水燿通信とは |
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246号事物が交感する静謐な世界『移民たち』『目眩まし』を読んで |
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当通信244号でW.G.ゼーバルトの2作品『移民たち 四つの長い物語』『目眩まし』を紹介したところ、読者の一人から「この本に出会ったことは、私の人生の大転換になる予感があり……」という手紙を添えた感想文が届いた。深い読みのすぐれた感想で、私宛ての便りだけで終わらせてしまうのは勿体ないと感じ、通信の読者にも読んでもらえる形に書き直してもらった。以下に紹介したい。 | |
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最初に読んだときは、『移民たち』のほうに強く魅かれたのですが、何度も読み返していると『目眩まし』も面白くなってきましたので、2作品を分けないで両方いっしょに、初めてゼーバルトの世界に触れた感想として述べたいと思います。 |
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作品の表現の特徴は、具体的な平易な言葉で、まるで細密画のように描写された無数の事物の連なりの中から、ある時代の、ある場所で起きた出来事やその中の人物などが幻想的に浮かび上がり、通り過ぎたり交差したりしながら消えていくように作られていることです。さらに、妙に心をひかれる風景や古い建物、時代を感じさせる人物などの、ざらついた白黒写真がはめこまれ、言葉によってかき立てられる連想と、写真によるイメージが相乗効果を生み、作者とともに時間(第2次世界大戦と戦後、あるいは、誰かの話や記録として出てくる大戦前)と空間(イギリス、ドイツ、スイス、イタリア、アメリカなど)を、夢のように移動している気持ちにさせられます。 |
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作品の内容は、たそがれとか夜の静寂の中で事物がひっそりと息づいているような雰囲気が基調にあり、主たる登場人物も行きずりの人々も、かなり悲惨な状態に置かれていたり、乾いた言い方ではありますが残酷だったりグロテスクだったりする場面がたくさんあります。 |
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作者ゼーバルト(1944年、ドイツ生まれ)も、2001年に移住地であるイギリスのノリッジで自動車事故に遭って他界したと紹介されており、不吉な印象が強い作中人物と重なるような感じもします。 |
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『移民たち』は、宿命のような流浪と差別、ナチスによる迫害などの苦難の歴史を背負った4人のユダヤ人男性が、移民となって行き着いた場所で生き抜き、老いて、望郷の念から、あるいは過去の悲惨な体験や思い出から逃れたいという思いから、少しずつ狂っていき、自死やそれに近い形で死ぬという四つの物語ですが、周辺の人々も悲劇的存在であることに変わりはありません。 |
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『目眩まし』のほうは、題名の示すように、言葉による技巧を凝らして読者をくらくらさせるたくらみがあるようです。物語の舞台となる場所は、作者ゼーバルトの故郷であるドイツのアルゴイ地方(ドイツとオーストリアとスイスが国境を接した険しく暗い山岳地帯であるチロル地方の一部)や、オーストリア、イタリアなどです。それらの土地を、軍人だった若き日のスタンダールや、プラハ労働者傷害保険協会の副書記という仕事についていたフランツ・カフカ(『変身』『城』などの作者)が旅した記録のように書かれた2作品があり、さらに、同じ場所をゼーバルトが訪ねたときの物語が2つあります。このあわせて四つの作品は互いに関係しながら、読者に、うす闇の幻想的な風景のなかをさまよっているような不安な感じを与えるのです。この作品に出てくる有名無名の人々も、陰鬱な狂いに近い状況に置かれており、『移民たち』と同様に暗くて重い話になっています。 |
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しかし、2作品とも読んでいると、その暗さの中に不思議な安堵感を覚えるのです。『移民たち』の解説で「作者の極端なペシミズムが読者にかけがえのない幸福をもたらすとは、いったいどういうことなのか?」と述べられているのは、このことを指していると思われます。悲惨な状況に置かれたり、不安な精神状態に陥っている人たちの話が並んでいるのに、読んだ後、読者に安堵感や幸福な感じを抱かせるのはなぜでしょうか。 |
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それは、価値観抜きで、存在するものをそのまま、具体的な言葉を連ねながら丁寧に写し取り、作者の直接的なコメントは無しという表現方法に拠るところが大きいと思いました。物事を観察するだけでよけいな意味づけをしなければ、在るものは在るものとして認めようということになり、全てのものや出来事を肯定する気持ちになれるのではないでしょうか。これらの作品は、そのような透徹した心境に読者をいざなう力を持っているように思われます。無理に意味を見つけようとしたり、分析、解説を加えると価値観が生まれ、比較することによって、不幸な気持ちになるのではないでしょうか。 |
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昨今の日本では、作為的に軽さや明るさを強調したり、分析して簡単に結論を出したり、被害者意識丸出しの悲憤慷慨で涙腺に訴えたり、言葉だけのお手軽な愛とかいのちとかを押しつけてくる表現のありかたが幅を利かせているようです。このような、受け取る人の感情を増幅させたり、手っ取り早くわかったつもりに陥らせる風潮のなかで、広く考える力を失い、自他を比較して落ち込んだり、順調そうに見える人を妬んだりして、極端に否定的なかたちの事件を起こす人が出てきているような感じがします。わざと重苦しく表現したり、醜さを強調したりすることもまた不自然で嫌みですが、口当たりの良さだけでなく、ざらつきや苦味も含んだ味わいのある表現に出会うと、すべてを肯定されたような気がして、救われるのではないでしょうか。 |
