”天空の旅枕”

(Trekking Essay in Himalaya)

  この地球上で最も高い所がヒマラヤであり、死ぬまでにその場所をこの目で直に見ないと後悔が残るのではという思いが最近強くなってきた。しかし、その最も高い所を征服することは年齢的にも体力的にも限界を感じ、せめて‘トレッキング’でその心を充たしたい。‘トレッキング’という言葉は、ここヒマラヤで生まれたらしい。ヒマラヤでは、6,000mまでを‘トレッキング’と言い、それ以上の高山に登ることを‘登山’と言っているそうだ。富士山よりも高い所から8,000m級の山々を仰ぎ見ながらトレックする時、きっと心をよぎる景色はヒマラヤでしか味わえない‘何か’をもたらしてくれるのでは・・・
 3月末で仕事が一段落。「さて今年はどこに行こうかな?主だったアジアの少数民族の探訪も行き尽くした感があるし・・・」。手帳に書き記した夢リストの中の一つ‘ヒマラヤ・トレッキング’に目が留まった。日頃、自身の肉体的劣化が忍び寄っている現実が“もうこれ以上遅らせたらヒマラヤには行けなくなるぞ!”とけしかけているようでもあった。書店で「ヒマラヤ・トレッキング」をのぞき見した。“ネパールは5月下旬から雨季に入る”と言う言葉が、実行を急がなければという焦りを芽生えさせた。しかし、ヒマラヤ・トレッキングに関する知識は全くないし、経験者の知り合いもいない。だがとにかく急がなければと、取りあえずネパール行きの切符を押さえた。そして出発までの3週間は情報収集とルート造りに集中した。本や
Web、特にルートの確認をする手だてとしてGoogle Earthを隈なく検索し、必要な地図や写真を参考にしてトレッキング・ルート作りに専念した。

旅 心

私の中にもう一人の私が眠っている。それを確認できるのは旅に出た時だ。旅では予想もしなかったできごとがよく起こる。今回遭遇したネパール地震もそうだ。それらのことが私の好奇心を十分に刺激し心の琴線を奏でてくれる時、も一人の私が生き生きと目覚めるようだ。
 私にとっての旅、それはいつもの平凡な日常生活の中で昼寝している五感が、次々と展開される異次元のできごとに否応なく反応させられる世界である。今回の旅では、‘世界の屋根’と言われるヒマラヤで、中空高く超然と聳える純白の神々しく雪に輝く峰々を仰ぎ見、山中の道わきのあばら家のパティで手持ちのマテ車を回しながら黙想する老人の超然とした姿に心を打たれ、道に迷って見つけた現地語案内版を暗号読み解きのごとく推測し分かれ道を選択し、そして段々畑で小麦の穂を摘み取るおばあさんの姿に人生の年輪の重みを感じつつ。またある時は、山中の空高く静寂を破る“ピーヨロロ!”という大きな鳶の鳴き声や、標高4000m付近の坂道を登ってくるヤク達の群れの鳴き声や土埃と獣臭。峻険な山道を横切って水流がほとばしる小川を飛び石伝いに渡りながら、つい流れに足を踏み外した時の水の冷たさ。一日のトレッキングを終えて、たどり着いた山頂のロッジで供されたスパイスの効いたネパール・カレーの美味しかったこと。暖炉を囲み、いろいろな国から訪れたトレッキング仲間と今日一日のトレッキングを談笑する。 それらのできごとに五感が新鮮な反応を示し、もう一人の私の‘心’が連動し、今日一日の一つ一つの感動を再確認する。“あー今日一日がなんと幸せな日であったことであろう!”と。

