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海と風の詩 act.1


 空はこんなに青いのに・・・。

 そんな言葉がふいっと浮かんでくるような気がした。
 
 けして広いとはいえない、大して有名でもない、夏の海水浴の季節にさえ地元の人間がたまにやってくるだけの小さな浜辺の小さな砂丘に一人腰掛けて、サンジは今しがた全力で走ってきて乱れた呼吸を無視するようにジーパンのポケットから残りも少なくなった煙草の薄くつぶれたパッケージを取り出して、真中から折れかかったようにヨレヨレになっている煙草を一本口に咥えた。
 訪れる人間が少ないおかげで真っ白な砂浜は、眩しいくらいに真昼の強烈な太陽の光を反射させている。真っ青な空の真中で熱を放出し続ける太陽に向かって、手のひらをかざせば、本当にその中まで透けてしまいそうだった。

 「何やってんだろーな、俺・・・。」

 手のひらの横をすり抜けてくる眩しい光に、蒼い目をしかめてそう呟くと、火もつけていない煙草を咥えたまま、サンジはバタリと砂浜の上に仰向けに転がった。
 転がった体の脇には、渡しそびれた弁当の入った紙袋。
 何も考えずに走ってきたから、せっかく綺麗に詰めたおかずも、その方がおいしく感じるからと、ふんわりと柔らかくよそったご飯もきっと偏ってしまってガタガタになっているだろう。
 だが、あの瞬間、そんなことを一々気にする余裕が無かった。

 白くなった視界を閉ざしたサンジの瞼の奥にはさっき見てしまった光景が張り付いていた。

 (髪の長ェ子だったな・・・。アイツ、あんな女の子が好みだったのか・・・。)

 土曜日の午後、週休二日制になって、部活をしている生徒以外には人気の無い学校の、閑散として見えた校門の裏手で、まるで抱き合うようにして寄り添っていた二つの影。
 ガクランとセーラー服の、どこかの青春映画のワンシーンでも見ている気分だった。
 今時は中学生といっても、ほとんど大人と変わらない体つきをしているし、情報が渦のように氾濫している今の世の中で、精神的にも成熟するのは早いだろう。いつまでもたかだか14歳の子供だと思っていたのは自分だけだったのかも知れない。
 
 (彼女がいたってちっとも不思議じゃねぇんだよな。)

 隣に放り出したままの、本当はゾロに手渡すはずだった紙袋を見てサンジは口の端からフゥッと一つため息をついた。
 
 何であの時、ゾロが自分のまったく知らない女の子と抱き合っているのを見て走り出してしまったのか分からなかった。ただ、勝手に足がその場に行く事を拒んで、遠くから見ているサンジの視線に気が付いたゾロが、はっとした表情で自分の方に視線を向けたときには、たまらず走り出していた。
 いつもの土曜日の日課だった、ゾロに手渡すはずだった手作りの弁当のことも忘れて。
 
 ゾロの手が、知らない女の子の腰を抱いているのを見て、息が詰まるような気がした。

 (いつまでもかまっていてぇって、そう思ってたのは俺だけだっのかな・・・・・。)

 ずっと繋がっていると思っていたその手は、気が付けば違う女の子のものになっていた。
 それは、よくよく考えれば至極自然な事なはずなのに、サンジの心はわけの分からない痛みに酷く軋んだ音を立てていた。

 (14年前、この砂浜で、最初にゾロの手を掴んだのは俺だったのにな。)

 サンジは目を閉じたまま、そう思った。





 



 14年前のその日のことは、ずいぶん幼い頃のことだったのに、どんなに小さな事でも隅々まで思い出せるくらいにサンジは今でもはっきりと覚えていた。
 それほどに、初めてゾロの手を掴んだ日のことは忘れる事が出来なかった。
 
 きっと、ずっと忘れる事の出来ないゾロと出会った日。

 その日は、秋ももうずいぶんと深い季節だったのに妙に暖かく、サンジはいつも遊びに行く砂浜の入り口にある、防砂林の役割をきちんと果たせるんだろうかという程度の松林の中、その中でもまだ小さい若木の根元にポツリと落ちてい白い布の隙間から、小さな、本当に小さな手がこっそりと、まるでサンジを遊びに誘っているように握ったり閉じたり微かな仕草を繰り返しているのを見つけて。
 ドキドキと高鳴る心臓の鼓動を感じながらその手に近づけば、それが、まだ生まれたばかりのような赤ん坊のものだということに気がついた。
 白い布の間から、目を閉じた小さな顔がわずかに覗く姿を見て、サンジはその時、

