水燿通信とは |
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299号蟇(ひき)に魅かれる |
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蟇。「ひき」「ひきがえる」「がま」「がまがえる」「いぼがえる」などと呼び、「蟇」のほかに「蟾蜍」「蝦蟇」といった表記をする。ひきがえると言われればあのいぼいぼの醜悪な外貌で動きののろい気持ちの悪い生き物が浮かんできて、嫌悪の情を抱く人が多いかもしれない。ところがこのグロテスクなはずの蟇が、俳句の世界ではなんとも魅力的な題材として扱われていることが多いのだ。 |
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私がこの蟇に関心を持ったのは、三橋鷹女の〈今は老い蟇は祠をあとにせり〉という俳句に出逢ったことがきっかけだった。もう20年近くまえのことになるが、私は「水燿通信」83号でこの句を取りあげ、次のように述べた。 |
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長年住み慣れた祠を後にして、蟇は何処かへ行こうとしている。そしてそれは老いゆえにだと作者はいう。だが、ここには老いて追われる惨めさも、老いて去るしかないと諦観するさびしさも皆無である。あるのは、何かを悟り自らの意志で祠を後にしようと決意した蟇の、神々しいまでに厳粛な姿である。…(俳人の永田耕衣がこの句に「卒塔婆小町」(註)の妖気を感じると語ったことに関連して)橋掛かりを静かに去っていく老いた小町の姿に、祠を後にして歩み去る蟇の姿がオーバーラップする。そしてその行く手はるか彼方に、私たちの存知せぬある確かな世界の存在することを、私たちははっきりと感じるのだ。 |
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(註) | 能の曲名。「そとばこまち」。著しく老いて零落しながらも、高野山の僧との卒塔婆問答に打ち勝つ才気を持ち、老いを誇り高く傲然と生きている老年の小野小町を描いたもの。「卒都婆小町」と表すこともある。 |
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以来、折につけ蟇を詠った句に注目してきた。いくつか例を挙げてみよう。 |
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@ | 蟇歩く到りつく辺のある如く | 中村汀女 |
A | 蟇ひたすら月に迫りけり | 宮沢賢治 |
B | 蟇歩む神の造りし手足もて | 高橋悦男 |
C | 日輪を呑みたる蟇の動きけり | 橋 關ホ |
D | 雲を吐く口つきしたり蟇 | 小林一茶 |
E | 蟇慮って進まざり | 小林貴子 |
F | 日輪の真向ひにゐて蟇 | 鎌倉佐弓 |
G | 裏返る蟇の屍(かばね)に青嶺聳(た)つ | 飯田龍太 |
H | 跳ぶときの内股しろき蟇 | 能村登四郎 |
I | 冬の蟇川にはなてば泳ぎけり | 飯田蛇笏 |
J | まばたいて玉のごとしや蟇 | 長谷川櫂 |
K | まばたいてなまめかしきは蟇 | 〃 |
L | 蟇平たくなりて歩みだす | 遠藤若狭男 |
M | 蟇いでて女あるじに見(まみ)えけり | 橋本多佳子 |
N | 蟇ないて唐招提寺春いづこ | 水原秋桜子 |
O | 昇る日を見てゐる秋の蟇 | 生野照子 |
P | 蟇風と話してゐたりけり | 有馬朗人 |
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蟇の怪異な外形、長い時間じっと動かずにいることも少なくない動きの遅さなどに、多くの俳人は時に哲学的な雰囲気を感じたり、周囲を圧倒する存在感を抱いたり、またそのちょっとした動きにも何か深い意味があるのではと感じたりしたようだ。@からGにはそのような蟇が描かれている。 |
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@の中村汀女の句は、冒頭にあげた〈今は老い〉に通じるものを感じさせる。Aにはこれらと同様のことを詠んでいても、求道的な生涯を生きた宮沢賢治の特徴を強く感じさせるものとなっている。 |
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BCDEFGに描かれた蟇の有する見事な存在感を見よ。Bでは蟇の手も足もその他の
なにもかもが神々しく、Cには造物主に力を授けられた蟇の圧倒的な力の存在を感じさせられる。Dの蟇のもつ畏れをも感じさせる不思議な力。そしてその存在感は、Eのようにじっとしている時ですら不変だ。Fの蟇は、太陽に拮抗する重たさで存在しており、それはGのように屍になっても失われていない。 |
