HOME Page へ Tokyo 古田会 News No. 86 2002/07/28 日曜日 13:38 更新


 

T o k y o 古 田 会 N e w s

 

−古田武彦と古代史を研究する会−  No.86 Jul.2002

http://www.ne.jp/asahi/tokfuruta/o.n.line

 

代  表:藤沢 徹

編集発行:事務局 〒167-0051  東京都杉並区荻窪1-4-15  高木 博 TEL/FAX 03-3398-3008

郵便振替口座 00110−1−93080   年会費 3千円

口座名義 古田武彦と古代史を研究する会

 

 

目 次

閑中月記 第十九回    神籠石談話                  古田武彦

 

定期講演会報告

第一部               古典批判―古代史への新しい通路  飯岡由紀雄

第二部                (夜の部)                      藤沢 徹

 

大国主考 第二回      意外な接点「志古・?・東?国」  飯岡由紀雄

 

対馬・壱岐の旅に参加して                              堂前幸太郎

 

対馬・佐護紀行                                      鈴木 浩

 

友好団体の会報から

 

教室便り

改新の詔を読む会 福永晋三

神功紀を読む会  福永晋三

 

お知らせ

会長コーナー   藤沢 徹

事務局便り    高木 博

編集後記     飯岡由紀雄

 

総会資料

          平成13年度活動報告

          平成14年度活動方針

          平成13年度会計報告

 

閑中月記 第十九回     神籠石(こうごいし)談話

古田武彦

 

梅雨ながら晴天つづき、この六月から七月にかけて、わたしにとっては多幸な日々だった。

もちろんこの齢としだから、相次いで知友の訃報に接する。それだけに身体元気の自分が、何とも有難い。もっとも、明日も知れぬこの身であること、先刻知りすぎている。

 久しぶりに鴬を聞いた。竹林の間から、帰ってきたわたしを待ってくれていたようだった。対馬・壱岐の旅でも、同じ声に接したけれど、気のせいか、トーンに微妙なちがいを感じた。

 帰ってから、ホメロス漬づけの日々。「漬け」といっても、ただ松平千秋のイリヤッド(岩波文庫)を、そばにおいているだけだが、楽しい。かつては土井晩翠の名調子の旧訳や呉茂一さんの旧訳(同じく、岩波文庫)の時代だったから、松平さんの新訳は新鮮である。ギリシヤ語の原文もそばにあり、ときに開く。これ以上の醍醐味はない。少年時代以来のいまだ見ぬギリシヤ≠ヨのあこがれを満喫している。

六月半ばから末にかけて、博多や仙台でいろんな方々と対談し、討論した。貴重な収穫となった。

 それらについては、改めて書きしるすこともあろう。否、それは未だ「途中」だ。これから、さらにじっくりと話し合い、語り合ってゆかねばならないことだから、今ここに断言したり、喋々ちょうちょうしたりするつもりはないけれど、一つだけ、キイ・ワードにふれておけば、例の「神籠石」問題。あの、西はおつぼ山(佐賀県)から東は石城山(山口県)まで、南は筑後山門(福岡県)に至る、累々たる軍事要塞群。

北はもちろん海。

 

その海の北方には朝鮮半島、そして中国大陸がある。新羅や高句麗や唐の一大軍事集団群。これらと戦った倭国側が、みずからは無防備であったとすれば全く不可解だ。すでに当誌の読者には周知のところだけれど、キッチリとまとめておこう。

たとえば、倭の五王で知られた五〜六世紀、有名な倭王武の悲痛な上表文(宋書倭国伝)、これをしたためた王者が、その敵手、高句麗や新羅の倭国本土への「来襲」を恐れ≠ネかったとしたら、それこそ不可解だ。

 また、あの「任那日本府の滅亡」(五六ニ或いは五六〇)という一大事件、その激震に対して、平然と「自己防禦」の気などもたず、そのあと自己(倭国)の心臓部への敵軍の殺到をも一切恐れ≠ネかったとしたら、まさに考えられぬ能天気、いや能足りん≠セ。そうではあるまいか。

「いや、『任那日本府』など、架空だ。」と言いつのる人があれば、次のもっとも決定的な事件≠ワで否定する人は、まさかあるまい。

 それは「南朝(陳)の滅亡」(五八九)だ。

 久しく、倭国が「宗主国」と仰いだ、南朝の天子の完全消滅。この一大事件に驚か≠ネかったら、この世に驚く≠烽フとてない。あの「倭の五王」の後継者(六世紀末の倭王)にとっては。

「驚いた≠ッれども、これに呼応する軍事的対応はしなかっただけ。」

 こんな子供だまし≠ェ通用するだろうか。否、当今、子供≠セって、そんなに甘くはない。先生方は、学校で、子供に問いつめ≠轤黷黷ホ、絶句しよう。もっとも、子供たちが教科書の「暗記」だけに夢中なら、これ幸いだけれども。この問題に「新しい歴史の教科書」も「古い歴史の教科書」も、一切関係がない。あれは、コップの中の嵐。明治以来、皆同じ、なのである。

