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池田小百合 なっとく童謠・唱歌
中山晋平作曲の童謠2
  あの町この町  アメフリ   雨降りお月さん・雲の蔭  兎のダンス  お母さん
 肩たたき  黄金虫   木の葉のお船   こんこん小狐  シャボン玉
証城寺の狸囃子   砂山
   背くらべ   てるてる坊主  流れ星   毬と殿さま   露地の細路
  浅原鏡村の略歴    海野厚の略歴   管野都世子略歴   中山晋平の略歴
童謠・唱歌 事典 (編集中)




砂 山

作詞 北原白秋
作曲 中山晋平

池田小百合なっとく童謠・唱歌
(2010/11/07)

  【大正11年6月11日、白秋、新潟に行く】
 作詞者の北原白秋は、大正七年から十五年までの八年間、神奈川県の小田原に住んでいました。 白秋が新潟に行ったのは大正十一年(1922年)六月十一日。のちに詩人として名をなした中村正爾が、当時新潟市で小学校教諭をしており、彼を中心とした市の教員会有志が招いたものでした。

 <時代的背景と白秋>
 大正十一年といえば、ちょうど大正デモクラシーが全国をゆるがした時代です。 全国的に文部省認定唱歌に対抗する運動が起こり、新潟県でもそうした動きが活発に行われていました。白秋自身「唱歌の曲はともかく、歌詞は価値評価の上からも全廃すべきだ」との意見を持ち、反抗派の旗頭でした。そうした背景があっての招きでした。

 【翌日6月12日・新潟師範学校の講堂で】 
 新潟に着いた白秋は、翌十二日に新潟師範学校(現・新潟大学教育学部)の講堂で童謠と詩について講演。
 このあと童謠音楽会に出席して、白秋は子供たちから熱烈な歓迎を受けます。この会では子供たちが白秋の作品ばかりを歌いました。・・・すっかり感激した白秋は、この席で子供たちに新潟を題材にした童謠を作って送ると約束した。
  (以上は、新潟市郷土資料館の池政栄館長や市観光協会の渡辺一雄理事の話による。毎日新聞学芸部『歌をたずねて』(音楽之友社)より抜粋)。

 【どのような音楽会だったか?】
 1990年8月「サライ」は、特別企画号『特集 唱歌』を発行しました。このなかで、「砂山」の取材中、記者は新潟県新潟市の小針浜で八十歳の老人に会っています。
 “大正11年、新潟を訪れた白秋が子供たちに「童謡を贈る」と約束した日、老人はまだ子供でその場にいた、と笑った。”とある。音楽会で、どのような曲が歌われたのか。当時の白秋の様子など、その時だったら、もっと具体的に聞くことができたのに残念です。この記者は、重要な証言を得られたはずのチャンスを逃してしまいました。

 【藪田義雄の証言T】
  藪田義雄著『評伝 北原白秋』(玉川大学出版部、1973年6月15日発行)には、次のように書いてあります。
 “翌大正十一年の六月なかば、白秋は新潟市に滞留することがあった。
 土地の師範学校に各小学校の生徒たちが二千人ほど集って、白秋作詩にかかわる童謡音楽会を開いて歓迎した。白秋が挨拶するために壇の上にあがると生徒たちはこらえきれずにどっと歓声をあげ、手をたたき、大騒ぎであった。
 白秋はいくぶんのぼせ気味で、自作の童謡を二、三うたったが、あの塩辛ごえでもとよりうまかろうはずはない。だが、最後に「兎の電報」を歌う時になると、「えっさっさ、えっさっさ、ぴょんぴょこ兎がえっさっさ、郵便はいだつえっさっさ、えっさっさ、唐黍ばたけをえっさっさ、……」と拍子をとりながら壇の上を駈けまわりはじめた。すると、ポケットのなかの仁丹の罐がそれにつれて鳴り、ちょうど伴奏の役目をつとめるような恰好になった。あの童顔そのものの白秋がすっかり上気して、ところ狭しと駈けまわったのだから、子供たちが熱狂して総立ちになったことは想像に難くない。そして、それにひきつづいて行なわれた子供音楽会が上々の出来映で、この天成の詩人を喜ばせたことはいうまでもない。”

