水燿通信とは
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326号

亡き母が恋しい

 5月は母の亡くなった月である。母は今から6年前に死去した。
 子どものころの私は健康で手のかからない子だったようだが、長じてからはお世辞にも良い娘とはいえなかった。入学したばかりの大学はすぐ辞めるし、入りなおした大学も卒業後すぐには就職しなかった。結婚も親の意に染まないものだった。何かにつけ、反抗的な娘だったのだ。そして揚句は不治の病いにかかり、その後ずっと心配させることになった。
 母の亡くなる前後、私は病気に加えて大きな怪我を続けて2回やったこともあって体調が殊の外悪く、見舞いはおろか臨終に駆けつけることも出来ず、葬儀にも納骨にもあらゆる法事にも出席できなかった。その後もずっと帰郷は叶わず、墓参りも未だに果していない有様だ。
 母は89歳という長寿を全うし、長く寝つくこともなく逝った。だから、母の介護など到底できる体ではなかった私は、母の死の直後は一種の安堵の気持ちがあったことは否めない。なのに、ここ2〜3年、母がひどく恋しい。もっとやさしくしてやりたかった、母の喜ぶようなことをしたかった、そんな後悔の念、「もうお母さんはいないのだ」という喪失感ばかりを抱いている。
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 『俳句界』2013年11月号では「俳句版『ヨイトマケの唄』〜母恋、子恋の句」を特集し、数人の俳人の作品と短い文を載せている。そのなかの黛執「妣の国」というのに私は注目した。
 そこに書かれた文によると、黛は母と同居していたにもかかわらず、心筋梗塞による急死だったため、家族が気づいた時は母親はすでにこと切れていたという。彼は「今はの際の母を抱くことはおろか、声すらかけてやれなかった自分を、私は責めつづけ」声をあげて泣いたという。“俳句は「客観詩」”ときめこんでいた作者は、生前の母を詠ったこともなく、そのことも悔やまれた。
 だから私の母の句は、全て死後に詠んだものばかりである。いずれの句にも悔恨と謝罪と母恋いの思いがおのずからこもっているようだ。そして、回想の中の母は、加齢と共にますます美化を強めているようである。
 黛執は私と違って母思いのやさしい息子だったようだが、このような理由から「妣の国」の作品は今の私の心情に響いたのだと思う。それらの中からいくつかを選び、それらを味わいながら、自分の母の思い出を語ってみたくなった。
母おもへよと遥かより木莵のこゑ
 私の母の句に〈初郭公遠い思い出背負ってくる〉というのがある。拙いものであるが、確かに郭公の鳴き声には、私たちに遠い日々のことを想い起こさせるようなところがある。そして他の鳥、とくにフクロウ科の鳥などにも、その鳴き声は私たちに特別の思いを抱かせるものが少なくない。
 木菟(みみずく、ずく、大木の葉木菟ともいう)は、低い山や平地の森林にある樹の洞などに住む。夜間、淋しい無気味な声で鳴く。四季を通じているが、声の感じから俳句では冬の季語とされている。
 遠くで大木葉木莵が鳴いている。まるで母のことを思えと言っているようだ。でもこの声は亡き母のようにも感じられないだろうか。息子恋しさに鳴いているのかもしれない、そんな気がするのだ。母子の交感の唄のようにも感じられる、深い味わいの作品である。
てふてふに囲まれてをり野良の母
 実家は農家ではなかったが、相応の田畑を有しており、他家に頼んで耕してもらっていた。ところが農家から嫁が来たというので、当時絶対的な権力を持っていた祖父が、母に田んぼをやるように命じた。やらせてみると結構やる。そこで次々と貸していた土地を取り戻しては母がやることになった。家には母のほかは土をいじったことのない人間ばかりだったから、母はたった独りでやることになった。専業農家では男衆がやるようなことまで母はやった。実に働き者で、「山のかあちゃん(註)はもう働きに出ている」と近所でも噂になるほどだったという。夕食後、母はよく私たち姉妹(女ばかり5人の姉妹だった)がおしゃべりしているところに来ては一緒に話に加わろうとしたが、いつもすぐにこっくりこっくりし出し、娘たちに笑われた。つまり、それ程疲れていたというわけだ。
 母は後年「田んぼで働くのは嫌ではなかったが、お父さんと一緒にやりたかった」と漏らしたことがある。だが、父が田んぼで働くことは全くなかった。おそらく父は、田んぼがどこにあるのかすら知らなかったのではないか。
 さて〈てふてふ〉の句、田んぼで働く母親のまわりには蝶々が舞っているというのだが、どうも現実の景という感じがしない。蝶に死者の霊魂を見る考えがあり、また
  〈人体に蝶のあつまる涅槃かな 柿本多映〉
という句もあるように、蝶々に囲まれているというのはつまり生きている人間ではないということだ。そしてこの句も紛れもなく亡くなった母親を想って詠っている。
 この句に接すると、あの世での母の姿が浮かび「お母さんもあの世に行ってやっと、美しい姿で余裕を持って働けるようになったんだな」と思う。美しい句だが、切ない。
(註)故郷では大きな森のことを山と呼ぶことがあり、神社の杉林(規模は森と呼んでもいい程だ)を背負っているわが家は「山の家」と呼ばれていた。
