Essay   ”旅の徒然に”
旅は私の好奇心を充たしてくれる。
旅で遭遇する未知なるものを五感で感じ、
一つずつ自分だけの宝物を蓄えてゆく。
それらの宝物は私にとって不老長寿の妙薬だ。

Youth is not a time of life, it is a state of mind !

そんな旅をしていると、五感で感じるものがたくさんある。
それらを徒然なるままにしたためてみた。

ハノイのChaos

 ヴェトナムはアメリカとフランスに戦争で勝った国である。こんな強い国がこの世の中に他にあるだろうか?ヨーロッパで一番強そうなドイツも、清やロシアに勝った日本も、アメリカに叩きのめされている。せっかくそのヴェトナムにやって来たのだから、ヴェトナムの勝因の片りんでも掴めたらうれしいかな。そう思いつつハノイに降り立ち、そしてハノイの中心部に向かった。
 ハノイの朝はモーターバイクの轟音とともに明けるようだ。宿泊したホテルの真下に大きな交差点があり、6階の部屋から見下ろすと、6時過ぎ頃からその轟音はスタートし始めた。地下鉄もないのでバイクが通勤の唯一の手段だ。通勤者のバイクの波が数少ない四輪車を巻き込みながら、津波のように交差点に押し寄せる。そして、交差点で3方に分かれて行く。逆方向からもその津波が押し寄せて3方向に分かれて行く。この交差点には信号がないので、バイクの津波は竜巻に変質する。まさにバイクの津波のChaos状態だが、そのChaosの中で衝突しないぎりぎりの秩序ができているようだ。この交通津波は正に臨界状態で、街全体に轟轟たるエネルギーを発散させている。
 これがヴェトナムの強さの一つの要因かもしれない。 (2014.4.4)

 震度6クラスの夜行寝台特急

 ハノイから中国国境の街ラオカイまで、夜行寝台列車で移動することにした。特に夜間の移動なので、よく眠れるように”ソフトベッド”の切符を注文した。列車は夜の9時に出発して翌朝5時に到着予定であった。
 列車のコンパートメントは4人一部屋で、良い人たちが一緒だったらいいなと思っていたら、運よくオーストラリア人夫婦とアメリカ暮らしのインド青年だった。この人たちなら英語が通じるし、自然体で一緒の楽しい旅ができそうだなと安心した。
 列車が動き始めた。そして楽しい旅にはもう一つ大切なことが必要であることにすぐさま気づかされた。なんと列車の揺れが尋常でないのである。地震の震度6クラスの大揺れが間断なく続くのである。最初のうちは、そのうち止まるだろうと淡い期待を抱いたが、それははかない願望であった。情け容赦なく振れ続く。こんな状態のままでラオカイまでの8時間を就寝するのかと思うと、楽しい旅が憂鬱になってきた。あとでこの話を友人にしたら、「それは正に罰ゲームみたいだったね」と笑われた。しかし、私は結構悪行もしているから“罰ゲーム”も仕方ないかなと思ったが、オーストラリア人夫妻もインド人もどんな悪行をして来たのだろう?同じ揺れの中に苦しみを共有していたのだから。
 この憎っくき震度6の原因を、目が覚まされる都度考えさせられた。原因の一つは、きっとヴェトナムの線路工事者がいい加減で、線路がでこぼこの整地の上に轢かれているのであろう。次に、列車があまりにもがっしりした構造で、使われている木材なども堅牢すぎて柔軟性がないため、もろに振動が車体に伝わるからであろう。そして、翌朝明るくなって3つ目の原因を目撃した。軌道が狭いのである。ヴェトナムはフランスの植民地であったので、軌道にメートル・ゲージ(1000mm)の狭軌が採用されていた。「フランスの奴め!」ととばっちりが飛躍した。
 おまけに、列車は3時間も遅れで朝の8時にラオカイに到着した。(2014.4.5)

