水燿通信とは |
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357号『浮浪児1945――戦争が生んだ子供たち』石井光太著 |
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今回取り上げる本は、太平洋戦争で孤児になった戦争孤児のうちの浮浪児に焦点を当ててまとめられたものである。 |
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終戦直後に厚生省(現・厚生労働省)が調べた公的な記録としては、孤児は12万人、うち推定3万5千人が浮浪児となった、その多くが14歳未満以下の小中学生を主とした子供だった、ということになっている。だが5年ほどかけて浮浪児について調べた石井光太によれば、彼らの実態はほとんど記録されておらず、あたかも歴史から抹殺されたように空白のままであり、実際にはその何倍かの数がいたと思われる、という。 |
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1945年3月の東京大空襲によって、一瞬にして親兄弟姉妹、家を失い、たった独りになった子どもの多くは、かろうじて焼け残っていた上野の白い駅舎に集った。上野は地下道があって暖かく、仲間もでき、自治体の炊き出しなどもあったからだ。春になると、米軍の本土空襲が日本全国に広がり、地方の焼け出された人々や親族の安否を確認する人たちが続々と上野にやってきたが、その人たちの持ってくる食べ物にもありつけた。 |
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戦時中も厳しかった食糧事情は、敗戦後さらに急速に悪化した。しかもそれに追い打ちをかけるように、敗戦直後の9月、超大型台風が日本列島をほぼ縦断し、その結果、大正・昭和を通じて最大の凶作となり、政府が配給を段階的に減らす策をとり始めた。国民の誰もが飢餓状態に陥り他人を思いやる余裕を失い、世間の浮浪児を見る目も戦時中よりずっと厳しいものとなった。そんな中で、浮浪児は食べ物を得るため生きていくために、引ったくり、万引き、ゴミ漁り、靴磨き、モク拾いなど何でもやった。闇市が出来るとその手伝いやテキヤの使い走り、さらに担ぎ家の仕事も加わった。中には米兵士と仲良くなって基地内のPXに連れて行ってもらい、そこで買った上質で安い品物を闇市で何倍もの価格で売って多額のお金を稼ぐものもいたりした、という。 |
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敗戦の翌年春になると、愚連隊、テキヤ、ヤクザなどによる犯罪の増加(その中には浮浪児がやったものも含まれる)や進駐軍からの圧力もあって、警察による浄化対策が始まった。浮浪児にも狩り込みという一斉収容が行なわれるようになった。だが孤児院は食糧事情が極端に悪く、職員による体罰も常態化していたので、浮浪児たちに非常に怖れられており、彼らはすぐ脱走した。 |
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浮浪児にやさしくしてくれたのはパンパン、テキヤ(当時のテキヤは今でいう暴力団とは全然違っていた)など、浮浪児と同じように戦争で辛い立場に追いやられた人たちだった。浮浪児は生きやすいところを求めて全国を移動したりもしたが、無賃乗車をしている彼らを守ったのは、戦地から戻ったばかりの復員兵だったという。一方、浮浪児が怖がったのは厚生課の役人や孤児院の職員などのほか、なんと一般の市民も含まれていたという。 |
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そんな中で心温まるのは、石綿さたよという女性が娘3人とともに、浮浪児を集めて家に連れてき住まわせたという話である。西武新宿線の都立家政というところにある「愛児の家」(最初は名前はなし)である。何年も風呂に入っていなかったような子どもたち、シラミだらけの子どもたちを風呂に入れて着換えさせ、食べ物を与えて住まわせる、それだけでも大変だったろうに、さたよは風呂から出た子にまず腹いっぱいご飯を食べさせた、子供にとって一番重要なことは満腹感を得られることだ、ということを信じていたからという。食糧事情の極めて悪い時期だったが、さたよは子どもたちの気持ちを満たすように工夫して食事を用意し、また子どもたちを収容するという意識はなく、子どもたちに愛情を傾けて接したので、ここに住む子どもはたちまち多数になった。さたよの資金面での苦労は計り知れなかったが、国からの補助は無きに等しく、逆に1948年に児童福祉法が施行されると、愛児の家の収容人員が制限を越えるということで、この家を慕っている子どもの何人かは他の施設に行かなければならなくなるという事態まで起きた。国が法を楯に実情に目を向けずにとったこの処置の非情さ、理不尽さには、思わず怒りが込み上げてくる。 |
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終章である第5章では「六十余年の後」と題して、老年に達した元浮浪児たちの話を紹介している。「彼らが過ごしたのは戦後復興から高度経済成長を経てバブル崩壊に至る、まさに日本の激動期だったはずだ」(本著からの引用。以下同じ)。そんな時代を元浮浪児たちは様々な人生を辿って老年になったわけだが、彼らの話には共通していることがある。彼らは一様に浮浪児時代を懐かしがっているのだが、にも拘らずその後の人生で浮浪児だったことをひた隠しにしている人が大半だということだ。元浮浪児ということに対する世間の偏見が、長く執拗に続いたことを示しているといえる。 |