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また、ゼーバルトは、人間だけをクローズアップして描くのではなく、時間(歴史)や空間(環境や事物)を、膨大な言葉を連ねて綿密に描写しています。その中に人間も織り込み、様々なものの複雑な絡み合いの中から浮かび上がる気配のようなものを伝える表現方法を工夫しているようです。風景、建物、道具、動植物など、人間をとりまくものたちと私たちとが相互関係にあるという、いわゆる「複雑系」(多数の異質な要素が複雑に絡み合い、相互作用しながらともに変化するというシステム論)といわれる視点が、ゼーバルト作品の特徴のひとつではないかと推察されるのですが、そのことに関して特に印象に残っている場面を引用してみたいと思います。作者が22歳のとき(1966年秋)、生まれ育ったドイツの山間の村からイギリスの工業都市マンチェスターへ移住し、初めて滞在したホテルでの体験を描いた場面の一部です。 |
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――私の部屋に持ってきてくれたティーメーカー、便利でおかしなあの装置こそが、夜闇に光り、朝はひくくコポコポと音を立て、そして昼はただそこにある、それだけで私を生きのびさせてくれたような気がする。あの当時、自分でも正体のつかめない寄る辺のない感情に囚われていて、私はほんの些細なことでいつでも生の世界から離れそうになっていた。ほんとうに役に立つのよ、これは(ヴェリィユースフル、ジーズアー)……十一月の昼下がり、ティーズ・メイドの使い方を教えながらグレイシィ(ホテルの女主人 筆者注)がそう言ったのは、したがって正鵠を射ていたのである。 |
(『移民たち』第4話「マックス・アウラッハ」) | |
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この場面で登場する、目覚まし時計が組み込まれたおかしな形のティーメーカーは写真も載っていて、確かに、まるで生きもののようにちんまりとうずくまっているのです。研究(ドイツ文学か?)にも打ち込めず、あてどなく街を彷徨うゼーバルト青年のペットのように、この道具が見守り慰めている様子が微笑ましく感じられる場面です。 |
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またゼーバルトの世界では、時間は一直線に進むのではなく、行きつ戻りつします。音信不通だった人たちが何十年ぶりに再会して過去が蘇るとか、死者が克明な記録によって浮かび上がってくるなど、時間が錯綜する感じはいずれの作品にも見られます。絵画を評している場面で、作者自身がそのことを述べている箇所がありますので、引用してみたいと思います。青年時代のゼーバルトがマンチェスターの街を彷徨っていて偶然知り合ったユダヤ人画家、マックス・アウラッハ(仮名を使っているが実在の人物)のアトリエを訪れ、アウラッハの作品から受けた印象を述べた部分の抜粋です。 |
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四十回かそこらは描き直し、というべきか描いては紙に擦りこみ、その上にまた何重にも描き重ねるという作業のすえに、完成をみたからというよりは精魂つきはててアウラッハがついに絵筆をおいたとき、そうした肖像は、見る者にこんなことを思わせた――この肖像は、先祖たちの長い長い列、焼かれて灰になって、それでも痛めつけられた紙のなかでなお亡霊として彷徨いつづけている、灰色の顔をした先祖たちの長い列から浮かび上がってきたのだと。 |
(『移民たち』第4話「マックス・アウラッハ」) | |
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ここでは、ユダヤ人たちの宿命的な受難の歴史や、アウラッハの父母や親族(亡命できなかった親族)が収容所で虐殺されたことなどが下敷きになっていて、多くの人々の長い苦しみの時間が積み重なっている絵だというふうに評されています。これは絵画について述べているのですが、ゼーバルトの時間に関する認識が語られているとも言えます。ゼーバルトの作品もまた同じような視点と手法によって作られていると思うのです。 |
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このように、暗く重苦しい話題でも価値観抜きでそのままの姿を描き、人間だけを特別視しないで事物の中に織り込み、複雑な時間の流れのなかで語るというゼーバルトの作品は、毒を含みながらも、読んでいると言葉がかもしだす気配のようなものに包まれる感じがします。どこを開いても言葉の魔法にかかって引き込まれ、そのつど、新しい発見があるのです。 |
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もし、若い頃にゼーバルトの作品に出会っていたとしたら、今のように好きになれなかったような気がします。私は今64歳ですが、老いというものが少しずつ実感できるそのような年齢になった今だからこそ、この作品がとても身近なものに感じられるのではないかと思います。ゼーバルトは老人問題をテーマにしているわけではありませんが、物事や人間が時間の経過の中で変化し、衰退していくありさまを克明に描いています。そこには、無理に軽く明るく前向きに書こうという作為がないのです。 |
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今の日本では、老いにも個人差があることを尊重せず、いつまでも元気で活動的で社会参加していく老人像が理想のような風潮になっています。そのため、鬱々とした気分も老いから来る心身の変調も、困ったこととして、治したい、逃れたいというふうにとらえられ、暗い話はごめんだという世相になっています。しかし、欝っぽい気分はその人の人生の転換期であることを知らせているのだと言われています。また、加齢による心身の変化は、当然のことではないでしょうか。 |
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幼いころから怠惰で、熱心に勉強したのは国語だけ、結婚してすぐに夫の前に手をついて「どうしても本を読みたいので仕事をやめて専業主婦になりたい」と頼み、それから40年以上の間、乱読の合間に家事や育児をしてきたというような私ですが、その間には何度か「この1冊!」と思う作品に出会いました。思い返してみると、耕治人の『そうかもしれない』、武田百合子(泰淳夫人)の『犬が星見た〜ロシア紀行』、島尾敏雄の『死の棘』などを読んだ時も、しばらくのぼせていたものです。目下の恋人はゼーバルトの作品で、この熱は次に現れる素敵な読物に出会うまで続くことでしょう。 |
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(2007年6月30日発行) |
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※無断転載・複製・引用お断りします。 |
発行人 根本啓子 |