2004-10-31
‡ エピローグ ‡
数日前から、机の上にはこの辺りでは滅多に見ない新聞が置かれている。全国に配送されているのとは別の、一部特定区域にのみ配達される地方紙と云う奴だ。それはただ単に珍しいと云うだけで無く、新聞を持込んだのも珍しい人物だった。
彼はこの事務所(正確には事務所に出入りしている人物)を苦手としているので、滅多な事では顔を出す事は無いのだが、とある事件に関わったものとして、律儀にも報告を兼ねて新聞を置いて行ったのだ。
新聞の片隅の、見逃してしまいそうな程小さな記事に印が付けてある。
『人形師、無念の引退』
間接人形の彫刻師として名高い三矢紫苑が失明の為、人形制作に終止符を打った。氏は、数日前から失踪届けが出ており、一事、その身柄の安否が心配されたが、先に亡くなった親友の墓参りに来ている所をその子息に発見され、無事保護となった。
発見当時、氏は既に失明しており、失踪の原因ではこの為と云われている。
記事にはそう書かれていた。だが、皆は事実と違っている事を知っている。事実を捩じ曲げて当たり障りの無いような記事にしたのは、誰であろう、広田正義の仕業らしい。確かに、事実をそのまま記事にしたところで誰も信用しはしないだろうし、真実を知らせる意義も見出せない事件であった。だから広田は些細な事件として終息させてしまった。新聞を持込んだのは区切りを付ける為でもあったようだ。
新聞が机に放置されているのは、何時、事務所にあらわれるか分らないいつものメンバーの為に出しっ放しになっていた為だ。だがそれも今日中には処分される事が決まっている。最後に新聞を読み終えた人物がけだる気にソファに沈み込んでいると、勢い良く事務所のドアが開かれた。次いで聞こえる元気の良い声。
「うわぁ〜、懐かしい」
何事かと思えば、麻衣が下のメールボックスから手紙の束を引き取ってきての言葉のようだ。
ここ、渋谷サイキックリサーチでは、ナルの正体がばれるまでは一切触らせて貰えなかった通信関係(電話とか手紙とか)も、今は麻衣がすべてチェックを入れている。企業向けのダイレクトメールが大半を占める中、時折過去の依頼人からお礼状など届くこともある。麻衣は要らない手紙の束をシュレッダーにかけて、事務所宛に来た手紙の中から一通をみんなの前に提示した。
淡いブルーの封筒の縁に、赤と青の飾り罫。
「よろしいんですか? こちらに来たお手紙とちゃいますか」
「差出人の名前、見て」
一目でエアメールと分かる手紙に手を伸ばしたのはジョンだった。基本的に外国語関係が絡むとつい、及び腰になる日本人たちは英国圏の物体は英語圏で育った人に任せてしまう。
それでも興味津々に手元を覗く辺り、好奇心だけは忘れない。
「ええと、カツミ……カツミ・ミドー。いや、ほんまに懐かしいです。御堂克美さんからです」
「て、事は中身は日本語よね」
綾子が素早く横から奪って、封を切るのももどかしそうに開封する。中には几帳面な日本語文字で綴られた便せんが入っていた。
「拝啓、皆様。
如何お過ごしでしょうか……」
それは以前の依頼者、御堂克美からのエアメールで、彼は調査終了後、全ての遺産の処分を弁護士に依頼し、留学先の大学へ波米していた。
どうやら手紙はその大学から出したもののようだ。手紙の中身は、父の訃報を聞いてから、なかなか帰ってこない克美に大学の教授が心配して手紙をくれていた事や、その手紙が何故か事件が終わった後、纏まって彼の手元に着いた事。そのお陰で、戻って来た克美が研究チームを辞めるものだと勝手に勘違いした教授から御秘蔵のビデオテープを見せて貰ったことなどが書いてあった。
