Under the moon
しゅっ。
軽く風を切る音がして、手のひらから小石が空へ放たれた。
ぱしん。
乾いた音を立てて、再び手のひらの中に小石が戻る。
そろそろ夕闇せまるその時刻、暖かかった風が少しづつ冷たく感じられてきた。
小石を放っているのは一人の青年。石を放る動きにあわせて、銀髪の前髪がふわりと揺れた。少年は石を放り、それをまた受け止める。飽きもせずに、その動作をただ繰り返す。
夕暮れ時の淡い紫色の空間は冷たく静まり、辺りにはこの青年以外に動くものはいない。沈みかけた夕日が空を赤々と染め、その色を映した遠くの山々はまるで燃えているようだった。
ぱしっ……。
不意に青年の動きが乱れた。受け止めそこなった手のひらから、小さな、本当に音を立てて、小石が地面に転がった。
まるでその瞬間を待っていたように、風が吹いた。
それまでのやさしげな風ではなく、突風と呼ぶに相応しい風が。
青年の背後で束ねられた銀髪が、風に舞う。
転がった石をひろうでもなく、青年は風が吹いた方を見た。
ゆっくりと振り返った先の風景に、青年は息をのむ。
いつか見た風景が、そこにあった。
ほかの誰かが見ればなんのことはないただの夕焼け時の風景。
だが、青年はその中に、二度と還ることのできない「過去」を垣間見たのだ。
影に飲まれた山々の稜線、燃えるような赤に染まった草木。そしてあるはずのない石畳すら青年の瞳は映してみせる。
……………おかえり、ジョウイ。
柔らかく云って、微笑む大切な人。
青年は思わず駆け寄ろうとする。
駆け寄ろうとして、動かした足が大地を擦り乾いた音を立てた。
瞬間。
「過去」は樹木の下にこごった闇の中に、溶けるようにして消えていた。
「……………!」
誰かが遠くで、青年の名を呼んだ。青年は振り返らずに、足下の小石を拾い上げる。
小石を再び空に放り投げて、青年は乱立する樹木の向こうに視線を投げる。
小さな声で呟いた。
「……もう一度。もう一度だけ」
……………君に会いたい。
ぱしんっ。
小気味いい音を立てて、落下してくる小石を受けて、青年は声がした方に足を向けた。
半分ほど開いた窓から流れ込む風が、冷たく頬をなでた。
外気の温度が上がりはじめているのか、それとも自分の体が火照っているのか。
一つ深呼吸して、カミューは空を見上げた。
ルカ・ブライトを討ってから二日。宿敵を倒したということでにわかにわいていた場内も、静寂を取り戻しつつあった。
最大の難関を突破したのだから、もう少し盛り上がっていてもよさそうなものだが、称えるべき英雄がベッドの中では、盛り上がりに欠けるのも仕方がないことなのかも知れない。
本拠地に戻るなり意識を失った青年は、いまだに目を覚ましていなかった。
ホウアンの話だと、原因は過労と精神疲労。
まだ少年と呼ばれるに相応しい年齢の彼に、同盟軍の期待と希望は重すぎたのかも知れない。いや、「かもしれない」ではなく重たすぎたのだ。
ルカ・ブライトの遺体を見つめる彼の眼差しが、カミューには忘れられなかった。
あれは憎しみでも同情でもない。なんと表現していいのかわからないが、あまりにつらい光を宿していた彼の瞳。
とてもじゃないが、「宿敵」をうった後とは思えない表情だった。
羽織っただけの上着が、僅かに風に揺れる。
窓の間から見上げる空は大半を雲に占められているが、一雨きそうなほどに陰鬱に垂れ込めた雨雲ではない。まるで綿の固まりのようにちぎれて流れ、その合間から月の光をこぼしていた。
……少年の表情が頭に焼き付いて離れない。
まるでルカ・ブライトを討ったことが、本意ではなかったかのような顔をしていた。
少年があの表情を見せたのは、ほんの一瞬のことだったから、他の誰も気がついてはいないだろう。おそらく彼にもっとも近しい、彼の姉さえも。
