水燿通信とは
目次

331号

人間と自然は一体

黛執の書簡から

 当通信326号「亡き母が恋しい」では、『俳句界』に載った黛執氏の俳句を取り上げて、私の亡母の憶い出を語ってみた。
 この号の内容は極めてプライベートなものであり、きちんとした鑑賞文とは言いがたいものだったので、黛氏に送るべきかどうか迷ったが、結局お送りした。
 ところが、すぐに丁寧な返事が氏の句集『煤柱』と共に届き、少なからず驚き恐縮しつつ、嬉しくなった。
 『煤柱』を読んでみると、実に懐かしい感じの句、望郷の念に駆られるような作品がたくさんある。その思いをどうしても氏に伝えたくて、同句集の感想を兼ねて返事を差し上げた。するとまたまた、黛氏から書簡が届いた。その中には、俳句というものを味わったり考えたりする上で参考になること、特に氏の作品を理解するために心に留めておきたい大切なことが認められてあった。
 そこで、今回は黛執氏の了解を得て、この手紙のやりとりを公表したいと思う。最初に差出人と日付けを記し、書簡の中のその部分は省略した。
(黛執→根本啓子 5月1日)
 冠省。「水燿通信」ありがとう存じました。「俳句界」誌上の拙句をお採り上げ下さり、かつ達意のご解釈・ご鑑賞をたまわり、ありがとう存じました。
 作句はなさらないということですが、句の解釈・理解にはとてもそうは思えない鋭さ・深さがあり、敬服いたしました。
 ご自分の母上への思いと重ね合わせたご文章は、それでいながら私の作句意図から逸脱してはおりません。私にとっても、大変嬉しく有難いものです。お目に止めて下さり、厚く御礼申し上げます。大切に保存させていただきます。
 同封の句集『煤柱』は、昨冬刊行の私の第6句集です。お時間がありましたら、お目通しいただければ嬉しく存じます。ご返書にはおよびません。
 早くも新緑の季節となりました。ご健筆をお祈り申し上げます。ご厚礼まで。
(根本啓子→黛執 6月1日)
 過日、「水燿通信」326号「亡き母が恋しい」をお送りした際には、ご丁寧なお返事と句集『煤柱』をお送りくださいまして、まことにありがとうございました。この通信をお送りした際に添えた書状でも申しあげましたように、きわめて個人的な憶い出話が中心のきちんとした鑑賞文とはいえない内容でしたので、読んでいただけるかどうかも危ぶんでおりましたのに、早速のお便りを頂き、大変恐縮しつつ本当にうれしく思いました。
 実は黛様の俳句は、以前にも取りあげたことがございます。母が亡くなって1年経ったとき、母の憶い出をまとめたのですが、その文に〈ぐんぐんと山が濃くなる帰省かな〉の上五七をいただき、「ぐんぐんと山が濃くなる」というタイトルをつけたのです。
 山形県内陸部の田舎に生まれ育ち、東京の大学に入った私にとって、帰省する時の私の思いは、この句に表現されたものそのままでした。以来、この句を愛誦しております。
 ただ、正直なところ、神奈川県に住んでおられる――しかも湯河原などという華やかなイメージのあるところにお住まいの――方が、今では私の故郷ですら味わえなくなった懐かしさを有する作品の作者であることが、とても不思議でした。山形の田舎に育った私にとっては、神奈川は東京とさほど変わらない都会地のイメージだったからです(田舎者の無知をお笑い下さい)。句集『煤柱』を拝読して、その思いをますます強くしたところです。
 近代化といったものは、周辺部ほど過激に現われるとよく言われますが、私の故郷などさしずめその典型なのではないかと思われます。高度成長期の波に乗って、故郷は短期間のうちに驚くほど大きく変貌しました。田んぼの真ん中や鬱蒼とした神社を断ち切るようにして道路が造られ、夏には毎日のように泳いだ川は護岸工事で様相を一変し、山は削り取られ、そして人々の生活は急速に便利で豊かなものになっていきました。高度成長期の直前に故郷を離れた私にとって、故郷の懐かしい景色の多くは失われ、私の記憶の中だけになってしまいました。