 (きっと神様が弟をくれたんだ。)

 そう思った。
 一人っ子で、両親共に実家で忙しく商売を営んでいる家に育ったサンジは、近所のいつでも一緒に遊んでいられる兄弟のいる友達が酷くうらやましくて、何度も夜遅くにならなければぴったりと閉じられた扉の向こうから帰ってこない両親を待つ間、薄暗い部屋の片隅で、

 (神様、お願いです。僕にも弟を下さい。)

 そんなことをこっそりと祈っていた。
 子供がどうやってできるかなんてことはまだ知らなかった。お腹の大きな女の人を見ても、それが新しい命と結びついているなんて知りもしなかった。一生懸命神様にお願いすれば、ある日ひょっこりと自分の目の前に弟が現れる、そんな風に思っていた。
 だから、松の木の根元で小さな手を覗かせて、すやすやと眠っている赤ん坊を見つけたとき、サンジは本気で神様が自分のお願いを聞いてくれたんだと思ったのだ。
 うれしくて、うれしくて、サンジはその小さな手にそっと触れて、

 「初めまして、僕が君のお兄ちゃんだよ。」

 そんなことを言っていた。
 そのサンジの言葉に、赤ん坊は目を閉じたまま、ニッコリと笑って柔らかくて小さな指で触れたサンジの指先をキュッと握り返してきた。小さな指が握りしめてくるその感触は、サンジが今まで感じたことも無いくらいに、暖かで、胸の奥までその暖かさが染み込んでくるようだった。



 サンジはその松の木の根元から、赤ん坊を抱え上げて自分の胸に抱きしめると、神様がプレゼントしてくれた小さな命を大事に守るように自分の家にその子供を連れて帰った。
 いつものように、誰もいなくて寂しくて暗いはずの部屋の中は、ただ「弟と居るんだ。」、そう思うだけでとても暖かで、明るいように感じられた。
 
 だが、子供の浅はかな夢のような考えがそのまま現実に通用するはずも無くて、本当にその赤ん坊がサンジの弟になることは無かった。
 仕事から帰った両親に、「その子はどうしたんだ。」と問いただされて、それにサンジが「神様がくれたんだ。」そう言い張ったところでそんな話が通用するはずも無く。
 松林から連れて帰ってきたサンジの宝物は、翌日にはアッサリとその手から奪われてしまってた。
 どこに連れて行かれたのかも、子供のサンジには調べる術も無かったし、行き先を知っているはずの両親に、いくら「弟を返せ。」そう言っても、格好悪いと分かっていながら泣いて頼んでも、両親は困った顔をするだけで、サンジが連れてきた子供はかわいそうだけど、どこかの誰かが置き去りにしてしまった子供で、「神様からのプレゼント」なんかではないんだという同じような内容の話をサンジに繰り返して聞かせるだけだった。
 
 だが、それでもその話を、サンジは理解は出来ても納得する事が出来ずに、あの日あの小さな手のひらが自分の指先をギュッと握りしめた時に感じた暖かな思いを忘れる事が出来なくて。
 あの手は、きっと自分に向かってだけ差し出されたものだと思いたかった。

 だからサンジは神様にこっそりお願いすることを止めなかった。
 相変わらず一人きりの部屋で、抱きしめたはずの小さな暖かな命のことを思いながら、

 「早く僕の弟を返してください。」

 そう祈りつづけた。

 そして、そのサンジの祈りは本当に神様に聞きどけられたのかもしれない。
 一ヶ月ほどの後、サンジの隣の家に住んでいた中年夫婦が、白い布ではなく、緑色の産着にくるまれた赤ん坊を抱いてサンジの家にやって来た。
 
 「サンジ君。私たちのお家に新しい家族が増えたのよ。」

 そう言って、少し皺の寄った目尻を本当に嬉しそうにほころばせながら、隣の小母さんがこっそりと見せてくれた産着の中には、あの日別れたきりになっていたサンジの『弟』が眠っていた。

 「サンジ君。お隣のお兄ちゃんとして、仲良くしてあげてね。」

 その言葉に、サンジは嬉しくてうまく返事が返せなかったことを覚えている。
 もう一度、産着の中の小さな手に触れてみたら、やっぱりその手はサンジの指を柔らかく握り返してくれて。
 サンジは小さな声で

 「お帰り。」

 目を閉じた小さな弟に囁くような声でそう言った。







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