『先生・・・』
庸介は口元にかすかな笑みを浮かべた。
『きっと・・生意気な子供だったんだろうな、俺は・・。でも・・・医者の道を選んで本当に良かったと思ってる。無力な自分に情けない思いをすることはあっても・・・』
『・・・』
『医者になって・・・』
庸介は再び静かに目を閉じた。
倫子は庸介の言葉をじっと聞きながら、遠く過ぎ去った彼の少年の日々に想いをはせた。
庸介にとって、医者になることは運命だったような気がする。
庸介の意思の強さも、そして深い優しさも、あの美しく厳しい自然の中ではぐくまれたものなのかもしれない。
庸介の故郷を想う言葉の中に、彼の人間としての深い愛情が込められているように倫子は感じた。
『先生・・・それで先生は医者に・・・。素晴らしいです、とても・・。
生意気なんかじゃありません。先生はそうやって子供の頃からずっと・・・。私、また教えられました、先生に・・・』
『ん・・・?』
『儚い命だから、尊いんですよね・・・。だから私達・・・一生懸命に生きなくちゃいけないんですね・・。あの石倉さんや、宇佐美さんみたいに』
『・・・』
『先生・・・』
『ああ・・・そうだ』
『ボートに乗っている間・・・ずっと、子供の頃の夢を見ていたんですか? 先生・・・』
倫子の問いかけに、庸介は素直にうなずいた。倫子の髪に指先を触れたまま、
何かを想うようにじっと白い闇の一点を見つめている。
しばらく沈黙していた庸介が口を開いた時、その声には不思議な響きが感じられた。
『長い夢だった・・・。どれほど彷徨っていたのか・・・七瀬先生も・・・石倉さんも・・・遠い昔のことも・・・いろいろなことが次々に浮かんでは消えて・・・。
夢の中で彷徨いつづけて・・・最後に・・君の声で目が覚めた。長い夢から覚めた時・・・君がいた』
『・・・』
『君の声が・・・聞こえたんだ・・・』
『先生・・・』
『君は花を摘んでた・・・光の中に染まって、子供達と一緒に笑っていた』
倫子の心に、庸介と出逢った時のことが浮かんでくる。
あの時、庸介はボートとともに夕日を背にまっすぐに自分を見つめていた。
光の中で黒いコートが揺れていた。
『やっとタンポポを見つけて・・・まるで春みたいにたくさん咲いてて・・。
あの時、先生と出逢った時・・・嬉しかった・・。先生にも見てもらいたくて・・・本当に嬉しかったんです。私・・・』
『・・・』
『先生も・・・石倉さんのように、春を待っていたんですよね』
『春・・・』
『はい。だってそうですよね。先生のふるさとの北海道の方が、ずっと春は遠いんですもの。だから先生はきっと・・・』
『・・・』
『・・・そうですよね? 先生・・・』
『ああ・・・そうだ』
優しいまなざしで、庸介はそっと倫子にうなずいた。