水燿通信とは
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233号

巨星没(お)つ

塚本邦雄追悼記事を読んで

 去る6月9日に歌人の塚本邦雄が亡くなったが、それを追悼して関係誌でいくつか特集が編まれた。それらの中で私が最初に目にしたのが『短歌』(角川書店刊)9月号の大特集「歌人『塚本邦雄』以降」であったが、その中の永田和宏と三枝昂之の対談「いつも塚本邦雄がそばにいた」は興味深いものであった。1955年頃からの前衛短歌運動をリードし、その後も常に短歌界の巨星でありつづけた塚本邦雄を、現代短歌界を率いる歌人であり、論客としても知られた永田、三枝の両人が語るのであるから、大いに期待して読んだのだが、この二人は批判や疑問をも交えながら率直にしかも基本においては熱いトーンで塚本邦雄や二人が彼と関わった時代を語っており、それが予想以上にこの対談を興味深いものにしたように思われる。私にとっては、両人に対する年代的な親近感もあったのかもしれない。
 対談の中では、作者の経歴を作品の鑑賞や理解とどう関わらせるか、といったことにも触れられていたが、このあたりは特に私の関心をひいた。
 塚本邦雄は自分の閲歴については一切語らないという姿勢を貫いてきていたのだが、あるとき雑誌(「国文学 解釈と教材の研究」76年1月号)に彼の年譜が掲載され、多くの歌人にショックを与えた。このことについて二人は歌集『装飾楽句(カデンツァ)』の中の
五月祭の汗の年 病むわれは火のごとき孤獨もちてへだたる
を例にして次のように語っている。
三枝「文学は来歴とは関係ないんだ、俺のものは作品だけで読めというのが、塚本邦雄のメッセージでもあったんですね。近代以降の短歌は、作者の来歴や環境、それと作品をどうつなげるかでだいたい作家論って一丁上がりになるわけなんだけれども、そうじゃないところで俺はやっているのだから来歴は関係ないんだと。……どうして年譜を出したのだろうね。」
永田「そこがまた歌の得も言われぬ面白さだと思うんだけれども。……歌というのは、来歴に寄りかかってはいけないというのを前提にして言えば、やっぱりそれを知っていた方がいい。というのが、ほかならぬ塚本邦雄についての僕の結論ですね。たとえば……「病むわれは」は精神的に病むわれとか、五月祭のメーデーに行っているような単純、健康的な若者と自分とは違うんだという鬱屈したある心情として読んでしまうわけだけれども、塚本邦雄が結核で療養していたことがわかった。……ああそういうシチュエーションもあったのかと思えるということが、歌の読みを断然複層的にして、二重三重の奥行きをもたらしたと思うんです。」
三枝「やはり塚本さんも短歌の根っこには〈私〉がいるという考え方持っていたんでしょうね。……〈五月祭の汗の年……〉の歌は来歴と重ね合わせると、「病むわれは」が肺結核の「われ」という読み方をみんなしたくなる。しかしそこに止まると、あの歌がもっている、社会改革を疑わない健やかさと、そういうものとは距離を置かざるをえない精神性との対比のメタファーが消えてしまう。私記録の歌にしてしまってはつまらない。……
永田「塚本さんが長い間自分の来歴を一切公表しなかったのは、そういう私記録風に読まれることを恐れたからですね。……鬼の首を取ったみたいに、そうだ、そういう状況だったんだといって安心しちゃうわけだね。結局その安心の仕方を塚本邦雄は一番嫌悪したのでしょうね。」
 ここに引用した三枝、永田両人の対談のの部分を要約すると、次の3点になると思う。
@ 塚本邦雄は自分の作品は来歴とは関係なく読んでくれという姿勢だった。
A 履歴がわかると、作品の味わいが重層的になる。
B 境涯を知って「そうか、そうだったのか」と安心してそこで止まってしまうのはまずい。
 このうち、私はBに特に共感を覚える。ここで語られているのは短歌についてだが、俳句の場合も同じことが言えるのではないだろうか。俳句は短い詩型であるせいか、作品を味わう場合、境涯や来歴にたよる傾向がとくに強いように感じられるのだが、〈境涯を知って「そうか、そうだったのか」と安心してそこで止まってしま〉わないようにすることが肝腎だと思った。
 ところで、塚本の年譜発表は彼だけは年譜と切れた存在であってほしいと思っていた多くの歌人にショックを与えたわけだが、この年譜の生年が、実際は1920年なのに1922年になっていることがあとでわかった。この生年が2年ずれたことに関しては、『現代詩手帖特集版 塚本邦雄の宇宙 詩魂玲瓏』の座談会「抵抗としての歌、豊かさとしての調べ」(出席者は発言順に篠弘、岡井隆、小池光、辻井喬)で、真相と思われる事実について篠弘が発言しており(つまり編集者中井英夫が塚本を新歌人集団(註1)の中に入れるために操作したらしい)、永田和宏も同誌に「塚本年譜の意味」の一文を寄せている。
