そして・・・先生と同じ言葉を口にした君・・・。
気づいているのだろうか・・・?僕にも春の花を見せたいと言った君は・・・。
もし気づいて無いにしても、もしかしたら心のどこかで・・・無意識に予知しているのかもしれない。僕の死を・・・。
その澄んだまっすぐな瞳で、僕のすべてを見透しているような気がする。
気づいてくれるな・・・。どうか気づかないでいてくれ・・・。もう少しの間・・・。
僕の死を知り、君の顔から笑顔が消えることを思うとこんなにも辛い・・・。君を追っていたのは僕の方だ・・・。
君を求めていたのは僕だからこそ・・・。
最後の我儘だ。君の時間を少しでいい。僕にくれるか・・・。
僕と一緒にこのまま過ごしてくれるか・・?
何も知らないまま・・・、純真な笑顔のままで・・・。
甘えさせてくれ・・・、少しでいいから・・・。
遠い故郷で咲いていた花も、そして君が探しつづけたあの花にも、そのどれを思い浮かべても君の面影に重なる。
どんなにか弱く小さな花にも、力強い命が宿っている。その同じ強さが君自身の中にも・・・。
君は強い。なんと強いことか。
君にはどんな困難でも乗り越える強さがある。真の心の強さが・・・。だから僕は素直に君を愛することができた。
君の手をとることができたんだ。
君はそのままでいてくれ。
君はそのまま・・・変わらずにいて欲しい。春のような笑顔のままで・・・。
純真な笑顔を失わずに、僕の分も強く生きていって欲しいと切に願う。
もうじき僕が消えて君の前からいなくなった時・・・君はいっとき思い悩み、それこそ生死をかけて苦しむかもしれないが、その苦境を抜け出たらもう振り返りはしない。
着実にまた新しい日々に踏み出して生きてゆけるとものと信じている。
君にはそれが出来るとものと信じている。それこそが僕にとって・・・唯一の救いだから。
君と出逢えて良かった。君を愛することができて本当に良かったと・・・心から思う。”
庸介は胸に添えられた倫子の手を握り、そのやわらかな身体のぬくもりを確かめる。
窓から差し込む月の光は、結ばれた二人を祝福するかのように、幾重もの波長に広がり優しく降りそそいでゆく。
その光にはかすかなぬくもりさえ感じられるようだった。夜を照らす月の光の中にも、間もなく訪れようとする春の兆しが宿っているのだろうか?
静寂に満ちた優しい時の中で、庸介は蒼く煌々と輝く白い闇を見つめつづける。
記憶のかけらを振り返ると、そこにいるのは倫子・・。彼女の拗ねた顔、泣いた顔、怒った顔、そして輝くような微笑・・・。そのすべてがこんなにも愛しい。
庸介は夢見るように、記憶の中に浮かび上がる倫子のひとつひとつの面影に感動する。
この世の果ての滅び逝く自身の終末に、倫子とめぐり逢えたことは奇跡に等しい。
”先生・・・。僕は一人ではなかった・・・。一人ではなかったんです。”
腕の中の倫子の暖かいぬくもりを感じながら、庸介は遠く恩師に呼びかけた。
”彼女の強さがあったからこそ僕は・・・”
束の間の春の兆しの中で、一途な女の愛に身を焦がし、間もなく燃え尽きて死んで逝こうとしている男を、後に残された女はどのように思いだすのだろうか・・・?
時の流れがすべての苦しみを風化し、癒し、雪の下から新しい芽が育つように、嵐に波立つ湖が、またその静けさを取り戻すように、女の心にも再び平穏な日々が訪れるのだろうか・・・?
倫子との愛は、過酷な運命の中で苦しみ続けた庸介にとって、一条の光であり、死に逝く彼にあたえられた最後の鎮魂歌なのかもしれない・・・。
倫子とすべてをわかちあった庸介は、彼女の唇に口づけをし、その暖かい身体を抱きしめる。
結ばれたその至福の感動は、一瞬、庸介の心を甘美な男の夢へといざなう・・・。
倫子との愛は、庸介の心に安らぎと至上の幸福をあたえ、間もなく燃えつきようとしている彼の命のともしびに今、輝く命の息吹を蘇らせている。
それは間違いなく、倫子の深くひたむきな愛情と、彼女の暖かい春のような笑顔が、暗闇に閉ざされていた庸介の魂を安らぎへと導いた証・・・。
それは庸介と倫子、結ばれた二人の命の輝く時だった。
終わり