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このように、圧倒的な存在感や不思議な力を感じさせられる蟇は、またある時は思いがけない無気味さ、怖さや意外性を抱かせることにもなる。HIなどの蟇の姿には一瞬ドキッとさせられる。だがまた、蟇は意外なかわいらしさ、ユーモアを感じさせるときもある。JKの蟇のまばたいた時にみせたなんともいえない愛らしさ、なまめかしさ。またLの句は写生の技が光る作品だが、蟇の見せる思いがけない側面を指摘されてなるほどと感心させられ、思わず笑いがこみ上げてくる。 |
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Mはいかにも橋本多佳子らしい作品だ。蟇を詠っていても、主役はあくまでも〈女あるじ〉つまり多佳子で、しかもこの〈女あるじ〉は美しくなくてはならない。多佳子の作品には何を題材にしても美貌の作者を感じさせるものが多いが、これなどもまさしくそうである。三橋鷹女の作品に、同じような情景を詠った〈蛇穴を出て水音をききにけり〉という佳句があるが、ここに描かれているのは蛇そのものである。これと比べてみても、Mの多佳子作品の特徴は明らかであろう。 |
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様々な蟇をみてきたが、この動物はまた実に絵になる生き物でもある。Nは、短歌的な情緒豊かで美しく流れるような俳句を作った秋桜子の特徴のよく出ている作品である。Oの句、〈秋の蟇〉とは間もなく冬眠にはいる蟇のことであろうが、それと〈昇る日〉を結びつけたところに魅かれる。句全体に老いの持つ独特のかなしみが漂っているように感じられる。Pの静かな雰囲気を湛えた蟇の姿も魅かれるものがある。ここには、何もかも知り尽くし達観した境地に至った見事な老いの姿を髣髴とさせるものがある。 |
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ここで、昨年五月に刊行された宇多喜代子の句集『記憶』から1句紹介したい。 |
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この句集『記憶』に関しては、角川書店刊の月刊誌『俳句』2011年10月号で特集記事が組まれていて、著者インタビューのほか複数の俳人による「一句鑑賞」が編まれている。この「一句鑑賞」欄で、神野紗希がこの句を次のように鑑賞している。 |
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日暮れ時。闇の気配が濃くなる景色の中、何かが落ちている。石塊か。それとも蟇(がま)か。並べると見紛うほどに二者は似ている。石塊ならば、まるで蟇のように、のそりと動き出しそうな不思議な生命感がある。原初の昔は、石も生きていただろうか。蟇ならば、石塊のようにごつごつした物質感が際立つ。 |
風景を描写するのなら〈日暮時〉だけで十分なのだが、作者は〈日本〉と入れた。そのことで「これ石塊かしら蟇かしら」とふと立ち止まるシーンが、〈日本の日暮時〉を代表する光景だと思えてくる。縄文、万葉、平安、江戸、明治、昭和まで、いつの時代のどんな日本人も、この光景を見ただろう。では、現在はどうだろうか。 |
〈日本の日暮時〉はまた、日本という国家の日暮でもある。絢爛たるビル、蜘蛛の巣のように張り巡らされた道路。自殺者は増え、昔は良かったと皆が言う。そんな日本を、長い歴史を見てきた石とも蟇ともつかない者が、そこにいて、じっと見ている。 |
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見事な鑑賞文だと思う。 |
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著者インタビューの中で宇多喜代子は、「自句自解は読者に対して解釈を規制することになると思うから、私には苦痛です。自解しなくても一句には読むきっかけが何かあるでしょう」と語っている。つまり、この作品を作った時の私の気持ちはこうだった、こういう状況で詠んだ、だからこのように解釈してほしい、といった類のことは言いたくない、そうではなく作品それ自体にきっちり向き合ってもらいたい、ということなのだろう。だから、〈石塊か蟇か日本の日暮時〉に対しても、神野の鑑賞と違う理解の仕方でも、宇多は特にコメントせず許容するに違いない。 |
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だが東日本大震災とその直後の福島第一原子力発電所事故を経験し、それから1年以上経った今も被災地の復興ははかどらず事故収束の目途もたっていず、政治の劣化だけが際立つ状況の中でこれからの日本を考えると、私も神野紗希の解釈には共感せずにはいられない。 |
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(2012年5月10日発行) |
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発行人 根本啓子 |