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209号暗渠の渦に花揉まれをり識らざればつねに冷えびえと鮮しモスクワ塚本邦雄(『装飾樂句』(カデンツァ) 昭和31年刊) |
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『現代百人一首』(1996年刊)の中で、岡井隆はこの短歌について次のように述べている。 |
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……時代は現代から遥かに遠く、ここに歌われたモスクワは、今われわれが映像によってしばしば簡単に見ることのできるモスクワではない。一種、秘境的な都市。異端の国家の首府。それは誰も容易には窺い知ることのできないトポスとして、当時の日本人の意識の中に浮かんでいたのだ、と思わねばならない。……第三句の「識らざれば」は、無論濃厚にモスクワにかかる言葉である。だが歌の第三句は上の句から下の句へと渡る橋の役目をはたすことがしばしばある。この場合、暗渠の水に揉まれる花のことを暗に描写しているとも言える。識らないからこそ鮮しいもの。しかもそれは冷え冷えと鮮しい。その対象は花であり、水によっていわば殺されてゆく花なのである。同時にその場所は不可思議な逆ユートピアの首府モスクワなのである。塚本邦雄は、この時この北方の巨大国の暗渠に揉まれる花の上に、ひたすら熱い眼差しを注いでいたともいえる。……昭和三十年代の日本人が、特に都会に住むひとりのサラリーマンが、観光ツアーなど夢にも考えられぬ文化的情報鎖国の日本にあって、このように鋭い外部世界への認識を短歌の中に定着し得たことを思えば、むしろ精神の力学としては、制約こそ自由と透徹した眼力を生むのだとさえ思う。…… |
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見事な鑑賞で、他に加えるべき何物も私は持たない。確かにあの時代、モスクワに対する思いはここに描かれているそのものだった。それを〈識らざればつねに冷えびえと鮮し〉と表現した塚本の描写の的確さ、秀逸さ、とくに〈冷えびえ〉の語の選択の巧みさが光る。 |
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冒頭の歌が作られてから約30年経った1989年、ベルリンの壁が崩壊し、その約10ヶ月後、東西両ドイツが統一した。そしてそれをきっかけに、その後東欧の共産圏諸国がことごとく政治体制を替え、ソ連邦も消滅した。今では、モスクワに関しても私たちは様々なことを知ることが出来るようになった。かつてこの作品に描かれたモスクワに対する鮮烈な想いは、今となってはむしろ懐かしい。そして〈制約こそ自由と透徹した眼力を生むのだ〉という岡井の言葉が、切実に響いてくる。 |
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この歌を味わいながら、私はずっと、もう20年以上も前に読んだ島尾敏雄著『夢のかげを求めて 東欧紀行』(河出書房新社)のことを思っていた。この本は1967年10月末から12月初めにかけて、横浜から船でハバロフスクに行き、そこから列車で東欧諸国を訪れた時の紀行文である。旅は日本の旅行社が手配をしたものであり、また島尾が日本で知られた文学者として行く先々の国の関係者のいくらかの導きがあったとはいえ、〈ことばのほとんど通じない国で、雲をつかむようなたよりなさ、不審さの中に宙づりされながら〉(朝日新聞書評)の旅で、文章は重苦しいトーンに貫かれており、一般に想像される外国旅行の楽しさなどとはほとんど無縁のものであった。しかし島尾敏雄の文学者らしい心の動きや筆致に魅せられたのか、東欧という地域に対する関心からか、私は550ページ近い本を繰り返し2度読んだ。後にして思えば、それはおそらく〈識らざればつねに鮮しい〉国々の様子をいささかなりとものぞき見る興味もあったのかもしれない。この本の中でとくに印象に残ったのが、ワルシャワ大学日本語学科の学生たちとの交流の部分だった。ポーランドという遠い遠い国の若者の中に、彼らにとっても遥かな国であろう日本のことを学んでいる人がいる、そして奇妙な(といっては失礼だが)日本語を操って懸命に日本のことをシマオサンに尋ねてくる……、それはあの当時、限りないロマンを感じさせるものであった。 |
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ベルリンの壁崩壊から約10年経った1998年、私は『夢のかげを求めて 東欧紀行』を読んだ当時は、訪れることなど思いもよらなかったその東欧のポーランドに、夫と二人で行く機会を持った。ワルシャワの旧市街地に通じる大きな通りに面したワルシャワ大学の正門前に立った私は、遥かにもここまでやって来たものだと思い、島尾の本を想い、感慨を禁じ得なかった。日本人の海外旅行はもはやなんの珍しさもない時代になっていたが、東欧を個人で旅行するということはまだまだ一般的ではなく、日本で得られる情報は不備で、期待と同時に大きな不安をも抱えての出立であった。実際に訪れてみて、この国もやはり私たちと同じ人間の生きている国だという、当たり前といえば至極当たり前の思いを抱いたのだが、同時に外国からの旅行者に対する現地の配慮の欠如が著しく、また民主化後の治安の不安定さ、人々の貧しさなども目に付き、滞在中ずっと細心の注意を怠ることができない状態だった。そして困難に直面する度に、30年近く前に島尾敏雄が旅行した時は(現在とは政治体制が異なっていたが)いかばかりだっただろうと思ったりもした。 |
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塚本邦雄が前掲歌を作ったのは、この島尾の旅行からさかのぼること10年以上、しかもワルシャワよりさらに秘境的なイメージの強いモスクワを題材としているのだ、ということを改めて思う。 |
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ここで、土岐哀果(奥付の名前は土岐善麿)歌集『黄昏に』(明治45年刊)の中の作品をひとつ紹介しよう。収録作品を3行書きにしたこの『黄昏に』は、その手法の新鮮さもあって、当時評判となった歌集である。 |
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指をもて遠く辿れば、水いろの、 ヴォルガの河の、 なつかしきかな。 |
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やはりロシアに思いを馳せた作品だ。当時の日本人にとってロシアは、地理的な面だけでなく、文化や思想などの面においても埋めがたい遠さにある、気の遠くなるような遥けさの国だっただろう。そうであればなおのこと、地図の上を指で辿りながら想い描くヴォルガ河は、作者に限りないロマンをもたらしたのだと思う。 |
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明治は、実際随分遠くなってしまった。そして平成も15年になった今、昭和もまた、日々遠くなりつつあるの感が強い。 |
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(2003年3月20日発行) |
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発行人 根本啓子 |