■ 2016年に読んだ本
  
海外文学界では今年のベストと推す声の多い本作。読んでみれば、評判通りの大傑作だった。

 時は第二次世界大戦のさなか。フランスの激戦地サン・マロで一人の少女と少年が出会う。少女はフランス人のマリー=ロール。幼い頃に視力を失いながら、優しい父と共にパリで暮らしていた。やがて戦火を逃れ、海岸沿いの町サン・マロに住む大叔父の家にたどり着く。かたや少年はドイツ人のヴェルナー。貧しい炭鉱町で両親を亡くし、妹と共に孤児院で暮らしている。物事の仕組みを解き明かす才に恵まれた彼は、自分でラジオを修理し、孤児院で聞いていた。その才能を見出した政府高官の援助により、ヴェルナーは士官学校へと進む。そこで理不尽ないじめや捕虜の虐殺を目にしながらも、無線技術の才能を開花させ、やがて若くして戦場へと駆り出される。無線機で受信した電波からヴェルナーが送信機の位置を割り出し、チームで攻め込んで一掃する。ヴェルナーは自分の開発した技術が人殺しの道具に使われている現状を見て苦悩にさいなまれる。いっぽう、マリー=ロールはレジスタンスに加担し、伯父宅にあった無線機から機密送信をおこなっていた。危険な送信を続ける彼女の元に、やがてヴェルナーも迫りつつあった――。

 新潮クレストブックスと言えば海外純文学の名作を揃えるシリーズとして名高いが、本作は純文学というよりエンターテインメントと言ったほうがしっくりくる。圧倒的なスケールの物語性・ドラマ性を備え、読者に本を置かせない。500ページを超える大著ではあるが、一気に読めてしまう。
 第二次大戦下における一市民を描いた作品という点では、映画『この世界の片隅に』とも通じる。くしくも、主人公の年齢や描かれる時代(1930〜1945年あたり)などもよく似ている。この二者が、同じ2016年という年に出てきたことに大きな意味合いを感じてしまう。


★本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。今回は、2パターンを提出しました。

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【パターンA】
 冒頭からいきなり、緊張感みなぎる戦場のシーンで幕が開く。1944年8月、フランスの港町サン・マロ。通りを五つ隔てた二つの建物に、少女と少年が身を隠している。次第に激しさを増す空爆。そして物語は一気に十年をさかのぼり、彼ら二人がこの地に導かれた経緯を丹念に追っていく。
 少女の名はマリー=ロール・ルブラン。六歳の時に視力を失い、博物館に勤める父親と共にパリで暮らしていた。父親は娘が一人でも自由に歩けるようにと、町の精巧な模型を造り、それを触って街路を覚えさせる。
 徐々に戦局が悪化するなか、父親は博物館の至宝〈炎の海〉を手に、娘を連れてパリを離れる。各地の名だたる財宝を狙うナチスの手から守るためだ。ところが指示された場所は既に敵軍の手に墜ちていた。二人はさらに海沿いへと移動し、サン・マロに住む大叔父の家に転がり込む。
 いっぽう、ドイツの炭鉱町に生まれた少年の名はヴェルナー・ペニヒ。両親をなくし、幼い妹と共に孤児院で暮らしていた。物事の仕組みを解き明かす才に恵まれた彼は、自分で修理したラジオで毎日、外国からの放送を聞いていた。あるとき、政府高官宅のラジオを直した縁で、国立学校への入学を勧められる。意気揚々と通い始めた学校では、教育と称して理不尽ないじめや捕虜の虐殺に加担させられ、生徒たちは次々に学校を去っていく。自分の選んだ道は間違っているのではないか。疑問を抱えるヴェルナーを支えたのは、無線技術の研究だった。彼の技能を認める博士と共同で、受信電波から送信機の位置を割り出す装置を開発していたのだ。やがて装置は実用化され、ヴェルナーも若くして戦場に送り込まれる。彼が無線で突き止めた潜伏地にチームで乗り込み、敵兵を討伐する。ヴェルナーは、自分の技術が人殺しに利用されている現状を目の当たりにし、罪悪感に苛まれる。
 その頃、サン・マロでは、住民達がレジスタンスに参加し始めていた。マリー=ロールもまた大叔父宅にある無線送信器を使い、機密情報を流していた。実は戦前にはここからラジオ番組を放送しており、ドイツにいるヴェルナーが聞いていたのもその放送だった。やがて、ヴェルナー達一行はロシアからオーストリア、ドイツを抜け、サン・マロへと近づいていく。危険な放送を続けるマリー=ロール、送信機を探索するヴェルナー。彼らの危うい邂逅は目前に迫りつつあった――。
 盲目ながら周囲の愛情を一身に受け、自分の力で生きる術を授けられたマリー=ロールは、一貫して揺るぎがない。かたやヴェルナーの人生は苦悩の連続だ。彼が政府高官の家に呼ばれるシーンは、たまらなく切ない。ラジオを直したことで技術を認められ、褒美にもらったケーキはこの上なく美味しく、国立学校への推薦までしてもらう。将来の見えない炭鉱暮らしから、一夜にして未来が開けたのだ。孤児院に帰り、いつもの粗末な食事をとる彼には、急にこれまでの生活全てが惨めで価値のないものに思えてくる。そしてヴェルナーは、自分が直して大事に聞いていたラジオを、自分の手で叩き壊すのだ。
 題名にある〈見えない光〉は、様々な象徴として現れる。最も直接的には電波だ。ヴェルナーとマリー=ロールを繋いだのは、電波という〈見えない光〉だった。マリー=ロールの盲目の人生、ヴェルナーの先行きの見えない人生の暗喩ともとれる。さらに、言葉だけを追うことで壮大な物語を構築する読書という行為も、脳内に見えない光を灯す作業と言えるのではなかろうか。それは、マリー=ロールが町の模型を触って頭の中に街路を構築する作業と似ている。緻密な描写から再現される詩情豊かな作品世界。そして、正にそこに存在するかのように造形される登場人物たち。彼らの姿が立ち現れるとき、私達の脳内にも一つの見えない光が灯されている。
(20字×79行 新聞書評)

【パターンB】
 第二次大戦下のサン・マロで出会う、少女と少年。少女の名はマリー=ロール。六歳で視力を失い、父親と二人でパリに暮らしている。父親は娘のために街路の精巧な模型を造り、娘に触らせる。
 ある日、娘を外に連れ出した父親は言う。〈さあ、ここはぼくらが毎朝歩いてくる道だよ〉〈知ってるわ、パパ〉〈家に連れていってくれ〉彼女の口はあんぐりと開く。〈模型をよく思い浮かべてほしい〉〈そんなのむりよ!〉〈落ち着くんだ。一センチずつでいい〉〈遠いわ、パパ〉〈筋道をたてて考えるんだ〉 マリー=ロールは、徐々にではあるが一人で町を歩けるようになる。
 戦況が悪化するなか、父親は娘を連れてサン・マロに住む大叔父宅に逃げ込む。やがて父親は捕えられるが、残されたマリー=ロールはレジスタンス運動に加担し、大叔父宅にあった送信機から機密情報を流し始める。
 かたや、少年の名はヴェルナー。ドイツの孤児院で暮らしている。ラジオの修理が得意な彼を、孤児院の先生はいつも〈きっとあなたはすごいことをやり遂げる〉と励ましてくれる。ある日、政府高官の強い推薦を受け、国立学校の入試を受けることになる。〈歴史は勝者の言い分だ。我々は自分たちの自己利益のために行動する。そうでない人間や国家をひとつでもいいから言ってみてくれ〉
 意気揚々と通い始めた学校だが、陰惨ないじめを目にし、捕虜を平気で惨殺する理不尽な教育を受けるうち、〈学校は安全ピンを抜いた手榴弾のように〉思えてくる。〈なにか巨大でうつろなものが、彼らすべてを食らい尽くそうとしている〉なか、生徒達は、〈我らは一斉射撃される弾丸なり〉と歌う。〈起床して短上着のボタンを留めるたびに、なにかを裏切っているように〉感じていたヴェルナーは、得意な無線技術の開発に没頭する。導いてくれた博士は言う。〈科学者の仕事とはふたつの要因によって決定される。本人が持つ興味と、その時代が持つ興味だ〉。研究を共にする先輩はヴェルナーを見下ろしながら問う。〈おまえはどこまでやれるかな?〉
 戦場に駆り出されたヴェルナーは、自分の開発した装置が人殺しの道具にされていることに愕然とし、幼い妹の言葉を思い出す。〈ほかのみんながしているからって、同じことをするのは正しいの?〉 ヴェルナーは心の中で反論する。〈言われたとおりに行動し、恐れ、自分のことだけを考えて動いている。そうでない人間や国家を、ひとつでもいいから言ってみてくれ〉
 やがてサン・マロにたどりついたヴェルナーは、マリー=ロールの流す電波から、その送信元を突き止める。爆撃により閉じ込められた地下室で、彼は思う。〈選ぶ権利などないようなふりをして〉〈ただ眺めていたのは〉自分だった。〈結果が降りかかったときに傍観していたのも〉、〈強欲な悪夢が繰り返し起きるのをただ眺めていたのも〉やはり自分だった。彼はそこで初めて、小さな選択をする。
 やがて戦争は終わり、長い年月が過ぎる。かつてヴェルナーと行動を共にした男が、閉鎖された炭鉱近くの町を訪れる。
〈最後に彼を見たのは〉〈フランス北岸の、サン・マロという街でした〉〈そこにひと月いました〉〈彼は恋に落ちたのだと思う〉
(20字×68行 文芸誌)
2016年12月 「こちらあみ子/今村夏子」 (筑摩書房・文庫)
いろんなところでの評価が高く、ずっと前から気になっていた一作。実際読んでみたところ、やはりすごい小説だった。あみ子は発達障害を抱えた少女で、彼女の“普通とは違った”振る舞いが周りとの軋轢を生み、騒動を引き起こすのだが、これがあまりにリアルで切ない。悪意はまったくなくても(むしろ好意からおこなったことでも)、人に決定的な打撃を与えることがある。これをどうしたらよいのか、すぐに答えは出ない。この作者はなんてことを書いてしまうのだろう、と薄ら寒く思えるほどだ。
 併録の「ピクニック」は、なんだか起伏の少ないほんわか小説にも読めてしまうが、こちらもなかなかに怖い内容だ。有名芸人と付き合っている七瀬さんが、職場のバーに勤める女の子たちと交流する。「ルミたち」と常に複数形で語られる他者と七瀬さんの距離感が絶妙で、人の優しさと冷たさについて深く深く考えてしまう。
2016年11月 「廻廊にて/辻邦生」 (小学館・単行本)
辻邦生作品を初めて読んだ。率直に言って、楽しむことはできたが問題点もいくつかある作品だと思った。
 マーシャという女性画家の半生を、彼女からの手紙、語り手の所感、別の友人から聞いた話など、様々な側面から重層的に描いており、物語に厚みを与えている。描写が緻密で美しく、まるで翻訳小説(とくにフランス心理小説)を読んでいるようだった。
 本作のテーマは、マーシャの人生を通して「生きるとは何か」を探求した点にあると思うが、その割にマーシャの行動原理には矛盾がかいま見える。寄宿学校で見た荒ぶる景色に衝撃を受け、人間の肉体性(食べなければ生きていけない、死ねば存在しなくなる等)を感じ、それに対する圧倒的な自然(抵抗しがたいもの。死を含む)の前の無力感を痛感するのだが、その後、とくに自分から行動を起こすでもなくただ受け身の人生を続け、穏やかな農村での暮らしに活路を見出すも、夫の浮気&離婚により挫折する。そしてラスト、中世美術館のタピストリを見てとってつけたように「自分が存在したことだけで意味があるのだ」と悟るというのは、やはり納得しがたい。
 僕は、マーシャよりも、寄宿学校で出会うアンドレの考え方に共感した。生きることは肉体の感覚であり、死を間近に感じることで生の喜びが味わえるのだ、と彼女は言う。生は危険だからこそ高貴であり、この世で頼れるものは自分自身しかないと思えた時に初めて、自分への敬意、自信が湧く。だから常に危険なことを望んでおこない、最後は飛行機事故で亡くなっていく。アンドレの行動原理は一貫しており、彼女の登場シーンがこの小説でいちばん面白い部分だった。
 それから、ほぼ同時代を生き、同じようにフランス文学を志した作家・遠藤周作と比較してみるのも面白い。辻も遠藤も同じようにフランスに留学するが、遠藤は挫折を味わい、西洋に対するコンプレックスを生涯抱き続けた。いっぽう、辻邦生のほうは西洋や西洋美術に対する、無邪気なまでの憧れが伺える。例え陰鬱な光景を描いていても、どこかそうした憧憬がにじみ出てくるのだ。
 無邪気と言えば、著者の主張をあからさまに登場人物に喋らせるのも、小説としての瑕疵だと思う。場面展開のためにあり得ない偶然を持ってくるところも、こなれていない。ただ、本作はデビュー作なので、この後に書かれた小説においては、そのあたりは変化していくのかもしれない。他の作品を読むかと言われれば微妙だけれど。
2016年11月 「堆塵館/エドワード・ケアリー」 (東京創元社・単行本)
「すっごく面白いよ」と勧められて読んだら、すっごく面白かった。19世紀のロンドンが舞台。郊外にゴミの山ができており、その真ん中に建つ屋敷が、塵(ちり)が堆積する館と書いて「堆塵館(たいじんかん)」だ。館にはアイアマンガーという一族が住んでいて、主人公となる15歳の少年クロッドをはじめ、彼の伯父や伯母、いとこなどの血族が暮らしている。彼らはそれぞれ、「誕生の品」と呼ばれる小物を持っている。クロッドの場合は浴槽の栓で、他にも蛇口や靴べらなど、およそ大したものではないが、全員が大事に持ち歩いている。クロッドはこうした物が自分の名前を呟く声を聞く特殊能力を持っている。ある日、伯母のロザマッドが自分の誕生の品であるドアの取っ手をなくしたことで騒動が起こる。クロッドは声を頼りに屋敷を探して回るが、そこでルーシーという少女と出会う。彼女は地下階に住む召使いだ。彼女らはアイアマンガー家の遠縁の者たちで、クロッドたち純血の一族とは会話も許されていない。それでも二人は禁を破って言葉を交わし、クロッドは勝ち気なルーシーに惹かれていく。やがて物達が不穏な言葉を呟くようになり、騒動は加速していく――。
 とまあ、次から次へと物語が展開していき、飽きさせない。そしてクライマックスでは名前の持つ本当の意味が明かされ、まさに世界がひっくり返るのだ。これほど純粋に面白い小説を読んだのは久しぶりで、夢中になって読んだ。漢字にはルビが振ってあるから子供でも読めると思う。広く読まれて売れてほしい。実は本作は三部構成の一冊目であり、壮大な物語はまだまだ続くのだ。なのに二冊目以降の刊行は未定で、この本が売れないと出版されないかもしれないらしい。