 <白秋は「兎の電報」を歌ったのだろうか?>
  “自作の童謡を二、三うたったが”と書いてあるだけで、具体的に白秋が何を歌ったのか書いてありません。藪田は、その場にいたわけではないので、曲名が書いてないのは当然です。 しかし、“最後に「兎の電報」を歌う時になると・・・”と、見て来たかのように、書いています。この場面は、多くの出版物に転用されていて有名な話として伝えられています。
 白秋は「兎の電報」を歌ったのでしょうか。だとすると、それは佐々木すぐる作曲の作品だったのでしょうか。

 <白秋は独自のリズムと振付で踊ったのか?>
  白秋の故郷・柳川の柳川市立昭代第二小学校・学校便り『ひしの実』平成22年10月19日(通算69号、発行者・姉川圭介校長先生)には、次のように書いてあります。
 兎の電報には、「佐々木すぐると夏目鏡子による2作品があります。新潟で白秋が子供の前で踊ったのは、どちらの作品だったのかと疑問が出ます。佐々木は、大正12年に曲をつけています。夏目は昭和に入ってからです。新潟での音楽会が大正11年6月でしたから、白秋は独自のリズムと振付で踊ったことになります。」

                             ▼佐々木すぐるの「兎の電報」

 <佐々木すぐるの「兎の電報」の作曲年は「不明」が正しい>
  『白秋全童謠集X』(岩波書店)のデーターには次のように書いてあります。
  “作曲年次不明(白秋の童謠は「赤い鳥」大正8年10月号)。『青い鳥童謠曲集』に収録。”
  ちなみに、この佐々木すぐるの曲は傑作です。軽やかな前奏、縦に動くとびはねるようなメロディーと生き生きとしたリズム、白秋の言語感覚もよく生かされています。

▼昭和十二年(1937年)講談社発行『童謠画集』の川上四郎の挿画

  ▼夏目鏡子作曲の「兎の電報」は、昭和になって作曲されました。 楽譜は足羽章編『日本童謡唱歌全集』(ドレミ楽譜出版社)に掲載されていることを、姉川圭介校長先生に教えていただきました。ありがとうございました。(2010年11月4日)。


 82ページの解説には“大正8年10月の「赤い鳥」に詩が発表されました。夏目鏡子さんの曲は、昭和にはいってからつけられました。大正12年に佐々木すぐる氏がおなじ詩に作曲したものも、よく知られています。”
  ●「大正12年に佐々木すぐるが作曲」は間違い。「作曲年次不明」が正しい記録です。この本、足羽章編『日本童謡唱歌全集』(ドレミ楽譜出版社)には、他にも沢山の間違った記載があります。 たとえば、174ページ「かもめの水兵さん」の解説では、“昭和12年2月2日に作られ・・・”と書いてありますが、これも間違いで、「かもめの水兵さん」が作られたのは昭和八年九月二十四日(作詞・作曲)です。レコード初吹込みは、昭和十二年二月九日。発売年月日 昭和十二年四月十五日(五月新譜)。この本は多くの人に楽譜集として、文献資料として使われているので、間違いは困ったものです。そこで、出版社に抗議しましたが、電話に出た女性は「足羽先生に申し伝えます」と言うので、「足羽章さんは、お元気なのですか?」と尋ねると「はい」と答えましたが、調べてみると、その時、すでに足羽章は亡くなっていました。

 <夏目鏡子について>
 渡鏡子(わたりきょうこ)は、大正五年(1916年) 東京に生まれる。
 『東京芸術大学百年史』東京音楽学校篇 第二巻(音楽之友社)には、昭和11年(1936年)3月卒業生の写真が掲載されています。 口絵卒業写真資料(3ページ)には次のような名前を見ることができます。 木下保、信時潔、高野辰之、安藤幸、萩原英一、岡野貞一、下總確覺三、井口基成、h苒シ俊、渡(夏目)鏡子、松田トシ、足羽章、梁田貞など。
  (註)(  )内は改姓、改名後の氏名。昭和3年以降については該当学年の卒業生に照会し、明らかになった氏名を記した。
 昭和四十六年三月頃、東京都中野区1-6-3に住んでいた。
 評論家。渡鏡子著『近代日本女性史 5 音楽』(鹿島研究所出版会、昭和46年3月25日発行)がある。

