直江先生が支笏湖の水底にその姿を消してしまったのは、ようやく春の訪れを人が感じ始めた3月中旬だった。
4月半ば、行田病院を訪れる遠来の客があった。
品のいい、40代の女性だった。
直江の姉:「志村倫子さんにお目にかかりたいのですが・・・」
倫子:「はい、私が志村です」
女性:「あなたが、倫子さん?」
その声に聞き覚えがあった。
倫子:「あの・・・直江先生のお姉様でいらっしゃいますか」
2人:「初めまして」
二人がほぼ同時に頭を下げ、少し互いを見つめ合った。
直江の姉:「あの・・・庸介の部屋を整理に参りました。」
倫子:「そうですか」
ついにその日が来た。いつかはこうなるとはわかっていても、それが当然だとわかっていても、あの部屋にもう訪れることができなくなる日が来たのを知って、倫子は寂しさを隠せなかった。
喫茶店
直江の姉:「貴女のことは、庸介からくれぐれも頼むと・・・言い残されましたの」
意外だった。が、うれしくもあった。彼の生涯の最期を共に生きた・・・でもあまりに短いはかない思い出しかない倫子のことを、彼は身内の者に頼んでいったとは・・・
直江の姉:「もう字を書くのも辛かったのでしょう、録音テープに残したものが私宛に届きました」
倫子はビデオレターのことを思い浮かべる。
手紙もワープロを打つのも辛かった・・・・それだけ激痛が彼を頻繁に襲っていたことを気づかなかった自分が・・・いや、気づくのが恐くて敢えて見ないようにしていたのかもしれない、あのときの自分を思いだしてしまう。
直江の姉:「庸介は、貴女に、部屋に残した物の中から貴女の望む物は何でも渡してくれと・・と。ですから、お時間があるのでしたら、ご一緒に・・・」
倫子:(形見分け・・・か)
心の中でちょっとうずきにも似た痛みを持った言葉をつぶやいた倫子。
でも、愛した人に目元がそっくりの、そのご婦人を前に、やっぱり、微笑みながら明るく返事をした。
倫子:「ありがとうございます。」
部屋の中に残された物・・・その中で倫子はあの写真の・・・支笏湖の額に真っ先に手がのびた。どうしても欲しいと思っていた。そして二人でコーヒーを飲んだマグカップ。そして・・・直江の部屋に行くといつもかかっていたあの曲のCDを・・・譲り受けた。
もう1つ、倫子はどうしても欲しい物があった。直江と倫子の二人だけの大切な宝物。
だが、どうしてもそれは見つからない。
倫子:(直江先生が湖まで持っていったままだったのかもしれない)
倫子はふと直江の姉に尋ねようか迷った。が・・・直江と倫子の二人だけにしか通じないそれを口に出すのが恐くて、倫子は結局、言葉に出すことはしなかった。
倫子:(言葉にして出したら、消えちゃいそうな気がする。いつかの夕日の中に見た直江先生の涙のように)
直江の姉:「医学書はどうしますか?」
倫子:「あ・・・」
自分がもらっても読めるかどうかわからない。
でも、やはりお願いして、何冊かの医学書をもらい受けた。
倫子:「もう・・・この部屋から川を見ることはできないのね」
しばらく、立ちつくすうちに・・・涙があふれてくる。
お姉さんの前で泣くまい・・・ずっとこらえていたが、そうした倫子の姿を察して、そっと優しく肩を抱いてくれた。
直江の姉:「いつでも・・・いつでも北海道にいらっしゃい。そしてどうか体だけは大切に」
続く