バックハーの日曜朝市

 バックハ‐は山奥の山のてっぺんに立地した街であり、周囲はほとんどが少数民族によって占められている。そのためか、ここの日曜マーケットは周囲のいろいろな少数民族が一堂に集まるということなので、この朝市を一目見たいと訪れる観光客も多い。私もその中の一人である。
 少数民族の人たちにとっても、現代社会は何かと現金が必要な社会で、彼らにとっても貴重な現金収入の機会でもあり、かつ、必要物資を仕入れるための場でもある。自分たちの産物を売りにこの市場に参加するために、遠く20〜30qも離れたところからもやって来る人たちもあるとのことである。昨夜は突然の雷とスコール並みの豪雨があったが、その豪雨の中をこの市場に向かって夜通し山の中を歩いている人もいたのではなかろうか。
 朝5時に目が覚めた。本日の一大イベントの早朝の準備を確かめるべくホテルを出かけようとしたら、まだ表扉は施錠されていたので、係を起こして市場に出かけた。既に場所取りからテント張り、商品ぞろえなどの準備作業が始まっていた。
 マーケットは午前9時頃に最盛期を迎えた。市場全体は数千人規模で、そのうち色とりどりの民族服を纏った女性たちだけでも1000人以上もいるように窺えた。こんな大規模で華やかな少数民族のイベントに出会うのは初めてで、胸がわくわくし心臓が高鳴った。少数民族の人たちにとっても、ここは一大社交場なのであろう。そんな中で、着飾った初々しい若い女性たちは、社交界デビューの場でもあるのであろう。ここでの少数民族の人たちは何と生き生きとした自然のままの姿なのであろう!(2014.4.6)

 バイク・タクシーとレンタル・バイク

 少数民族部落を訪れる際、ヴェトナムではバイク・タクシー($20/日)が当たり前だが、ラオスにおいてはその商売をやっている人が見当たらない。一般的にラオス人はヴェトナム人に比べてあまり商売が熱心でないようだ。それはおそらくラオスの人口がベトナムの1/10以下であることも作用しているのだろうか。
 ラオスにおいては、オートバイクのレンタル商売が盛んで、1日$8で借りられる。私の運転免許は日本に置いてきてしまったが、レンタルする際に運転免許のチェックもない。もっとも、現地でオートバイクを運転している中学生の女の子などをたくさん見かけるので、この国ではオートバイクは運転免許の対象ではないのかもしれない。
 バイク・タクシーの良い点は、運転手が客の喜びそうな場所をわきまえていて、そういう穴場に連れて行ってくれる。さらに、部落に行っても運転手が土地の人と顔なじみだったり言葉も通じるので、部落の人たちの警戒心がなく、簡単に写真も撮らせてもらえる。
 一方、レンタル・バイクの良い点は、地図と磁石を頼りにどこへでも好きなところに入り込んで行ける。道に迷ったりするが、思わぬハプニングに出会えたりして別の楽しみ方ができる点であろう。

 バイク・トレッキング

 オートバイクを運転するのはかれこれ50年ぶりであろうか。そのため運転に多少のためらいもあったが、これしか部落探訪の方法がないことでもありレンタルすることにした。ルアンナムターでレンタルしたバイクは、幸いにもヤマハ製であり性能の信頼性には確信が持てた。たかがバイクの運転であり、バイクの運転方法を説明を受けずに走り出し、少数民族の部落が散在する60qほど北のムアンシンの周辺の方向へ向かった。頼りは地図と磁石だけである。
 20qほど走ると、道路の傍らに少数民族部落が現れたので、先ずその部落から訪れてみることにした。そこはは30軒ほどのアカ族の部落で、その入口の前に川が流れていて危なっかしい小さな丸太橋がかかっていたので、バイクをそこに停車して部落に入っていった。
 部落からバイクの所に帰ってきて、抜いたバイクのキーを差し込もうとしたらキー穴が自動的にカバー・ロックがかかっていてキーが差し込めない。いたずら防止のため、ヤマハがキー穴カバー・ロック機能を付けたのであろう。昔はなかったのに・・・、困った!キーが差し込めないことにはエンジンを始動できない。焦ってもキー穴カバーの解除方法が見つからないまま、30度を超す炎天下で万事休す。10分ほど経ったら、7〜8歳ぐらいのアカ族部落の子供たちがやってきた。私の窮状を察したらしく、「おじさんキーを貸して?」とキーを受け取り、キーのつまみ部のプラスチック型の部分をキー穴にあてがって回したら簡単にキー穴が開いた。赤面の思いながら、子供たちに大感謝して窮地を脱した。
 少数民族部落は2〜3qぐらい離れた間隔で山の中に点在している。部落から次の部落への道は山あり谷ありの凸凹悪路で、運転にかなり危険を伴う。上り坂の悪路で轍に車輪を取られて転んでしまい膝を擦りむいた。でも幸いかすり傷で済み、以降の運転をより慎重にする教訓を得られた。3日間山中をバイク・トレッキングして、少しは運転スキルも向上した。凸凹道では、先ず足元でなく5mぐらい先を見ながら、道路の状態を事前に把握し早めに走る場所を選択すること。その際、ハンドルで舵を切らずに、体重の傾斜で進路を採るようにする。次に、腰をどっかり落として座らず、モトクロス運転のイメージで、少し腰を浮かせて、膝のクッションを使い凸凹の振動を吸収してバイクにかかる重量を減らしてやる。さらに、ハンドルの握りも柔らかくし、肘を曲げてハンドルの動きを柔らかくすること。
 山の中の道はY字路が多く一切交通標識などはなく、尋ねる人もいない。自分の勘に任せてどちらかを選択しなければならないが、最初は30%ぐらいは誤った選択をしてしまった。行った先が断崖絶壁だったり、だんだん道が細くなってついには「はいここまでよ」だったり。それでも3日間のトレッキングの中から、迷った時のY字路の選択方法を学んだ。迷ったら、先ず空を見よ!分かれ道で空を見て、電線があったらそちらの道を選べ!次の村へ通ずる目印だ。次に電線がない場合、道の広さではなく、石ころがあるかどうか?石ころがあるということは、何がしかの車が通っている道である。さらに、道の草のはげ具合が多い方を選ぶ。これらの教訓で、選択ミスは10%以下に減らすことができた。

