水燿通信とは |
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291号『福島原発事故をめぐって ――いくつか学び考えたこと』山本義隆著 |
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本著はタイトルからもわかるように福島原発事故に関して書かれたもので、本年8月25日に出版されたばかりの本である。明確に原子力発電に反対する立場で著されたものであるが、読後感は事故後相次いで出された数多くの告発調の反原発本とは趣を異にしている。語り口は物静かだが、多くの事実と深い知識に基づいたその内容は、知的で説得力のあるものとなっている。 |
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本著は一「日本における原発開発の深層底流」、二「技術と労働の面から見て」、三「科学技術幻想とその破綻」の3つの章から成る。 |
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1章では、原発建設に伴う〈強固な利権構造を作り上げたもともとの背後には、米ソを中心とした核兵器競争がもたらした戦後国際政治の特異な情況と、それに敏感に反応してきた戦後日本の支配層の政治的意図があった〉(以下、〈 〉内は本書からの引用)ことを指摘、日本の原子力研究がまだ緒についたばかりの時点では〈原子力発電(原子炉建設)の真の狙いは、エネルギー需要に対処するというよりは、むしろ日本が核技術を有すること自体、すなわちその気になれば核兵器を作りだしうるという意味で核兵器の潜在的保有国に日本を〉し、〈国際の場における発言力を高める〉ことにあった、と語る。 |
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2章では、〈原子力発電は、日常的に地球環境を汚染し、危険で扱いの厄介な廃棄物を産みだし続け、その影響を受益者の世代から見て何世代、いや何十世代も先の人類に負の遺産として押し付け〉る未熟な技術と言わざるをえないことを、実例をあげて説明、「原発はクリーンで地球環境にやさしい」といった言説はブラックジョークともいうべきものでしかないと語る。又、原発の現場で働いてきた平井憲夫などの技術者の証言を紹介し、現場から上に不具合を指摘しても採り上げられることは稀である、下請の立場ではおかしいと思っても指摘しにくい状況がある、定期点検は運転を止めることなく稼動しながら行なわれる、部品の調達が多くの企業によってなされていて規格が微妙に違う、といった一歩間違えれば大事故につながりかねない問題が日常的に起きている実態を紹介、「安全管理」が如何に杜撰であるかを説いている。(平井憲夫に関しては、当通信283号でも紹介している) |
そして3章は、西欧近代科学技術の歴史について述べている。山本義隆のこの分野に於ける深い知識・理解を基盤にした本著の一大特色ともいうべき内容の章である。この中で著者は、かつて〈ヨーロッパでは、哲学、神学、文学のすべての世界で、技術は自然に及ばないと考えられていた〉が、近代の科学技術思想形成の過程で〈人間が自然の上位に立ったという自覚〉が出てき、さらに近代科学は徐々に〈おのれの力を過信するとともに、自然にたいする畏怖の念を忘れ去っていった〉、電磁誘導の発見による電気エネルギー文明の始まりは、この動きを加速させた、第2次世界大戦後、アメリカでは軍と大企業が結合した勢力(後に軍産複合体と呼ばれるようになった)が生まれ、〈「原子力の平和利用」をスローガンとする核産業のグローバルな展開も〉その流れで出てきた巨大プロジェクトであった、その中で〈動員された学者や技術者はその目標の実現という大前提にたいしては疑問を提起することは許されず〉、主体性を喪失してゆかざるを得なくなった、日本における原発開発もこれと同じ道を歩み、〈かくして政・官・財一体となった“怪物的”権力がなんの掣肘もうけることなく推進させた原子力開発は、そのあげくに福島の惨状を生みだしたのであった〉と語る。 |
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末尾で著者は〈三月一一日の東日本大震災と東北地方の大津波、福島原発の大事故は、自然にたいして人間が上位に立ったという…増長、そして科学技術は万能という一九世紀の幻想を打ち砕いた。…私たちは古来、人類が有していた自然にたいする畏れの感覚をもう一度とりもどすべきであろう〉と述べ、〈日本人は、ヒロシマとナガサキで被曝しただけではない。今後日本は、フクシマの事故でもってアメリカとフランスについで太平洋を放射性物質で汚染した三番目の国として、世界から語られることになるであろう。…こうなった以上は、世界中がフクシマの教訓を共有するべく、事故の経過と責任を包み隠さず明らかにし、そのうえで、率先して脱原発社会、脱原爆社会を宣言し、そのモデルを世界に示すべきであろう〉と本著を結んでいる。およそ、政府や東電の責任ある立場の人からは決して聞くことのできない、個々の人間を大切にする考えを基本に置いた潔い提言である。 |
