| 水燿通信とは |
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304号父も母もいた頃「月山ありて」補遺 |
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| 私は、かつて「月山ありて――母の句に故郷を読む」というまとまった長さの文をまとめたことがある。母の俳句を題材にして、私の故郷での思い出を綴ったものだ。先日、書類の整理をしていたら、その時の元原稿が出てきた。興味のある句は大抵「月山ありて」で取り上げられているのだが、母が細々と書いてくれた句に対するメモをみながら、その補遺のような文をまとめたくなった。 |
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| 故郷を離れてもう半世紀も経ち、父も母も家を継いでいた姉もすでに亡く、故郷の人々の生活も大きく変貌した。また昨年の福島原発事故で、豊かな自然も手放しでは楽しめない感じになった。私にとって、故郷はもはや遠い記憶の中だけのものとなってしまっている。母の書いたメモを読みながら、何でもない挿話のひとつひとつがなつかしく、拙い句ではあるが取り上げて少し思い出話をしてみようと思う。 |
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| 父の日の徳利一本増えただけ |
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| 今日は父の日、だが離れて住む娘たちからは何もない。ほんの1カ月前の母の日には自分がたっぷりうれしい思いをさせてもらったばかりでもあり、母は父に気を遣って、さりげなくお銚子を1本ふやしたのだろう。 |
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| 「母の日には色々とプレゼントが届いたが、それに比べると父の日は寂しいことが多かった」と母は言う。そう言われてみると、私自身、母の日には必ず何がしかの物を贈ったが、父の日となると1、2度くらいしかそんなことをした記憶がない。 |
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| これはわが家の場合だけでなく、多くの家庭で見られることのような気がする。いつだったか、新聞に父の日に関する記事が載っていたが、父親にあまりプレゼントをしない理由として、高くつくことと、喜びを素直に表してくれないということがあったように記憶している。確かに私にも思い当たる節がある。母はささやかな贈りものでもとてもよろこんで、かならず「ありがとう」と言ってくれたが、父のほうは気にいってくれたのかどうか、うれしかったのかどうか、何も反応のないことが多かった。 |
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| 私は父の元気な時分から、手紙はいつも母にばかり書いていた。父宛のものは、学生時代なら授業料のことなどお金に関するものや、結婚後なら子どもの誕生祝いのお返し、といった謂わば公的な内容のものばかりだった。 |
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| そんなある日“これじゃ、お父さんはさみしいんじゃないかしら”とふと思った。そこでそれからというもの、封筒の表書きには父と母の名前を連記して出すようにし、内容も父にも楽しめるものになるように気を配った。しかし、父がそれに気がついたのか否か、返事は相変わらず母からばかりであった。結局、私は1年ほどそれを続けた後、また母だけに宛てて書くようになってしまった。 |
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| 一先づは西瓜を置いて挨拶す |
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| 炎天下、重たい西瓜を持って歩いてきて、ようやく訪問先の家に着いた。とにかくこの重たい土産を置いて楽になりたい、そんな気持ちで挨拶もそこそこに上がり口に西瓜を置いたのだろう。外の暑さと大きな西瓜がありありと浮かぶ。 |
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| 西瓜といえば、大振りのものを多人数で食べるのが断然うまい。子どもの頃のわが家は大家族だったから、よく冷えた大きな西瓜を家族と共に食べたものだが、実に美味しくすぐに無くなった。 |
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| 家を離れてからは、そういったダイナミックな食べ方は滅多にできなくなった。昨今は小家族用に小さく切ったものや小玉西瓜なども見かけるが、そういったものを時に買って来ても、単に食欲を満たすだけ、西瓜を食べるのにともなう重要な要件が欠けているという感じがして、なにかしらとてもつまらない。小さい頃食べた西瓜のおいしさ、楽しさには遠く及ばないのだ。 |
