Essay  ”旅で想うこと”

私はよく一人旅をする。
その旅は目的と目的地だけが決まっていて、
あとは勝手気ままに目的に合いそうな選択をしてゆく。
結果的にうまくいったこともあれば、うまくいかなかったこともある。
しかし、すべてを自分の選択の結果として受け入れる。
旅はなぜか人生の縮図のように思えるのだ。

Life is a journey, not a destination !

そんな旅をしていると、心に思い浮かぶことがたくさんある。
それらを”エッセイ”としてしたためてみた。

旅と人生
 旅は人生の縮図のようなものだ。旅に出ると、連続して未知なる選択肢が迫り来る。この道は右に行くべきか、それとも左か? そして選択の結果として、誤った道を選んでしまうこともよくあることだ。しかし、過ちを恐れていては一歩も前に進めない。
 誤った選択と思えた先にも、意外に予期せぬ感動に巡り会えることもある。いやむしろ、誤ったとの意識が次なる予期せぬ感動へ繋げてくれるのかもしれない。常に安全と思える方ばかり選択していると、過ちの確率も低いが、意外性がもたらしてくれる感動を得る機会も少ないのであろう。今までの旅を振り返ってみた時、強く印象に残っているものの多くは意外性からもたらされた感動の出来事であることに気づく。
 人生の織物模様の縦糸が前に進む目標や意思であり、横糸の織り出す紋様の中での鮮やかな色調は、その意外性がもたらしてくれたすばらしい贈り物なのであろう。旅も人生も、正しかった選択と誤った選択がごちゃ交ぜになったものであり、人それぞれの紋様を表しているが、その評価は本人にしかできない。そしてどちらの結果に対しても、素直に受け入れなければ先に進めないことが共通点である。
心と言葉
 人間は動物と異なり言語能力を持ち、それを活用することにより自らを修正することもできるし、成長をすることも可能となる。言葉を使うことで自分自身を振り返り、自分の中の混沌とした心の状態を言葉に変えてみることで、自分を客観視することが可能となり、自己の主観や内省の基礎とすることができる。そして、人間は言葉の力を借りることで自らを理想とする方向へと変えて行ける。
 人間は家族や他人との対人関係を通じて言葉を使い、社会の中で変化しながら自ら成長することを望む。さらに他人に対してさえも言葉を通じて影響を与えることができるし、他人から影響されることにより気づきも得ることができる。人間の精神的な結びつきのためのただ一つの手段は言葉であるといえる。

 人は曖昧性の中にある自らの心の在り様を言葉に表してみることにより、人と人の相互作用を通じて、未来に向かって知的好奇心を際限なく膨らませて行ける!
 
自我とは
 全ての人の中に二つの自我が存在する。一つは動物的自我であり、これは自分のためだけに幸福を追求し、他人の幸福の犠牲を厭わない排他性の代物だ。そして、もう一つは精神的自我であり、自己犠牲を厭わずに他人の幸せを願う、人間だけに与えられた精神的なものである。この二つの自我が、外的刺激の状況により、心の中で常に葛藤を繰り返す。外的刺激で最も強いものは、生死を伴う生存本能に係わることであり、また一つは生殖本能から起こる異性との享楽の誘惑がもたらす我欲でもある。
 心の中で燻り続ける停滞感の多くは、この動物的自我である我欲側への偏りが積もり積もって閉塞感となり、心の塵埃となって人を堕落させてしまう。そして、この心の閉塞感を打ち破るべく、精神的自我が目覚める。この精神作用が“心の浄化”であると言える。しかしながら、浄化された心は永続性が保証されたものでなく、再び我欲の誘惑に負けてしまう。
 人は常にのこ二つの自我を抱え、堕落と浄化を繰り返しながら、不完全な存在として生きて行かざるを得ない宿命を背負わされている。人にだけ与えられた尊い理性という精神的自我の存在を勝ち得たその時から。
品性とは

 「人としての理想的な振る舞いとともに、美麗なるものを追求する心を持っていること」と定義できるのではないか。理想的な振る舞いとは、誰にとっても好感の持てる普遍性のある行動で、目的でなく結果として、他からのレスペクトの対象でもある。
 品性をそなえるには、美麗なるものに心惹かれ、その幽玄の世界にひたりきる習慣を身につけることが大切である。日常の雑事に追われている者にとっては品性を培いがたい。一日一度は優雅な音楽などに一時を忘れることも大切だ。また、立ち居振る舞いに決して荒々しさがあってはならない。目と唇はつねに微笑みを絶やさず、涼しげであること。
 一方で、つねに好奇心を抱き、かつ他人へのレスペクトの心を持ち、その人のレスペクトすべき対象を特定し、それに関心を抱きつつ、向上心を持って接することが大切である。他人との交わりにおいては、自己の本能に支配されがちな衝動的感情をうまく管理できる能力をそなえなければならない。
 品性を保つ上で大切なことは、品性を守ろうと保守的になり過ぎず、適度な好奇心とともに、美麗なるもの、深淵なるものを求めて行動することを心がけるべきである。