★本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 なぜだか台所に植木鉢が置いてあるから脇によけようとすると「うぎゃっ」という悲鳴と共に「植木です!」って声がして、やっぱり植木だ植木がしゃべっとるこりゃどうしたもんじゃと見守るうち「植木しづ江です!」と言われてよく見ればそれはいつも来てくれるヘルパーの植木さんで、流しの下の重曹を取ってたんですよ全くもう、とえらい剣幕で怒られたのが先週のこと、今日は部屋に来るなり真壁さんこれでも読んで人と物との区別くらいつくようにして下さい、と渡されたのが不思議な館と陰気くさい少年が表紙のこの本である。題名は堆塵館(たいじんかん)。塵(ちり)もつもれば館となる、か。時は1875年、ロンドンの郊外にはゴミがうず高く積まれ、その真ん中に屋敷が建っている。そこには由緒正しきアイアマンガー一族が暮らしており、表紙の少年がクロッドという名でまだ十五歳だそうな。彼は浴槽の栓が「ジェームズ・ヘンリー・ヘイワード」と喋るのを聞くのだけれど、これは人と物とを間違えているわけじゃなく物が自分の名前を呟いており、クロッドだけがそうした物の声≠聞く能力を備えている。こしゃくなガキだな。クロッドを含め屋敷に住む者には全て、生まれた時に〈誕生の品〉が与えられる。いじめっ子モーアカスには勲章(ローランド・カリス)、ティムフィ伯父さんには呼子笛(アルバート・ポーリング)。他にもインク壺や靴べらなど、およそ大したものじゃないけれど誰もが肌身離さず持ち歩き、クロッドはそれらの物が自らの名前を呟く声を聞く。
 屋敷の地上階に住む彼らに対し、地下階は召使いの暮らす世界だ。召使いもアイアマンガーの遠縁に当たる人々だが、血の薄さゆえに純血の一族とは隔離され、話すことさえ禁じられている。ここに孤児院から連れて来られるのがルーシー・ペナントだ。勝ち気な彼女は屋敷の規律にことごとく反抗し、執事達を困らせている。
 騒動は、ロザマッド伯母さんが誕生の品であるドアの把手(とって)をなくした日に始まる。クロッドは把手の呟く声を求めて探し回るが、一向に見つけられない。やがて館内の様々な物が名前以外の言葉を発し、不穏な動きを見せ始める。探索を続けるクロッドは暖炉掃除で階上にいたルーシーと出くわし、禁を破って言葉を交わしてしまう。逢瀬を重ねるうちルーシーに惹かれていくクロッドだったが、ある日、彼女のもじゃもじゃ頭の中から微かな声を聞き取る。それは紛れもない、探していた把手の呟く声だった――。
 とまあ、物語はテンポよく展開していくわけだ。冒頭、ゴミ山に建つ奇怪な館という舞台設定だけでも心躍るうえ、実在するロンドンという街からルーシーが列車で連れて来られるとき、読者もまた現実世界から小説世界へと引きずり込まれていく。なんと巧妙な仕掛けだろう。この著者はあれだな、わくわくを生み出す天才だな。著者自身の手による挿絵を見てわくわく、ボーイミーツガールにわくわく。話が進むにつれ、一見地味なクロッドの能力も意味合いを深めていく。なぜ物が自分の名前を呟くのか、そもそも誕生の品とは何なのか。名前の持つ秘密が物語を動かし、わくわく感はいや増すばかり。さらには、汚いゴミ屋敷に住んでいるのが高貴な一族という逆転の発想。クロッドの能力が最大限に発揮されるとき、正に逆転によって物語はクライマックスを迎え、名前の持つ本当の意味が明かされる。ところがそこで本書のページは尽き、残りは第二巻へと続くのだ! こんな面白い小説をむりやり中断させられたうえ続編の刊行が未定だなどと、待ちくたびれさせて殺す気か。ところで本作は老若問わず読める小説だから娘に勧めてみたのだが、何度話しかけても返事をしない。妙に体が丸くて固くなったなと思っていたら、頭からぽっぽと湯気を出しながらようやく返事をしてくれた。
「ご飯が炊きあがりました」と。変な声だな。
(20字×80行 プレジデントファミリー)
2016年11月 「母という病/岡田尊司」 (ポプラ社・新書)
生きづらい人生を抱えた人は山のようにいて、その原因の大半は親の影響ということには大いにうなずける。本作はそのうち、母親の悪影響について書かれている。(ちなみに同著者の『父という病』という作品もある。)
 心理学関連の書籍はほとんどがそうだが、エッセイ的にだらだらと論を進めていく傾向がある。これを読みやすいからいい、と思う人もいるかもしれないが、まとまりがなく、ポイントがよくわからないと思う人もいるだろう。僕は後者のほうだった。特に前半において、具体例とそれに関する考察が続くため、例示はもういいから考察結果をすっきりまとめてほしいと思いながら読み進めた。
 だが、後半に入るとそうした考察結果や具体的な改善方法などが語られるようになり、読み応えは増す。親からひどい虐待やネグレクトを受け、そのせいで人生を台無しにされたような人は、本書が助けになるだろう。自分の人生の貧しさ、ねじくれた性格の原因が親にある、と気づいていない人は、本書で気づかされることは多いはずだ。ただ、僕はそうした“明らかな親の暴力”にさらされた人より、親からの一見優しいように見え、しかもそれが愛情表現だとされるような過干渉によって自我を確立できない人のほうが多いと思っていて、そうした人の話をもっと読みたかった。
前に読んだ『優しい鬼』にいたく感動したので、それよりも前に書かれた本作を読んでみた。著者のレアード・ハントの作品は、この二作だけが邦訳されている限りと、かなり寂しい状況だ。
 『優しい鬼』と同様、アメリカ南部が舞台で、題名の通りインディアナ州に住む、ノアという男性が主人公。状況や人物関係が最初は説明されず、詩的な言葉が続くため、なかなか物語に入りづらい。ただ、ノアの語りや回想、オーパルという女性からの手紙などが断片的に散りばめられる中で、物語の概要が少しずつ少しずつ明らかになっていく。一見平凡に見えた彼らの人生に、一言では片づけられないドラマが秘められていることがわかってくると、もう読むのを止められない。
 どうしようもない現実の前で、人は無力だ。そして、優しさから出た行為が、時に人を打ちのめし、人生をねじ曲げていく。本当に美しく、哀しく、温かい小説だ。これほど豊かな情感を引き起こされる小説を他に知らない。
今や日本で最も力のあるスポーツブランドといえばナイキだろうが、僕が学生の頃、特に1980年代あたりはアディダスとプーマが二大勢力だった。この二社の歴史をたどっていくと、ドイツのダスラー兄弟商会に行き当たる。兄ルドルフと弟アドルフ、二人の共同経営で靴の販売を始めたのだが、やがて二人は戦時の混乱が元で仲違いをする。ルドルフがプーマを、アドルフがアディダスを立ち上げるのだ。本書では彼らがいかに経営を軌道に乗せていくかが描かれる。もちろんきれいな方法ばかりではなく、人気選手と契約するため、札束が舞い踊る。やがて時代は移り、兄弟の息子がそれぞれ家業を引き継ぐ。商才があったのはアディの息子、ホルストのほうで、アディダスの業績はプーマを大きく引き離していく。だが、ホルストが引退する頃にはアメリカから新勢力のナイキが台頭し、その後はアディダスもプーマも経営権がダスラー家を離れ、低迷の時代へと突入する。
 まあとにかく、膨大な取材量と文章の密度に圧倒される。核となる経営者を中心に、周辺の様々な人物達が入り乱れ、それが小説のように細かく描写されていく。さらに、オリンピックやサッカーW杯でいかに選手やチームの契約闘争が繰り広げられたか、有名な選手達がどう対応したかなど、自分の知っている歴史にリンクしていくので、読む興味が尽きない。ただ、あまりにも登場人物が多くて疲れてしまうのと、徐々にアディダスもプーマも下降路線に入っていくので、後半はだれてしまう。それでも、スポーツ業界の一面を鋭くえぐりとった良書だと思う。
2016年10月 「さよならインターネット/家入一真」 (中央公論新社・新書)
先の都知事選に立候補した、あの家入氏である。著作を読むまで、その経歴もほとんど知らなかった。
 著者は、元ひきこもりでインターネットに救われたという経験から様々なネットサービスを立ち上げる。本書の前半では、著者がネットにいかに関わってきたかが紹介され、それがネット社会そのものの歴史となっている。黎明期にはブラウザを立ち上げる前に「ピーヒョロロ」というモデムの接続音を聞いたものだとか、あるあるネタが連発して楽しめる。知っているサービス名が出てくると、これも著者の仕事だったのか、と驚くこともしきり。
 後半では、ネットの現状の負の面が語られる。意図しないうちにSNSで居場所を公開されたり、通販システムに自分の好みを知られたり、少しでも不都合な言動をすればネットの監視人が見つけて吊し上げられたりなど、いかに危険な状況に陥っているかが説明され、タイトルの「さよならインターネット」、となる。
 ただ、完全にネットから離れましょうという提言ではなく、最終的には、現実社会に足を置きながらうまくネットと付き合っていきましょうという、無難なというかそこにしか落としどころはないという感じで終わるので、思ったほどの衝撃はなかった。
ふと、不思議ちゃんってどういう存在なんだろう、と思い立って読んでみた。1980年代から本書発売の2012年あたりまでにおいて、少女達を取り巻く状況が社会的にどう推移していったのかが語られる。非常に興味深かったのは、不思議ちゃんと呼ばれる女性像が、世相に従って変わっていくところ。1980年代、アイドルは性から切り離されていた。例えば、松田聖子に彼氏はいなくて、セックスアピールもしない、もっと言えばウンコもしない、なんていうイメージが実際にあった。そういう“売り方”だった。その時代、不思議ちゃんと呼ばれたのは、戸川純だった。彼女はウォシュレットのCMで注目される。排泄を意味するCMに堂々と出演し、画面にお尻さえ向ける少女に、人々は動揺した。彼女は歌も歌っており、例えば「玉姫様」という歌の歌詞を見ると、「ひと月に一度、座敷牢の奥で 玉姫様の発作がおきる」と、もろに生理を比喩した内容だった。
 80年代後半に現れたのは松本小雪だ。当時の人気番組「夕やけニャンニャン」の司会者だった彼女は、きゃーきゃーと騒ぐ少女達をよそに、無表情で突っ立っていることが多かった。彼女はその頃、ヌード撮影もこなしていて、糸井重里との不倫を暴かれるなど、やはり性に奔放な印象があった。
 いっぽう、90年代に入ると、新しい不思議ちゃんが現れる。篠原ともえだ。彼女の服装はまったく女性を感じさせず、会話からも性のニュアンスは一切排除されている。時代はブルセラや援交が問題となり、アイドルでも堂々と恋人の存在を明かしたりしていた。つまり、少女達の大勢が“非・性的”だった時代には、その反動として性的な女性が不思議ちゃんと呼ばれ、性があからさまになった時代には逆に性を売り物にしない少女が不思議ちゃんと呼ばれる。不思議ちゃんを探っていくと、その反面を通して世相が見えてくる、という図式だ。
病気をテーマに、英米文学の珠玉の短編が集められている。こうしたアンソロジーを読むことは少ないが、非常に楽しめた。収められた一作一作がそれぞれ個性的で、読み応えがある。編者である石塚久郎氏のチョイスが素晴らしいのだ。病気がテーマだからといってさほど深刻な作品ばかりでなく、ユーモアと感動に満ちている。じっくり読むには本当にお勧めの一冊だ。