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| 私の生まれ育ったところは純農村といった土地柄で、果物はかんきつ類を除けば何でも獲れた。我が家は農家ではなかったが、近所の農家からしょっちゅう果物や野菜をもらっていたので、これらに不自由することなどなかった。持ってきてくれる量がとにかくすごかった。りんご、桃などお盆に一山といった感じで持ってくるのだ。しかももぎたての新鮮なもの。だから、果物など高価なものを大事に食べるなどという感覚はまるでなく、りんごなど一口食べてあまり美味しくないと平気で放り投げたりしたし、桜桃(さくらんぼ)などはどんぶりに山盛りにして食べたものだ。故郷を離れてすでに半世紀も経っているのに、私は未だにあの頃の感覚がなくならず、果物にお金をかけるのがとても勿体ないと思ってしまう。りんごなど、柔らかい敷物の上に置かれ1個何百円なんて値段がついていると、「りんご風情が何を気取っているの?」と腹が立ってしまう。 |
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| 故郷では今でもお互い、自分のところで獲れた果物や野菜を、気前よくあげたりもらったりしているのだろうか。 |
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| ひとにぎり足して米研ぐ秋立つ日 |
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| 夏は暑さでどうしても食欲がなくなるものだが、秋の声を聞く頃になると徐々に食欲も出てくるようになる。ご飯もおいしくなる。米を研ぐときもつい、もうひとにぎり増やそうかということになる。 |
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| 故郷の家で食べたご飯はとにかくおいしかった。米の質が云々というよりも、大量に炊く、農薬などあまり使わない時代の米だったといった好条件だけでなく、水がよかったのだと思う。私が故郷にいる頃は、我が家では井戸水を使っていたのだが、これが近所でも評判のおいしい水で(周囲のどの家でも井戸だったのだが)、夏などすぐそばを通る国鉄(当時)のローカル線の工事をやっている人たちが、よく我が家に水をもらいに来たほどだ。 |
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| 大学に入った当初、東京で口にするご飯のまずさには閉口した。信じられないくらい不味かった。そこで一計を案じて、家からお米を送ってもらい、自分で炊いてそれを持参し、おかずだけ生協の食堂で注文した(おかずの方は特に不満がなかったのだ)。ひとり用の少量を炊いたものだし、大体東京の水道水を使っているのだから(ミネラルウォーターなどが出てくるのはずっと後だ)たいしておいしいものではなかったが、それでも生協食堂などでのご飯よりはずっとましだった。 |
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| 大学時代、私はいつも大きなバッグを持ち歩いた。講義で使う本やノートのほかに、自分で炊いたご飯と、それに座布団まで入れていたからだ。大学の教室は固い1枚の長板の椅子で、講義を受けるためには長い場合にはこれに2時間近く座っていなければならず、私には痛くてとても耐えられなかった。そこで古くなった毛布を数枚小さく切りそれらをカバーに入れて、あまりかさばらない座布団を作ったのである。「○○さんはご飯だけの弁当と座布団をいつも持ち歩く」とまわりの学生たちに笑われたりしたが、私にしてみればまずいご飯を食べたり、固い椅子に長時間がまんして座っているよりはずっとましだと思った。 |
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| 大学に入ってから3年までは、私は夏休みになるとすぐ帰省した(4年時に初めて卒論のために東京で夏を過ごした)。天井の高い大きな田舎家で育った私には、東京の暑さはとても耐えられないものだったからである。故郷では母が待ち構えていて「何喰(く)だい?」(何食べたい?)を連発した。しかし刺身もすき焼きも(どちらも田舎ではご馳走だった)私には全く興味なかった。それより、とにかく白くてピカピカ光る粘りのあるご飯と母の作った茄子漬けが食べたかった。山形では漬物用の小振りの茄子が出回っており、これを朝漬けて夕方食べる浅漬けが実にうまいのだ。小さいころはこの茄子漬けの中をくりぬいてその中にご飯をつめ、お握り感覚で食べたりもした。茄子の皮についた塩加減がなんともよく、とてもおいしかった。東京に住むようになってからも、この茄子漬けがとても恋しくて自分で何度も挑戦してみた。でも東京では小振りの茄子自体がなかなか手に入らないし、時に見つけても皮の固さや中味の感じが微妙に違い、故郷で食べたあの茄子漬のようには、どうしてもならなかった。 |
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| 新鮮な小茄子は洗うと快い音を出して水をはじいた。母には〈初茄子や水こきこきとはじけけり〉といった句もある。母も死去し、もうあの茄子漬けを食べることはできなくなった。 |
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| 休肝日やたら秋刀魚の皿つつく |
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| 今日はアルコール無しの日にしようと決心した日の夕餉の父の様子。いつもあるはずのコップがなくて手持ち無沙汰なのだろうか、やたらと皿の秋刀魚を突っついている。いつもはうるさく「その位にしたら」と言っている母だが、こんな様子を見るとかわいそうになり「1本持ってこようかな」などと思い始めているのでは……、のんべえの夫を持つ私は、ふとそんなことを想像したりしてしまう。 |