 明治人も、大正人も、昭和人も、平成人も、何のちがい≠烽ネし。そのようにして百三十年間を、泰平にすごしてきたのだ。─金太郎あめのように。

 肝心のポイント、それはもちろん「日出ずる処の天子」だ。

 明治以来、すべての教科書がこの「名文句」を売り物≠ノしてきた。「国威発揚」の道具に使ってきたのである。

 けれども、子供(生徒)は別としても、大人(先生)は知っていた。

 その一つ、「日出ずる処の天子」を名乗った「多利思北狐たりしほこ」は男性≠セ。「?弥きみ」というをもっていたからである。

 女性である推古天皇とは、当然別人だ。

 その二つ、聖徳太子は摂政≠ナあって、天子ではない。だから「天子」である「多利思北狐」とは、これも別人である。

 その三つ、この「日出ずる処の天子」のいるところ、その風土としては、

 「阿蘇山有り。火起こりて天に接す、…」

とある。決して

 「三輪山有り。」

とか、

 「大和三山有り。」

とは書かれていない。すなわち、全く「大和の風土」ではなく、疑いえぬ「九州の風土」なのである。

 以上は、大変分りやすい。「子供」にも、すぐ分る道理だ。だから、慎重に、すべての明治以降の教科書は、これらの事実を教科書からも、指導要領からも、「隠し」通してきたのである。

 これに対して、「天皇家中心主義」を守ろうとする歴史学者(すなわち、御用学者)は、さまざまの弁舌でこれを弁護≠オてきた。いわく、

「中国の歴史書には、まちがいが多い。たとえば、元史などの日本記載≠見ても、いろいろとまちがっているところがある。」

 いわく、

 「聖徳太子は、中国側のあざけり≠おそれ、推古天皇は男だ。奥さんもある。≠ニ言って、見事にだました。

 中国側は、これを真にうけて≠オまったのである。」

 など、など。

 これらの「弁舌」を、大人(先生)は、もし誰か(父兄など)に聞かれたときには、拡大再生産してきたことであろう。

 人間の作り出した「紙」(史料)の価値は、文人たちの「弁舌」によって、容易に言い換える≠アとができるからである。

   四

 しかし、言い換える≠アとのできないもの、国家の核心をなす一事、それは「軍事」だ。「軍事」にかかわりをもたぬ国家など、地球上にはかつて無かった≠フである。

 北朝の隋は、南朝の陳を滅ぼした。陳の天子を「俘囚」として長安に連れ帰り、これを臣下の隅≠ノ列せしめた。もちろん、北側の軍事力によってである。

 その陳の天子に対し、倭国(?たい国)の王「多利思北狐」は、昂こう然と「日出ずる処の天子」を称した。その自称がたいした「軍事的防禦体制」もなしになされた、とすれば、いかにも奇態だ。

 なぜなら、相手(「日没する処の天子」)が、強大なる一大軍事力をもって、かつての倭国の「宗主国」たる陳の天子を滅ぼしたのは、わずか「十年あまり前」のことだからである。(開皇九年〈五八九〉から開皇二十年〈六〇〇〉及び大業六年〈六〇七〉まで。)

 その時期の日本列島において、長大なる一大軍事要塞線に、囲まれていたのは、「太宰府と筑後川流域」のみだ。決して「大和」ではなかった。ましてその中の「飛鳥」ではなかったのである。

 この事実は、動かしがたい。文人がこの一事を「口舌」をもって言いくるめる≠アとなどは決してできないのである。

   五

 ある人が、わたしに言った。

 「もし自分が、大和朝廷の人間で、神籠石を作るとしたら、先ず、舞鶴と大和との間に築きますね、何重か。

 なぜって、高句麗や新羅や隋・唐が大和の都≠襲うとしたら、それが一番の近道ですからね。対馬海流に乗ってゆけば、いいわけです。

 それから、大和の周辺ですね。瀬戸内海や太平洋に面するところ。

 九州などは、二の次ですね。

 多年、しまなみ大橋や博多の高架橋梁の企画や設計に次々と実力を発揮してきた、プロの方だけに、きわめて説得力があった。(1)