 ところが『煤柱』を拝見して、もう故郷では失われてしまったような懐かしい情景がいくつも浮かんでくるような思いにかられたのです。
 余生をずっと憧れていた奈良で過ごすべく、二年前に東京から移住しました。病気を持つ身であり、年齢的なこともあり、もう故郷に帰ることはないでしょう。それだけに望郷の念はますます募る感じです。そんな私にとって、『煤柱』は故郷を偲ぶよすがとして大切なものとなっていくことと思います。
 句集中、特に魅かれたもの、好きなものをいくつか選んでみました。懐かしさを感じさせるもののほかに、自然をはじめ周囲の人、ものに対する作者のあたたかいまなざしを感じさせられるものや柩を詠んだものなどに、心に響くものが多かったように思います。作者の人間としてのやさしさの表われでしょう。
立春の村を見てゐる村はづれ
〈村はづれ〉がいい。村に対する深いいとおしみが感じられます。
草萌のわけても濃きに置く柩
死者に対する敬意とやさしさのある句。〈霞濃き山へ屍を埋めに行く〉〈ぎつしりと朧を詰めて柩発つ〉〈かがやいて柩が通る春の泥〉〉の三句も同様に感じられます。
蛇穴を出てうつとりと日の中に
蛇すらもいとおしい。
田を植ゑて一村ふかき黙の中
農作業の重要な一段階を終えて、束の間の安堵と休息に浸っている村、人々の深い寝息すらも聴こえてくるようです。
田の闇を抜けて踊りの灯の中に
故郷でも、盆踊りなどに行く途中は、いつも真っ暗でした。
葛咲いて日ごと濃くなる風の音
風に対して敏感な感性に魅かれます。静かな環境の生活でなくては育まれない繊細な感性です。〈さむざむと風鳴つてをり夢のあと〉〈夜咄のいつも遠くに風の音〉なども、都市部に住んでいては感じることの出来ないものでしょう。
梟のきまつて夢を見る頃に
梟と夢のとりあわせがいい。情景が豊かに広がります。
雪くるぞ来るぞくるぞと火が真つ赤
やつと決まりし餅臼の据ゑどころ
故郷では、私の小さい頃はどこの家でも餅つきが年末の行事の一つでした。
縁側といふ草餅の置きどころ
このような懐かしい情景がまだあるなんて!〈暮れかねてゐる縁側の湯呑みかな〉にも似たような懐かしさがあります。
朴の花しづかに高く一つかな
朴の花は、人間に見られることなど念頭にないといった感じで、殊更のように人から見えにくいところに咲きます。なのにあくまでも美しい。どこか高貴さを感じさせ、孤高という言葉がふさわしいような花ですね。
秋風の見えてくるなり水の上
繊細な感性を活かした巧みさのある作品だと思います。
こほろぎの鳴いて夕べの風が吹く
学生の頃は、休暇になるとすぐ実家に帰ったものです。夕方、湯舟に浸っていると、近くでよく虫の音が聞こえてきました。そんなことを思い出しました。
雪の夜は遠いむかしを語らうよ
外厠まで踏んでゆく霜柱
わが家もずっと外厠でした。雪深い土地でしたので、冬は降り積もった雪の間に細く踏み固められたところを通って行ったものです。当時はこんなものだと思っていました。
枯れきりし色に野末の仏らも
なんてやさしいまなざしなのでしょう。
あたたかし藁家に雪の積む夜は
雪に埋もれてしまった家、雪にあまり縁のない地方で育った人には、いかにも寒い景色に感じられることでしょう。でも本当は、雪に囲まれた住まいというのは案外暖かいものなのです。そんなことを思い出しました。
春風のさてどの橋を渡らうか
作者の心躍りが感じられます。橋を詠みこんだ作品はあの世を感じさせられるようなものが多く、だから私は好きなのですが、でもこういった軽やかなあたたかい句もいいですね。
登校も下校も萌ゆる畦踏んで
小学校に行く時は何時もこんな具合でした。
大いなる夕日の中へ遍路消ゆ
ちょっと美し過ぎて、何か切なくなるような感じです。
余生とや滴る山に囲まれて
今の私のことのようです。老いも余生も豊かな自然の中にしっくりと溶け合い、老いて生きることもこよなく肯定されている感じがします。
