モスクワ         表紙(地図)へ戻る

1997年9月モスクワ郊外で行われた金属磁性に関する国際ワークショップに招かれたときの記録である。クレムリン付近市内の点描、ナポレオン戦争の古戦場ボロジノなどを紹介する。

モスクワはいうまでもなくロシアの首都。しかしその歴史はそれほど古くない。ロシアの国々ははヨーロッパの民族大移動の最後の段階で、ノルマン人(バイキング)によって建てられた。モスクワは12世紀頃この地にキエフ公国の一地方として城塞が築かれたことに始まるという。13世紀から14世紀にかけてはロシア一帯がモンゴル帝国の支配下におかれたが、1380年にロシア軍が解放し、イワン3世(1442-1505),イワン4世(雷帝1533-1584) らがツァー(皇帝)を名乗り、首都をモスクワに定めロシア帝国の基礎を築いた。17世紀末にピョートル大帝(在位 1682-1725)が首都をペテルブルグに移したが、その後もモスクワはロシアの中心都市としての機能は保ち、ロシア革命後再びソビエト連邦の首都として、その後ソヴィエト崩壊後もロシアの首都として現在に至っている。人口は900万人弱。

クレムリンと赤の広場

クレムリンとは固有名詞ではなく『城塞』を意味するロシア語である。従ってロシア各地にいくつものクレムリンがあるが、モスクワのそれが最大であり、クレムリンといえばモスクワのクレムリンを指すことが多い。城塞のすぐ外、北東側に広大な赤の広場があり様々な式典が行われる。


左写真 : 南東側から見た赤の広場
左手の茶色い建物はレーニン廟。銃剣を付けた兵士が物々しく警戒しているが多くの観光客が列をなして訪れる。
2つの尖塔は城壁に立つ櫓。その左側、城壁内に政府機関をはじめ多くの歴史的建造物がある。
右手正面の建物は歴史博物館。
写真には写っていないが右手には『グム』というロシア最大の百貨店がある。

右写真:広場の南東側(上写真の手前側)にたつ聖ワシーリー寺院。17世紀中頃イワン雷帝によって建てられた。典型的なロシアロマネスク様式。

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ウスペンスキー寺院
ロシア正教の総本山

 王様の大砲
重さ40t、口径890mm青銅製
世界最大の大砲といわれるが発射されたことはない

イワン大帝の鐘楼
監視塔もかねる
   イワン大帝の鐘楼
中の最大の鐘
重さ70

モスクワ市内

モスクワ大学のあるヴィアラビョーヴィの丘からモスクワ市街を望む。

手前の建物はレーニンスタジアム
モスクワオリンピック(1979年 日本不参加)のメインスタジアム。

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上の写真の左手
中央遠方の建物はウクライナホテル
スターリン様式の
ビルの一つ

この様式の建物は市内に7つ有り国外にもワルシャワなどに建てられている。
ワルシャワ文化宮殿
 
 モスクワ大学
左と同じスターリン様式
中は大学本部と学生の寄宿舎として使われている
私も2日滞在した

  距離原点
クレムリンの近くにある
ロシア国内のモスクワからの距離の
原点
 
チャイコフスキー音楽院正面
銅像はチャイコフスキー

 コローメンスコエ
皇帝達の別荘地
これはヴァズネゼーニェ教会
ロシア古代の建築様式

ロシア正教では教会内に椅子が無く立って礼拝する

ボロジノ

ボロジノはモスクワの西方125kmに位置する平原。 会議のエクスカーションとしてバスで連れて行ってもらった。

ここで、1812年8月26日モスクワ攻略を目指す13万のナポレオン軍とこれを阻止しようとする12万のロシア軍の大会戦が行われた。

双方に数万人の戦死者を出す激戦だったがロシア軍は敗走した。

このとき、ロシア軍はあえてナポレオン軍をモスクワに導き焦土作戦をとり、結局ナポレオン軍は冬将軍に破れ敗走し、ナポレオン没落の端緒となった。 この戦争で帰国できたフランス兵は2万人足らずだったという。

この一帯には歴史博物館や、教会、慰霊塔などが点在する。

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フランス兵士顕彰碑

教  会

軍事歴史博物館

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