 世界の、理性あるすべての人々にとっても、これが常識であろう。

 わたしは言った。

 「もし、神籠石が、現に大和≠取り巻いていたら、今の学者、歴史家や考古学者は、『これこそ、大和朝廷が作りたもうたところ』と、そう言うでしょう。

 もちろん、わたしも賛成します。

 しかし、現に、神籠石は太宰府と筑後川流域≠取り巻いている。

 それでも、やはり、今の学者たちは、

 『神籠石は、大和朝廷が作りたもうた。』

と言っている。

 要は、事実や物の存在≠ネど、どうでもいい。先ず、『観念ありき。』先ず『結論ありき。』ではないですか。」

 この問いに答える人を、わたしは見なかった。

   七

 ある著名な考古学者(博多)は言われた。

 「あれ(神籠石)は、斉明天皇が作られたのでしょう。」

 わたしは答えた。

 「神籠石は、五年や十年ではできませんよ。」

 また、言われた。

 「元寇の防塁は、博多湾岸に作られています。あれと、同じですよ。」

 わたしは答えた。

 「佐賀県のおつぼ山(佐世保湾側)や帯隈山(有明海側)、それに筑後山門(福岡県南端)や石城山(山口県)のあたりにも、元寇の防塁は築かれているのですか。」

 白村江の敗戦(六六二、或いは三)以前において「日出ずる処の天子」は、この神籠石群の軍事防塁の内側にいた。それが、ナチュラルな答だ。

 この一事の認識から逃れようとするとき、人はさまざまの「弁舌」の中で苦しまなければならないように見える。

   八

 右の問題は、もちろん、一軍事史の問題にとどまらない。

 それはすなわち、いわゆる「十七条の憲法」の問題である。

 それはすなわち、「法興」という九州年号をもった「法隆寺の釈迦三尊」の問題である。

 それはすなわち、七世紀から八世紀にかけての歌々を収録した「万葉集」の問題である。

 それはすなわち、七世紀後半に「発起」され、八世紀(七一二)に成立した古事記の問題である。

 それはすなわち、次いで同じ八世紀(七二〇)に成立した日本書紀の問題である。

 そしてそれらの諸書・金石文によって「造作」されてきた、各代の全古代史と日本の歴史像総体の問題なのであった。

 いわゆる「邪馬台国」問題や「倭の五王」問題もまた、もちろん、その一つ”one  of  them”にすぎないであろう。いずれも、歴史の流れにおいて、この「神籠石」問題とは決して無関係ではありえないのである。

   九

 ギリシヤはわたしにとって、一変した。少年時代の「幻想のギリシヤ」とは、別物のように映っている。その点、晩年のわたしにとって、これからどのようなギリシヤがクローズ・アップされてくるのだろうか。

 「イリヤッド・オデッセイ」の史料批判への道だ。もちろん、西欧には厖大な「古典研究」の累積がある。日本の「邪馬台国論争」どころではない。

 けれども、それらをつんざくようにして、あのシュリーマンの探究が出現した。従来の、山なす「西欧古典学」に対して根本的なクレームを投じたのである。

その衝撃は大きかった。先日も、対馬・壱岐の旅の中で、一行の中のトロヤに訪れた方の話に接した。

「あれは、トロヤの都の遺跡ではない。古いお墓の跡だ、という話を聞きました。」とのこと。

これは、有名な「退役大尉のベッティヒャー」系の説である。シュリーマンの「発掘」を否定し、あれは「一大火葬場」にすぎぬ、と主張したのである。(『古代への情熱』岩波文庫、一二五ページ)

彼は、シュリーマンを以て「偽善者」「偽発掘者」として、悪罵して止まなかった。日本ではこの点、右の著作などによってシュリーマンの功績はすでに「常識化」しているけれど、かえってヨーロッパやその系列を引く人々の中には、右のような見解が、なお「生きて」いるようである。広大なる「西欧古典学の伝統」が、このようなシュリーマン攻撃を今も生きつづけ≠ウせているのであろう。

彼は「晩年の十年間は反対者との戦であったといえる。」(同書、一八一ページ)とされ、「誹謗者」からの「野蛮な悪口」に悩まされていたという。(同右)

彼の、いわゆる「発掘」物は、その実、莫大な財産(ロシヤとの毛皮貿易等の利得)による「古道具屋からの購入品」を、いかにも自分の発掘品であるかに偽称≠オたものにすぎぬ、というような「汚名」がシュリーマンに対して早くから投げつけられていたようであるが、それらの情報操作≠ヘ、(日本とは異なり)西欧世界という「古典学の温床」の中では、いまだに現在でも生きつづけているのかもしれない。

 近来、不可思議な出版物が出回りはじめた。わたしに対する「誹謗」や「中傷」である。

 あの「東日流外つがるそと三郡誌」をめぐって、わたしがそれを「偽造」した、、或は「偽造を依頼」した、というたぐいの「怪メッセージ」が学術書や大手出版社発行の雑誌内に掲載されている。

さらに、今までの経緯をまとめて新たに小冊子にしたものも出された。(2)

 いずれも、同一の「発信元」に淵源していることは、すぐに察知できるものの、問題は「今の時機」に、「旧情報」を「再発信」しはじめた理由、それが問題の核心だ。

 かえりみれば、一昨年から昨年にかけて、わたしの学問的収穫は、望外にも豊潤だった。恵まれていたのである。

 『古代史の十字路─万葉批判』『壬申大乱』(いずれも、東洋書林刊)、さらに『「邪馬台国」はなかった』刊行三十周年記念集会、外人記者クラブにおける講演「日本の原理主義批判」と、多彩だった。その上、今年になってわたしの著作集(明石書店)も刊行されはじめた。