  【白秋、寄居浜を散策】
 白秋は童謠音楽会の終了後、小学校の先生たちと師範学校の裏手の寄居浜(よりいはま)にあった浜茶屋で歓談。その後浜に出て、じっと北国の荒々しい海と佐渡の島のようすを眺めました。
 明るい南国の九州に生まれた白秋、そして毎日散歩で見ていた穏やかな小田原のそれとは違う強い印象を受け、詩興をかきたてられました。

 【藪田義雄の証言U】
  藪田義雄著『評伝 北原白秋』(玉川大学出版部)には、次のように書いてあります。これも、多くの出版物に転用されているので、有名です。藪田の名文だからです。
 “夕方、会が終ると、白秋は目本海が見たいといって、浜辺へ出ていった。明るい小田原の海とちがって、雨雲が低く垂れこめた北国特有の荒海は眼をみはらせるものがあった。佐渡ケ島がすぐ向こうに横たわっていた。そしてとりわけて強い印象を与えたのは、限りもない砂丘の連続であり、そのぐみ原であった。雀がさかんに啼き群れていた。砂丘の傾斜面はさらに砂浜へつづき、砂浜にはむしろ張りの藁屋根がいくつか潮風に吹き曝されていた。それでも掛茶屋ということであった。その一つに靴を脱ぐと、ありあわせの肴で静かに杯を挙げた。相手は案内役の小学校の先生たちであった。
 初夏の日は暮れかけてなお暮れず、しかも雨もよいの空は灰いろにくすんでいる。杯を手にしたまま眼をやれば、砂丘の風陰には子供たちが二、三人、ごみ火を焚いているようである。なにかしみじみとした、せつない眺めであった。”

 【仕上げは小田原で】
 小田原に帰った白秋は詩を仕上げ、中山晋平に作曲を依頼しました。九月には、できた詩曲を新潟に送り届け、子供たちとの約束を果たしました。
 この時、白秋は三十七歳。小田原市伝肇寺の「木菟の家」新館に住み、佐藤菊子と再婚し、長男の隆太郎が生まれました。家庭的に最も安定し、恵まれていた時期でした。積極的に作詩活動に取り組み、雑誌『赤い鳥』に多くの作品を発表。歌謠集『日本の笛』(アルス)、童謠集『祭りの笛』(アルス)、長歌集『觀相の秋』(アルス)などを次々と出版しました。九月一日には山田耕筰と藝術雑誌『詩と音樂』をアルスより創刊。この雑誌は今も高く評価されている。

  【曲を受け取った地元では】  大正十二年六月十七日に開かれた音楽会のプログラムに『砂山』の名が記録されている(毎日新聞学芸部『歌をたずねて』(音楽之友社)による)。

  【藪田義雄の証言V】 藪田義雄著『評伝 北原白秋』(玉川大学出版部)には、次のように書いてあります。
  “小田原に帰ると、その時の実感をそのまま綴って一篇の童話を成した。そして心を籠めて新潟の子供たちへ贈った。この作は中山晋平によって作曲されたが、新潟地方独特の樽きぬたのリズムが伴奏に採りいれられていて郷土人の共感を呼んだ。
 なお、この新潟行きは市内の某小学校の教師をしていた中村正爾の画策するところであったが、正爾はやっと二十歳を越えたばかりの青年であった。そして、これが白秋との最初の出会いとなり、これが縁となって、のち出京してアルス編集部にはいった。後年、歌人として一家を成したことは、人の識るところである。”
 「新潟地方独特の樽きぬたのリズムが伴奏に採りいれられていて・・・」。これも、多くの出版物に転用されています。