聖地、ムクティナート

 ネパールは北部のチベット系の人々と南部のインド系の人々で構成されている国である。ムクティナートはアンナプルナ山群の北側で、標高3,800mの荒涼とした高地に位置し、チベット系のムスタン王国の入口に当たる。そんな立地の点からか、チベット仏教とインド系ヒンドゥ教の両方の聖地となっている高地の村である。4〜6月は両宗教の巡礼の季節とのことで、ネパール国内や遠くインドからたくさんの巡礼者がここを訪れている。
 先ず、チベット系仏教寺院ジョラムキ・ゴンパに参拝した。後方に高い山を背にして、その麓に位置する見晴らしの良い所で遠くニルギリ3峰も眺望できる。ここの寺院管理は30名近くの若い尼さん達によって維持されている。ここを訪れる巡礼者のお賽銭によって彼女たちの勤行が賄われているとのこと。そんなことを聞いたもので、Rs1,000のお賽銭をあげた。すると、異例のお賽銭額だったようで、2人の尼さんがわざわざ奥の院を開庁してくれて案内してくれた。さらに、男子禁制の尼さんの寝泊りする宿舎に案内されてお茶とお菓子をごちそうになった。
 次に、少し離れた高台に建つヒンドゥ教のムクティナラヤン寺院に参拝した。ここには108個の聖水が蛇口から流れ落ちている「水の壁」がある。巡礼者は先ず裸になって、その聖水に打たれながら罪業消滅の清めを行った後で寺院に参拝するのがしきたりのようである。
 それらの寺院の参道で、巡礼のお守りを売っているおばあさんがいた。そのお守りは何と‘アンモナイト化石’である。この地は、18000万年前は海の底だったとのこと。インド大陸が流れてきてアジア・プレートに当たり、海底が押し上げて作られたのがヒマラヤ山脈と言われている。ムクティナートが海底であったことは、アンモナイト化石がそれを立証している。そのことが2億年の悠久な時の流れとともに人生のはかなさを実感させてくれた。(2015.4.24

ネパール地震

 アンナプルナ山群の北側に当たるマルファをトレッキング中に地震に襲われた。標高2,800mのマルファはカルガンダキ渓谷の上流で、ムクティナートから20qほど西に位置するリンゴ樹林に囲まれた渓谷の中の白い石垣作りの‘桃源郷’と言われる美しい村である。
 村の中央あたりの背後に聳える山の中腹に寺院がある。その階段を登り、最上段に座ってマルファの村を見下ろしながら、ドイツ人のトレッカー夫婦と話をしていた。その時、ドドドーッという低音の地響きが周囲の山々から響いてきたかと思うと、次の瞬間に大きな揺れが襲ってきた。震度は‘4強’か?と思えるぐらいで、東日本地震の震度よりは少し小さいかなと思えるくらいだった。一緒にいたドイツ人夫妻は地震に遭遇した経験が少ないためかパニックに陥って、階段上を右往左往していた。村を見下ろすと、あちこちから叫び声が響き、2か所から土煙が立ち上っていた。白い石積みの壁が崩れたのであろう。階段を降りて下の村に行ってみたら、人々が家から通りに出て不安げにその後の様子見をしていた。しかし、壁の崩れだけで大きな被害も出ていなかったので、「あー、たいしたことがなくてよかった」と安堵した。
 地震の前日からアンナプルナ山群の中に入っているので、携帯電話は不通状態にあった。更に地震の翌日からアンナプルナ山中トレッキングに入ってしまったので、日本との交信は全く途絶えていた。そのため、日本で報道されている地震情報も全く知ることができなかった。「まさか被害があんなに大きかったとは!」と3日後にポカラに帰った時に初めて知った。
 日本にいる家族は、安否確認のため毎日電話とメールを私宛に発信し続けたが、3日間全く通信が取れなかったことから、てっきり地震の被害に遭遇してしまったのではないかと不安な日々を送っていたようだ。わが娘は、外務省に捜索願を出したそうだ。(2015.4.25

ベールを纏うヒマラヤの少女

 ネパール地震の翌朝、麓のタトパニの河原に湧き出る温泉で身を清めた後、アンナプルナ登山道への入口にあたる吊り橋を渡り山中トレッキングを開始した。山道はなだらかな登りが続き、2時間ほどで標高1,700mGharaという村まで登った。そこである少女に出会った。道沿いの家の入口からこちらを見つめている少女の表情がどことなく物悲しく、寂しそうだった。頭から水色のベールを纏い、そのベールに左手を添えて口元を覆っている美しい顔立ちの少女である。「あなたをモデルにして絵を描いてみたいのですが写真を撮らせてもらえますか?1枚につきRs100(約\100)でいかがかな?」と尋ねてみたが、彼女は家の中に逃げ込んでしまった。諦めて100m程歩を進めたがどうしても諦めきれず、後戻りしてもう一度お願いしてみた。すると、「お金はいりません。薬があったらそれを頂きたいのですが」との返事が返ってきた。「何の薬が欲しいの?」と尋ねると、彼女が纏っていたベールを恥ずかしそうに取り除いた。なんと口の周りに黒いひげが生えたように黒い湿疹が現れた。彼女はそれをベールで被って隠していたのだ。今までそのような病気は見たこともなかった。この土地特有の風土病ででもあろうか? リュックの中から薬袋を取り出し何か適当な薬はないかと探したら、‘メンソレータム’があったので、取りあえずそれを手渡した。絵のモデル用にベールで纏った写真を数枚撮らせてもらい、お礼にRs1,000を渡した。「日本に帰って医者に見せたいので、ベールを取り除いた写真も撮らせて」と頼んで1枚写真を撮った。合わせて彼女の名前と住所を聞いて、あとで日本から薬を送ることを約束した。
 13歳ぐらいの年頃の美しい少女の口元を覆っている黒い湿疹とそれを隠しているベールに胸が痛んだ。聞いたところでは、深い山の中で近くに薬局も病院もなく、家が貧しくて医者にもかかれないとのこと。病気になったら薬を飲むか医者にかかるという我々の常識が、ここでは全く当てはまらない過酷な世界であることを学ばされた。(2015.4.26