ひたすらに西日をめざす柩あり
西と柩の取り合わせがすばらしい。死後をも含む広い世界を感じさせられます。
 このたびは、ご丁寧なお便りと句集『煤柱』、本当にありがとうございました。これからも、どうぞますますご健吟下さいますように、心からお祈りしております。 かしこ
(黛執→根本啓子 6月5日)
 冠省。ご懇篤なお手紙ありがとう存じました。
 拙句集『煤柱』をご丁寧にお読み下さり、嬉しきかぎりです。その上、沢山の句を抽いていただき、ご好意あふれるご評文をたまわり、厚く御礼申し上げます。
 ご指摘の通り、私の俳句は、東北の農村地帯ですら今は見られなくなったような懐旧性の強い田園風景を題材にした作品が多くあります。むろん、私の住んでいる湯河原町にも、今はそんな風景はありません。
 私はこの町の商家の生まれですが、両親はともに農家の出身で、とりわけ母の生家はこの町の農家で、私が三十歳ごろまでは藁葺きでした。幼いころ、商いが忙しかったりすると、私はよくこの母の実家に預けられました。四歳の頃だったでしょうか、父が長患いをした折には半年ほどこの家で過ごしました。あの囲炉裏の独特の火の香、煤梁の香、饐えたような土間の匂い、堅い木綿布団の感触、怖かった夜の外厠などは、原風景として今なお私の胸裏に焼き付いています。そして何よりも私の中には農民の血が受け継がれているのでしょう。どういうわけか、田園風景のたまらない郷愁と愛着を覚えるのです。
 飯田龍太先生がかつて私の俳句について「どの句も素材の新古に顧慮していない。強いていえば、昔あっても今も在るもの、そう感じたものはすべて眼前の素材であると。かつまた『今も在るもの』は作者の胸中を含む。」と書かれたことがありますが、この一文にすべてが言い尽くされていると思います。
 どうやら私の俳句は“原風景への回帰”にあるようです。さらにいえば、回帰を通して“懐かしさ”を描きたいのかも知れません。もっといえば、“懐かしさ”を通して、時代が失ってしまった大切なものを忘れてはならないことを訴えたいのかも知れません。
 私は二十代後半から四十代後半へかけて郷土の自然保護運動に熱中したことがあります。観光開発のために郷土の自然や田園が失われ、あるいは汚染、変容させられていくことに我慢がならなかったからです。自然の恩恵によって人間は生かされ、人間と自然は一体であると確信しているからです。このことも私の俳句に少なからず影響しているように思います。ちなみに私たちの俳句結社「春野」の掲げる俳句指標は「自然と人間の関りを見つめる」です。
 あなたのお手紙は私のそんな思いを全て掴みとって下さっていました。「故郷を偲ぶよすがとして大切に」というあなたのお言葉は私にとって何よりも嬉しいものです。
 ありがとう存じました。
*『春野』は平成5年、黛執が神奈川で創刊した結社。師系は安住敦。なお、黛氏は『晨』(俳句を日本文化の広い視野からとらえ、実作面の修練と向上をめざす同人誌)の同人でもある。
*『俳句』2014年7月号、特集「現代の俳人100」で、黛執句集『煤柱』が取り上げられている。その中で黛氏は「二人の師」と題して、次のように語っている。
 昭和三十八年ふとした機縁で五所平之助(映画作家、俳人)を知り、彼を指導者とする句会が出来た。五所の俳句指導の要諦は@俳句は美しくなければならない、A俳句は見えなければならない、B俳句は平明でなければならない、であった。この教えは私の中に作句信条として浸み込んでいる。
 丸二年後、五所の勧めで安住敦の『春燈』に入った。安住からは多くのことを学んだが、中でも「花鳥とともに人間が居、風景のうしろに人間が居なければつまらない」という自然と人間の一体論は、私の俳句の以後の方向を決定づけた。
(2014年10月10日発行)

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発行人 根本啓子