 特に、右の講演の英文レジメは、全世界から厖大なアクセスがあった。当初の予想≠はるかに上回るものだった。(これは「神籠石」問題を中心とする、日本の学界・教科書批判である。)

 これらに対し、識者の「書評」も出ず、学界からの反応はなかったが、幸いにも、本は版を重ねた。

 ─そして今回の「旧情報の再発信」だ。これが、いわば「代理」としての反応だった。いわく、

 「古田とは、かかる不徳義漢だ。だから、学問的反応など、しなくてもいい。」

 そういう、いわば「免罪符」の役割を(当の執筆者の背後で)になっているのである。

 日本も、ようやく「西欧の古典学なみの水準」に達したように見える。慶賀すべきだ。ただ、わたしごとき非才、非力の老人に対して、あたかも晩年のシュリーマンのごとき「名誉」を以って遇することは、いかにも不当である。

 その上、わたしのような者には、石工に依頼して「神籠石」群を新造し、偽造させることなど、及びもつかない。

 日本の「誹謗者」から発せられる「野蛮な悪口」は、明らかな見当ちがいを犯したものだ。後世万人の嘲笑をまねく他はあるまい。

   十一

 願わくは、わたしの場合、「晩年のシュリーマン」の陥ったあやまち≠犯すまいと思う。

 なぜなら、彼等(発信元)ははじめから和田家文書(東日流外三郡誌等)のもつ貴重性などには聞く耳をもたず≠ノ、相手を「中傷」することによって、その(つまり、わたしの)「信用」をおとしめ、研究の歩をさまたげんとするのを目的にしているからである。

 わたしの残されたいのちは、すでに短い。何もしなくても、「誹謗者」たちは、その目的を、自然に達することであろう。

 その日まで、わたしは正々堂々と学問の大道を歩み、一夕に一個の真実を手にし、一朝に一個の新局面を見る。そのようにして、この生を終わりたいと思う。

 それが自然死か、それとも何等かの急死か、それは運命の女神の深く望むところにまかせる他はない。

 

〈注〉

(1)      力石巌さん(古田史学の会、九州)

(2)      『日本書紀研究、第23冊』(塙書房刊)・「歴史・諸君」5月号臨時増刊号(文芸春秋社刊、二〇〇二)『「東日流外三郡誌」の真実』(三上重昭著、梓書院、平成十四年五月刊)等。

〈補〉

 本稿を書き終えると同時に、佐原真さんの訃報(本日)に接した。残念である。忌憚なき応答をさせていただきかった、お一人であった。厚く御冥福を祈りたい。

─二〇〇二・七月十日─

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東京古田会

古田先生定期講演会報告 第一部

古典批判―古代史への新しい通路

                杉並区 飯岡由紀雄

 

古田先生の東京古田会主催定期講演会が会報でもお知らせしていました様に、会のスケジュールの都合から例年より一月ほど遅れましたが、水道橋の全逓会館にて13:30から会員の大越氏の司会進行により藤沢会長の挨拶に引き続き予定通り、右記のタイトルで無事に開催されました。古田先生は前前日の仙台での講演会の疲れも見せず、集まった180名(会員108名)ほどの参加者を前に、記紀神話(と仮にしておきます)およびギリシャ神話の批判と考古出土物の検証を交えながら、表れた語句に対して逐語的解説を施した解釈を披露、古田先生らしい熱弁を振るわれました。以下、当日都合により出席できませんでした会員の皆様に先生の講演内容をかいつまんでお知らせ致します。

 

紙面の都合上、いつものように要録であり、内容につきまして聞き間違い、誤解している部分がありましたら、その責任は本報告作成者にありますのでお知らせ下さい。

 

神話実験と国名表記

対馬・壱岐の旅行から帰って6月の9日と22日に百地と鳥栖で神話実験というものをしました。道具は銅矛、銅戈(鎌のもとになったものですね)、熊手。記紀の冒頭を飾る「国生み」が語っていることを試してみようと古田史学の会・九州の力石さん、西村さん達の協力でした訳です。その国生みに出てくる先日旅行しました対馬・壱岐の国名、これは皆さんがよくご存知のように、「倭人伝」に壱岐は一大国(記紀ではアマノヒトツバシラ)と表記されている訳ですがアマは海人・海女・海士で海人国、ヒは太陽、トは戸口、ツは津で港。海人国の太陽の戸口をなす港ということです。ハは葉で広い、平べったい、シは色々な思考の結果、今の所、生活の基盤をなす場ということだと思います。ラは良く出てくる日本語ではお馴染みの地形を表す接尾辞です。広い平地の生活の場所ということで、平べったい丘陵の島で対馬のように柱のような山などありませんからね…漢字表記に惑わされずに両方併せて考えてみますと海人国の港のある太陽を迎える生活の中心場所ということで、これは「原の辻」のことであると思います。それを中国語の漢字を借りて一(ヒトツ)大(広い、大きい)と自称したものを中国側がそのまま採用したのではいか、中国側が名付けたものではないという結論に辿り着きました。