アンナプルナ東部山域

 後半トレッキングは‘エヴェレスト山域’を予定していた。しかしネパール地震は、震源地からかなり遠いエヴェレスト山域がむしろ甚大な被害を受けた。もし前半こちらに入っていたら、少なからず被害に遭遇したかもしれない。運が良かったとでもいうべきだろう。そのため、エヴェレスト山域は入山規制が引かれ計画変更を余儀なくされた。
 前半の‘アンナプルナ西部山域’トレッキングを終えて、基地としていたポカラに帰った。そこでネットカフェに入り、‘エヴェレスト山域’トレッキングの代替案を探した。一つは‘ムスタン王国’、そしてもう一つが‘アンナプルナ東部山域のマナン渓谷’が候補として絞られた。‘ムスタン王国’は聖地ムクティナートより更に北部に位置し、入域するためには$500の入域料とガイドをつけることが義務付けられているとのことで断念した。そして、残された‘アンナプルナ東部山域のマナン渓谷’を後半トレッキング地と決定した。
 マナン渓谷に至るには2つのルートがある。魅力あるルートは、ポカラから北部ジョムソンまで飛行機で飛び、そこから聖地ムクティナートを通過し、標高5,400mのトロンパス峠を越えてマナンに入る。そしてもう一つは、ポカラからマースヤンディナディ渓谷の崖つたいに100qほどジープで2日かけて登るルートがある。今回は日程的にもきついので、トランパス峠越えの高山病リスクを回避して、ジープで北上するルートを選択した。
 マースヤンディナディ渓谷の崖道ルートは、ジープで進むのであるがかなり心臓に悪そうだ。急峻な崖の中腹を切り開いたジープ1台がやっと通れる崖道を時速6qぐらいの速度でゆっくりと登ってゆく。崖道は大きな岩ころだらけで、運転をちょっとミスしたら谷底へ落下する危険性がある。途中、ジープが大きな岩ころに乗り上げて、クランク・シャフトを破損し動かなくなってしまった。運よく後から来たジープに助けてもらい、すし詰め乗車で先に進むことができた。 後半にアンナプルナ東部山域をトレッキングすることにより、アンナプルナ山域のほぼ一周250qをトレッキングしたことになる。(2015.4.305.4
 

マナン渓谷

 アンナプルナ東部山域におけるトレッキングで最も魅力的なところがマナン渓谷であると言い切れるほど美しい。マナンは標高3,600m付近の広々とした岩場の渓谷の中にある村で、アンナプルナIII峰(7,555m)とガンガプルナ峰(7,454m)の麓の北側に位置する。更に渓谷のはるか南方右側にアンナプルナII峰(7,937m)とIV峰(7,525m)が聳える。
 昼にマナンに到着し、ロッジにチェックインして荷物をおろした。ストックと水だけを携えて更に北にあるヤクカルカ(標高4,000m)に歩を進める。途中、トロンパス(標高5,400m)から帰ってくるロバの群れや、高所の牧草地を求めて移動するヤクの群れに山道を譲りながら、一方でマナン渓谷を見下ろしつつ、7,000m8,000m級の峰々を仰ぎ見ながら、一人神々しい天空の大自然の眺望を満喫した。
 いつまでもこの素晴らしい空間を独り占めしていたいという欲求と、そろそろマナンに帰らなければ暗くなってしまうという夕闇が帰還を督促し始めた。(2015.5.1

