土産@
仁位・和多都美神社の満珠瀬で拾
っててきた頁岩の小石。この目で見た「磯良エビス」、その周りの無数のカニ穴。海神宮伝説の「玉の井」。古田先生が言われたように、海人にとって真水ほど大切なものはないだろう。今度は、潮が満ちて鳥居が海中にある時に、ぜひとも船で訪れてみたい。
お土産A
木坂・海神神社で頂いてきたユリ
科植物のムカゴ。早速庭に植えてみよう。バスガイドさんが2〜3年で花が咲くと教えて下さった。
対馬は緑の濃い島だ。平地は少な
く、すぐ海が迫っている。その環境のせいだろう、トビがやたらに多い。行く先々で見かけた。特に雷命神社の厳原町・阿連では50羽を越すトビが舞っていた。また、道は険しい。
特に、3日目、厳原から対馬南端の
豆酘へ向かった時など、「倭人伝」の
記述と変わらない景色が現在も続い
ていた。
お土産B
同行の妻が壱岐・志原で見つけた
「気をつけないと手を切っちゃうよ」と注意されたほどの、黒曜石。美しい。
原の辻遺跡では、休日返上で説明
して下さった学芸員の方。誠実さと静かな情熱が感じられた。まだ遺跡全体の8%しか発掘されていないという。これから何が出てくるか、楽しみだ。
壱岐から博多へ入る時、フェリー
の甲板から、近づいてくる九州の山並みを眺めていると、まるで「一大国」の軍団「一大率」の一員になったような気がしたのは、前日の古田先生の講演会の余韻だろう。
最後に同行の皆さん、ワールド・
カップを振り切って参加された方々、
「探究心」旺盛な皆さん、ご苦労様
でした。古田先生、下山さん、高木
さん、楽しい旅をありがとうござい
ました。食事も美味しかった。
対馬佐護紀行
座間市 鈴木 浩
私が始めて対馬を訪れたのは、97年11月でした。この時私の対馬の古代史に対する知識は、古田武彦先生の主張する神話中の「高天原」とは壱岐・対馬・沖ノ島この地域である事、美津島町小船越には阿麻氏留(アマテル)神社がある事、また司馬遼太郎箸『街道を行く』壱岐・対馬編には上県(かみあがた)町佐護(さご)に仁田ノ内(にたのうち)というアイヌ語地名がある事ぐらいでした。
対馬空港から北部全体を廻り、上県町佐護地域を見て廻ると対馬の他地域との相違点の幾つかに気付きました。
その一、対馬は古来山ばかりで水田は殆んど無いと思い込んでいたが佐護には広大な水田が広がっているではないか。
その二、佐護・湊にある天神多久頭魂(あまのたぐつたま)神杜(祭神 建弥乙乙命)には社(やしろ)が無い。これはどうしてか。
その三、この地域の周囲には佐護東里、佐護西里、佐護南里、佐護北里という珍しい地名がある事。
その四、神話中の天照大神と須佐ノ男の「誓約(うけい)」の場面をこの地域に当てはめて見ると以外にもそのシーンが合うではないか。
古代史フアンの素朴な疑間ですが、帰宅後これらの点を私なりに検証してみました。
その一、佐護地城には広大な水田がある
この地域を流れる佐護川は何本かの支流の水を集め、周囲の山々も奥深く水流も多い。中流域にある仁田ノ内という集落の「仁田(ニタ)」とはアイヌ語で「湿地帯」という意味で、
鉄製の農具を持った弥生時代の人々には案外容易に水田にすることができたと思われる。
その二、「天神多久頭魂神杜」に杜が無い
対馬の神杜に杜が作られたのは近年のようですが、佐護は農業牛産では対馬でも屈指の地域であり財力が無かった訳ではないだろう。地元の方に伺ったところ、昔からここには建物を建てては為らないと言い伝えられているとのこと。それを今でも守っていることが重要な点です。この宮は墳墓の上に祭られている可能性があり、この言い伝えも頷けます。
「天神多久頭魂神杜」とは、天族の多くの御魂を祭る神祉という意味だそうです。そこで、鳥居礼著『神代の風儀(てぶり)』新泉社に書かれている「ホツマツタエ」天地開開の項をみると、天照大神(アマテルオオカミ)が多くの先祖の霊を祭ったとゆう「精(サゴ) 奇城(クシロ)の宮」が何度も登場し、天照大神は最後にはこの宮に帰ってくるということです。
私が思うには、精(サゴ)とは佐護でしょうし、奇城(クシロ)とは佐護.湊の地形と、その位置からくる地名ではないでしょうか。
まず湊ですが、永留久恵箸『海神と天神』白水杜には対馬では集落の山側に山からの悪霊を防ぐため祠を祭り、この場所を山門(やまと)という。海側には、海からの悪霊を防ぐため祠を祭り、ここを水門(みなと)といい、この水門が湊に変わったと思われます。