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| 父は大の酒好きだったが、ある時期から糖尿病のためアルコール類はビールだけにするようになった。といってもアルコールにはかわりないから、杯を重ねると母はつい「もう止めたら」と言ったものだ。そんな時、父は決まって「俺の身体は俺が一番わかっている」などと根拠のない強がりを言って、一向に止めようとしなかった。母は心から父の体を心配して言っていたのかもしれないが、傍らで見ていると、この2人のやりとりは言い争っているようで、その実けっこう楽しんでいる風情もあった。 |
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| 母は、父のビールのおつまみによく、数の子と青豆を和えた1品を出した。こりこりといい歯ごたえがして、ビールのおいしさは倍増するのだという。「祖父ちゃんと違(つが)て、お父さんは贅沢も言(や)ねでこだな物で我慢してけだ」(祖父ちゃんと違ってお父さんは贅沢も言わずこんなもので我慢してくれた)と母は言う。数の子がとても安く手に入った頃の話である。 |
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| 父の酒はくどくなる訳でも暴れるわけでもなく、ちょっと愉快になるだけのいたっていいものだったこともあり、父亡き後は、母の思い出の中では父はどんどん良い夫になり、話の最後には「もっと飲ませてやりたかった」に落ち着く。そしてこんな句を作ったりしている。 |
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| 数の子を噛めば恋しき亡夫思う |
| 陰膳にビールも添えて寧らげり |
| よき笑顔遺して逝けり二月尽 |
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| ちちははも夫娘も仏秋彼岸 |
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| 齢を重ねていつしか老いて、父親も母親も夫もさらに娘までもあの世に見送ってしまった、秋の彼岸を迎えて、そのことを母はことさらに思ったのだろう。〈夫娘〉はこの場合、「つまこ」と読むのがいいと思う。 |
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| 親を見送り夫を看取るのは、多くの妻の辿る道であろう。ただ、母のかなしさは娘を次々と死なせたことだ。 |
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| 私自身、もう両親はいない。幸い夫はまだ健在だが、最早この世であいまみえることの出来ない人がすでに幾人もいる。両親、姉妹だけでなく、友人、知人、訳あって関わりを絶った人などもいるし、親しく話すことは出来なかった人の中にも忘れられない人はいる。時に、「このことに関して、あなたは本当はどう思っていたの」と直接訊ねてみたいと思う人も幾人かいる。その人たちのいる世界がとても恋しく思われることもある。母も似たような心境になることがあったのではないだろうか。 |
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| 兄訪えば父の面影秋桜 |
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| 母の実家を継いでいる伯父夫婦が、共に高齢で健在だった頃の作品。久し振りに実家を訪れた母は、伯父があまりにも父親に似てきているのに驚き、亡き父親をしみじみ思い出したという。母の母は60歳になる直前(それは私の生まれる数カ月前だったが)に脳溢血で急逝したが、父親のほうは88歳の天寿を全うして、同居の家族に迷惑をかけることもなく静かに逝った。 |
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| どうということもない句だが、私にはこれにはちょっとした思い入れがある。 |
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| 37歳で癌で死亡した妹は、姉妹の中では私に1番似ているといわれていたが、さりとてとてもよく似ているというほどでもなかった。父の葬儀のとき、その妹の長女が葬儀に出るために山形を訪れた。彼女は私と顔を合わせた途端、一瞬言葉を失ったように私を見つめ、それから「ママに似ている!」と言った。妹が亡くなったとき、彼女は小学5年生、下の子は1年生だった。この2人の姪は、母親の居なくなった生活にうまく順応できず、色々と辛い思いをして居るということを聞かされていただけに、思い出さなくてもいいものを見せてしまったのではと心が痛んだものだ。 |
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| コスモスの風情は風のあってこそ |
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| こう詠まれて、思わず「ほんとうだな」と思った。コスモスは私も好きな花だが、全く動かないコスモスなんていかにもつまらない。高原に群生して咲いているコスモスの風に揺れる様など、想像するだけでさわやかな秋の気配が感じられ、気持ちよくなる。 |