 なお8月30日付の朝日新聞でもこのことに触れた「歌人・塚本邦雄の『年譜』 経歴に隠された真意」という記事が載った。「塚本氏の盟友だった岡井氏は経歴にふれ、「戦争中の青年期の2年の差はとても大きい」と指摘している。20年生まれなら太平洋戦争開戦前の40年に20歳で徴兵検査を受けたはずだが、そんな記述は一切ない。そもそも塚本氏はなぜ、戦争に行かなかったか。……年譜公表に「意味がない」と答えた塚本氏の真意(註2)は何だったか、「本当の年譜」ともども、いまからは解きようもない謎である」と記事にある。
 『短歌』誌掲載の永田、三枝の対談が、すでに大きな存在であった塚本からいつもなにかを学ぼうとしていた年代の二人によるものだったのに対し、『塚本邦雄の宇宙』に載った座談会は塚本と時代をともに生きてきた人達(若い小池光を除き)の話であり、両者を読み比べてみると、年代の差による塚本に対する思いの熱さや質の違い、戦後の短歌界やそれを取り巻く時代の状況がより明確に浮き彫りになり、さらに興味が増すように思われる。
 この『現代詩手帖特集版 塚本邦雄の宇宙 詩魂玲瓏』は充実した1冊である。すでに新聞 などで度々取り上げられているので詳しくは触れないが、座談会を始め、幅広い年齢層、職業の人々からなる追悼文や塚本邦雄論など読み応えのあるものが多数収録されており、また代表歌500首、全著作目録、年譜、作品集なども収められてあって、資料としての価値も高い。
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 二十代の終り頃、私は書店でふと見つけた塚本邦雄の評論集『序破急急』(1972年刊)を何気なく読んで魅了された。驚くべき博識を裏づけとして綴られたその文章は、豊かに広がる絢爛たる世界を創り出しており、しかも表記には正字、歴史的仮名遣いが用いられていたから、文章それ自体、視覚的にも豪華で贅沢な印象があった。それからというもの、塚本の著書というと、なんでも飛びつくようになった。歌集など装丁も活字の組も実に贅沢で高価なものばかりだったが、なけなしの金をはたいて買い求めた。彼の歌は私には難解なものが多かったが、それでも買うのに躊躇はなかった。塚本の本が書棚の一角を占めるようになると、その部分だけがなにか違う光を放っているように見えた。背表紙だけでもその豪華さは紛れもなかったのである。
 だがあるとき、その豪華さに食傷したような気分になった。文体が饒舌で独善的なものに感じられるようになった。そうなるとどうしようもなくなり、もう目にするのも厭わしくなってきた。結局私は塚本邦雄の本の大半を処分してしまった。だがもうひとつ踏ん切りのつかない思いが残り、私は歌集と少数の評論集、それにアンソロジーの類を残してしまった。
 後年、俳句や短歌についての文章を書くようになって、これらの本の幾冊かはずいぶん役に立つことになった。文に濃厚にながれる一種の臭みは今でも気にならないわけではないが、独特の鑑賞の仕方、思いがけない視点、豊かに広がる世界があって、学ぶところが多いのである。相変わらず独善的なところや、毒の効きすぎる物言いと感じるところも多いのだが、『短歌研究』8月号の追悼座談会などを読むと、塚本は「(穂村弘)歌だけを見て人を見ない潔癖さ」を持ち(註3)、「(馬場あき子)これはという人には嘘つかない」人だったということなので、私の気になるところはより強く塚本の本心を語るものであり、嫌悪するよりもかえって注目すべきところといえるのかもしれない。
(註1)1946年、近藤芳美らを中心に結成された、結社を超えた新人たちの集団。上の世代に対抗する戦後派新人の集団として歌壇をリードする存在となる。(『岩波現代短歌辞典』より)
(註2)なぜ年譜を公表したか、当時永田和宏が本人に直接尋ねたところ、「意味がないから」という禅問答のような答えが返ってきたという。
(註3)この『短歌研究』の座談会で、穂村は第一歌集『シンジケート』の栞文を敬愛する塚本にぜひ書いてもらいたいと思いお願いしたところ、「一首だけ(「子供よりシンジケートをつくろうよ『壁に向かって手をあげなさい』」)をでかく書いて、後はまとめて小っちゃな活字で並べろとか、ものすごく残酷なことが書いてあって、原稿をもらったとき、胃が痛くなりました」と語っている。
*「水燿通信」209号で、塚本邦雄の〈暗渠の渦に花もまれをり識らざればつねに冷え冷えと鮮しモスクワ〉の作品を取り上げています。
(2005年11月15日発行)

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発行人 根本啓子