★本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 往々にして病は突然に襲いかかり、人生を大きくねじ曲げていく。そのドラマチックさ、非情さにおいて文学と病は相性抜群である分、安易に取り上げるといかにも浅薄な代物になる。その点において本作は、医学にも精通したイギリス文学者・石塚久郎氏によって厳選された短編集だから間違いはない。九つの病名ごとに一〜二編ずつ、合計十四編からなる作品群は、その格調と読み応えにおいていずれも一級品ばかりだ。
 病名〈梅毒〉の項に置かれるのは、コナン・ドイルの「第三世代」。症状や診療の描写は医者でもあるドイルの真骨頂であり、結婚を控えた青年が病魔に冒され絶望するさまが、真実味を伴って胸に迫ってくる。
 不眠症の項には、ヘミングウェイの「清潔な、明かりのちょうどいい場所」が並ぶ。日付も変わる深夜のカフェ。年長の店員が不眠の苦悩を若い店員に聞かせている。二人の噛み合わないやりとりについ笑ってしまうが、不眠症とて立派な病気なのだ。名人芸とも言える会話劇で更けゆく夜の一瞬をとらえ、短いながらも深い味わいを醸し出す一作だ。
 これが初の邦訳となるのは、ジャック・ロンドンの「コナの保安官」。今では想像もできないが、かつてハワイはハンセン病にまみれた土地だった。筋骨隆々の巨躯と立派な心を持つライト・グレゴリーは、欲しい物など何も残されていないほど満ち足りた生活を送る保安官。ある日、ハンセン病患者の行方を追っていた彼は、患者の兄から「お前だってハンセン病だろう」と告げられ、激昂する。冗談で済まされる言葉ではないからだ。けれど、完璧に思えた人生にも非情な運命は訪れる。彼の顔には、病の兆しがくっきりと現れていたのだった――。
 こうして作品を読み進めるにあたり、巻末に付与された解説が実に有用な手引となる。病気や医療の歴史、それらの小説への影響などが紹介されており、読書の楽しみが何倍にも引き伸ばされるのだ。例えばワシントン・アーヴィングの「村の誇り」では結核を患う少女の悲劇が描かれるが、結核の正体が未解明だった頃の作品とあって、そこには美しいまま果てていく良き死∞美しい死≠フイメージがある。その後、病気の解明が進むにつれこのイメージは崩れ去り、結核は嫌悪の対象となっていく。そんな時代に書かれたのがサマセット・モームの「サナトリウム」だ。鋭い切れ味を見せる掌編群にあって、本作は結核療養で滞在する人々の姿を丹念に描き、じっくり読ませる一編となっている。老境に達したマクラウドとキャンベルは、罵り合いながらも一緒に食事をとり、ブリッジに興じる。いがみ合っているようで実は互いに依存しているのだ。若く美しいミス・ビショップに言い寄るのはテンプルトン少佐。四十歳にして軍務から身を引き、競馬にカジノに女にと、無意味で無益な人生を送っている。彼の甘言にミス・ビショップは冷静さとユーモアで対処し、彼が一線を超えようとする時には頑としてはねのける気概があった。二人と食事を共にするヘンリー・チェスターには、月に一度訪ねてくる妻がいた。来訪を心待ちにしながら、いざ妻を目にするや彼は不機嫌になり、健康な姿への嫉妬から彼女を罵倒する。苦しみは人を高貴さから遠ざけ、狭量でわがままにするばかり。ところが、卑小な男に思えたテンプルトンだけは自らの運命を受け入れており、その姿はやがて療養所内に驚くべき変革をもたらしていく――。
 その他、神経症患者から見た世界のありようが綴られる「黄色い壁紙」、麻酔なしで手術を受ける女性の気丈さを描いた「癌 ある内科医の日記から」、自分は病気ではないかとしきりに検査をねだる、O・ヘンリーらしいユーモアに溢れた「脈を拝見」など、多様な作品が並ぶ。人の本性をえぐり出す病は時に凄惨だが、そこに人間の不可解さと可能性が共存している。覗いてみて損はない。
(20字×80行 新聞書評)

朝倉かすみを読むのは2作目。先に読んだ「田村はまだか」とは作風がかなり違っていて驚いた。ほのぼの系だった「田村は〜」に比べ、やや幻想怪奇風味も混ざった、かなり辛辣な少女小説となっている。5作が収められた短編集で、すべて小学校5〜6年生の少女が主人公だ。日常の生活の中にふとした“不思議”が割り込み、それが彼女らに試練を与える。著者はかなり加虐趣味なのかと思わせるほど、その仕打ちは非情だ。ただ、その裏に潜むテーマを僕が掴み切れていない気もする。なかなかに手ごわい作家になってきた気がするので、他の作品も読んでみたい。

★本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 当人の実力いかんに関わらず、確固たる自信を持った人間には一定の迫力があり、その意味でみなぎる体力と性的魅力を武器に闊歩する女子高校生を前にしては、我々おじさん世代など尻尾を巻いて退散するしかなく、それは彼女らを見るこちら側に「とにかく少女というのは自信満々で揺るぎないのだろう」という想像が働いてしまうからなのだが、そんなもんお前らの思いこみじゃー、と朝倉かすみが殴り込みをかけてきたのが本作『少女奇譚 あたしたちは無敵』である、とこれも想像に過ぎないのだけれど、あるいは「女の敵は女」と言われるとおり朝倉さんも同性ながら自信満々の彼女らを見て、「“いい思い”をしているあいつらに復讐したい」というねじくれた願望が芽生えたのか、そこまでいかずとも、「ああいう“イケてる”少女ばっかりだと思わないで」と世間に訴えたかったのか、とにかく奇譚(=不思議な物語)という枠組みの中で、なかなかに辛辣な役目と状況を少女らに担わせているのがこの短編集である。
 まずは冒頭の「留守番」。両親に留守番を頼まれた小学五年生の卯月は、ふとテレビの奥の薄闇に手を差し入れる。部屋の隅に斜めに置かれたテレビの後ろ、三角形の空間。彼女は昔からそこが気になって仕方がないのだ。キュリオシティ・キルド・ザ・キャット。そんなことわざを知っていたら、彼女の運命もまた違っていたかもしれない。
 二作目の「カワラケ」は、少女と母親の物語。井垣家の娘には代々、年頃になるとカワラケと呼ばれる現象が起こる。顔がカチカチに固くなり、それが剥がれると美しい女性に変貌するのだ。小学六年生の藍玉(らんぎょく)にもその兆しが現れ、〈おほーばの家〉に閉じこめられる。ここで藍玉はカワラケの期間、一人で過ごさなければならない。かいがいしく面倒をみる優しい母親はカワラケを迎えた娘に何を思うのか。とぼけた味わいながら鋭い切れ味も伺わせるラストが秀逸だ。
 こうしてどの作品も主人公を小学五〜六年生の少女に設定し、無敵の存在になる前に彼女らに一泡吹かせたい、成長してしまう前にその芽をむしり取ってやりたいという著者の黒い願望がにじみ出ている、などとこれまたおじさんの想像話で申し訳ないが、様々な意味で“落ちて”いくばかりの少女達を、最後の「へっちゃらイーナちゃん」で“昇らせて”くれるあたり、救いの手を差し伸べているかと思いきや、更に深い闇に落としてとどめを刺す前触れとも思え、著者の真意は探るほどに深く、つかみきれない。いずれにしても表題作「あたしたちは無敵」の主人公リリアに対する著者の“仕打ち”は強烈だ。リリアは二人の友人と共に特別な能力を宿す玉を見つける。容姿や成績で二人に劣る彼女は、この能力だけは自分が一番でありたいと願う。友人とは人生のライバルでもあるわけで、完全に優位に立てないにせよ6勝4敗くらいで勝ち越しておきたいという気持ちは誰しも経験があるだろう。ところが順調に能力が発動する二人に対し、リリアには一向にその気配が訪れない。絶望した彼女は二人に、〈なんかごめん〉〈あたしには何の能力もない〉と泣いて謝るのだ。これだけで相当に切ないのだが、リリアにはさらに重いテーマが突きつけられる。詳しくは明かさないが、例えば死にかけて助けを求めているたくさんの人がいるとする。自分の親や知人、ペットの猫もいる中で、誰をまず助けるのか。命の重さは同じだとすれば人も猫も同様に助けるべきだろう。そこへ昆虫大好きなA君がやってきて言う。「虫だって同じ命だよ。死にそうな虫を助けてよ」。するとお魚好きのB君もやってきて言う。「もちろん鯉や鮒も大事な命だから助けてくれるよね」。さあどうする? 朝倉かすみは、こんな重たいテーマを小学六年生の女子に背負わせて平気なのか? さあ、リリアはどうする? あなたならどうする?
(20字×80行 TV雑誌)