勝利の祝杯をあげているときも、愛しい恋人に抱かれているときも、少年の一瞬の表情が忘れられない。
その理由が、カミューにはわかっていた。
少年があのとき呟いた声にならなかった言葉が、彼の眼差しと表情以上に自分の胸に引っかかっているのだ。
……………これでいいの?……ジョウイ。
言葉は、音にはならなかった。
これは動いた唇から想像した言葉に他ならない。それでも、確かに少年はこう呟いたのだ。
あの呟きがどういう意味を持つものなのか。そんなことはカミューにはわからない。
だが、できることなら伝えてあげたかった。
彼に。
もうすぐジョウイ・ブライトと呼ばれるようになる、あの銀髪の青年に。
少年の口からはきっと伝えられないだろうから。
そう考えて、カミューは苦笑した。
自分がこんな風に感傷的になれる人間だとは思っていなかった。
いつもならば、こういうことをだらだらと考えて感傷的になるのは、そこのベッドで寝息を立てている男の方のなのだ。
騎士、いや、剣士である以上。自らの手に剣を握る以上、誰かを討つということは当たり前のことだ。ましてやこれは、戦争である。やらなければ、やられてしまう。
戦ってゆく上で、意にそまぬ剣を振るうことなぞいくらでもあるのだ。いちいち感傷的になっていたら、ノイローゼになる。
自分はそういう考えで生きてきたし、多分これからもそれは変わらないだろう。
自分でもクールな考え方だと思うが、戦争とはそうでも思わなければやっていられないものなのだ。
かみゅーは羽織っていたシャツに、袖を通した
それから、音を立てないように気を使って窓を閉める。
窓を通して部屋に入ってくる月明かりが、仄かに室内のうす闇にとけ込んでいる。
ベッドではなくドアの方に向かおうとして、カミューは足を止めた。
身をかがめ、自分が抜け出した後のめくれあがった掛け布団を元に戻そうとして、腕を伸ばしたとたん。その腕を捕まれた。
同時に規則正しい寝息もとまる。
「……起きていたのか」
カミューは苦笑した。
枕に頭を落としたまま、マイクロトフは目を開けて彼を見上げた。
「どこへ行く?」
「少し散歩でもしてこようかと」
「こんな時間にか」
下からマイクロトフが睨み付ける。
カミューは彼の腕をほどくと、枕元に置いてあったユーライアを手に取った。
「ユーライアを持って行くから、大丈夫だ」
別に城の周りを散歩するくらいでユーライアを持っていく必要もないのだが、マイクロトフを安心させるつもりでカミューはそういった。
マイクロトフはよく云えば心配性、悪く云えばいささか過保護なところがあるのである。
「そういうことを云っているんじゃない」
「では何だというんだ?」
「何故こんな時間に散歩に行くのか聞いている」
憮然と云うと、マイクロトフは起きあがった。
「眠れないからだ」
「……眠れない?何故?」
「私に聞くな」
眠れない理由なんて聞かれたところで答えに詰まる。眠れないから眠れないのであって、理由と対処方法がわかればとうに眠っている。
マイクロトフは、じっとカミューの顔を見つめた。
何かいいたそうに口を開きかけて、何も云わずに口をつぐむ。
それを何度か繰り返して、マイクロトフはベッドからおりた。そして、ベッドの脇に置かれたイスに無造作に放られていた自分のシャツに袖を通す。
「……俺も一緒に行く」
短く云って、ダンスニーを手にした。
「一緒に行くって……ただの散歩だぞ?」
ため息混じりに、カミューが云った。
マイクロトフは答えない。
答えずに、自分の上着をカミューに向かって放り投げた。どうやら、着ろといいたいらしい。
カミューは吐息をついて、彼を見た。
マイクロトフは器用に肩眉だけあげて、ドアを開いた。