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注目すべきは、元浮浪児のいずれもが新しい時代に対して落胆しているようだということだ。上野で、自分たちはがむしゃらに生きた、生きるためのむき出しの人生があった、だが今の日本にはがむしゃらに生きる姿を見かけることがほとんど無くなった、そう感じているようだ。著者は、「愛児の家」で示された浮浪児たちが食事をする古い写真をみながら、「この写真に写っている人たちが戦後がむしゃらになって築き上げてきたものを、私たちは享受しているのだ。だとしたらそれを少しでもより良い形に変えていくのが私たちに課された役割ではないか」と述べている。 |
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本著を読みながら、浮浪児を単なる悪と決めつけず、彼らの体験の苛酷さやそれによって病んでしまった精神など、彼らの心の闇にまで目を向ける施設や施策があったら、その後の彼らの人生もよき方に大きく変わっていただろうにと思うことがしばしばあった。おそらく、それを求めるには当時の日本の社会はあまりにも余裕を失っていたのだろう。 |
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石井光太はあとがきで「二十代の頃から、私はアジアや中東やアフリカの貧しい国々を回りながら、貧困や紛争や犯罪といったものを調べてルポルタージュを著してきた。(略)だが二十一世紀に入ってしばらくすると、(略)急速な経済成長によって新興都市は(略)わずか数年前の荒廃した街並みが嘘のように、ネオンに彩られた未来都市に生まれ変わったのである。各国の行政がこの時代の変化を受けて行ったのが、街の浄化政策だった。その一つがストリートチルドレンの排除だ」と述べている。つまり、新興国のどの政府も社会の大きな問題に蓋をして、うわべだけを飾り立てているようだというわけである。次いで著者は以下のように述べている。 |
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日本の政府は今の新興国と同じように彼らを町からも記録からも抹殺して、新しくきらびやかな町をつくり上げていった。それが今の上野であり、新宿であり、丸の内であり、そして東京なのだ。 |
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著者が浮浪児について調べて見ようと思い立った理由には、このことがある。昭和52年(1977)生まれで太平洋戦争のことはまったく知らない世代である石井がこのような課題に取り組んだ姿勢には、戦争の記憶を有する人たちがごく少数になった現在、大変貴重で高く評価すべきものと思う。 |
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また、引用部分を目にして、私は宇多喜代子の『ひとたばの手紙から』の中にあった「四巻にものぼる『大東亜戦争全史』に女性に関する記事が一ページもない」というくだりを思い出した(354号)。私たちが学校で習う歴史や報道されることは、時の政府によって抹殺されたり歪曲されたりすることがあることを、改めて思った。 |
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真実は、与えられるものを漫然と信じていては得られない、我々ひとりひとりが自ら行動して、何が真実なのか知る努力を常にしなければならないのだということを痛感した。 |
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私の大学時代のクラスメイトに1944年に上野駅のすぐ近く、戸籍では「下谷區上車坂町」で生まれそこで育った人がいる。友人に戦争そのものの記憶はもちろんないが、生まれた場所柄、敗戦後の駅周辺の惨状を見続けてきたという。友人は便りで書いている。 |
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・・・敗戦後の駅周辺の惨状を私も見続けてきました。現在も。「戦後○○年」と耳にする度に、あの“浮浪児”達はその後どうしたか、と常に忘れることはありませんでした。(この本は)朝日新聞一面の下段に出版の公告が出たので、即、読みました。教壇に立った当時も、折あれば、子ども達に状況を話したものです。夏の夜、余ったそうめんを祖母と共に裏まで届けに付いていったこともありました。木製の(コンクリート製のごみ箱の)ふたが夜の間になくなるとこぼしていました。暖をとるために燃やしたのです。戦前からの思想から両親は決してアメヤ横丁に足を踏み入れませんでした。暮れには、家族でひと足先の松坂屋デパートに行きました。・・・ |
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本著は、この友人が送ってくれたものである。良書、読むべき本を紹介してくれた友人に感謝したいと思う。 |
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(2016年10月10日発行) |
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発行人 根本啓子 |