品性のバランス

 品性は人間だけが持つ特性のように思えるが、人間に一番近い猿に品性らしきものは有るのであろうか? ボス猿はやはりそれなりの威厳と風格のようなものを持っている。これも品性の一部なのかもしれない。
 品性について人間の場合を観察してみた場合、かなりの個人差があるように感じられる。人間社会においては、その差を“下品”と“上品”と言う言葉で区別している。一般的に“下品”と見られる行いは社会生活の中で淘汰される運命にあるようだ。その結果、“上品”と見られる行いが、より社会性として好ましく精査され洗練されて来ている。
 猿の場合も人間の場合も、品性が環境により大きく作用されて育まれることが共通点であろう。我々の属する集団が、そこで求められる好ましい品性を無言のうちに定めているのであろう。例えば、美麗や深淵を極めるバレエや歌舞伎などの芸術分野における品性は、その集団の中での美を追求する互いの切磋琢磨を通じて、時間をかけて醸し出される。外部にいる者には決して得られそうもない深みと昇華されたものを感じる。
 一般社会において、良い品性を育む手段は、周りに良い異質の人間関係を築くことであろう。その限られた環境の中で、先ず“下品”と思われることと、“上品”と思われることを意図的に識別することだ。次に、“下品”と思われる行動を抑え、“上品”と思われる行動を増やすことであろう。集団の中で品性の高い人は、“上品”と思われる行いが“下品”と思われる行いよりも相対的に多い人であろう。誰でも、心に“下品”と“上品”の要素を内在させており、それらを行動において意識的に品性を見つめつつ、どれだけ
自己制御するかである。

 不完全さ
 人間は誰しもどこかが偏っているし、またその偏りに魅力も感じられるものだ。誰でも自分の中に動物的な本能に動かされる部分と、人間的な優しさや気高さなどの部分の両面を合わせ持っている。
 よく問題となる点は、多くの人が自分の本性がどちらかであると思い込みがちなことであるが、誰でも両面を持ち合わせている。それらの一面が行動に現れるのは、状況による相対的な要素に左右させられて、いつもと異なる行動をしてしまうことが多い。「なぜあの人があんなことをしでかしたのかね。日頃の行動からはとても考えられないよ。」などということを耳にすることがある。実は、誰でも内部に動物的な要素と人間的な要素を合わせ持っており、それが相手により、また状況により左右されて、いつもと異なった行動が選択されてしまった結果であろう。
 一般的に、人間的要素の優った人は理性が強く働き、動物的要素をコントロールでき、結果的に理性に基づいた首尾一貫した行動をとる傾向が強い。それでさえも、日頃理性的な人が、状況によっては感情的行動をとってしまう場合がある。その人の備えている理性がコントロール不能な程、その状況下での本能の求めるエネルギーが高かったためであろう。
 人間の行動は誰しも、それほどまでに本能的エネルギーにより理性の壁を破られてしまう危うさを持っているといえそうだ。そのような危うさは歳との相関性もなさそうで、生きている限りその危うさの中で微妙なバランスをとりながら、人の不完全性とともに付き合ってゆかなければならない宿命を背負わされているといえる。