 (註)白秋の出版物のほとんどがアルス出版から出ている。これは、中村正爾がアルス編集部にいたことが貢献している。白秋が高く評価されたことは、中村正爾の存在が大きい。白秋は、人を引き付ける魅力を持っていた。いつも慕う大勢の人に囲まれていた。

  【白秋自身が、書き残していた】
 ところが、これらの藪田の証言は、『お話 日本の童謠』(アルス。大正十三年(1924年)十二月二十五日発行)に、白秋自身が書いたものでした。藪田義雄は、それを自分なりに書き直しただけでした。
 (註)国立国会図書館蔵書の内務省交付本『お話 日本の童謠』(アルス)の奥付の発行日は、大正十四年(1925年)一月一日と手書きで修正されている。
 白秋の文章は、北原白秋著『日本童謡ものがたり』(河出書房新社、2003年発行)で見ることができます。

  “六月(大正十一年)のなかばごろに、わたしは、越後の新潟にいってまいりました。わたしがいくと、新潟のこどもたちは、ひじょうによろこんで、わたしのために童謡音楽会をひらいてくれました。
 その日は、午後の三時まえから、師範学枚の講堂に二千人あまりの、各小学校の生徒たちが、ぎっしりつまって、そして、みんな、わたしをまちうけていました。わたしがいって、半びらきのドアのそとからのぞくと、もう、みんなが、おおさわぎして、こっちをのびあがってみていました。みんなが、目をくりくりさして、顔をまっかにしたり、わらったりしているのでした。わたしも、まっかになってしまいました。
 いよいよはじまって、わたしが席につくと、それこそまた、おおさわぎでした。わたしは、そんなに、みちゃいけない、みちゃいけないと、顔に手をあてました。おとなの先生たちはそれをみて、くすくすわらっています。こどもたちは、ぴょんぴょん、とびあがったり、のびあがったりしました。
 わたしが、いよいよ講壇にあがると、わっわっとさわいで、手をたたきます。わたしもうれしくなって、ふるえ声で「ほうほうホタル」をうたいました。それから「キンギョのはちに」というのを、手まねでやって、こんどはまた、「ウサギの電報」をやったのでした。

  えっさっさ。えっさっさ。
  ぴょんぴょこウサギが、えっさっさ。
  ゆうびんはいたつ、えっさっさ。

 と、両手をふりふり、講壇の上をかけまわると、ポケットにいれてた、じんたんのかんが、 いっしょにカランカランなるので、ほんとにおもしろかっとそうです。しかし、わたしは、 いっしょうけんめいですからね。みんなは、おもしろがって、手をたたいたり、わらったり、すっかり、いいお友だちになってしまいました。
 それから、こどもたちが、いれかわりたちかわり、わたしの童謠を十ばかりうたってくれましたが、みんな、いいできでした。その童謡のなかには、「ワラビ」や「雨がふります。 雨がふる」もありました。いい声で、むじゃきにうたってくれました。どんなにわたしが よろこんだか、そうして、どんなにこどもたちもまんぞくしたか。
 九月ごろまたやってきますから、また童謡音楽会をやってほしいと、わたしがたのむと、また、よろこんでくれました。それではなにか、新潟の童謡を、一つつくってほしい、それをこんどはうたいたいというのでした。それはうれしい。そんなら、一つつくって、それをおきみやげにしようと、わたしもやくそくしました。
 その夕がた、会がすんでから、学校の先生だちと、はまのほうへでてみました。それは、 さすがに北国のはまだとおもわれました。まったく小田原あたりとはちがっています。おどろいたのは、すな山のグミやぶで、みわたすかぎり、グミの原っぱでした。そこには、スズメがたくさんないたり、とんだりしていました。そのすな山の下はすなはまで、そのすなはまには、わらやねで、かべもむしろばりの、ちょうど、わたしのミミズクのうちのような、お茶屋が四つ五つ、ぽつんぽつんとならんで、風にふきさらしになっていました。そのまえは、あら海で、むこうに佐渡ガ島がみえ、はい色の雲がひくくたれて、いまにも雨がふりだしそうになって、そうして、日がくれかけていました。すなはまには、こどもたちが、すなをほったり、おにごっこをしたりして、あそんでいました。日がとっぷりとくれてから、わたしたちは、かえりかけましたが、くらいすな山のくぼみには、まだ、二、三人のこどもたちがのこって、赤い火をたいていました。それはさびしいものでした。