「───そのテープと言うのが、門外不出と言われているビデオで、プロジェクトチームのメンバーでも一部の人間しか見せて貰えないものだと聞いていたので驚きました。実に光栄なことです。その、ビデオなんですが、数年前に行われた公開実験で……双子の被験者による……PKの記録でした……?」
綾子が手紙を読み上げていたのだが、読み進むにしたがって、声が上ずっていく。
「僕にとっては願ったり、叶ったりで得した気分でした。長くなりましたが、紙面にてお礼を申し上げるご無礼をお許し下さい……。
親愛なる渋谷サイキックリサーチの皆様へ。
感謝を込めて、御堂克美。
───追伸。
この道を行く決心がつきました。いつか、どこかで、またお合い出来る日を楽しみにしております。
デイヴィス博士によろしくとお伝え下さい……」
一同の間を恐ろしいほどの沈黙が横たわった。
「聞き忘れてましたけど、克美さんって、どちらの大学へ行ってらっしゃるのかしら?」
真砂子がやっとのことで質問を口にした。
「待って下さい。これは、ケンタッキー州のようです」
慌ててジョンが封筒を確認する。
「ケンタッキーというと、そのものずばり、ケンタッキー大学があるな」
「確かそこにこちらの有名人がいましたね」
「そちらでしたら、ベーカー博士とか『サイコップ』の理事長、ニッケル博士がおられる筈ですね」
滝川が記憶を掘り起こせば安原がフォローし、止めはリンが刺してくれた。
ふふふ……と、不気味な笑い声を出したのは一体誰か?
「バレバレじゃん」
「そうですね」
「この兄ちやん、いつかきっと表面に出てくるぜ」
「それどころか、ナルにライバル宣言しそうで恐ろしいですわ」
「あの、ナルがそれで引くとはとても思えないけどね」
「少しくらい追い詰めた方が彼のためです」
みんなが好き勝手に言い合っている中、リンが手紙を抜き取って所長室へ入って行く。全員が言葉もなく、その後ろ姿を見送ってしまった。
リンが部屋に入って行くと、本国から送られて来たファックス用紙を前に、ナルは渋面を作っていた。
「どうしました? またまどかから無茶な要求でも?」
「……違う。以前の依頼人から本部経由で礼状が届いた」
「それは―――御堂氏ではありませんか?」
リンが半信半疑で問うと、ナルが面をあげた。どうやら図星らしい。
「事務所にも礼状が来てました。『デイヴィス博士によろしく』とありましたが、そちらは?」
ナルは苦笑してリンにファックスを見せた。殆どの文面は事務所に来たものと変わらないが、最後の一文だけが違っている。日本語で書かれているのはせめてもの気遣いかも知れないが、恐らくは興味を持ったまどかが、御丁寧にもそこだけ強調してくれていた。
後で、意味を報告しろと言いたいのだろう。
───僕は言葉になんかしなくても、分かってくれると勝手に勘違いしてまいた。どうか、貴方も僕と同じ過ちをおかされませんように。
「まったく、いらない世話だ」
「では私はこれで失礼します。先週の件でまどかに報告する事もあることですし」
「余計なことは言うなよ」
「さて、どれが余計で何が余計でないかは私には判断できませんね。なにせ貴方のご両親から私生活についての報告の義務もおおせ付かっているもので」
部屋を出て行くとき、リンはなぜだか久しぶりに声を聞きたいと思った。いつもはファックスやメールで済ませてしまう報告を、今日だけは電話でしてみようか?と。
谷山麻衣に負けず劣らず、少女のような笑みを浮かべる彼の上司の女性を思い起こす。今日はひどく彼女の声が懐かしい。
リンの口元に、微かに笑みが浮かんだ。
誰かを恋しいと思うのは久しぶりで、こんなのもたまには良いかも知れないと、遠い英国に思いを馳せる。
さっと彼女は笑いながら、こう言うのだ。
「堅い話は抜きよ? 貴方の声を聞かせてちょうだい」
涼やかな声で───