『あなた…どなたですか?』
おそるおそるといった風情で控えめに見上げてくる目。
夏空の色そのままだと思った青はあの性格と態度故だったといらないことに気付かせるほど、それはどよんと力なく。それだけで人は別人のように見えるのだと知らしめる。
なんなんだこいつは?
自制心や理性、そのほかすべての何らかの名前がある自制力を総動員して感情の発露を押さえ込めた自分はこのとき世界で2番目ぐらいにポーカーフェイスの上手な人間だったと思う。
正直叫び出さなかっただけでもほめて欲しいほどの精神状態だったのだから。
この男は自分を誰かと聞いた?
そんなの私の方が聞きたいくらいだ。
おまえは誰だ?
そういいたくなるほどこれはハボックであってハボックには見えない生き物だった。
もちろんそんなこと言葉の端にも出さなかったが…。
誰だなんて聞くまでもない。あくまで自分にとっては。
だって見た目は確かにあの男だし。
それにこの男はちゃんと持っていたのだ。
私の大事な狗である証を……。
『帰ることだけ知っている』1
「首輪を買いに行こうか」
そんなことをいってロイは彼を買い物に連れだしたのはハボックが長期出張に行く前の休日だった。
「ぜぇったい嫌です!!」
まぁこれは当然の反応だろ。
笑えるくらいわかりやすいハボック。聞いてやる気もないが。
「でも必要だろう?」
声が笑ってしまうのは隠しようもなく、相手もからかわれていると分かっているだろうに
なぜかハボックはムキになって言い返してくる。
「必要ないです!!なんでそんな話になるんですか!」
「首輪がないと主人持ちだって分からないじゃないか。それに…」
「それに?」
「迷子札だって必要だろう?」
にやり…。
もしかしなくてもこれが言いたかったのか。この台詞に心当たりを思い出したハボックは真っ赤になった。
都会慣れしていない、というかそういうものが全く苦手なハボックは、最初にセントラルの中央司令部ど真ん中に置き去りにしたとき見事に迷子になってくれたのだ。
「それは最初の一回だけでしょうが!」
思い出したくない汚点を持ち出されて、ハボックは子供のようにへそを曲げるので自分はそういうときのいつものようにめいっぱい背伸びして頭をなでてやる。
またそんなことを。
ごまかされませんよ、なんてふてくされた声は、それもやはりいつものことで。
それでも彼はこれで宥められてしまう。
自分も相手もこれがお気に入りなのだ。
「とにかくそんなもの要りませんからね?」
「そうか?」
「そうですって。そんなん…俺がちゃんと自覚してればいいことでしょう?」
俺の主人はアンタだけだって。
そんなことを言っていたのが5日前。
出張に出たのは2日前。
「…………本当に迷子札になるとは思わなかったな…」
疲労を隠せぬ顔で、ロイ人目もはばからずは病院の廊下のソファでひっくり返っていた。
天井が黄色くすすけていて誰かの煙草を思い出させる。
ばかばかしい話だ。
『あの、どなたですか?』
思い出しても忌々しい。
むかつく。
まぁあの手の病気の常套台詞だろうが、一晩徹夜で探し回った身としては、ぶん殴りたくなっても仕方が無いだろう。
その場の医者と看護婦総出で止められたから蹴りにしたが…。
しかしあれだけではまるで足りない。等価じゃない。
どれだけ人が心配したと思っているんだ。
ロイはソファに転がって大きく伸びをしてまた黄色い天井を眺めた。
事の始まりはイーストシティだった。
セントラルに移動してきた後、イーストシティで大がかりなテロが発生したのだ。
それ自体はすでにハクロ将軍の管轄の話であってロイにもハボックにも何の関係もない。
むこうとても今更ロイの部下にたよるなど恥もいいところである。
ので事はロイの方に飛び火することは無いと思われた。しかしそれが一月二月続くと事態が変わってくる。
もちろんハクロは自分の管轄ならば自分が解決するといって聞かない状態だったが、そんな中、ハクロの隊の兵士の強引なやり方のせいで軍と地元の人間とトラブルが起こしたのだ。
当然地域に広がる険悪な空気。
最初はただの小競り合いが、単純に収まる話ににはならなくなってしまったのだ。周囲がハクロだけでは収まらないと判断した時矛先はロイに向いた。
そして要望という名の命令が届けられた。
上からの希望はロイ自身が出向き、イーストシティの慣れた部隊を擁しとっとと片を付けること。
だったが、さすがにそれはハクロの面目上後々まずいことになる。
だからイーストシティをよく知っていて、なおかつ地元の人間に顔が利き、
兵士の指揮にたけたもの、という条件で、ロイの代理にしてハクロの後押し要員として
ハボックが送られることになった。
期間は今回のテロに関与したものの逮捕、もしくは撲滅まで。
その行きの列車の中で爆発事故が起きた。
貨物部分も含めて列車半分大破。
運良く死者は今のところ少ないものの、それでも行方不明者を足すとそれなりの数に上り
重傷者多数、未だ混乱中。
ジャン・ハボック少尉…行方不明。
ロイの元に列車事故の一報が入ったのはハボックを駅で見送った3時間後だった。