   海はあらうみ、
   むこうは佐渡よ。
   スズメなけなけ。もう日はくれた。
   みんなよべよべ。お星さまでたぞ。

   くれりゃすな山、
   しおなりばかり。
   スズメちりぢり。また風あれる。
   みんなちりぢり。もうだれもみえぬ。

   かえろかえろよ、
   グミ原わけて。
   スズメ。さよなら。さよなら。あした。
   海よ。さよなら。さよなら。あした。

 わたしは小田原にかえってから、かねてのやくそくをはたすために、そうした新潟の童謡をつくって、あの日のこどもたちにおくりました。それがこの「すな山」です。中山晋平さんが作曲してくださいました。
 新潟のこどもたちは、ひじょうによろこんで、うたってくれてるそうです。わたしもあのこどもたちのきもちがよくわかっているつもりです。
 金茶いろの実が、うれる時節も、もう、あのグミ原にやってまいりましょう。こどもたちも、わたしの童謡をじぶんのものとして、あのすな山のグミをつみつみ、うたってくれるでしょう。それをおもうと、わたしも、あのスズメのようにとんでいきたくなります。 ”

 <音楽会での曲は>
  ・白秋が、ふるえ声で「ほうほうホタル」を歌った。
  ・白秋が、「キンギョのはちに」を手まねでやった。
  ・白秋が、「ウサギの電報」をやった。両手をふりふり講壇の上をかけまわった。
  ・子供たちが、白秋の童謡を十ばかり歌う。
  ・子供たちが、「ワラビ」を歌う。
  ・子供たちが、「雨」(雨がふります。雨がふる)を歌う。 白秋の詩は、雑誌『赤い鳥』(赤い鳥社)一九一八(大正七)年九月号に掲載。 大正十年八月五日に弘田龍太郎が作曲。

 <白秋は「兎の電報」を歌い踊った>
  白秋は童謠「兎の電報」を『赤い鳥』大正八年十月号(第三巻第四号)に発表した。白秋の長男の北原隆太郎著『父・白秋と私』(短歌新聞社)には次のように書いてあります(抜粋)。
  “一九二一年(大正十年)四月二八日、父(北原白秋)と母(佐藤菊子)は、木兎(みみずく)の家で結婚式を挙げた。一九二一年一月に創刊した「芸術自由教育」の九月号目次に「児童自由作曲」という文字がある。その一例として白秋童謡「兎の電報」の佐藤雪子、佐藤正治作曲の楽譜が掲載されているが、この二人は私のいとこで、当時、この姉弟は小学五年生と三年生であった。夏休み中で、名古屋から小田原の白秋山荘へ遊びに来ていたものと思える。この幼い姉弟が彼等自身で発想した独特の節をつけて歌い、踊っているその曲を、来訪中の作曲家、弘田龍太郎氏が直ちに楽譜に写しとられたので、父はとても喜んだ。”
  これを白秋は覚えていて、拍子をとりながら壇の上を駈けまわったに違いない。年月日が一致する。


 【『砂山』の初出】
 大正十一年(1922年)、実業之日本社発行の月刊誌『小学女生』九月号に詩と曲が同時に発表になりました。

 【『砂山』詩の収録】
 白秋の童謠集『花咲爺さん』(アルス)大正十二年(1923年)七月十五日発行に収録。
 (註)国立国会図書館蔵書の内務省交付本『花咲爺さん』(アルス)の奥付の発行日は、印刷後に大正十二年七月十九日と手書きで修正されている。
  ・『お山のうた』として、「かやの木山の」の次に「砂山」が掲載されている。
  ・「茱萸原」は「ぐみはら」と仮名がふってあります。当時は歴史的仮名遣いが使われていたので、「ぐみはら」と書いて、「グミハラ」とも「グミワラ」とも読みました。