夕焼といへば呼ばはる母の声
 わが家の隣には神社があり、そのまわりを杉林が囲んでいた。かなりの大木が多かったため、遠くからでもこの神社の位置はわかった。私の子どものころ、神社は子どもたちの格好の遊び場で、そこでみんな夕方まで遊び呆けたものだ。夕方になるとよく、母が呼びに来た。わが家は田舎家だったので大きく、しかも祖母はかなり耳が遠かったから、我が家の人間はみんな大声でしゃべったものだ。私を呼ぶ時も、母は遠くから大声で呼んだっけなあ。
 掲句は違った情景を表現しているのだが、私にはこんな記憶がよみがえった。
陽炎と睦んでをりぬ土手の母
 実家の裏から神社の杉林を抜けていくと、その先にローカル線が走っており、その土手沿いに農家の人たちが田んぼに行く時に通る径があった。神社を囲む一帯はやや高台になっていて、ローカル線は地面を掘って敷設してあり、列車の上部は線路の両側の地面とすれすれの高さだった。線路の向こう、南側は、戦時中、松根油をとる為に杉の木はすべて伐採され畑になっていたから、その径は日当たりがとてもよかった。私たち子どもはそこに筵を敷いておしゃべりをしたりままごとをしたりして、よく遊んだものだ。田んぼに行く農家の人たちは、いつも子どもたちに声をかけたりした。そこからはなだらかな山容の月山もよく見通せた。春の日などはぽかぽかと暖かくて気持ちよく、とろとろと眠くなったりすることも多かった。
 そんな幼い頃の自分の姿が、陽炎と睦んでいる母の姿と一瞬オーバーラップする。これは母の幼い頃の姿なのだろうか。いや、やはりあの世での母の姿なのではないか。そう気がつくと、現世での母の不在が改めて思われ、喪失感が私を襲う。
夕焼を剥がさば妣の国現れむ
 亡くなった人は一体どこに居るのだろうか。子どもなら「お星さまになった」と言うかもしれない。西の海はるか彼方にあるという浄土に居ると考える人もいるかもしれない。クリスチャンなら「主の御許に」と言うのだろうか。
 黛執は、亡くなった母親(妣)の居る世界は、夕焼けの空を剥がすとあるのではと考えた。真っ赤な夕焼けの向うに、天国のようなところでもあると考えたのだろうか。だが〈剥がす〉という行為は、やさしさなどのまるでない荒々しい仕種だ。
 見事な夕焼けというものは、その中に凶々しさを蔵しているように感じるのは、私だけだろうか。夕焼けを剥がしたら……楽園のような明るく穏やかな世界が広がっているようには到底思えない。どんな世界だろうか。もしかしたら漆黒の世界ではないのか。それでも、この句の作者は母に会いたいという想いの激しさから、そんな不可能な狂おしいようなことをしたいという思いに、一瞬かられる。その狂気に満ちた激しさもまた母恋ゆえであり、なんとも切なくつらくなってしまう。
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 去年、私は同郷出身の写真家鬼海弘雄のエッセイ集『眼と風の記憶』の書評をまとめたが、それがきっかけとなって地元の図書館に通信を送ることになった。さらに故郷の古刹の歴史をまとめた『みちのく慈恩寺の歴史』の書評を書く機会を与えられた。この書評が、通信よりかなり短い形ながら地元山形新聞に載った。そのこと自体はさしたることではない。しかし、母が生きていたらとても喜んでくれただろうと思う。
 今の私は、少しは母の喜ぶことが出来たと、いささか幸せである。
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〈『やまがた「方言」歳時記』から〉
ナダマギ
 端午の節句には、菖蒲や蓬を家の軒先にさして、笹巻きやナダマギで祝うのが当地の行事でした。笹巻きは餅米を笹に包んで蒸したもので、ナダマギは長円錐形の甘いゆべしのような菓子をさします。
ナダマギの作り方
 餅米粉と屑米粉を半々の割合にし、くるみを刻みこんで、まんべんなく混ぜ合わせます。そして、砂糖・醤油・塩を煮溶かした汁でていねいにこねあげます。これをちぎって長円錐形に丸め、笹で包み、くぐ糸で結び、五個ずつ束ねて蒸すか煮るかします。ナダマギは、笹に包んであるので日もちします。ですから、昔三山参りをする御行様は、笹巻きとナダマギを持って行ったといわれます。
 粽をナダマギと言うのは山形県だけです。全国的にはマキやササマキが多く、日本海側に多く分布しています。粽は茅で巻いたものですし、ササマキは笹で巻いたものですから、巻く材料に由来します。これに対してクジラモチやナダマギは、その形に由来しています。木を切る鉈と形が似ていることから、名づけたのでしょう。
 京都の祇園祭では、長円錐形の「鉾の粽」を供えますが、ナダマギも護符といっしょに、紅花商人たちがこの地にもたらした文化なのです。京の鉾に対比させて刃物の鉈をもち出すあたり、江戸趣味が今に生き続けているのです。「恋知らぬ女の粽不形なり」という鬼貫の句からも江戸前期の京阪の粽の形がわかります、四角いのは最近の流行です。なお、京阪では男児の初節句には親族に粽を配り、二年以降は柏餅を贈ったといいます。
(2014年5月6日発行)

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発行人 根本啓子