高井家小史
高井家に伝わる系図によれば、宗家高井家は高井三郎菅原重茂(たかい さぶろう しげもち)
より起り、源頼朝公家士、後源義経公十八番の家士、高千石を領すとある。
事の真偽は定かではないが、高井重茂は「吾妻鏡」(1180〜1266)に登場する人物で、
和田義盛(鎌倉幕府初代侍所別当)の弟である和田義茂の子である。
相模の三浦和田氏の流れをくむが、「和田氏の乱」(1213)で一人幕府方について奮戦したため、
越後国奥山庄の所領(源義仲追討後に越後国は関東御分国)を妻津村尼に安堵され、その子高井時茂(高井道円)に譲与。
後に時茂の3人の孫が所領の分割譲与を受け、以後庶子家による惣領支配を展開していく。
「丸に酢漿草」を家紋とする高井家は、信州更科村上義清(1501〜1573)に従った後に浪士となり、
元和4年(1618)越後五泉中端郷中野に住居開発。
寛永元年(1624)蒲原郡大関に住居開発し、以後明治維新に至るまで大関村の庄屋を高井家が世襲
(角川日本地名大事典によると、「白川風土記」に同様の記載あり)。
江戸中期には越後桑名御領郡中取締役。
桑名領主(久松松平家)より拝領の掛軸(羽扇綸巾の諸葛孔明像)が北海道分家に伝わる。
古より名字帯刀を許された武家の流れであることは確かである。
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高井昌彰(北海道分家4代)
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