 【『童謠小曲』の歌詞と楽譜は、これだ】
 中山晋平曲『童謠小曲』第一集(山野楽器店)大正十一年十月二十日発行に収録。
 四曲が収録されています。
   ・七面鳥さん (北原白秋)
   ・げんげ草  (北原白秋)
   ・みそつちよ (北原白秋)
   ・砂山    (北原白秋)
▲歌詞 は四行で書かれ、句読点がある。
「萸茱原」には、「ぐみは(ワ)ら」と仮名が
ふってあるのに注目。
●「萸茱」の漢字は間違い。「茱萸」が正しい。
今まで誰も歌詞を確認していなかった。
▲楽譜 ・冒頭には「野趣あるやうに」だけが書いてあります。
  ・四分の四拍子。
  ・前奏は二小節、ピアノには(低音部ハ太皷の積リニテ)の
指示があります。
これは、スタカートの付いた左手オクターブの四分音符の弾き方
についての指示です。
  ・「ぐみーは(ワ)ら」と歌うようになっているのに注目。
今まで誰も楽譜を確認していなかった。


  【「茱萸原」について】
  「茱萸原」は、「ぐみわら」「ぐみはら」「ぐみばら」とも読みます。 茱萸は、グミ科の落葉または常緑低木あるいは半つる性の木の総称。小枝の変形したとげを持つものが多い。グミはグイ実の略で、グイとはとげのことです。花は白く、食用の赤い実をつけます。「茱萸原」は茱萸の林のことです。茱萸は秋の季語です。詩の寄居浜のグミはアキグミ(落葉低木。花は五月ごろ咲き、実は秋に熟す)だそうです。

 【いろいろな楽譜があります】
  <四分の四拍子の楽譜>
 大正十一年、山野楽器より発行された『童謠小曲』から抜粋されたと思われる、昭和六十三年三月、アポロ企画より発行された『中山晋平 童謠選曲集』の楽譜は、四分の四拍子で書かれています。「野趣を込めて 四分音符=96」と記され、二小節の前奏から始まっています。(低音部は太鼓のつもりで)と表記されています。「ぐみわら」と歌詞付けされています。現在、ほとんどの出版社が、この楽譜を出版しています。
 文部省は教科書に載せるにあたって、子供にわかりやすいように、四分の四拍子の楽譜を載せています。

  <二分の二拍子の楽譜>
 中山晋平記念館によると、「記念館にある自筆楽譜は、大正十一年当時のものではなく、晩年に前奏と伴奏が加筆されたものです。当時の自筆楽譜は、保存されていません。この伴奏譜は、新潟の民謡『樽きぬた』の太鼓をイメージして民謡調の二分の二拍子で書かれています。「野趣を込めて 二分音符=80」と記され、四小節の前奏から始まるものです。(低音部は太鼓のつもりで)の表記はありません。」

 また、「ぐみわら」と歌詞付けされていることについては、「晋平が作曲した時、子供たちが間違えて歌わないように、耳に聞こえるとおりの言葉で「ぐみわら」と、仮名付けしたのかもしれません」(2000年2月1日中山晋平記念館 )。

 <民謡音階による作品>
 日本のメロディーの基礎である「民謡のテトラコード」を二つ重ねた「民謡音階」による作品です。明るく聞こえるのは、「ヨナ抜き長音階」的旋律もまじっているからです。私、池田小百合が主宰する童謠の会では、手拍子を打ちながらハズミをつけて歌っています。会場からは、「ソレ!」などの掛声が入ることがあります。

 楽譜はテトラコード2つによる民謡音階です。

 中山晋平は、生前、歌う側の人たちが、歌いやすいように何回も曲や歌詞を直していました。私たちが歌う場合、作者の意図にそうように歌って行きたいものです。






 【レコード初吹込み】
 歌手・平井英子(ビクター51821  A面「あめふり」B面「砂山」)、昭和六年七月。ハズミをつけて歌っています。

  【明日への希望の歌】
 明るいリズムの中にも、夕景の寂しさを感じさせます。しかし、最後に「さよなら、あした。」を繰り返すことで明日への希望をにじませ、歌う人の心を温かく和ませてくれます。