2016年 9月 「代書人バートルビー/メルヴィル」 (国書刊行会・単行本)
先月に読んだ「書記バートルビー/漂流船」(光文社)が僕には今ひとつ理解が及ばず、書評講座でも苦言を呈されてしまったため、別訳のこちらを読んでみた。初読において僕は、その不条理性を現代のコミュニケーション不全とつなげて捉えた。つまり、世代や性別が違えばその行動は理解不能ともなるが、彼らなりの理屈があるはずで、それを考えるべきだ、という感想を持ったのだ。今回読んで感じたのは、バートルビーが、世間のお約束ごとを徹底的に拒否しているのではないかということ。つまり、一般社会において、行動様式はある程度定まっており、多くの人がそれに従って行動している。その決まり事に反旗を翻しているのがバートルビーなのではないかと。これだけ極端だとかえってそこがわかりづらいのだが、その徹底ぶりを通して何か訴えかけてくるものがある。まだ僕にはつかみ切れてはいないが。
 ちなみにバートルビーには数多くの翻訳版があり、決めゼリフの訳し方もそれぞれ違う。光文社版の「しないほうがいいと思います」が、この国書刊行会版(訳:酒本雅之)においては、「せずにすめばありがたいのですが」となっている。こちらを推す声も聞くが、僕には判断しがたい。「せずにすめばありがたいのですが」だと、相手に返答を促しているようで、収まりが悪い気もする。光文社版の「しないほうがいいと思います」も悪くないと思う。
2016年 9月 「天の夕顔/中河与一」 (新潮社・文庫)
「純愛を描いた傑作」とネットでも非常に評判が高く、期待していたのだが、僕には純愛を描いた作品というより、軽薄で自分勝手なダメ男を描いた小説としか思えなかった。つまり、太宰治の『人間失格』と同じ路線だ。なにしろ、思い慕う女性を「愛している」とか口では言いながら、実にのらりくらりとしたその場しのぎばかりで、行動がまったく伴っていないのだ。
 僕は別に、肉体関係を結ばないのが清く正しい純愛だなんて思わない。男女の恋愛において、セックスを想起しないほうが不自然だ。人間はそのように(体を求め合うように)できているのだから。その意味で、この男が彼女に手を出さないことが“良いこと”だとはぜんぜん思わない。
 いっぽう、彼女から拒絶をされた男は、彼女を思いながら、たまたま知り合った若い娘に惹かれ、簡単に肉体関係に及ぶのだ。これだけでも呆れてしまうのだが、挙げ句に男は、例の女性に二人の結婚を許してもらいに会いに行く。完全に頭がどうかしている。それも、もう逢えないと言われたのも構わず女性の家に押しかけ(そうやって勝手に会いに行くシーンが他にも何度もある)、彼女に「その子と結婚してあげなさい」と言わせてしまうのだ。
 そして、本作で僕が最も驚いた展開がやってくる。結婚した娘はすぐに病気にかかり、しばらく男は看病をしてあげるのだが、やがてそれが嫌になり、あっさりと娘を捨ててしまうのだ! 極悪非道。人非人。こんな男に愛を語る資格などない。その後、世を捨てて山にこもり、自分はここで生きていくのだ、と誓ったはずが、何年か過ぎたあたりで、嫌になってさっさと山を下りてしまう。なんなんだ、この男は。
 文章を褒める人も多いのだが、おだやかで古風なですます調ではあるけれど、ときおり「あれ?」と思う文章が出てきて、特に美文というほどにも思えない。そしてラストも、まったく自分勝手で独りよがりな展開で、美しくもなんともない。本書を、人生の一冊級に賞賛する人も多いのだけれど、本作がなぜにそこまで評価されているのか、さっぱりわからない。
『白鯨』で有名なメルヴィルだが、『白鯨』はさすがに長大な小説なので簡単に読めるものではない。本作に収められた二編はいずれも中篇程度であり、とくに読みづらい部分はないのだが、なかなかに手ごわい。
 まずは「書記バートルビー」。書記とは文書代筆人のような仕事だが、ある事務所に雇われ、簡単な照合作業を頼まれたバートルビーはなんと、「それはしないほうがいいと思います」と答えるのだ! その後、何を依頼しても同様に断り続けるバートルビー。彼の真意はどこにあるのか――。
 読み終わっても、まったくすっきりしない。この本の解釈は、自分で考えるより他にない。不条理小説だからわからなくていいんだ、と切って捨てることもできるが、それはもったいない。ただ、僕にはその明確な答えはまだ見いだせていない。
 併録の「漂流船」のほうがもっとわかりやすいエンタテインメントに仕上がっている。ただ、こちらも一筋縄ではいかず、読み終わってずっと考え続けることになる。いやー、手ごわい。

★本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 ゆとり教育の象徴である運動会の手つなぎゴールは、実はどの学校でも実施された記録はないという。若者の言動に理解が及ばないとき、「ゆとり世代のやることはわからん」と突き放し、挙げ句、勝手にエスカレートした印象を広めるなら、言われる側はたまったものではない。相手の理屈や行動原理を無視した一方的な決めつけが、世代間の断絶を生む。自己主張の弱さは、翻せば協調性があるとも言えるし、ネット依存かと思えば豊富な知識が仕事に役立つこともある。踏み込んで付き合ってみれば意外に似た悩みを持っていたりして、人間とは誠に一筋縄ではいかない。
 このように、一見理解しがたく思える行為でも、その奥底を探っていくことで人間心理の興味深い側面に出会えることがある。その醍醐味を存分に味わわせてくれるのが、今回ご紹介するメルヴィルの中編二作だ。
 まずは一作目の「書記バートルビー」。日頃から〈安楽な生き方が一番〉と信じ、〈野心のない一介の弁護士〉である〈私〉のもとに、一人の書記が雇われる。彼がバートルビーだ。(ここでいう書記とは「文書代筆人」くらいに捉えておけば十分だろう。)バートルビーは、〈哀れなほど礼儀正しく、救いがたいほど孤独な姿〉で登場するや、かいがいしく働き始め、異常な分量の筆写をこなしていく。ところがある日、〈私〉がほんの短い文書の照合を依頼した時のこと。彼はなんと、〈わたくしはしないほうがいいと思います〉と答えるのだ! 面食らう〈私〉だったが、その後も小さな依頼をするたび同じ言葉で断られてしまう。彼の奇矯さはそこに留まらず、ほとんど食事をとらないこと、仕事場で寝泊まりしていること(休日に〈私〉が自分の職場を訪れると、バートルビーが中から現れ、〈今はあなたを入れないほうがいいと思うのです〉と告げるのだ!)、などが判明する。彼の真意はどこにあるのか。彼は何者なのか。
 二作目の「漂流船」も、不可解な人物をめぐる物語だ。大型交易船の船長デラーノは、霧の中から突如現れた見知らぬ船に乗り込む。〈悲惨なまでにまったく手入れがなされていな〉い船内には、船員の白人と奴隷の黒人がひしめきあい、口々に疫病や難破など苦難の経緯をまくし立てる。黙々と手斧を研ぐ男たちや、体中に鉄の鎖を巻かれ、二時間おきに許しを請いに現れる巨漢の青年など、不気味な連中が往来する船内において、際立って不可解なのが船長のベニートだった。彼は常に病的な絶望感を漂わせ、〈苦しみあえいでいる自分の運命は自然のなすがままに任せていると言わんばかり〉に、不愛想で消極的な行動を繰り返す。ナイフで刺し合うけんかを目にしても、〈若者の気晴らしに過ぎませんよ〉とやり過ごすのみ。デラーノは彼らを助ける算段をするのだが、いざ救助ボートが到着してみると、ベニート船長は意外な行動に出るのだった――。
 こうして二作を並べてみると、設定や展開はホームズ物のような雰囲気を漂わせ、この謎はどうやって決着がつくのだろうという興味が読者を引っ張っていく。もちろんそうした読み方は認められるべきで、メルヴィルはミステリ的興味で読む者にも一定の着地点を与えてくれる。優しい配慮だ。だが、そこにのみ注目していると、本書の醍醐味を味わえずに終わってしまう。これはもったいない。著者が書きたかったのは、単純な謎解きゲームではない。理解不能な人物を、不可解だと断じて切り捨てるのではなく、なぜそんな行動をとるのか、その背後に何があるのか、彼らが訴えているものは何なのか、わからないながらも想像してみることが鍵となるだろう。そこに、時代や場所を超越し、我々の日常生活に潜んでいるテーマを見出せるはずだ。評者の場合、真っ先に思い浮かんだのが冒頭のゆとり世代論だった。
 あなたならどういう解釈を見出すだろうか。この夏、じっくり取り組むには格好の一冊だ。
(20字×80行 ビジネス雑誌)
2016年 8月 「海と毒薬/遠藤周作」 (新潮社・文庫)
遠藤周作の作品の中では、もっとも回数多く読んでいる小説。今回は読書会の課題図書に自分が選んだため、さらにじっくりと読んでみた。2年前にも読んでいるはずなのに、「こんなに凝った構成だったっけ?」と驚く。戦時中、九州の病院に勤務していた勝呂という医師が中心の物語だが、冒頭には現代パートとして、彼の開いた医院に通う患者視点の物語が置かれ、途中では勝呂と共に働く同僚と看護師の独白パートがあったり、170ページほどの短い小説にしては、凝った作りだ。そこには、手法を凝らしてなんとか事の真相をえぐり出そうとする著者の苦労が伺える。けっきょく、人体解剖というおぞましい犯罪行為に手を染めたのは、特に残虐な嗜好を持った人などではなく、ごく普通の人々だったということ。戦争という異常な事態が悲劇を引き起こす、その意味で本作はやはり反戦小説だと思う。

