連載小説 カンパニー・1985 第2回
将棋会館
「あの人がな、クセモノなんだ。お前の仕事はあの人をきちんとマークして、とにかく気に入られることだ。仕事の話はそれからだ」
というのが、日下課長の指示だった。それはよく分かった。それでも四谷重工の秋元副部長は、とてつもない変わり者で口が悪かった。
「あんたが竹下君か。大蔵大臣の竹下さんとは関係ないんか」
「あっちは島根県、私は和歌山県です」
「共通点あるじゃないか。どっちも田舎者だ」
「まあ、そうです」
「僕はこないだ、本物の竹下さんを見たけど、あれは貫禄のある人だったよ。彼が経世会を立ち上げたおかげで、あの田中角栄がぶっ倒れたんだから」
「すいません、僕、政治のことはあんまり・・・」
「そうか、きみ、まだ選挙権ないのか」
「いえ、一応、23歳ですので、大学も出ておりますし」
このまま永遠におちょくられ続けそうになったところで、日下さんが助け船を出してくれて初回のあいさつは終わった。
2度目からは一人で四谷重工に行くことになった。行くたびに秋元さんにいいようにあしらわれ、仕事の話をするどころではなかった。もっとも僕は自分の課が日々、なりわいとしているエネルギープラントのプロジェクトというものを、何ひとつ理解していなかったのだから無理もない。先方も、呼びもしないのに毎週やってくる商社の若僧を、困らせて遊ぶくらいしか利用価値がなかったのかもしれない。
「おお、タケちゃんマン、来たか」
秋元さんは『おれたちひょうきん族』を見ているわけでもないくせに、毎度僕をそう呼んだ。
「タケちゃんマン、たまには昼飯でもおごってよ。いつも御社に払う3%の口銭に泣かされてるんだから」
「秋元さんのためとあれば、どこへでも参らせていただきます」
僕もその程度に切り返せるくらいには慣れていた。
「じゃあ、オテル・ド・ミクニにつれてってくれるか」
「なんですか、それ」
「最近できたこの近所のフレンチレストランなんだが、男同士でいっても仕方がないからやめとこう。中華でも行くか」
秋元さんがわざわざタクシーに乗って行った先は、新宿三丁目の隋園別館だった。汚い店だったが、とにかく安くてうまかった。秋元さんは、僕が相手のときはここと決めていたようで、おかげで僕の手元には何枚もの隋園別館の領収書がたまることになった。もちろん、月末まで立て替えたところで金額はたかがしれてはいたが。 ここで昼間からビールを飲み、いい気分になると、秋元さんの次のご所望は千駄ヶ谷の将棋会館だった。ここの3階の将棋道場にあがり込んで将棋のお相手をする。上司から「それが仕事だ」といわれているのだから、こちらは嫌もへったくれもない。幸い、僕は素人初段くらいには指せたので、将棋連盟認定二段の秋元さんが相手でも4回に1度くらいは勝つことができた。夏が近づき、1勝3敗ペースが1勝2敗程度に縮まってくると、今度は秋元さんの方から電話がかかってくるようになった。
「日下さん?おたくのタケちゃんマン、どうせ仕事できなくて暇なんでしょう。僕のところに寄越してよ」
気に入られた、という感じはまるでなかったが、おかげで日下さんの評価は高かった。
「お前、やるじゃないか。よその商社も、あの人を落とせなくて苦労しているんだぜ」
ともあれ、僕は仕事の話は一言も交わすことなく、週に何回も秋元さんのもとを訪れ、隋園別館から将棋会館というルートをたどった。あとから考えれば、まるで役に立たない時間だったが、ひとつだけ記憶に残っていることがある。対戦中、道場に奨励会員の一団が入ってきたときのことだ。秋元さんがふと手を止めた。
「あれが」
と軽くあごをしゃくって示した先には、ひょろりとした色白の中学生がいた。
「羽生善治、来年くらいは四段になるといわれている奨励会の逸材だ」
それだけいうと、秋元さんはまた将棋盤に没頭してしまった。