 【歌碑】
 新潟県新潟市寄居浜の護国神社境内に詩碑があります。大きな御影石に、子供にも読めるように平仮名で全章が九行に刻んであります。

 【体験談】
  ある日、小田原市曽我にある障害者施設から童謡ボランティアの依頼がありました。プログラムには北原白秋作詞、中山晋平作曲の『砂山』もありました。 いよいよ『砂山』になりました。すると前奏から全員が手拍子を始めました。そして歌の合間には「ソレ!」「ヨイショ!」「ドッコイ!」などの掛声が飛び交いました。中には舟をこぐしぐさをしている人もいます。私は、その光景に驚きました。そして、感動しました。
 今まで、『砂山』は、譜面通りに歌い、童謡の会では、まっすぐに声を出すストレートな歌い方を指導していました。ステージでは音楽大学を卒業した人たちが、白いドレスで美しい声を響かせて歌っていたからです。 しかし、作曲をした中山晋平は、当時、野口雨情らと新民謡の普及に力を入れていた時期でした。ピアノ伴奏譜を見ると、左手オクターブを使って力強い太鼓を表現しようとしています。これは民謡のように歌う曲なのです。
  「そうか! この『砂山』は、このように歌うのか」と思いました。障害を持つ人たちに教えられたことは感激でした。童謡の会終了後、私は、その感激を指導員の方々にお礼の言葉として伝えました。
 それ以来、私の主宰する童謡の会では、『砂山』を歌う時、手拍子を打ちながらハズミを付けて民謡調で歌っています。みなさんも、お試しください。

  【山田耕筰も作曲しています】
  ・大正十五年(1926年)十二月十七日に作曲。
  ・『山田耕作童謠百曲集85 砂山 北原白秋作詞』(VOL.X。日本交響樂協會出版部刊、(昭和四年四月十五日発行)で発表しました。茅ヶ崎に住んでいた時の作品。
  ・旋律は、d moll(ニ短調)四分の四拍子、十二小節の短いものですが、表情が豊かで美しい。出版社によっては、移調したc moll(ハ短調)の楽譜もあります。
  ・各フレーズの歌い出しは、1拍または半拍の休みになっています。
  ・伴奏が、和音のアルペジォ(分散和音)で作られています。日本海の荒波を表現しています。和音が力強い。
  ・歌曲として独唱されます。強弱やリズムの変化に富んだ表情豊かな歌曲ですから、細かいところまで気を付けて歌いましょう。


 文化庁編『親子で歌いつごう日本の歌百選』(東京書籍)には選ばれていません。日本を代表する歌として親から子、子から孫へ歌い継ぎたいものです。

▲すなやま/絵は川上四郎。「童謠画集(3)」1960年11月25日刊、講談社ゴールド版より

著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫
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てるてる坊主

作詞 浅原鏡村
作曲 中山晋平

池田小百合なっとく童謠・唱歌
(2010/05/20)


池田小百合編著「読む、歌う 童謠・唱歌の歌詞」(夢工房)より

 子どもたちは、遠足や運動会の前日、てるてるぼうずを紙や布で作り、軒下や窓に下げて「あした天気になあれ」と祈ります。楽しい行事の日の晴天を願う気持ちは、今も昔も変わりはありません。

 【てるてる坊主の起源】
 てるてる坊主の起源は中国のようです。日本での風習は各地にあり、地域により違います。大昔から農耕には雨が欠かせないので日照りが続くと「雨乞い祭り」が行われました。逆に雨ばかり降る時は、作物が育たないので「照り乞い祭り」が行われ、この晴天を祈る風習が江戸時代の子どもの遊びになり、「照り雛」が「照れ照れ坊主」になり、「てるてる坊主」へ変化したというのが一般的のようです。願いがかなって晴天になると墨で目を入れ、お酒をお供えして川に流したりしました。今よりもっと信仰の要素が強かったのです。