・2014年に読んだ時の感想

・読書会での紹介記事
2016年 7月 「未来に先回りする思考法/佐藤 航陽」 (ディスカヴァー・トゥエンティワン・単行本)
株式会社メタップス社長の佐藤航陽によるビジネス書。主張は明確で、誰よりも早く新しい世の中のパターンを認識し、現実への最適化を繰り返せ、と説く。新鮮だったのは、その過程で、自分の意志や直感さえ信じるな、としているところ。たとえ自分や周りの人間の意向に反してでも、とにかく統計データから傾向を読み取り、行動することが大事だという。技術を政治や国家と結びつけて語るところも面白い。
 ただ、技術の進化を盲目的に崇拝している風なところが気になった。技術は確かに様々な恩恵を世界にもたらしたとは思うが、同時にまがいものも生み出した。つまり、技術で何でもできる“ように思える”ことがたくさんある。僕は、現代は進化のどんづまりに近いところに来ていて、これからは自然に戻っていく方向だと思っている。本作の著者はかなりそこを楽観的にとらえており、この先いろんな技術が発展してどんどん住みやすい世の中になっていくと主張するが、それはどうかな、と疑問に思う。
 一番納得できないのは、本書において「幸せ」というキーワードが全く語られないことだ。たとえ、ここに書かれていることが全て実現された世の中になったとしても、そこに幸せはまったく見えてこない。人は幸せになるために生きているというのに。
僕の大好きな小説が、光文社の古典新訳シリーズで復刊となった。この小説には、多くの訳者による様々な邦訳版が存在するが、僕は新潮文庫版を愛読していた。(2002年10月に読んだ時の感想
 今回の永田千奈氏による訳については、冒頭に人物相関図が掲載されるなど、読みやすさに配慮されている点に感心する。いっぽう、不満もある。全体的にわかりやすくはあるがあっさりしており、なにより、ラスト近くにクレーヴ公が妻に対して投げかける言葉の迫力が足りない。新潮文庫の青柳瑞穂氏バージョンでは、クレーヴ公のいじらしさが存分に表現され、読む者の涙を誘う。僕も大好きなシーンだった。

※最後に人物相関図について一点、書いておきたい。2002年10月に読んだ時の感想は先のリンクの通りだが、このとき僕は自分で人物相関図を作成し、これがとても有用だった。他に読む人がいれば同様に手助けになるよう、この人物相関図をネットに公開し、誰でも自由に使ってよいことにしていた。

★こちらが僕の作った人物相関図

 今回の光文社版を見てみると、図の中の配置は変わっているが、明らかに僕が作ったこの相関図を流用しているようだ。確かに自由に使っていいとは書いたが、一言、何か連絡があってもよさそうなものだと思うのだが。
2016年 6月 「旅をする木/星野道夫」 (文藝春秋・文庫)
ずっと大好きで、いろんな人にお勧めしている本作。読書会の課題図書に選ばれため、人生何度目かの再読となった。しかし、読み返すたびに新しい発見がある。下記に、読書会関連のブログ記事を書いたので、紹介しておく。

読書会開催前の紹介「6月度読書会のお知らせ.写真のない写真家の本について

読書会開催後のまとめ「6月度読書会が開催されました.〜象やヒグマやカリブーと共に生きるということ〜
2016年 6月 「歌に私は泣くだらう/永田和宏」 (新潮社・文庫)
共に歌人である夫婦の奥様がガンを患い、その看病をおこなった夫による回想がつづられる。悲壮な思いを込めた歌の数々には胸を締め付けられるものの、エッセイ全体としては凡庸というか、あまり文学性のようなものを感じない。僕が打たれたのは、下記のような歌の数々だ。

あの時の壊れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて

手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が

歌は遺(のこ)り歌に私は泣くだらういつか来る日のいつかを怖る
2016年 6月 「パンドラの少女/M・R・ケアリー」 (東京創元社・単行本)
近未来のイギリスにおいて、奇病が蔓延する。罹患した人々はこぞって人を襲って食うハングリーズ(餓えた奴ら)となっていく。食われた人間がまたハングリーズとなり、その数は日増しに増えていく。生き残った人間達は基地にたてこもり、軍を中心に対抗策を練っている。基地には町で拾われてきた奇妙な少年少女が暮らしている。彼らの存在に、奇病から人類を救うヒントが隠されている。少女の一人であるメアリーは、基地での授業を受けながら、自らの体に潜む野性の叫びを知る。大好きなジャスティノー先生に、触りたいけど触れない。葛藤の中で基地がハングリーズ達に襲われる――。
 ここまで書くとだいたいばれているだろうが、あえてジャンルは隠しておく。パニックサスペンスの一環だが、いろんな要素を含み、ハリウッド映画的な盛り上がりを見せる。ただ僕がややイマイチに思えたのは、三人称多元描写、すなわち、いろんな人物の心情を描いている方式がうまくいってないからだ。サスペンスとは、ある人が何を考えているかわからず、その突飛な行動に驚かされるという面が大きい。なのに、全ての人が何を考えているのかを書いてしまったら、そのスリルがなくなってしまう。だからどんどん話が詰まらなくなり、尻すぼみになっていく。本作のキモは、少女が○○の○○である、ということだが、そのアイデアがあまり生かされていないのもいただけない。このアイデアだと少女が自分の存在意義について悩むくだりがないといけないが、そこがほとんど追求されずに終わってしまう。すごく惜しいと思う。

本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 人は名前により、他者との関係を決定づけられる。本作に登場する少女はメラニーという名を持つが、彼女が普通にそう呼ばれることは少ない。たとえばパークス軍曹は彼女のことを「虫けら」と呼ぶ。軍曹の仕事は、少女を〈独房〉から〈教室〉まで運ぶことだ。少女は手首と足首をストラップで固定され、首も同様に固定された状態で車椅子に乗せられる。少女の住む世界は、長い廊下の左右に並ぶ独房と、廊下の端にある教室だけだ。廊下の反対側の端には灰色の分厚い扉があり、その先に何があるか、少女は知らない。建物を含む一帯は基地と呼ばれ、軍の支配下にあること、基地はロンドンから数十キロ北に位置していることなどを、少女は断片的に知っている。
 教室には同じ境遇の子供たちが集められる。授業は軍の指揮下で実施され、それは実験の一環でしかない。だから教師達は気まぐれに算数の公式や歴史の年号を暗記させるばかりだ。授業が終われば、軍曹は少女らを独房へ戻す。車椅子の乗降には細心の注意が必要だ。軍曹は少女に拳銃を向け、彼の部下が迅速かつ慎重にストラップのつけ外しをおこなう。軍曹は少女を「小さな化け物」と呼ぶこともある。
 ときおり独房にやってくるコールドウェル女史は、少女を「実験体」と呼ぶ。コールドウェルは子供達から何人かを選び、灰色の扉の外へ連れていく。外で何が行われているのかは不明だが、連れていかれた子供達が帰ることは決してない。
 パークス軍曹の部下ギャラガー一等兵の場合、少女の呼び名はやや長く、「ハングリーズの子供」となる。いまやイギリスだけでなく、あらゆる都市が〈大崩壊〉した世界に人々は暮らしている。地上はハングリーズ(餓えた奴ら)に占拠され、生き残った者は隔離された場所に潜み、小さな抵抗を続けている。ハングリーズとはただ暴力的に人を襲って食う化け物だ。少女は、ちゃんとものを考えて勉強もできる自分がなぜ奴らの子供と呼ばれるのか、理解できないでいる。
 退屈な授業の中で、少女が何より楽しみにしているのがミス・ジャスティノーの授業だ。彼女だけは子供たちをそのまま「子供たち」と呼び、少女には「あなた」と話しかける。なんの変哲もないこの呼び方は、ジャスティノーのほうがこの世界では異質の存在であることを示している。彼女は子供達に詩を朗読したり、フルートを吹いて聞かせたり、外で摘んできた草花を見せてあげたりする。そうしたごく普通の授業は軍の方針に合わず、彼女は異端者扱いをされている。
 こうして様々な呼び名は少女の自我を枝分かれさせていく。それでは少女自身はどんな名前を望むのか。彼女は自分を「パンドラ」と呼ぶ。ジャスティノーの教えてくれた、ギリシャ神話に出てくる女性の名だ。ゼウスの命により泥から作られたパンドラは、賢くて勇敢だが好奇心が強すぎるため、この世の全ての災いを入れた匣(はこ)を開けてしまう。彼女はパンドラとなり、大好きなジャスティノーを守ってあげようと決めている。
 実験が佳境にさしかかる頃、ジャスティノーは秘かに少女の独房を訪れる。少女は喜んで手を差し伸べ、抱きしめてもらおうとするが、突然、体が叛乱を起こすのを感じる。少女は引き裂かれる思いに耐えながら叫ぶ。
〈わたしにさわっちゃだめ!〉
 顎の筋肉が緊張し、口からうめき声が出る。泥のような唾があふれ出す。自らの持つ野性が目覚めようとしていることに気づき、少女は大好きなジャスティノーに触れることさえできない境遇を知る。
 災いの匣を開けてしまった彼女の行く末はどうなるのか。パンドラとは〈あらゆる贈り物を受け取った娘〉という意味を持つ。彼女の運命もまたその名に導かれていく。
(20字×79行 新聞書評)
2016年 6月 「僕に生きる力をくれた犬/日本放送協会」 (ポット出版・単行本)
NHK-BSで素晴らしい番組を見た。「プリズン・ドッグ〜僕に生きる力をくれた犬〜」というもので、本書はその取材班が書いたものだ。
 アメリカのオレゴン州にある青年更正施設(若者向けの刑務所)で実施されている、「ドッグ・プログラム」という試みがある。これは、愛護センターに引き取られた犬を受刑者が訓練し、里親に引き渡すというものだ。犬と共に暮らし、犬を訓練して育てていく過程で、受刑者たちは責任感や社会性を身に着けていく。同時に犬は人間と共に暮らす術を身に着け、新しい飼い主のもとで幸せに暮らすことが可能となる。受刑者は、ほぼ全員が親からの愛情を知らずに育った者たちだ。それが犬との関わりの中で、犬から無償の愛情を受け、愛情を注ぐことを覚えていく。
 犬のしつけには、長期間にわたる犬との触れあいが必要だ。受刑者というのはその意味で打って付けの存在である。毎日欠かさず犬との深い付き合いを続けることで、犬の徹底した訓練が実現される。番組を見ている途中、「それだけ犬と深く触れあっていたら、里親に引き渡すのが辛いんじゃないか」と感じた。そのシーンも映されるのだが、確かに別れの瞬間は辛そうにしているものの、同時に誇らしい気持ちもあると彼らは言う。自らの達成感、社会に意義あることをしている喜び、犬が幸せになる喜び、様々な感情が渦巻いているようだった。
 なんと、このプログラムを経て出所した受刑者の再犯率はゼロだという。人を更正し、同時に犬を処分から救う、画期的な試みだ。非常によくできたプログラムだと感心してしまった。