真の愛とは
 人間の言葉の中で最も美しいものが愛である。愛するものを持たずにこの世に生きることは、無味乾燥で潤いのないことだ。愛には将来の愛などと言うものはない。愛は今この現在にしか考えられない活動である。だから、今愛を発揮してない人は愛を持たない人なのだ。
 その愛についてだが、恋人や家族を愛しているという場合、それは単に自らの個人的な幸福を増やすためのもので、好みに基づき対象を選んでいる。この好みという情熱は本当の意味での真の愛ではない。動物全般が持つ本来的な自我の欲求に基づいたものであり、他の動物の愛と同様なことで、当たり前の愛である。
 真の愛とは、自分の命を他人のために捧げても悔いないような愛である。そのような愛のうちにだけ、幸福といういわゆる愛の与える報酬を見出すことができる。そして、真の愛を成長させるのに必要なことは、ただ一つ太陽の光が遮ぎられぬように、他人に対して理性の手を貸してやることだ。
 ・愛の大きさ=(他人に対する愛)÷(自分に対する愛)
恋心
 人は美しい異性に出会った時に、心が衝動を受ける。鼓動が早くなり、視線が釘付けされる。そして、その瞬間から自分に対する関心を誘おうする意識が働く。動物も同様な行動を行うようである。盛んに関心を引く派手な行動をし、何とか自分を認めてもらおうと試みる。人間も動物も、共に生殖本能がその行動を突き動かすのであろう。
 人間が動物と異なる点は、生殖行動に入る前に恋心が芽生え、生殖行動を制御する点であろう。人間は惹かれた異性に対し、自分の鼓動が速まった理由を探すことを試み、異性の魅力を探し始める。容姿のほかに、表情、声、教養、才能、強さ、優しさ・・・と。その鼓動を速めさせた理由との正当性と結び付けようとする。そこでは、すっかり劣性要素がネグレクトされ、優性要素の塊だけが抽出されて、美化されてしまう。そして心の中で美化されてしまった異性は、さらに輝きを増し、近寄りがたい存在になってしまう。
 恋してしまった者は自分を高めることにより、その実体よりも高められてしまった虚像に近づけようと一生懸命に背伸びして努力する。恋人から生殖行動の権利を勝ち得る為に。しかしながら、その生殖行動の権利を得た瞬間に、男女とも本来の恋心が消えて、短期的に刺激の強い生殖欲に溺れてしまう。当人同士はそれを恋の延長と勘違いしてしまう。しかし、もはや努力なしに得られる生殖欲が、努力のモチベーションを奮ってしまっていることに気付かないだけで、悲しいことに本来の恋心は既に消滅してしまっているのだ。恋のハードルが高いほど、皮肉にも成長のモチベーションがより大きくなり、そのフルーツも大きくなる。
 人生において、恋心を抱けるチャンスはそうたびたびあるものではない。早く生殖行動の認可を得てしまった者は、ある意味で快楽の報酬と引き換えに、大切な精神の高揚がもたらす自己成長のチャンスと期間を、むざむざと失ってしまったことになるのではないか?
理性
  動物の中で人間だけに本能と合わせて理性が与えられている。理性を持ち合わせない他の動物達は、生きるため、そして子孫を残すための欲望によってのみ行動が支配される。その動物達の欲望に対して、理性を備えた人間社会の善悪の規準を当てはめることは適切でない。
 一方、人間も、怒りとか、猜み、恨み、嫉妬とか、人間関係において本能から生じるそれらの激情に巻き込まれやすい。理性はそういう時、その人を見守って、過ちを犯させないようにする役目を果たしてくれる。
 ただそうは言っても、本能と理性の割合は人により異なるものであり、また状況によっても変化する。そのため、しばしば理性の制御がうまく機能せずに、感情的な衝突が起きてしまう。人はよく理性とは別に「自分に正直に生きなさい!」と言う言葉を使う。その場合、正直の対象は自分の本能であると錯覚しがちである。しかし、その場合の正直の対象としては、本能と合わせて自分の考え方も含めてみると、その解が見つかるのかもしれない。
 自分に正直に生きるとは、内面的には本能の要求を忠実にとらえた上で、外面的にはその本能を自分の考え方に則した理性により包み込んで生きると言うことになるのではなかろうか?
嫉妬心とは

 嫉妬心は誰にでもあるごく自然な感情で、自分より優れた人、満たされている人、異性にもてている人を見た時に生ずる心の不快感、攻撃性みたいなものである=Web
 一般的に、嫉妬心は負の品性の如く捉えられているが、必ずしもそうとは言えないようだ。その理由は、嫉妬心の強さは精神的若さにも繋がるものであるからとのこと。
 嫉妬心には2つのタイプがあるそうである。
A、ジェラシー型:嫉妬心を抱いた相手に対し、勝ちたいと思う心で、向上心の原動力にもなりうる。
B、エンビー型:相手を自分と同じかそれ以下に引きずり落とそうと言う心で、負のイメージとして捉えられる。嫉妬心をジェラシー型として捉え、自身の向上心のエネルギー源として活用すべきとのことである
 よく歳をとった人は嫉妬心がなくなり、枯淡の境地に到達し、そのような人が老成者の理想のように言われている。しかし、それは必ずしも人間にとって好ましい生き方とは言えないのではないか?生きている限り常に精神的に若々しく、好奇心と向上心を持ち続けたいと願うから。嫉妬心を肯定的にとらえる場合、一つの課題は理性により管理された嫉妬心であることが大切である。
 「人の心は、本気で他人を思い、責任を持ってその人と係るとき、必ず屈折した部分を持つようになる。その方がむしろ本物なのだ。」=曽野綾子

