連載小説 カンパニー・1985 第4回
日米摩擦
総理大臣がテレビに出て、「国民一人100ドル分の外国製品を買ってください」と訴えていた。今から考えれば馬鹿げたことをしたものである。それでも中曽根首相はおお真面目だったし、フリップを持って画面に登場した姿はなんだかカッコよく見えた。
それくらい、1985年の日本の貿易黒字は画期的な水準だったのだそうだ。とくに対米黒字は、アメリカが容認しかねる水準になっていた。おかげで、日米間でMOSSネゴシエーションとかいうものが始まったり、翌年には「黒字減らしを国家目標にせよ」という前川レポートが出たりした。「輸入品、使ってわが家も国際化」という通産省のキャンペーンが始まったのもこの頃だ。
日本の黒字拡大は、僕たちの仕事の結果ともいえた。社内では「アメリカ製品の輸入を検討せよ」という号令が降りていた。
「こんなご時勢に、アメリカにプラントを輸出していいんでしょうかねえ」
ある日、僕は日下さんに聞いてみた。
「ばかもん、おれたちがプラントを売れば、それだけアメリカの石油や天然ガス輸出が伸びるじゃないか」
「でも、アラスカの資源は輸出禁止なんでしょう?」
「それはあいつらの勝手だよ。政治の領域の問題だ」
僕もさすがに自分がやっている仕事が飲み込めてきた頃だった。僕らがアメリカに売り込んでいたのは、熱交換モジュールというプラントである。地中から取り出した天然ガスを商品化するときにこの機械が必要になる。四谷重工が作ったモジュールを、アラスカのプルードー湾にあるガス田向けに設置する。ただしこの一帯の海が氷に被われていて、納入に安全な期間が年に2ヶ月程度しかない。針の穴を通すような手順で、船積みの計画を立てなければならない。それが可能かどうか、というのが僕らの最大の関心事だった。
「秋元さんはどう思われますか」
別の機会に、僕は秋元さんにも聞いてみた。
「レーガノミクスの矛盾だね。アメリカの貿易赤字が膨れ上がるのは、国内の貯蓄の不足のあらわれだから仕方がないんだ。レーガンは1980年に当選して、思い切り減税をやった。そうすれば貯蓄が増えるだろうと思ったからだ。ところが貯蓄はほとんど消費に回ってしまった。おかげでアメリカは景気はよくなったが、貯蓄は増えなかった」
経済学の素養なき僕には、よく分からない話だった。それでも秋元さんは、楽しそうによくしゃべった。「サプライサイド派の言うことを聞いて実施したレーガノミクスが、結局はケインズ経済学を実践することになってしまった皮肉」ということだけが、かろうじて頭に残った。
僕の方はなんともコメントのしようがない。とりあえず、口に出してみたひとことが、偶然ながらど真ん中ストライクの大当たりになった。
「秋元さんはケインジアンなんですね」
京都大学経済学部卒の四谷重工株式会社部長補佐は、満面の笑みを浮かべていた。
「タケちゃんマンもまんざらではないね。そろそろ将棋は卒業することにして、日米の経済関係をテーマにした勉強会でも開こうか。そうだ、うちの若手の優秀な連中にも声をかけよう」
秋元さんはすっかりこの思い付きに熱中し、そのまま「将来有望な若い連中」の人選を検討し始めた。会社では「人柄採用」「体力勝負」と呼ばれている自分が、そういうメンバーに加わるというのは、われながら噴飯ものだった。それでも、これを聞いたら日下さんは喜ぶだろうなあ、と思うと少しうれしかった。
「おたくの石神くんもそろそろ帰ってくるんじゃないか。彼なんかもいいねえ。そうか、知らんか。シカゴでMBAの勉強をしているはずだよ。僕はね、以前から彼には大いに期待しているんだよ」