NHKの番組ページ

このブログにも詳しく紹介されている。
2016年 5月 「グローバライズ/木下古栗」 (河出書房新社・単行本)
いやあ、小説を読んでこれほど衝撃を受けたのは初めてかもしれない。木下古栗とはすごい作家だ。小説でこんなことができるんだ、という新鮮な驚きがそこにある。小説の可能性を広げてくれるのだ。作家や翻訳家に彼のファンが多いのもわかる気がする。
 ショートショートに近いくらいの長さの短編が12篇、収められている。どれも冒頭は日常の何気ない風景から始まる。それが途中で一気に世界をひん曲げるほどの変化を示し、あまりにその芸が凄すぎて、ついていけない読者も出てくるだろう。しかしこれは快感だ。読書の喜びだ。生きていくうえで大事なことなど、何一つ書かれていない。それでも僕は、心から感動した。ぜひこの小説を味わってみてほしい。ただ、読者は選ぶだろう。「専門性」など、汚いものがどうしても生理的に駄目、という人は無理だ。もちろん僕もこれを、気持ち悪い―と思いながら読んだが、やはり文章の喚起するイメージの凄さに圧倒された。そして、「道」には心底、感動した。小説の新しい読み方を教えてもらった。表題作も素晴らしい。ただ、詳しい内容は書きたくない。何も知らずに読んで、そのとんでもなさを実感してほしい。

本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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古木)これより第三回ほのぼの読書会を始めます。今日はこちらの栗鳥寿美子さんに……
栗鳥)ちょっと待ちいな古木君。そら進行役はやってもええけどな。今回の本、これ何や。前回の早苗さんの時はあれやろ? 堀江敏幸の『その姿の消し方』やろ。その前は何や?
古)レアード・ハントの『優しい鬼』です。
栗)ええ話ばっかりやん! なんでアタシん時はこれなん? だいたいこの人誰なん?
古)ツイッター文学賞受賞の木下古栗ですよ。話題の最新短編集を、ぜひご解説頂ければと。
栗)解説て。こんな本どないして解説するんな?
古)緻密な描写が美しいですよねえ。
栗)よう言いますな。そらアタシもな、最初の「天然温泉やすらぎの里」を読み出した時はそう思たで。男二人がゆっくり銭湯に浸かっててな。女湯から若い女性の声が聞こえてきてな。そのあとの展開はどうかと思うけど、まま、楽しめたいうたら楽しめた。
 次の「理系の女」も結構、凄いで。女子学生が先輩から貴重な体験談を聞くんやけど、実はその人の仕事は……っていう。ここらへんから、のんびり読んでたら急に何が起こるかわからへん、いうのがわかってくる。
古)そうそう。それで、その次が。
栗)「フランス人」やろ。これ、不動産屋二人が茶飲み話をしてて、その一人がトイレで災難に遭うんやけど、タイトルのフランス人てなんやろ思うやん。それがもう。
古)待ってください。最近みんなネタバレにうるさいですから、そこはあんまり。
栗)ええんや。このラストなんか、ぜったい思いつくはずないやろ誰も。こんなこと言うたくらいでびくともせえへん小説や。
 それから言うときたいのは、たまに短編集で、どこから読んでも楽しめます、いうのあるけど、これはちゃう。順番どおりに読まなあかん。そういう仕掛けがしてあるし、頭から読んでいくことで、ものすごいグルーブ感が出るように考えてある。なんか音楽のアルバムみたいな作りなんや。
古)後半の「道」なんてどうでしょう。
栗)伊勢丹の話な。
古)うーん、それもちょっとネタバレ的な。
栗)だから大丈夫やって。こんな筋書き絶対読める訳がない。これは伊勢丹の話でええ。
古)まあそうですけど。でも僕はこれで、小説の新しい読み方を知りました。
栗)最初、中国語か思てビビるけど、ちゃあうんやな。〈貴方今此処居、隣坊主居。貴方良香、結構美貌〉、いう具合に適当に漢字を当ててるだけやから、読むんやのうて文字を見て辿っていったらええ。それで話がわかるから。極上に絶品なくだらなさに、涙が出るから。
古)これ書いた人は天才だと思いました。
栗)天才かほんまのアホかどっちかやな。どっちにしても凄いけどな。それからアンタ、「カヴァーガール」っていう映画知っとう? 主役のジーン・ケリーが自分の幻影とダンスするミュージカル。あれを思い出すのが、表題作の「globarise」や。地の文とセリフがイメージを共有しながら絡まりあって、これは文学にしかできへん、とんでもない芸当や。これ最後に持ってくるのも憎いわ。なんかこの人、小林よしのり的な革命思想の香りがするな。そいで香りといえばアレやな。「専門性」やな。あの描写の想起力というか破壊力というか。
古)実は僕、これスルーしちゃって。
栗)なんやて? アンタ、アタシに読ませといて自分はスルーってどないやのん。アタシがご飯食べながら読むの見てたやろ。
古)はい。ああああ、と思って見てました。
栗)アタシもう、あははははははって、脱力の呆け笑いするしかなかったわ。買うてきたチキン南蛮、食べずに全部残したわ。
古)だったら、僕にくれればよかったのに。
栗)アンタ、あとで絶対、ルドヴィコ療法で読ませたるからな。
(20字×80行 「映画秘宝」)
2016年 4月 「問いのない答え/長嶋有」 (文藝春秋・単行本)
すごい小説だ。圧倒されて読み終えた。なにも難しいことは書かれていない。そこにあるのは、ただ普通の人々の、普通の日常だ。
 2011年3月の震災直後、一人の作家がツイッター上で言葉遊びをはじめる。誰かがお題を決めて出題し、他の人がそれに回答する。お題は質問形式だが、その一部しか公開されない。たとえば、「何をしたい?」という質問だけが公開される。これだけではなんのことやらわからないが、わからないなりにいろんな人がいろんな回答をする。「海に行きたい」「とりあえず濃いお茶を一杯のみたいです」「女教師を口説く」など、さまざまだ。やがて一定時間経過後、質問の全体が公開される。「3メートルの棒を譲り受けましたが、これを使って何をしたい?」だったりする。ここでさきほどの回答群をふり返り、その回答に見合う解釈や物語を創造する、という一連の遊びだ。
 本作は、この遊びに参加する大勢の人々を群像劇として描く。言葉遊びへの回答は、その時のその人の心情や状況を反映している。だからそこには、小さいが切実なドラマがある。とくに、震災に対する各人の思いの違いは特徴的だ。
 登場人物はかなり多く、それぞれの視点から細かい心情が描かれる。日本の小説には珍しい多元描写という形式だ。視点人物は作中でころころと移っていくから、最初のうちは戸惑い、読みづらく感じる。それでもしばらくして慣れてしまえば、大変に中身の濃い、読みごたえのある小説だとわかってくる。人の心のひだを細かくすくいとっていく描写には、達人級の巧さを見せる作家だ。
 本作は、震災後の小説として、非常に重要な一作だと思う。どのような考えや風潮にも流されず、この著者が自分の頭で真摯に考え、獲得し、書かれている。
 美しくて強い小説だ。
2016年 4月 「赤頭巾ちゃん気をつけて/庄司薫」 (中央公論新社・文庫)
1969年の芥川賞受賞作。戦時における小説に戦争描写が必須であるように、この時代のとくに若者小説において欠かせないのが、学生運動であろう。『されど われらが日々―』や、(小説ではなく事実譚の)『二十歳の原点』などにおいても、痛々しいほどに若者の苦悩が描かれる。避けられず判断を迫られ、信条を持たないことが最大の恥と叩き込まれて育った世代のくすぶる気持ちは、この現代ではなかなかに共感しがたい。それでも僕は、この時代のこうした小説が好きだ。本作でも、当時の現代っ子、金持ちで成績優秀なボンボン育ちの甘えた戯れ言の中に、やはり切実な時代の空気は読みとれる。饒舌な口語体として当時は画期的だったらしい本作は、その表現形式からしても、現代においては既に実験しつくされ飽きられた感もあるから、より現代にはうけない小説かもしれない。でも、この時代感はなかなか現代作家の作品では味わえない。
2016年 4月 「紙の月/角田光代」 (角川春樹事務所・文庫)
先に映画版を見ていて、気に入った作品。別サイトのブログ(http://slothcoffee.jp/archives/5089)、およびポッドキャスト(http://www.ne.jp/asahi/sealion/penguin/podcast/podcast.htm)において映画の感想を紹介したが、その中で、「おそらく原作とは主題が違っている」と予想していた。今回、遅ればせながら原作を読んでみて、予想が大きくは外れていなかったことを確認した。映画で僕がもっとも感じ取ったポイントは、「与えることの罪」、あるいは「与え続けなければいられないという悲劇」であった。原作にもそうしたニュアンスはなくはないが、それよりももっと単純な、平凡な主婦が本当の自分を求めて犯罪に手を染めるといったような、安手の自分探しに終始していたように思う。
作家の村上春樹氏と翻訳家の柴田元幸氏が、過去に埋もれて読まれなくなった名作を新訳で復刊するという「村上柴田翻訳堂」シリーズ、第一作。とても素晴らしい企画だと思う。本作を読んでみたら、真に名作だった。

 12歳の少女フランキーは、突然大きくなってしまった肉体をもてあまし、世の中すべてに意味を見いだせず、自分や世界を憎むようになる。彼女は長い一日をキッチンで過ごし、その相手をするのは女料理人ベレニスと、小さな従兄弟ジョン・ヘンリーだった。ある日彼女のもとに、離れて暮らしていた兄が結婚相手を連れて戻ってくる。彼らの姿を目にしたとき、フランキーは思う。「この二人と一緒にいよう。彼らのいる所が、私のいるべき場所だ。私は、彼らの結婚式のメンバーなのだ」と。彼女は二人の新婚旅行についていき、果ては一緒に暮らすという計画を立てる。そんな馬鹿げたことが実現するのか、読者は痛々しい思いに駆られながら、一種温かい気持ちで読み進めることとなる。

とにかく、少女の“痛い”面が最大限に誇張されて描かれている。それでも優しい気持ちで彼女を見守るのは、似たような思いを誰もが少しは抱いたことがあるからだ。本作には、フランキーによる暴力的なシーンも出てくるが、それはこの世のあらゆる暴力の根源を見るようで恐ろしい。
 僕は本作を、車の中や屋外で読んだが、作品世界の風が吹いてくるようで、とても印象深い読書となった。