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| 奈良の般若寺は秋桜寺として知られている。私は9月末に同寺を訪れてみたが、残念ながらコスモスはまだ咲き始めたばかりで、少しさみしい感じだった。でも思いがけず、コスモス以外の沢山の花を見ることが出来た。彼岸花、紫苑、萩、秋海棠、百日紅、そしてなんと山吹まで咲いていたのである。十三重石塔や笠塔婆を手前に置いた高く澄んだ秋の空の景や、花々に埋もれた多くの石仏を眺めてしばし過ごした。 |
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| そういえば、鈴木しづ子の作品に〈コスモスなどやさしく吹けば死ねないよ〉というすてきな句があったなあ。(263号 「今月の1句」で取り上げている) |
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| 〈今月の1首〉 |
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| わが父も母もなかりし頃よりぞ湯殿のやまに湯は湧きたまふ |
| 齋藤茂吉(歌集『ともしび』) |
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| 出羽の国(山形の旧称)では、古来、男子が元服すると出羽三山、つまり月山・湯殿山・羽黒山にお詣りする習わしがあったという。歌人齋藤茂吉(明治15〜昭和28年)も、生家で代々受け継がれてきたこの習わしに則って、15歳の時、湯殿山に参拝した。大荒れの天候の中での参拝だったらしい。茂吉は後年、この時の様子を次のように述べている。 |
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| 豪雨が全山を撫でて降つてくる。……僕は転倒しかけた。うしろから歩いて来た父は、茂吉匍(は)へ。べだつと匍へ。鋭い声でさういつたから僕は氷のうへに匍つた。やつとのことでしがみ付いてゐたといふ方が好いかもしれない。(『念珠集』) |
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| 「〈べだっと〉匍う」という言い方は、山形で育った私には、語のもつ雰囲気がよくわかる懐かしくて実感のある表現である。 |
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| さてその1カ月後の8月、茂吉は故郷を離れて上京し、斉藤紀一方に寄寓、9月に東京府立開成尋常中学に入学した。そしてそれから30年余り経った昭和3年(1928)7月、47歳の茂吉は再びこの湯殿山を訪れる。前掲の歌はその時の作品である。 |
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| 茂吉は大正10年から13年にわたって文部省の命でヨーロッパに留学したが、その留学から帰国の途次の13年末、香港上海間の海上において、紀一の経営する青山脳病院の火災の報に接し、翌14年1月7日、灰燼に帰した病院の焼け跡に立った。以来、彼は病院の復興に精根をつくし、苦難の末「昭和元年、府下松原村に病院を復興し、昭和二年五月から青山脳病院長になつた」(『ともしび』後記)。そして、「この歌集に『ともしび』と命名したのは、艱難暗澹たる生に辛うじて『ともしび』をとぼして歩くといふやうな暗指でもあつただらうか」(同)と述べている。 |
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| 当時の茂吉は、病院院長としての仕事に加え、歌人として『アララギ』を率いるだけでなく、多くの歌論、歌人研究や優れた随筆などをものにしている日本を代表的する文学者であり、仕事や私用で日本各地を実にしばしば訪れていたので、この湯殿山行きが特別な出来事だったとは言えないかもしれない。 |
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| だがこの歌を詠んだ時の茂吉は、久方ぶりに故郷の出羽三山を訪れ、15歳で初めて湯殿山を参拝した時のことや当時一緒に参拝した父が茂吉のヨーロッパ留学中に逝去したこと、また昭和元年に逝った『アララギ』の仲間でありライバルでもあった島木赤彦への想い、そして病院再建のためのここ数年の艱難辛苦の日々のことなど、様々な思いが交錯していたのではないだろうか。〈わが父も母もなかりし頃〉というはるかな昔に思いを至らせた表現は、ある程度の年齢に達し、懐かしい人、親しい人を幾人もあの世に送った人間にして初めて出てくるもののような気がする。 |
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| なお、湯殿山神社の御神体というのは、中にたっぷりものを入れて丸い形にふくらんだ袋の上部をやや細く平らにしたような形の巨石で、その頂上の部分から温泉が流れている。一種独特の犯しがたい感覚にさせられる、御神体と呼ぶに相応しいものであり、参拝する人々は裸足になってその石を上る。〈湧きたまふ〉としたのは、茂吉の神の山に対する畏敬の念だろうが、これを実見したものにはとても納得できる言葉遣いである。 |
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| (2012年10月10日発行) |
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| 発行人 根本啓子 |