妄想とは
 妄想とは非合理的な思い込みのことで、それが高じて訂正不能な重度の状態に陥った場合を病的妄想と言っている。
 一般的に人間はわからないことをわからないままに放っておくことにいらいらを感ずる。この状態を続けることは、精神衛生上きわめてよろしくないそうである。人間は説明がつかない状態にたいして、いかにも耐性が低く、真偽の不確かなものにでもすがってしまう傾向にある。占いやデマなどはそのようなものであろう。いかにそれが間違っていようが、説明のない不安な状態よりはましであると考えてしまう。この行為が妄想である。
 一般的に妄想は病的なものが連想され、異常なものとして忌み嫌われる傾向にある。しかし、夢や空想、そして恋も妄想の副産物と言えなくもない。人は他人の心の中のことは1%も真実を理解していないだろう。それが判っていながら、欠点だらけの不完全な異性を、本能に突き動かされた妄想により美化して、恋に陥ってしまう。
 誰でも常にそのような複数の妄想を抱いているだろう。そんな人間関係は、妄想の二重奏、三重奏、あるいはオーケストラのような状態の中で日々生活しているのが人間社会と言える。
 妄想とうまく付き合うコツは、妄想が特殊なことであると決め付けず、ごく一般的なことであり、良い点と悪い点を合わせ持っていると認識する必要があろう。常に意識すべき点は、妄想は非合理的なものであると言う認識のもとに、いつでも訂正可能な状態にしておくように努めるべきである。
感動
 素晴らしい小説や絵画、音楽などに触れて、心が奪われ、胸の高まりを感じる時がある。どれも理由は同じような気がする。今までの自分に無かった部分、あるいは眠っていた脳の部分が新鮮な衝撃を受けた瞬間なのであろう。脳が目覚めると、心の中に自分にももしかしたら何時かはできるのではないかと言う淡い期待のようなものが芽生える。
 そのことが刺激として、自分をそこに近づけようとするモチベーションとして作用する。少しずつで歩みはのろいが継続的な積み重ねが始まる。その積み重ねの中に、何時しか耕された心の深みが形成される。感動は人生の深みを究めるきっかけであり、豊かな人生の糧でもある。
 しかし、全ての感動がそれに結び付くとは限らない。うまく結び付けられるかどうかは、その人の感性と価値観によるものなのであろう。残念ながら、多くの場合、感動は一時的なものとして消え去ってしまう。
 苦しみ
  人は皆自分の抱えている苦しみが最も辛いことのように思えるようだ。癌の痛みに苦しむ父親の傍らで、失恋に打ちひしがれる娘にとって、本音を言えばより辛いことは失恋の苦しみの方であろう。他人の苦しみは、同じ経験をした者でないと中々分かるものではないから。
 しかしながら、人間には耐性が具わっており、時間の経過とともにその苦しさに慣れて、いつしか何ともなくなり、それに相応しいような生活態度が作り上げられてしまう。
 苦しみとは、その人の経験の中で培われた耐性との相対的な関係にあるようだ。しかしまた、その耐性も時間とともに劣化し、同じような苦しみを繰り返し味わってしまうこともある。誰しもが楽しみとともに、いろいろな苦しみをも人生の一部として受け入れて生きている。なかなか他人には理解されない状態のままに。それが生きていることの証しでもある。
ノスタルジー
 “ノスタルジー”とは、人が現在いるところから時間的に遡って過去の特定の時期、あるいは空間的に離れた場所を想像し、その特定の時間や空間を対象として、“懐かしい”という心地よい感情を引き起こすことである。
 “ドリーム(夢)”が時間的に未来をその対象としているのに対し、“ノスタルジー”は過去がその対象となり、また対象の負の部分は都合よく除外され、自分にとって心地良いイメージが再構築される場合が多い。その再構築が行われる契機として、人間の五感がある刺激を得て、それが眠っている脳の深層部に刻まれた記憶を目覚めさせる役割をなす。五感の中でも視覚はその大きな部分を占めているが、時には嗅覚や聴覚、触覚、味覚もその役割を果たす場合もある。
 私の旅の目的の一つは、このノスタルジーを体感することでもある。日常生活の中では得られないそのような五感の感覚を異次元の世界に放り込んでみると、その機会に巡り合うチャンスが増える。その異次元の世界は、できるだけ日常からかけ離れている方がチャンスに巡り合う確率が高まる。だから、旅の行く先は必然的に辺境の地を求めることになってしまう。
 例えば、辺境の地で道に迷いたどり着いた場所に、半世紀前の記憶に似た世界が突如現れることがある。すると、半世紀もの間眠っていた深層記憶が突如呼び覚まされる。それが引き出される時に、何とも言えない快感が脳内に充満する。時には涙が出てしまうほどに!今回の旅では、貴州省の万峰林で菜種を穫り入れしている家族の農作業の情景に巡り会い、幼少時に体験した”菜種もみ”(乾かされた油菜の株を畑で積み上げ、家族総出でその積み上げた油菜の株の上に乗り、裸足で踏みつけて実をはじき出す原始的農作業)の感覚が60年ぶりに足裏に蘇った。
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