本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 奇妙なタイトルだ。結婚式の“招待客”ならわかるが、結婚式の“メンバー”とは普通、言わない。その意味するものは何か。わからないまま読み進めてみる。主人公はアメリカ南部の小さな町で暮らす少女、フランキー。父親は帰りが遅く、彼女は長い一日をいつもキッチンで過ごしている。お相手は、女料理人ベレニスと、従弟のジョン・ヘンリー。彼女はこの家も町も自分自身も嫌いだ。だからここではないどこかへ行き、自分ではない誰かになりたいと願っている。
 十二歳になった年の春、身長が165センチを超えたフランキーは驚愕する。これでは見せ物小屋の巨人じゃないか! 父親からはもう一緒には寝られないと告げられ、クラブ会員になろうとすればまだ若すぎると断られる。彼女は世界が急速に自分を拒否するのを感じ、奇行を繰り返すようになる。父親のピストルを持ち出して試し撃ちをしたり、スーパーでナイフを盗んだり、果ては同世代の男子と〈いかがわしい罪〉を犯したり。
 季節が夏に移る頃、すっかりねじくれてしまった彼女のもとに、離れて暮らす兄が結婚相手と共に戻ってくる。二人に会ったフランキーは、〈ものすごく変てこな感じ〉を受けるのだが、彼らが結婚式のために去っていったとき、とつぜん彼女の頭に一つの言葉が浮かぶ。〈二人はわたしにとってのわたしたちだったんだ〉と。彼女は決意する。私はあの二人と暮らそう。結婚式には荷物一切を持参し、そのまま新婚旅行についていくのだ。なぜなら私は、「結婚式のメンバー」なのだから――。
 こうして小説は終始、フランキーの微細な心理のうねりを丁寧に追っていく。彼女の論理や言動は一見奇抜に思えるが、わからないでもない。急激な肉体の変化に伴い、自我ばかりが肥大する子供はどこにでもいる。過大評価と過小評価を行き来しつつ、自分を何者かにするために奇行を繰り返し、全てに実感が伴わない。そこにはこの世のあらゆる暴力の根源が見てとれる。
 タイトルの意味がわかるくだりも面白い。「わたしにとってのわたしたち」とは妙な言い回しだが、「わたしたち」とはつまり、自分の所属する“世界”のことだ。どこにも属さず誰とも心を通わせなかったフランキーが、私は結婚式という“世界”のメンバーなのだと気づくのだ。結婚式が終わったら兄夫婦と共に三人で暮らそう。そんな悲しくも馬鹿げた計画を本気で信じるフランキー。痛々しいけれど、どこか共感も湧いてくる。
 フランキーの対極を為して印象的なのがベレニスだ。彼女は黒人社会という “世界”に属している。それが幸せなことなのか、所属しない自由のほうがよいのか。自我の問題はもう片付けたような顔をしながら、実は揺らいでもいる。ベレニスの片目は義眼だ。正面を向いた青い義眼とくるくる動く黒目は、彼女のアンバランスさを伺わせる。彼女はフランキーに手を焼きながら、その言い分に一理を感じてもいる。
 もう一人のキッチン仲間、六歳のジョン・ヘンリーも侮れない。語るべき自我を持たず、すべてに即物的に反応する彼は、かつてのフランキー自身だ。いっぽうベレニスは、フランキーがこれからなりゆく存在である。だから二人を軽蔑し憎みさえしながら、奥底に秘めて気づかない愛おしさを抱いてもいるのだ。
 やがて秋になる。すべてが終わった十一月、ふたたびキッチンの場面が描かれる。そこにはいったい誰がいて、誰がいないのか。フランキーは自分の居場所に辿り着けたのか――。
 本書を読むなら旅先がもってこいだ。焦げつくような南国もいいが、雪降る冬の町でもかまわない。それはフランキーが一度も見ることなく憧れ続けた場所だからだ。旅の郷愁は読むものを物語へと引きずり込み、経験したこともない過去を思い出させることだろう。なぜならそれは、誰にもあった、あるいはありえたはずの過去なのだから。
(20字×80行 旅行雑誌)
一つの町を舞台にして、様々な若者達が描かれる連作短編集。まずはタイトルの「ここは退屈迎えに来て」が良い。(短篇の一つのタイトルではなく、短編集に独立してつけられたタイトルだ。)
 地方都市に住む女性が、都会を夢みたり、いや私はここでいいと思い直してみたり、自我を強く感じてみたり、群れに埋没してみたりなど、相反する感情に揺れ動く様を、実にリアルに切り取った小説だと思う。微妙な心理の描き方、そして道具立てとして車がよく使われる点において、「愛のようだ/長嶋有」を彷彿とさせる。
タイトルから、そしてまえがきの記述から、否定的で後ろ向きなことが書かれているかと思ったら、かなり読みごたえのある一冊だった。著者が作中で何度も念押ししているように、おためごかしの理想論やポジティブ思想は書かれていない。それは現実に即した、嘘のない、素直な人生観・職業観である。だから読む人によっては、著者の言葉を“冷たい”“突き放している”と感じるかもしれない。でも僕は、実に優しくて真摯な態度だと感心した。とくに、二度目に読むとそのあたりが強く感じられる。ただ、今まさに就職の壁、仕事の壁にぶつかっている人には本書の主張は届かないかもしれない。良い本というのはたいていそんなものだ。
<アイデス(iDeath)>と呼ばれる世界があり、そこで人々が穏やかに暮らしている。近くには<忘れられた世界>があり、暴力と退廃に満ちているのだが、やがて若者達の中には、<アイデス>を出て<忘れられた世界>に移り住む者が現れる。
むかし読んだ時には、その独特な詩的世界がほとんど理解できなかった。今回、あまり深く考えずに感じるように読んでみた。僕にしては珍しく速く、2時間ほどで読み終えた。非常に寓話的であり、その意味は読む人によって異なるだろう。<アイデス>と<忘れられた世界>、果たしてどちらがいいのだろうか。その問いかけを考えていくのが本書の楽しみ方なのだろうと、僕なりには思う。
オスカー・ワイルドで一番有名なのは「幸福の王子」だろう。自我を持った王子像が、貧しい人々のために自分の持つ宝石を与えていく児童文学だが、ワイルドはこうした作品ばかり書いていたわけではない。本作には大人向けの諸作が収録されており、いずれも緻密で重厚な描写が特徴の、いかにも19世紀のイギリス文学といえるものだ。内容は、上流社会の人々を批判し、馬鹿にしたようなものが多い。それらがうまく戯画化されており、とても読みやすくて楽しめる作品ばかりだ。「スフィンクス」は小説ではなく長詩であるが、こちらは女性に対する憧れと嫌悪という二面的な思いを描いており、興味深い。短編集の後半は、ワイルドの友人だった女性作家エイダ・レヴァーソンの短篇がいくつかと、ワイルドとの交流を綴ったエッセイが収録されています。なかなかに大胆な試みをもった短編集ですが、その通りの読みごたえもあります。

本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 オスカー・ワイルドの作品群において、長詩『スフィンクス』が邦訳されることはほとんどありませんでした。日本人には馴染みの薄い故事が頻出するうえ、原文では古語や造語による音楽的効果が強いため、日本語で再現するのは至難の業だったのでしょう。おそらくこれは町田康作品を英訳するようなもので、本作においてもその魅力を完全に伝えることは叶わなかったと、訳者は述懐しています。それでも、平明さと格調の高さを併存させた訳文は、じゅうぶん見事な出来栄えに仕上がっています。
 聖なる存在と邪悪な怪物という二面性を持つスフィンクスに、ワイルドは幼少時から惹かれていたといいます。本作を読む限り、彼がそこに女性の二面性を重ねていたことは明らかです。スフィンクスは時には黙したまま、時には情欲に身を躍らせ、淫らに神々を誘います。暗躍するスフィンクスにあわせ、まるで添え物のように数千年前の歴史が語られます。語り手である〈私〉はスフィンクスをあがめ、その魅力に溺れていきますが、最後には疲れ果て、〈厭わしき神秘〉、〈醜い獣〉と非難し、〈彼女〉から離れていきます。結婚をしながら同性愛に身を滅ぼしていくワイルドの後半生を思えば、感慨もひとしおでしょう。
 本短編集の後半には、ワイルドの友人だったエイダ・レヴァーソンの諸作が収められています。ワイルドは彼女のことを、親しみをこめて“スフィンクス”と呼んでいました。ワイルド作品には他にも、謎の隠れ家に出入りする上流婦人の悲哀を描いた『秘密のないスフィンクス』が、エイダ作品としては『スフィンクス』をパロディー化した『お転婆(ミンクス)』が収録されています。つまり、どこまでもスフィンクスづくしの仕掛けとなっており、これまた訳者の野心あふれる試みです。
 ワイルドとエイダは、似たような題材を扱いながら、表現は好対照をなしています。『アーサー・サヴィル卿の犯罪』を一読すればわかりますが、ワイルド作品は重厚で緻密な描写が特徴です。冒頭から、上流階級の名士たちの集まる夜会の様子が、喧噪が漏れてくるかと思うほどに伝わってきます。招待客の一人であるアーサー卿は、手相術師の予言を真に受け、犯罪に手を染めます。常識的な気配りはできるのに、肝心のことに目がいかない。上流階級の人々がいかに自分を見失った馬鹿者であるか、ワイルドは鋭く追及しています。
 『カンタヴィルの幽霊』は、イギリス駐在のアメリカ公使が一軒家を購入するが、そこに幽霊が住み着いていたというお話。間抜けな幽霊が人間に翻弄される物語は珍しくありませんが、周辺の風景や事情を微細に描写し、ゴシックホラーの雰囲気を高めることによって、幽霊の滑稽さが際立っています。
 いっぽう、エイダ・レヴァーソン作品もやはり上流階級批判の傾向が強いのですが、ワイルドほどの重厚な描写は見られません。「そんなくどくど書いても読むほうは辛いのよ」と言わんばかりに、直接的に物語をつづります。古風な表現に慣れない現代の読者にはなるほど、こちらのほうが読みやすいかもしれません。かといって読みごたえが薄いわけでもなく、金も地位も容姿さえも備えた青年が、「僕も一度でいいから、傷心や不幸、絶望といったものを経験してみたいなあ」と嘆く『悲しみを求めて』では、腐りきった性根がこれでもかというばかりに戯画化して描かれ、読み終えたあとは、「この金持ちクソ野郎が!」と叫びたくなります。
 唯一おさめられた随筆『回想』では、ワイルドの私生活が描かれています。辛辣な作品執筆や言動を繰り返したワイルドも、素顔は優しさもあり傷つきもする普通の人だったのです。最後にこの作品が収められているのも心憎い演出です。まさに“編まれた”という表現がぴったりの短編集といえるでしょう。
(20字×78行 新聞書評)
年明け早々、満点評価の作品がつづく。ずっと読みたい読みたいと思っていた本作は、事前の期待を遙かに超える凄い小説だった。
 ベルカとは、犬の名前だ。犬たちは、人間の歴史に常に翻弄されてきた。20世紀は戦争の世紀とも言える。第一次、第二次大戦があり、その後の冷戦で引き起こされた代理戦争、すなわち朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン紛争、そして湾岸戦争へとつづく歴史。この20世紀を、犬の視点から見つめ直すというとてつもないアイディアを実現したのがこの小説だ。
 文体は一人称、二人称、三人称が入り交じり、優しい言葉も汚い言葉も駆使しながら、かつて経験したこのない圧倒的な迫力で歴史を語り続ける。こんな試みに挑戦する気概にまずは打たれ、それをこれほどのレベルで実現してみせた著者の力量にはあっぱれと手を挙げるしかない。
 とにかく、エンターテインメントとしてこれほどの作品はちょっと見当たらない。十年に一つの大傑作。
2016年 2月 「11(eleven)/津原泰水」 (河出書房新社・文庫)
読書会の課題本になったことで、半年ぶりくらいに再読。(前回の感想はこちら
この11編の小説群は、読むほどに味わいが深く、価値が高まる。だから初読よりも評価はぐんと上がった。前回は「五色の舟」と「土の枕」が特に気に入ったのだが、今回はその他の地味な作品の良さもわかり、どれが一番いいかと言われると困ってしまう。題材や文体のバラエティ、そのどれもが標準を遙かにこえるレベルで達成されている。毎回、なにかに挑戦して書き続ける作家なのかもと思う。ぜひ読んで、そして何度も読み返してほしい作品。