こんど新風書房というところから会話文形式の『「姨捨て伝説」はなかった』という本が出ますが、オバ・ス・テのオバ(ウバ)は縄文時代からの巫女さんであり、スは人間に限らず生き物の集まる場所、須磨・鳥栖のスです。テは手のように広がった場所で巫女さんたちが集まっている場所を当初は指していたんだろうと思いますが、時代が下って語呂合せのように「姨捨て」の漢字が当てられてしまって新しい概念を作り出して、現在に至ってしまったということを、まあ、書いた訳ですが、その間に先の国名表記の解釈が右に述べて来たように進んだ訳です。

次に対馬、対海国(記紀ではアマノサデヨリヒメ)と表記されている訳ですがアマノは先に述べたように海人国です。サデは民俗資料館などでみることができますが、溝を掬う熊手のようなものをサデといいます。現地では溝掃除の際にゴミなどを掬う動作をサデルと言います。知恵のついたお猿さん、人間が弓や釣り針を発明するまでは海辺の貝をこうした道具で拾い集めていたのではないでしょうか。貝は貴重なタンパク源だったと思います。それを祭りの場で神聖なものとして立て掛けて拝んだ。まだ女神の時代です。その後に中国から朝鮮を経由して、まず殷代の戈、次に周代の矛が入ってきて、サデと同じように立て掛けられて拝まれた。このサデ祭りが対馬にあったために本来中国では武器であった戈や矛が、我国ではいとも容易く祭祀の道具になってしまった。そして、記紀に描かれたような「国生み」神話が壱岐・対馬を含む筑紫一帯で作られたんだろうとまあ、こう思うわけでございます。

その道具を使った実験ですがやってみますと、あれは書かれているように上から吊るしてやったのではなくて、やはり横に引いたのだろうと思います。「塩こおろ、こおろ」から製塩との関係も対馬・壱岐の旅行の際に福永さんなどと話が出たのですが…そして、所々に固まりができたのを国に例えてあの話ができたのだと実験を通して確信した次第でございます。そういうことで「対・海・国」の対をあらためて辞書でひいてみますと、天地神明に応えるというのが第一義、海は海神様、サデヨリヒメですが、その神意に応えるという…、先程のサデ祭りが根底にあってできた国名であると思う訳です。壱岐も対海国も倭人が自称していたものを中国側が採用したのだという確信に至りました。神話も「サデ」神話から「カ」神話、「ホコ」神話の変遷過程を経ていることになります。

 

          神話・天孫降臨と歴史的事実・一大率

次に神話として片付けられ、本居宣長以来多くの歴史学者により歴史事実として顧みられることのなかった天孫降臨ですがチクシのヒナタのタカチホのクジフルタケにニニギ達は降り立ったとなっている訳ですが合致する地名が宮崎・日向ということで多くの学者さんたちが高千穂のある南九州のほうへもっていっているわけですが、これは全く駄目です。

チホはチネと同じく日本語では山を表す言葉ですし、降臨を命令したアマテルは稲作地帯を取れと宣言しているにも拘わらず、云われている南九州には三種の神器を始め大規模な稲作遺構の出土などないじゃないですか。

私の言っている北九州・背振山脈には三種の神器を出した神殿跡と思われる吉武木、三雲、井原、平原、そして春日市の中国絹を出した須久岡本などとそれらの三種の神器を取り巻く二種の神器圏、吉野ヶ里などがありますし板付、曲田、菜畑などの縄文以来の水田稲作遺構が出土しています。日向峠、クジフルタケは人々の生活地名用語として現存している訳です。

仮説であっても考古学的出土物の対応がきちんとあるのか検証されなければならないと思います。そういう場所、伊都国に何故か分からないが一大率、率は軍団の長ということなんですが、壱岐の軍団が常駐し、人々はそれを畏怖していると『倭人伝』に記録されている。この事実こそが逆に言えば神話とされた「天孫降臨」が歴史的事実であったと、こう言わなければならないんじゃないでしょうか。

降臨の侵入ルートですが通常の道は堅固に防衛されていたと思いますので、侵入軍は落ち合う日時、場所を決めておいて唐津湾、有明海、別府湾などから背振山脈の尾根伝い・縄文以来のルートに複数に分かれて侵入(これが「道別きに道別きて(チワキニチワキテ)」の意味するところ)、高祖山連峰、クジフルタケに集結し至ったものと思います。

この戦略の立案、実行、成功がその後長く天照大神としてアマテルを皇太神宮に祭らせることになった。戦の勝利者を祭る神社が多い中で長年疑問だった「皇太神宮の正体見たり」という気がしています。