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ところで、私はこの本の著者が山本義隆であることに特別の感慨を抱いた。1960年代半ばに大学生活を送り、自らは加わらなかったものの全共闘運動を大きな関心を持って見つめていた私には、彼の名前は忘れることの出来ないものなのだ。というのも1968年を中心とした東大闘争において東大全共闘の象徴的存在となったのがこの山本義隆だからである。1960年代半ばから後半にかけて、早稲田大学、日本大学など多くの大学で起こった闘争は、はじめは大学個々の学費値上げ問題などがきっかけとなったが、その過程で「真理の探究の府」であるべきという大学観が裏切られたことが闘争のバネとなって、学部の学生が主体として行なった。一方、東大闘争は大学院生、助手などを主体として行なわれたところにその特徴があった。彼らは東京大学という日本の大学のヒエラルキーの頂点にある大学に所属している自らの立場を見つめ直し、その大学で専ら企業に奉仕するような研究が行なわれている実情に対して、自身の研究に対する主体性を回復することを求め、産学協同反対を唱えて闘争を行なった。この東大闘争の議長となったのが、物理学科博士課程3年生でノンセクト活動家だった山本義隆なのである。 |
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この東大全共闘運動は長期化するにつれて徐々に先鋭化していき、大学解体、自己否定を主張、セクト間の争いや日本共産党の介入などもあって暴力的にもなっていった。そして安田講堂攻防戦をもって事実上終息した。この東大闘争の影響は一時的に全国の大学に燎原の火のように広がったが、それもつかの間で、間もなく全共闘運動そのものも孤立化していって国民の支持を失い、遂に陰惨な連合赤軍事件などを起こしてほぼ消滅した。 |
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あれから40年以上の歳月が流れた。私は今でも、あの動きは一体なんだったのだろうかと考えるときがある。これら一連の運動に関しては、小熊英二が『1968』で膨大な資料を駆使して考察しているが、これによると全共闘運動に対しての評価は、概して決して高いとは言えない。そして私自身の感じるところでは――この運動に対する無知を承知の上で述べるのだが――例えば現在の大学の状況を見てみると、今や産学協同はすばらしいもの、おおいに推進すべきものといったイメージになっていて、「真理の探究の府」などという言葉は、一体何のことか当の大学生にもわからなくなっているのではないかと思う。また運動に参加した人も、多くは企業戦士に転身し、また政治家、評論家なども散見されるようになった。自分に引き寄せた形の回想記をまとめる者、無農薬野菜などのエコ活動にはいった者などもいる。率直に言って、運動との関連を考えるならばこれらにはいずれも後退振りや安易さが感じられ、敬意に値するような生き方とは言い難い例が多い。あの全共闘運動は、今日に何の成果ももたらすことのない無意味なものだったのだろうか、そんな思いに囚われて虚しくなることがしばしばである。 |
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山本義隆に関しては、大学を去り、予備校の先生をしているらしい、という噂を耳にしたことがある。だが、メディアにほとんど顔を出さない山本の消息は、長く私の知るところではなかった。1994年、彼が全共闘時代のビラ・パンフ類約5000点を国立国会図書館に資料集として寄贈した、というニュースを新聞で見た。そして2003年、山本義隆著『磁力と重力の発見』(全3巻 みすず書房刊)という本がパピルス賞、毎日出版文化賞、大仏次郎賞などの賞に輝いた、という記事が新聞の文化面に大きな顔写真とともに載った。この記事によって、彼が大学を去った後も専門の研究はたゆまず続けていたことが窺われ、私は心に深く染みこむような感動を覚えた。 |
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そして今回のこの本、私にとって直接山本義隆の意見に触れる初めての機会だったが、静かで知的な語り口ながら、懸命に研究を積んでもつまるところ大企業に奉仕するのみで一般国民のためにはならない、かといって大学に残ったところで、同様に企業の意向に沿った研究をやるのみで、研究者としての自らの主体性は得られず、またそのようになっていく人材を育てるのみだ、と考えて産学協同に反対し、大学解体、自己否定などを主張して戦った全共闘時代の想いが、今も確固として彼の中にあり、それに沿った生き方をしていることが感じられた。「あのころの想いに殉じ、節を曲げずにひっそりと生きているかつての戦士も、案外少なくないのではないか」、読後、私はそのような思いを抱いた。 |
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また改めて、福島原発事故とそれに伴う政官財学の対応、メディアの情報操作・隠蔽、特に福島県民を棄民にしているとしか感じられない政府の対応への怒りを強くした。これからこの事態がどのように推移していくのか、しっかり見つめ続けて行きたいと思っている。(本稿をまとめるにあたって、小熊英二著『1968』(新曜社刊)に負うところが多かったことを申し上げておきます) |
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(2011年10月1日発行) |
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発行人 根本啓子 |