複雑な感情がゆっくりと自分の心をかすめてゆく中で、一瞬、倫子は庸介に初めて抱きしめられた時のことを思い出した。
そう・・・、あれはあの夜の医局だった。庸介と初めて出逢ったあの夜の・・・。
一人レントゲン写真を前に、机に顔をうずめるようにしていた庸介の姿が、倫子の脳裏にゆっくりと浮かんできた。
あの時の庸介は、何かに追いつめられたような、きつく悲壮な目をして崩れるように倫子に寄りかかってきた。
何かに脅え、救いを求めるように倫子にすがりついてきた。
あの時の驚きと戸惑いの中で混乱した倫子の目には、庸介の背後で青白く浮かび上がるレントゲン写真の白い影が、薄気味悪く不気味に見えたのを憶えている。
庸介の身体の震えが倫子の身体にも伝わり、彼の悲壮な目の光が倫子の恐怖を煽った。
その直後に庸介は・・・。
今、思えば倫子にとって運命的とも思える庸介との出逢いは、すべてあの夜から始まっていたように思う。
そしてあの時も・・・。
あの整然とした孤独な部屋で、一人声を殺し、涙していた庸介の姿が、倫子の心に鮮やかに浮かんできた。
あの時の庸介の姿を見た時、彼の意外な姿を目の当たりにして、倫子にはどうしていいのかわからなかった。
次郎を殴った暴力事件での謹慎中、自暴自棄のように酒を煽り、触れると消えてしまいそうな無防備な孤独を見せていた。
そしてあの涙・・・。
”先生に・・・何があったのだろう・・・?”
”あの直江先生が・・・あんなに乱れて・・・”
真の理由はわからずとも、彼の心の奥底には、哀しい孤独があることが倫子には痛いほど感じられた。
普段、感情を表に出さず、常に冷やかで冷静な態度を崩さない庸介。そんな彼からは想像も出来ない、胸が締め付けられるような、あまりに孤独な姿だった。
”先生の涙は哀しすぎる・・・”
あの時の庸介の涙が忘れられない。
あの庸介を前にして、倫子はただ側にいたかった。自分が側にいて彼の支えになりたかった。その時倫子は・・・。
そんな自分を庸介は強く拒絶したのだった。誰をも寄せ付けようとしない彼の深い哀しみと慟哭。
今思えば、大胆なことをしたと思う。
誰にも触れられたくない部分はあるはずなのに、それを自分は・・・。
倫子の中で、一抹の後悔だけがむなしく残り、心に想い浮かぶのは庸介の哀しい面影ばかりだった。
心のわだかまりをどうすることも出来ないまま、眠れぬ夜を過ごした。想いは遠く庸介にあるのに、どうしても彼には届かない。そんな時倫子は偶然、冬の川辺であのガラスのボートを見つけたのだった。
小さなガラスのかけらは、庸介と交わしたあの約束と重なり、倫子は想いをのせてガラスのボートを彼に託した。
いつか・・・、二人でボートに・・・。
”先生は、今も憶えてくれているだろうか・・・? あの時の約束を・・・”
倫子にとって庸介とのボートの約束は、彼と自分の心の中を結ぶ唯一の絆のように思えてならない。