「天孫降臨」が歴史的事実とするとそれは北九州で出土物が一変する弥生前末中初、通常BC100年頃(年輪年代法の修正で100年遡ってBC200年頃)の変化を説明するものであることは年来主張してきたところである。三種の神器の出土は弥生前末中初以降である。これは中国で秦が滅び前漢が起こると言う時期に一致している。中国での変動が天孫降臨を引き起こしたものであろうと考えている。

ついでに神武について言えば弥生中末後初・AD100年頃(年輪年代法の修正で100年遡って紀元前後の頃)西にイエス、東に神武ありの時期ということで新と後漢の王朝交替時期と一致している。倭国ではその後金印や後漢鏡が多数出土すると言う事実からみれば光武帝の後漢支持派が勝利したものと言える。

吉武木を出発して、九州を脱出した神武一行が辿った瀬戸内ルートからは新の王莽の貨泉、貨布が、大野城、太宰府辺りからも出土するが、出土している。殊に長期滞在したと書かれている吉備はその一大出土地である。

ということで、神武達は王莽の新を支持するグループだったものと言える。それが九州での争いに敗れて、近畿を目指すことになった神武東侵も中国の政治変動と密接に繋がっていると言えよう。

 

淡路島を取り囲む「ヒルコ大神」と旧石器・サヌカイト文明圏

瀬戸内海に存在した高松を中心域とする旧石器・サヌカイトを使った人々の神・ヒルコ(潮の干満、干るから出た?)。干上がった浜でサデを使っての貝採り作業。どこにも失敗であったと書かれていない書紀十一書はその偉大なるヒルコ大神の出生譚。それを弥生の新作神話はヒルコ大神を時代遅れなものとして否定してゆくことになる。(発言骨子のみ以下同じ)

 

天の浮橋、稜威(いつ)とは

島根・美保神社の青柴垣(アオフシガキ)神事に登場した「天の浮橋」

稜威(いつ)は厳原のイツとも考えられるが、今の所複数形を表しているものと考えている。

 

高倉下説話挿入の謎とイリアス神話の間に潜むもの

残虐すぎて語るのを憚られた神武の近畿侵入とギリシャの征服戦争の実態をより上位の者・アマテルとギリシャの神々の意を受けて実行したこととする「置き換え」を通じて、実行者に対する浄化作用・カタルシスを施して行く物語の構成の類似性。ギリシャのものとして語られているオリンポス神話は本来滅ぼされたトロヤのものであったのではないか。オリンポス山は位置関係からしてトロヤの山であったと理解したほうが自然である。

 

中国への侵略は単なる侵略か?

通常言われている盧溝橋事件から数えるのではなく山東出兵から数えれば15年ではなく18年に渡る大侵略である。

 

この他にも聞き流しにすることの出来ない様々な挑戦的解釈の話を伺うことが出来たのですが、講演の随所に散りばめられていますので、会員の皆様におかれましては、是非、会場まで足をお運びになり、先生の肉声に実際に接して頂けたらと思うばかりです。

このあと本会の総会があり、続いて場所を移動して夜の部へ続きました。

 

 

夜の部   

 

文責 藤沢 徹

 

 文京シビックセンターに場所を移し、六時半から会場内での質疑応答を主として進められた。

 

質問 東日流外三郡誌によれば、カムチャツカから津保化(つぼけ)族が大筏を組んで馬を積み、海漂八十五日で宇曾利の地、今の下北半島の恐山に着いたというが、北半球は一倍年暦だったのか。

 二倍年歴に関していうと、南太平洋のパラオでは半年がひとかたまりで、雨のシーズンと晴のシーズンの気候ががらっと変わる。半年を一年とするというのは自然に合った暦だ。それが黒潮に乗って日本ひいては中国に伝播して行った。

 といって、黒潮に乗ってくる人ばかりが日本列島に着いたわけでなく、もっと前には日本列島は日本半島だった。沿海州の一部で、沿海州から来た人が阿蘇辺(あそべ)族ということになる。

沿海州には二倍年暦が有るはずがない。当然一倍年暦。津保化族も同じく一倍年暦。

 南方から二倍年暦を持つ人がやって来たのだ。我々は今太陰暦・太陽暦で一倍年暦。その前に二倍年暦があった。神社で春秋の行事があるのは二倍年暦の表現。しかし、その二倍年暦の前には一倍年暦の時代があったのだという問題がある。

 松本の浅野さんという古代史研究家から、信州で月読命がやたら祀られていることに関し質問があった。月を暦にする人が月読命を祀っていると考えられる。

 しかし、大きな神社でも行事は一年に一回というところがあるように、

全部二倍年暦で解決しないケースもある。

 アソベ族もツボケ族も一倍年暦ということになる。八十日とか八十五日かかったというのも、我々が二〜三ヶ月かかるというのと一致する。

 