☆本書については別のブログに二回、紹介文を載せていますので、そちらへのリンクを貼っておきます。

2月度読書会のおしらせ.U-23五輪決定おめでとう!でもサッカーの話じゃない
2月度読書会が開催されました 〜二人っきりもいいもんだ〜
2016年 2月 「めぐらし屋/堀江敏幸」 (毎日新聞出版・単行本)
いまや純文学界でも大物の一人となった堀江敏幸氏を、初めて読んだ。もっとポエティックな感じかと思っていたら非常に読みやすい文体で、読みやすすぎて大事なことを見落としてしまったかと思うほどだ。
 父を亡くした娘が、遺品の中から過去に父が綴ったノートを見つけ、「めぐらし屋」と呼ばれる仕事を引き継ぐ、という内容で、さしたる大きな出来事はなく、日常に近い光景が綴られていくばかり。それでも読みごたえがあり、確かに存在すると思える世界に浸っている心地よさがある。現代文学というと、前衛的な作風にひるんでしまうこともあるが、本作は本当に間口が広くて読みやすい小説なので、広くいろんな人にお勧めできる。
2016年 2月 「君のいない食卓/川本三郎」 (新潮社・単行本)
評論やエッセイで有名な川本三郎さんの、食にまつわるエッセイ。以前に「マイ・バック・ページ」を読んだ時にはなかなか激しい人生を送っている人だなあと感想を持ったが、今回はほわんと心温まるお話だ。さすがに六十代を迎えて穏やかに過ごす人生を楽しんでおられるのだと思う。タイトルの「君」とは奥様のことで、亡くなった奥様との思い出が、美味しそうな食べ物と一緒に匂ってくる。それはとても甘い香りだが、著者にはほろ苦い香りかもしれない。
2016年 2月 「愛のようだ/長嶋有」 (リトル・モア・単行本)
長嶋有、初の恋愛小説。そんな触れ込みだが、ただの恋愛小説ではない。もちろんそうした読み方はできるが、僕は、ごく市井の人が生きていく上での些細なドラマを拾って讃える小説に思えた。場面はほぼ車の中で占められる。だからドライブ小説といってもよい。著者本人が四十代になってから免許を取得した経験を元にして書かれており、主人公もやはり著者の分身のような存在だ。車中で流れるBGMで盛り上がるさまは、とくに著者と同年代の読者であれば共感できるだろう。そうした何気ない日常の中で、人々の様々な思いが現れては消える。肩の力が抜けた小説だから、肩の力を抜いて読めばいい。でも、読後にはずっしりとした人生の重みを感じているはずだ。

本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 医学や脳科学がこれだけ進んだ現代でも、人の“心”がどこで発生し、どう動いているのかは、ほとんど解明されていない。きっとそれは量子力学的に厄介なしろものだ。原子などのミクロな粒子においては、位置と運動量とを同時に観測することはできない。観測するための光を当てた段階で、本来の状態が変化してしまうからだ。人の心や性格も同様で、観測した途端に別のものへと姿を変える。ここでの観測とは“言語化”だ。日常生活において我々は、他人を(時には自分すら)言語化することで整理し、理解する。いい人、悪い人、愉快な人、冷たい人。だがこうして言語化した途端、実相からは離れていく。優しいけれど弱い人、冷たいようで義理深い人。言葉をいくら連ねても、常に変化する複雑な人間心理を表すにはほど遠い。そもそも言葉で表現するなど不可能なのだ。いっぽう小説とは文字による芸術だから、言語化(=観測)しないことには話にならない。不合理である。長嶋有は、この不合理に自覚的な作家だ。自覚して、“ちゃんと”絶望している。この自覚がなければ、小説など紙上のしみでしかない。
 著者自身を投影したであろう本作の主人公・戸倉を見てみよう。漫画とアニメと音楽が好き。冗談好きで友達思いで、ガンに冒された琴美を気にかけている男。紹介の言葉をどれだけ重ねても、彼を表現したことにはならない。この小説一本をまるまる読んでみて初めて、戸倉に関する、小説一本分の知識が得られる。小説にできるのはその程度のことだ。その程度だと認識したうえで、あとは自由に小説の可能性を探っていく。長嶋有とはたいした作家だ。
 四十代で初めて運転免許を持った戸倉が、仲間と共に車で旅をする。琴美の快癒祈願に向かう伊勢神宮、予期せず子供を授かった永嶺に付き合う草津温泉。目的地は様々だが、到着してからの描写は割愛され、小説はほぼ車の中でだけ展開する。派手な事件は起こらない。まさしく琴美の体をガン細胞があまねく浸潤していくように、著者はそれぞれの人物の心や性格の隅々に言葉の触手をのばし、それらを取捨選択したうえで並べていく。(長嶋有のことだから触手といえばきっとエロい触手だろうが、それでも構わない。)とはいえ、言語化すれば、意図せずとも “色”がつく。それではどうするか。別の色を重ねていくのだ。そうして本来の色に近づける、あるいは本来の色をあえてわかりづらくしていく。物事はコインの両面のように一元的ではない。「特殊でない=平凡」でもなければ、「善良でない=悪」とも言い切れず、「女に対する常ならぬ感情=恋愛」でもない。こうした弁証法的な積み重ねが小説の中で絶えず繰り返される。結果として浮かび上がってくるのは、彼らの“息づかい”だ。特別な人など一人も出てこない。それでも、息づかいをたどっていけば必ずその人なりのドラマが見えてくる。どうか耳をすませてその息づかいを聞いてほしい。それは、普通に生きているすべての人達への応援歌でもある。
〈どこかから来て通り過ぎる黄色い光、どこかへと向かう赤い光。それらが寄り添ってつながって、今まさにその渦中に我々はいる。それは我々の営みの象徴だ〉
 著者は、漫画評論家としてブルボン小林という名義も持つ。近年はそちらでの活動が増え、作家として「収入的にもかなり肩身が狭い状態」(本人談)になっているが、この漫画への造詣の深さが、本作には存分に発揮されている。まさかキン肉マンで泣かされるとは思っていなかった。軽口での応酬のあと、「琴美の手術は来週だ」と章を閉じて次を読ませる手口など、しれっと連載漫画的手法を挟み込んでくるのも憎い。
 愛しているとも言えないし、愛していないとも言えない心持ちがある。現実とはたいていそのようなものだ。だからこの小説のタイトルは誠に正しい。いや、正しい“ようだ”。
(20字×80行 新聞書評)
2016年 1月 「優しい鬼/レアード・ハント」 (朝日新聞出版・単行本)
1830年代のアメリカ、ケンタッキー。男が井戸を掘っている。やがて悲劇が訪れ、井戸だけが残された。そこへ住み始めたライナス、そして嫁いできたジニー。家には黒人娘のクリオミーとジニアがいて、最初は仲むつまじく暮らしていた彼らだったが、運命は次第に地獄の様相を見せ始める――。
 最初は1830年代の井戸を掘る家族の話があり、そこから30年ほどが経過したジニーの物語を、さらに数十年を経て老婆になったジニーが回想する、というややこしい造りになっている。なので最初はとっつきづらさはあるが、読み進めるうち、物語の持つ力にどんどん取り込まれていく。こんなに力強く、悲惨なのに美しい物語を僕は知らない。南北戦争をはさんだ数十年の歴史、アメリカの暗部を、糾弾するわけでもなく淡々と描ききった作者の思いに脱帽だ。ほんの200ページほどの小説だが、読むたびに新しい発見がある、深い深い作品。そして、とてもとても愛おしい作品。

本作も書評講座の課題だったので、以下に僕の提出した書評を掲載。

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 1830年代のアメリカ、ケンタッキー。男が小川のほとりで井戸を掘る場面から物語は始まります。妻は食事をつくり、男は小さな娘の様子をうかがいつつ、黙々と作業をつづけます。生活は地味で単調だけれど、家族三人で暮らす慎ましい幸せにあふれています。しかし、井戸が完成に近づいたところでおそろしい悲劇が一家を襲い、彼らの人生はねじ曲げられてしまいます。
 短いながらも強烈な印象を残すこのプロローグから、話は一気に二十年ほど飛びます。すでに男の姿はなく、井戸と家だけが残されています。語り手のジニーは、夫ライナスによって騙され、この地に連れて来られました。家には、ジニーとよく似た名前を持つジニア、そしてクリオニーという黒人の姉妹がいました。二人は十二歳と十歳、ジニーもまだ十四歳でした。仲むつまじい彼女らは、〈一本のフォークの三つの先っぽみたい〉な生活を送りますが、穏やかな生活には最初から暗い影が潜んでいました。ライナスが“楽園”と呼んだこの家でいったい何が起きたのか。人生を知るには幼すぎる少女たちにとって、それはあまりに過酷な運命でした。小説は、いくつもの時代を行きつ戻りつしながら、また、ジニーからジニアへと語り部をつなぎながら、この“楽園”で起きたできごとの意味を問いつづけます。
 ジニーの足首には環状のあざが、ジニアの顔にはこめかみから顎へと伸びる傷あとが、年老いてもなお残っています。ふしぎなことに、耐えられないほどの目にあいながらも彼女達は、不幸せだとか辛いという言葉をけっして口にしません。ジニアがときに悲しさからなぐさめを求めるとき、その疲れた指は頬の傷あとをなぞります。まるで不幸せを裏からあぶるとそこに幸せが浮き出るかのように、過去の苦難の象徴である傷が、今の自分をなぐさめる温もりになっている。遠いむかしを振り返って思いをつむげば、絶対に戻りたくないと思えた過去でさえ、すでに自らの一部として息づいているのです。
 やわらかく起伏に富んだ文体は、多様な時代、多様な人物の視点からわき出る静かな声となって響きます。そこで語られるのは、単純な反戦や反差別といったメッセージではありません。長い年月はよろこびと悲しみを一つにとけあわせ、被害者と加害者の区別さえあいまいにしていきます。善悪をこえた先にある、生そのものが持つたくましさ、揺るぎのなさを感じます。
 冒頭の井戸は、いくつもの時代を経たのちもなおケンタッキーの地に残ります。 “絶望”の象徴として井戸は物語に寄り添い、読む者の心深くに腰を下ろします。身を砕くような絶望を経験した人なら、時代も場所も異なるこの物語が懐かしくさえ思えることでしょう。あるいはこの小説一編を書きあげることもまた、著者には絶望的な作業だったかもしれません。それでも、南北戦争をはさんで80年にわたる壮絶な物語が、文章にすれば200ページほどの紙の束になる、そんな奇跡が絶望の淵から生まれました。このさき数百年が経過し、時代や空間を超越する傑作があらわれたとき、「まるでレアード・ハントの『優しい鬼』のようだ」という賛辞が迎える世界であってほしい。本書が一人でも多くの方に読まれることを願ってやみません。
(20字×68行 婦人雑誌)