 
ラオス正月

 ラオスには3回正月があるそうだ。1月1日の国際正月、春節の旧正月、そして4月中旬に行われる“ピーマイ・ラオ”と呼ばれるラオス正月だそうで、4月14日からの3日間が最も盛大に行われるらしい。その間は家族や友人と連れ立って寺院にお参りし、花びらと香水入りの水を仏像にかけるそうだ。寺院にお参りした後で、大きな杯に入れた聖水を身体にかけることによって、その年の幸福と健康を願うとのこと。
 その習慣がさらに拡大し、子供や若者達はいたるところで路上を通りかかる通行人やバイク、自動車に向けて、水鉄砲やホース、そしてバケツなどを使って、誰彼構わずに無礼講で水をぶっかける“水かけ儀式”が盛大に行われる。そのことを知らなかった私は、バイクで街に帰って行った際、突然頭からバケツで水をぶっかけられ、“カッ”となったが、他の人もかけられているので、これは何かの儀式なんだなと気持ちを納めた。結局その日は10回くらい水をかけられ、ずぶ濡れでホテルに帰った。さぞかし今年は良い年に成るであろう!
 部落を訪れると、その部落の人たちとか家族とかが集まって会食をしているところに度々出くわす。バイクを降りてその輪の中に入って行くと、ビールや食べ物を勧められる。バイクを運転中だからと一度は断るが、とても辞退しきれないで一緒に乾杯せざるを得ない。ここでは、正月は飲酒運転を取り締まるような野暮なことはしないようである。
 さらにバイクを部落の中に進めると、突然小学生くらいの女の子たちが素っ裸で広場に現れて来て、服を来た男の子達と水かけごっこをしている。何故か女の子だけが裸なのである。これも何か謂れのあるラオス正月の儀式なのだろうか?
 

 ムアンシンの夕暮れ

 ホテルの二階テラスから眺める田園風景は、静けさの中に夕暮れを迎えつつある。緑の田園いっぱいにいつの間にか夕もやが流れ込み、遠景をますますぼかしてゆく。まだ暮れ切らない明るさの残った中空に、色あせた白っぽい月が自分の居場所を探しているようだ。この静寂を壊さないようにと。夕闇の流れは、ゆっくりとそしてゆっくりと時を進めている。
 「時は万人に平等に与えられている。一日は24時間である。」それは本当だろうか?ここラオス北部の田舎町、ムアンシンの時は、明らかにゆったりと流れている。そう五感に感じられることは、私の錯覚なのであろうか?

 
 これがラオスらしさ?
 