次に、「奇城」(クシロ)ですが、北海道釧路の地名を更科源蔵著『アイヌ語地名解』みやま書房で調べてみると「クシル」「クシロ」の二つの語源が出ており、「クシル」とは通り道、「クシロ」は沼などからの水の出口となっており、広い釧路湿原の水が釧路川を流れ釧路市で太平洋に出る。そして歩行者は釧路湿原を渡れず海岸づたいに釧路川河口を渡り先に進む、これが「クシル」「クシロ」の語源です。
佐護川の内陸部には仁田ノ内があり元々湿地滞(現在は広大な水田地帯)だったでしょう。河口に湊があります。北海道釧路地方とその地形が良く似ており、地元の方はこの佐護川を「クビル」川と呼んでいます。河口右岸(北側)には「クビル」遺跡が有り、弥生中期後葉の中広銅矛、広形銅矛、銅?(舶載品)などが山土しております。
精(サゴ)、奇城(クシロ)、佐護、仁田、クビル川、クビル遺跡、水門、湊、が登場し、そこに天神多久頭魂神杜があるのです。
尚、縄文時代からの装身具である「釧」(くしろ)も腕を通す物という司じ語源ではないかと思います。
その三、佐護東里、佐護西里、佐護南里、佐護北里とは
吉野ヶ里や、朝鮮半島の地名に似た東西南北の里(り)はこの地域の周辺部に位置し、その中央部佐護川左岸(南側)山裾には「椋梨」(むくなし)という集落があります。これは元々「京里」(きょうり)ではないでしょうか。この地域の都ではないか、すると佐護川流域を領域とする初期弥生国家が浮かび上がってくるではありませんか。
その四、「誓約」(うけい)のシーン
天照大神と須佐ノ男命との『うけい』とは二勢力間に戦いがあったとおもわれますが、須佐ノ男が高天原に昇ってくることを知り、天照は本拠地で武装し待ち構えている。そこが椋梨なのではないでしょうか。その目の前には天の安川がある。安川とはヤスナイ(ヤスベツ)ではないか。ヤスとは魚を獲るモリ、または網のことで、ヤスナイ(ヤスベツ)とは魚の多く獲れる川の意味で、川が海に直接流れ込み海から上る魚、川の魚と両方獲れる川がふさわしいと思います。
安川(ヤスナイ、ヤスベツ)は大川、小川のように一般名詞化し、固有名詞としては余り残らなかったと思われます。
天照大神は良田三ヶ所持っていたと書かれていますが、佐護川左岸(南側)にはほぼ等閲隔に天神多久頭魂神杜と天諸羽神祉(祭神 宇摩志摩治命)が2杜あり、広大な水田地帯である。ここが良田三ヶ所ではないか。
須佐ノ男は天の安川の対岸からやってくる。それは佐護川の北側方向であり、対馬の北端「豊」には島大国魂神社があり、祭神は須佐ノ男である。その南、佐須奈(さすな、この南が佐護)には、島大国魂御子神社があり祭神は須佐ノ男の子と言われる大己貴命(オオナムチ)が祭られている。
この佐須奈付近が天照と須佐ノ男との高天原内領地の境界だったのではないか。
須佐ノ男は高天原の外である本土から対馬北部に上陸し、佐護川を挟んで天照と対決し破れ、対馬から一番近く、晴れた日には肉眼でも見える朝鮮半島へ逃げたのです。
どうも我乍ら想像たくましくなってしまいましたが、一つの仮説としてお許しください。
今回、6月5から8日の多元の会・関東主催の対馬の旅に参加させていただき多くのことが再確認できました。誠にありがとうございました。
2002.6.13 記
【友好団体の会報から】
日本軍事史の原点―天孫降臨
古田武彦
古田武彦氏壱岐講演会報告
下山昌孝
都教育庁学芸員・我孫子昭二氏
特別講演会報告
岩原晧一
上総古代史跡めぐり一日旅
清水 淹
対馬・壱岐古代史の旅
清水 淹
イザイホーと二倍年暦
齋藤里喜代
「発掘された日本列島2002」を見る
木村由紀雄
教科書犯罪―本報五十回を記念して
古田武彦
古田武彦著作集序文
古田武彦
森尾古墳出土の方格規矩四神鏡について
藤田友治
四天王寺
水野孝夫
『三国志』における日付の干支表現
洞田一典
古代東北王朝の領域(続)
木村賢司
神武東征論議に向けて
室伏志畔
よみがえる倭京(太宰府)
―観世音寺と水城の証言―
古賀達也
連載小説「彩神(カリスマ)第九話
螺鈿の女(4)
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「クシフルタケ」に登る
―三月野外例会報告―
倭国の律令について
―四月例会報告―
磐井の乱から考えるL
兼川 晋
続・大芝説を現地に追う
庄司圭次
御陵山と斎明天皇稜
室伏志畔
白村江以後の倭国(6)
小松洋二
?日の二上峯
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