とりあえず真っ先に現場に駆け込んで探して探して探して…戻ってきたもの。
ロイはポケットの中から小さな鎖を取り出す。
それは銀の光。あのとき冗談半分本気半分で買い与えたもの。
そしてたぶん、今ただ一つ自分の元に戻ってきたもの。
小さくはない銀のプレートと銀の鎖でできたシンプルな…。
裏にびっしりと刻まれたパーソナル・データ…そして…。
これのおかげでこの自分の名前もいえない男の身元確認が、ロイに来たのだからやはり買い与えてよかったのかも知れない。
さもなければごった返した負傷者の中に紛れてしまい、自分がこの男を見つけるのはもっとずっと後になってしまっただろう。
それを喜ぶ気には今はなれないが…。
「記憶喪失ね…」
まさかそんな名前だけはよく知られた病にあの男がかかることがあろうとは…。
まさか彼が自分を忘れてしまうなんて…。
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とんとん
次の日の朝、
ロイは後から合流したホークアイをつれて、病室ドアを軽くノックするとそっとそれを開け周囲に気を遣いながら病室に入った。
ハボックは怪我自体は大したことがなかったので、治療が終わった段階ですぐ大部屋に移動されている。大事故の直後で病室が足りていないとのこと。
今は6人定員のところを10人押し込んでいる状態だ。
そういう病室に、心配した家族などが駆けつけてきていて、ロイが入った時病室はちょっとした混雑の様相を呈していた。
「あ、大佐」
それでもロイは目立つのだろう。入ってすぐベッドの上に起きあがっていたハボックはロイを見つけて頭を下げてきた。
「様態はどうだ?」
「あんまかわりません」
昨日の今日ですし。そうハボックは笑う。
「?…何か思いだしたか?」
「いえそちらの方はさっぱり」
「でもまぁだいぶ顔色はよくなったな」
「おかげさまで…でこの方は?」
ハボックはロイの隣に立つ女性に興味を移す。
「ああ、紹介しなければならなかったな。リザ・ホークアイ中尉。私の副官でお前の上司にも当たる」
「リザ・ホークアイ中尉です」
「よろしくお願いします」
よく見知った中で自己紹介するとはなかなか奇妙な感覚なのだが中尉はそんなところはみじんも見せずに毅然とした態度で、そして柔らかく笑いかけた。
ハボックはその雰囲気に安堵したような表情を浮かべその手を取った。
こちらの出会いはうまくいったらしい。
ロイの方はなんせものすごい形相で駆け込んだあげくに思いっきりぶん殴りにかかるという出会いだったのでしばらく本気でハボックはおびえていたのだ。
だから今も敬遠されるだろうと思っていたのだが…。
しかし今来たときはなぜかさらりと笑顔すらみせてきた。
おかげでロイは何かを思い出せたのかと思ってしまったのだが。
今も目を合わせると昨日とは随分違った感じの笑顔をかえしてくる。
「?」
「どうかしました?」
「いや…」
「で、とりあえずこれからの話をしていいか?」
「どうぞ」
「医者にお前の様態を聞いたが、怪我の治療も問題なく熱も出ないようなので、2.3日もすれば動いてもいいそうだ」
退院自体はもう少し先になるが。
「はい」
「そして動かせるならこの病院事故のせいで今定員オーバーなので病院を変えて欲しいそうだ」
「でもどこへ…」
「だから動かせると医者に許可が出たらすぐ中央の軍病院に移す」
「セントラルですか?」
「ああ、今お前の住んでいる場所だ」
「…俺の家族とかは…」
「実家はかなりの大家族のようだな。ただここからではまるまる2日はかかる田舎だ。おまけにお前はそこから出てきて長いこと帰っていない。とりあえず今の生活基盤に近い場所がいいのではないか?」
生活基盤…最近生活していて一番思い出の多い地と言えばイーストシティなのだが
ロイは自分の目の届かないところに彼を置く気はなかった。
まぁ家族が彼を引き取りに来てそこで静養させたいなどと言われればそうさせるかも知れなかったが。とりあえず今は知らせる気も起きなかった。
「いろいろありがとうございます」
「………いや」
柔らかい笑顔に丁寧な態度。
分かっているつもりなのだがこの態度はなんとも居心地悪い。
「で、お聞きしたいことがあるんですが」
「なんだ?」
「俺セントラルに住んでいるんですよね。でそこから離れた場所で列車事故と言うことはどこかにいくはずだったのですか?」
「……私の代理でイーストシティに行く仕事があったのだが…今はブレダ…お前の同僚に行ってもらっている」
「そうなんですか…すいません」
「…………」
本当に居心地悪い。殊勝なハボックというのは…。
なんともはや別人もいいところだ。
別人…
そうだなある意味別人だ。
初めて会ったのと同じ。
ロイは思考が嫌な方向へ傾くのは必死で押しとどめなければならなかった。
このまま戻らなかったら?
ああ、首輪だなんて笑っていたあれに何の意味があるだろう。
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