 その1:バスの発車時刻
 60q北のムアンシンに移動すべく、9時にルアンナムターのバスターミナルへ行った。バスの出発時刻を尋ねたら、「8時のバスは出てしまったので、次は11時です。」とのこと。この地域の2つの大きな街の間をまかなうバスだから、少なくとも1時間間隔ぐらいで発車するものと思い、確認せずに出てきた自分が悪かったと反省した。
 これから2時間を何もない辺鄙なターミナルで過ごさなければならないのかと憂鬱になった。仕方がないので、休憩場で本を読み始めた。すると、10分も経たないのに早くバスに乗れとのこと。客が満杯になったから発車するのだそうである。
 そして後日、ムアンシンから再びルアンナムターに戻る際、どうせバスの発車時刻など当てにならないのがラオス流であると思い込み、8時5分にバスターミナルに着いたら、8時のバスが今出たところとで、次のバスは9時30分とのこと。どうせまたいい加減な出発時刻だろうとたかをくくっていたら、今度は1分違わずに、9時30分ジャストに発車した。ラオスの発車時刻とは、運転手の属人的権限なのだろうか?

 その2:ホテル代
 ムアンシンのホテルにチェックインした。宿泊代は1日80,000キープ($8)とのこと。2泊分として200,000キープを払ったら、宿の主人がおつりが今30,000キープしかないので不足分は後で払うとのこと。
 それからチェックアウトするまでの2日間、その主人は一度も顔を表さなかった。チェックアウトする際にも誰もいないので、壁のキー掛けにキーを吊るしてホテルを去った。結局、10,000キープの釣りは受け取れなかった。

 その3:レストランで
 ムアンシンで昼食をとろうとラオス食のレストランに入った。店のおばあちゃんが近所のおばあちゃんと世間話をしている。一向に注文を聞きに来る様子がない。その話し相手のおばあちゃんが帰ったら、今度は、店の中に吊るされたハンモックの中の孫をあやしに行ってこちらに来ない。その間5分近く客として無視された。仕方なく、近くに置いてあったメニュ―を取ってきて、注文する料理を決めて、それを持って行って、「どうぞこれを食べさせてください」とお願いした。

 その4:オートバイクのレンタル店で
 ムアンシンには、バイク・レンタル店が1軒しかない。前日、ルアンナムターからここムアンシンにバイクで来た際、「明日からこちらのホテルに移動するから、その際2日間バイクをレンタルさせてくれ」と申し出、了解を得ていた。翌日、昼頃にムアンシンに着いた際、ホテルにチェックインする前に、「昨日約束したように今日から2日間バイクを借りたい」と了解を再確認した。昼食をとってその店に行くと、”Shop closed today. See you tomorrow morning”という張り紙がしてあり、店が閉じられてしまった。あれだけ約束していたのに。バイクがなければ動きが取れない。
 困り果てて、諦めかけたが、近所の若者に頼んで彼に電話してもらった。そしたら、「OKわかった。3分後に店に行く」とのこと。しかし、待てど暮らせど彼は現れない。諦めて、ほかの交通手段を探しに街を歩き回り、その場所に戻って来たら、何と店が開いているではないか?」

 その5:ビアレストランで
 ホテルのそばに、田園を見渡せるビアレストランがある。ビア・ラオを飲みながら田園風景を愛でつつ、ラオスの夕べを楽しもうと思いその2階に上がった。2人の若い女性がいたのでビア・ラオを注文すると、ビア・レストランなのにビールが無いという。仕方なく、街でビア・ラオを買い求め、それを持参してビールを飲ませて頂いた。
 場所代を考えて、女性にもそのビールを注いてやった。どちらが客なのだろうか?

 その6:アカ族のアクセサリー売り
 ルアンナムターのゲストハウスの泊り客は9割以上がヨーロッパ人で占められている。このゲストハウスが欧米の旅行ガイド“ロンリー・プラネット”で推奨されているからであろう。このゲストハウスのレストランは戸外にテントを張りだしたフランス型レストランで、ゆったりと思い切り時間つぶしができる点が魅力だ。滞在型旅行を好む欧米人向けのゲストハウスとして好まれる理由が分かる気がする。ここで朝食、夕食、時に昼食もとることが多くなる。滞在した3日間、食事の度にそこの戸外レストランに、アカ族のおばちゃんが腕輪や帽子、ショルダー・バックなどのアカ族土産物を売りに来る。断っても断ってもやってくるので、こちらも根負けして一つ腕輪を買ってしまった。結局、そこを離れるまでに毎日1個づつ、計4個の土産物を売りつけられてしまった。押し売りに近いけれども、なぜか憎めない愛嬌のある土着のおばちゃんが懐かしい。

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