質問 エクアドルのバルディビアに倭人が渡ったという話を聞いたとき、何故日本に一番近いカリフォルニアに行かなかったのかと尋ねた。水の出ない土地だったからフンボルト海流を横切ってエクアドルに行ったと説明を受けた。水の出ない土地に八千年も前に土偶を作る人が住んでいたのか。

 エクアドルに縄文土器の影響を受けた文明が成立したことは分かり易い。黒潮はカリフォルニアあたりでジャパン海流というが、南下してペルーに行き、南からくる地球最大の寒流フンボルト海流にぶつかる。そこで寒暖が一緒になって魚の餌のプランクトンが大量に発生し世界最大の漁場の一つになっている。

 そこでストップする。上陸するか更なる旅に出るかになる。半年即ち二倍年暦で一年、上がって年を越すという話とタイミングが合う。

 カリフォルニアは一年のうち一ヶ月以外は雨が降らない土地だ。一方、エクアドルは雨がよく降るし海流の終着点で寒流とぶつかり魚もよくとれるし、黒曜石の産地でもあり文明が発達したといえる。

 倭人伝は裸国・黒歯国があったと記録する立場でカリフォルニアに文明圏があったとは理解しなかったと解釈する。詳しくは分らない。

 奥のユタ州には渓谷がある。両者は別物でないかもしれない。文明の発生は定着か移動かで激しい論争がある。三内丸山に関しても見方が別れる。メガースさんなどは移動説をとっている。

 

質問 天孫降臨は筑紫だけか。出雲はどうか。

 国譲りが先で、天孫降臨は後だ。

出雲を軍事制圧し、筑紫を占領支配する。天照が用意周到だと思うのは、いきなり筑紫に行ったら出雲から応援が来てややこしくなる。まず、親分の出雲を押さえたのだ。

 蛭子をのけ者にしているがもう一つ淡島ものけ者にしている。和歌山や博多湾岸にある淡島神社は全国にあるが、殆ど少彦名神が祭神だ。少彦名は大国主と共同経営をしたというので有名。終わると後は関心がないというので、熱帯の地と思うが常世の国に去って行ったとある。

 私の考えでは、スクナヒコナはダブリ言語。ナはナナツのナで、ヒコは長官の意。固有名詞部分はスクナ。

スクは春日市の須玖岡本のスク。須玖の長官と自分を呼んでいる人物。博多湾岸の王者と考えている。

 それが、大国主と協力して出雲を統治したという。ところが彼は常世の国へ去って行ったということは、博多湾岸は空き巣というか主人のいないところになってしまった。即ち、出雲の統治に留守を委任していたということ。

 天照は、出雲と交渉し留守になっている博多湾岸を叩いて、制圧した。空き巣狙いで少彦名が居ないところを奪ったのだ。

 「天下る」といったとき記紀は三ヶ所しか到着点を示していない。それは、筑紫・出雲・新羅だ。しかし、天から行ったからといって全部天孫降臨ではない。それは目立つ軍事的制圧の事件だ。縄文水田の真中にある高祖山連峰を押さえて両側の縄文水田を制圧するという一大作戦だった。

 

質問 天武天皇の出自で、大海人(おおあま)は九州王朝の出身か。日本書紀に突然東宮大皇弟と出てくる。幼少の話など何もない。天武は九州王朝の大皇弟か。

 ご自分で仮説を立てて考証することをお勧めする。記紀に全部書いてあって天武だけ突然出てくるなら分るが、他にどういう詳しい例があるのか分らない。

 大海人が九州王朝と関係あるのではということはよくいわれるし、可能性はあると思う。奥さんの一人に胸形の一族の娘をもらっていると日本書紀に書いてある。その意味で九州王朝と関りが深いといえる。

 しかし、大海人といえば九州王朝の天子とは言えない。九州王朝の天子や皇太子がみな大海人と名乗ったということはない。ただ、大海人(アマ)とはアマ(海人)族と関係はある。大がついているからアマ(海人)のリーダーみたいな名を名乗っている。そこまでは言える。

 作業仮説を立てて、記紀でアマとはどう使われているか全部抜き出してみるとか、名前に大がつくのは幾つあるか抜き出してみるとか基礎作業をやってから仮説を検証してみたらいいと思う。

 

質問 日本の天皇の名と韓国の王様の名前と一致する例が多いが、関係はあるか。

 実物を見ないと何ともいえない。日本の統治時代、日本の史料がかなり行っている。それを持ち出したのではないか。神武・綏靖・安寧とあるからということで、天皇が韓国人という結びつきは分らないので、史料を送ってください。

 

質問 千葉県の富津に内裏塚古墳、三条塚古墳、九条塚古墳があるが、王朝があったのか。

答 千葉県佐原市の香取神宮に経

津主神が祀られている。記紀系列の神様となっているが違うのでないか。

そこの末・摂社に経津主の父親と母親が祀られている。そんな話は記紀にない。私の考えでは経津主(ふつぬし)は富津(ふっつ)の主という土地の神様がいて、それを記紀に結び付けて記紀流の名前をつけて祀ったのでないか。富津の神社・古墳を調べればいろいろ意味深いことが分るかもしれない。