5月の雪

今日は、マナンから南東に向かって渓谷を下るポカラへの帰り道トレッキングだ。右手にアンナプルナIV(7420m)II(7937m)を仰ぎ見つつ、比較的広々とした雄大なマナン渓谷を独り占めしながらのトレッキングは最高の気分だ。空には大鷲が輪を描きながらゆったりと舞い飛び、河原ではヤクの群れがのんびりと草を食んでいる。池のような大きな水たまりに逆さに写るヒマラヤの峰々は、水の中でも白く輝き、凛として人を寄せ付けない厳しさがある。
 午前中に晴れていた天気が午後になって雲行きがおかしくなり、ついに3時頃から雨が降り出した。用意したビニールかっぱが役に立つ。その雨は5時頃からさらに雪に変わり、ついに雷の響きを伴って猛吹雪となってしまった。みるみる視界が悪くなり、横殴りの雪が顔を打ち、ビニールかっぱを吹き飛ばしそうになった。しばらく進むと、運よく前方の道端にロッジが現れた。今日はこれ以上進むことは断念し、ここに泊まることにしよう。この村はディクルポカリという集落で、今日の泊まり予定地のチャーメに8qも手前でトレッキングを中断することにした
 5月と言うのに‘雪’とは、さすがヒマラヤであると感心しつつも、この猛吹雪の積雪にここに閉じ込められたら、帰国のフライトに乗り遅れが生じてしまう危惧が頭をよぎった。(2015.5.2

寒村ロッジにて

 吹雪の中でロッジの宿泊客は私一人である。ロッジを営む家族と、薪ストーブを囲みながら一緒に夕食をとることとなった。老夫婦は年齢的に私より若干年上のようで、若夫婦は30歳代のようだ。ここでは若夫婦だけが英語が話せる。会話の行きがかりから、「あなたは何の仕事をしているのですか?」と質問を受けた。「今はほとんど仕事をせずに、ペンション(年金)暮らしです。」と答えると、「日本ではペンションはいくら位もらえるのですか?」と質問されて、「大体月に$2,000ぐらいですかね。」と答えた。すると若奥さんの顔色がさっと変わったことに気づき、あわてて「いや、桁違いしました。月$200ぐらいです。」と言い直した。
 実は、このネパールの一人当たり年間所得は$1,000ぐらいとのことである。このような山間部では更に低く、年間$100ぐらいに下がってしまうそうだ。ペンションも公務員しかもらえないとのこと。ネパールの一人当たり所得は147位と最貧国に属している。就業人口のうち農業人口が74%で、ほとんど工業での職がなく、多くの若者は日本やアメリカ、そして中東などの外国に出稼ぎに行くことしか選択肢がないそうだ。豊かな自然の景観と反比例する極めて貧しい経済事情にあるようだ。生まれた国によって、職業の選択肢も年金もないような過酷な現実があることに胸を締め付けられた。(2015.5.2

泰山鳴動、鼠一匹

  地震から3日後にやっと携帯が通じるようになって、日本の家族と話ができるようになった。日本でのTVで流されたニュースに基づく妻や娘の話からは、「カトマンズ市内は壊滅的で、市民の暴動が起こっているらしいから、カトマンズには入らないように!」と警告を受けた。また、前半トレッキングから帰還したポカラで、ネットカフェのPCで見るYouTubeでも、カトマンズの世界遺産の崩壊や、エヴェレスト山域での雪崩や崖崩れで7,000人近い死者が出ているという。カトマンズ空港も正常に機能していなくて、国際援助隊でさえ着陸できないような事態になっているとのこと。
 
後半のトレッキングを終えて再びポカラにもどり、いよいよ帰国のためカトマンズに戻らなければならない。カトマンズ空港が正常に機能しているかどうかが気がかりで、カトマンズまでの帰りの飛行機を長距離バスに変えた。途中、今回の地震の震源地であるゴルカ付近を通過するので、「崖崩れがあったら困るな」などとバスの中で心配していた。しかし、きわめてスムーズにバスは進行し、地震による破壊箇所はほとんど皆無と言ってもよかった。
 6時間のバスの旅の後、いよいよカトマンズ入りである。さぞかしカトマンズは壊されているであろうと想像していたが、壊れている家はほとんど見当たらない。不思議な気持ちになった。バスは市の中央まで来たが、相変わらず壊れた家は見当たらない。以前泊まったホテルにチェックインし、荷物を置いてから“地震被害家屋探し”のため街に出た。2時間ほど探し回って、やっと6軒の壊れた家を探し当てた。街は暴動どころか極めて整然と機能していた。
 翌日、カトマンズ空港に早めに行ったが、飛行機は定刻通り離陸するとのこと。空港で、ポカラ−カトマンズ間を、飛行機からバスに変えた為に浮いた航空運賃をそのままネパール地震被害救済の募金箱に寄付することにした。
 テレビなどの報道は、往々にして壊れたところだけをセンセーショナルに、それだけを生生しく報道する傾向にあり、視聴者に大きな誤解を与えてしまう懸念がある。“実は、鼠一匹であった!”と娘にメールを入れたら、「うちは子の心親知らずなんだから!」と怒られてしまった。(
2015.5.6
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