 

質問 裸国・黒歯国に関して、陳寿は当時の卑弥呼など、中国の冊封制度の中にあった倭国または邪馬壱国の政治文化圏の中にあると認識していたのでないか。

 その通り。文化圏というより政治圏かもしれない。中国側では倭人の一族として考えていたに違いない。

 

親魏倭王だ。つまり魏の天子は倭国王を配下に従えている。その倭国王のゆかりの裸国・黒歯国も魏の天子の下にあるという大義名分になる。

 

 今の私は『「邪馬台国」はなかった』を書いたときと違って、全部を中国側が表記したのでないと考えている。

勿論、中国側で表記した三十国というものもある。メーンをなす対海国・一大国・末羅国。伊都国・邪馬壱国というのは倭人側が表記したものを彼らが採用したのだ。少なくとも二種類の表記があるといったが、三種類かもしれない。

 侏儒国は高知県の足摺の近辺と考えた。足摺と縄文で有名になった土佐市の間に、鈴(スズ)という漁港がある。ダブリ言語で、スは須磨明石のスで、住居(すまい)のス。ダブらしてスズといっている。ダブリ言語はニュージーランドとか太平洋領域に多い。

南米のペルーのチチカカ湖もそう。日本にもあるのが「すまい」のスをダブらしたスズ。スズという現地語をバックにして中国語でシュジュと聞き、成語の侏儒を当てて表記したのでないか。小人国の意味でなく、スズという現地語表記から言ったのでないか。

 勿論、足摺一帯は博多湾岸に先立つ先進の縄文文明の地帯だった。それを侏儒国と表記している。

 「裸国・黒歯国」も最初は熱帯だから裸(はだか)の国で、黒く歯を塗ってあるから黒い歯の国と思っていた。

 どうも違う。ラは日本語でラと言っているのでないか。ウラという言葉がある。津津浦浦(つつうらうら)のウラ。ウは接頭語。語幹はラだ。ウラの古い語形はラでないか。これを裸(はだか)でおるという風俗も知っていて裸国と表現したのでないか。現地日本語がバックになっているのでないか。

 「黒歯」もそうだ。チクシ/ツクシでもチは神様のチ。不可思議な人間の「生き死に」のシ。久士布流(くしふる)のシ。このシにコが先頭につくと越の国のコシ。児湯(こゆ)もユに接頭語のコをつけている。

 同じようにクシに接頭語のコをつけるとコクシになる。中国で黒い歯の黒歯の語があるから字を当てた。だからこれも日本語ではないか。

 素っ頓狂でもないと思うのはエクアドルの土偶は日本人に似た顔をしているし、糞中の寄生虫も日本列島のものという。日本語を知らない方がおかしいみたい。コクシは日本語ではないか。中国人か倭人かということになるが倭人の可能性がかなり大きい。

 倭人の使っていた第一種類(グループ)は対海国・一大国・末羅国・伊都国・邪馬壱国。

 中国人のつけた三十カ国の名前は第二種類(グループ)。第三種類(グループ)は侏儒国・裸国・黒歯国。これは倭人か中国人かどちらの命名か分らない。

 頭の体操だが、カリフォルニアについての私の考えを述べたい。東日流外三郡誌によると、彼らは定住しなかったという。祖先の国に行こうとアラスカから筏に乗って津保化(ツボケ)族となり、今の青森県人になっている。先方は蛻(もぬけ)の殻になっている。一方、エクアドルは空ではない。スケールが違う。

 

質問 高天原は壱岐か。

 その通り。タカは接頭語でアマは海人。原は原の辻の原集落。尊んだ表現にしているが壱岐・対馬の領域である。壱岐の北端に銅矛が三本でているアマドマルという海水浴場がある。

 記紀にある天のヤスの川で悩んだが、川は海洋民にとっては潮流だ。壱岐・対馬を流れている対馬海流をヤスの川、即ち多くの陸地に接触した川をいう。あの表現でなら誰でも分るよといった言い方。小さな川ならどこどこの川となるだろう。

 

質問 裸国・黒歯国への船行一年とあるが、行ったきりなら伝播でいいが、一年という期間が書いてあるのは戻ってきたということか。

 その通り。一年は二倍年暦で半年。堀江さんは今アメリカに向かっているが往復とも三ヶ月で日本からサンフランシスコに行っている。六ヶ月半年とするとエクアドル・ペルーに止まる。帰りは海流の反流にのればいい。

 

質問 甘木に大己貴主神社という式内社があるが。

 出雲の神々の神社は大己貴神社だけでなく福岡県には沢山ある。

関東にもある。出雲の勢力圏の痕跡と理解している。大国主神社は特に何かはその神社自体を研究しなければならない。しかし、面白い問題が内在していることは事実だ。

 

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