 【子供が考える罰】
 『てるてる坊主』の歌詞では、「てるてる坊主 てる坊主 あした天気に しておくれ」と願い事をします。願いをかなえてくれたお礼には「金の鈴」「あまいお酒」をあげますが、願いがかなわなかった罰としては「そなたの首を チョンと切るぞ」という歌詞で終わっています。
 この箇所を歌うと誰もがビックリします。作詞をした浅原鏡村は、「子供が一面に持つ残酷性を取り入れた」と説明していたそうです。
 最初の発表『てるてる坊主の歌』では「チョンと切らう」でしたが、中山晋平が『てるてる坊主』に改題して『童謠小曲』第二集に収録する時、「チョンと切るぞ」と改作し、さらに残酷さを強調しました。

 【大正期の童謠】
 大正期の童謠は、子どもの現実と向き合い、残酷な運命や、悲しく寂しい光景も描いたことが特徴です。文部省唱歌では、このような暗いイメージは取り上げませんでした。

  【詩と曲の発表】
 大正十年(1921年)、実業之日本社発行の雑誌『少女の友』六月号で詩と曲を同時に発表しました。タイトルは「てるてる坊主の歌」でした。
 ●「てるてる坊主の唄」となっている出版物がありますが間違いです。「てるてる坊主の歌」、「歌」の漢字が正しい。

  一番から四番までありました。一番は、次のような歌詞でした。

    てるてる坊主てる坊主
    あした天気にしておくれ
    もしも曇つてないてたら
    空をながめてみんななかう

  【晋平が一番を削除】
 その後、『少女の友』誌上では四番まであった歌詞を晋平が一番を削除し、二番以下を順次繰り上げ、「てるてる坊主」と改題し、現在歌われているように改めて、大正十一年十二月十日発行の中山晋平作曲『童謠小曲』第二集(山野楽器店)に収録しました。
『童謠小曲』第二集 表紙絵 
加藤まさを
 一番と二番は晴れた時の謝礼で、三番は処罰の内容となり完結しています。何も問題ありません。
  「すてきな歌詞だ。なぜこの歌詞が削られたのか」と言って一番を削除したことを惜しむ人もありますが、私、池田小百合は、晋平が四番と同工異曲の一番を削除したのは当然と思います。それにしても、一番を削除するという大胆な行為は、天才・晋平ならではのことです。そこには、音楽に対する厳しさと、自信に満ちた晋平を見る事ができます。

  【中山晋平曲『童謠小曲』(第二集)について】 
 与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)には、『童謠小曲』第二集の加藤まさをが描いた表紙絵が紹介されています。挿絵目次には「てるてる坊主」(『中山晋平童謠小曲』(第二集)大11・12より)と書いてあります。これは正しい。

 中山晋平記念館によると、“「てるてる坊主」の掲載されている第二集は、大正十一年十二月十日発行と思われます。(字が薄くてなっていて確信をもって言えませんが)”(館長・郷道隆昭氏より。平成16年3月19日)とのことです。与田凖一の記載と同じです。

 ●しかし、「大12・1童謠小曲(2)」という情報が一般的になっています。なぜでしょう。理由があります。中山卯郎編『中山晋平目録・年譜』(豆ノ樹社)にそう書いてあるからです。この記載は間違いです。確認せず、次々出版物やパンフレットで使われ広まってしまいました。今では、この間違った記載が正しいことになってしまっています。
 この本には、他にも間違いがあります。たとえば『シャボン玉』は「童謠小曲(2)」と書いてあります。『シャボン玉』の掲載は「童謠小曲 第三集」です。
 一般の読者は迷います。この間違った記載が、多くの人が中山晋平記念館に問い合わせる原因になっているのです。
 ●『童謠小曲』を出版した山野楽器では、戦災にあい、資料が焼失してしまい、初版の時期がわからないようです。『童謠小曲』は中山晋平記念館に保存されているので、山野楽器ではなく、中山晋平記念館(館長・郷道隆昭)で確認できます。
 ○正しくは、大正十一年(1922年)十二月十日初版発行。(二版・大正十二年(1923年)十二月 二十日発行。大阪府立中央図書館 国際児童文学館所蔵)国際児童文学館で確認できました。

 【曲の異同】
 『てるてる坊主の歌』と『てるてる坊主』の楽譜についてくわしく見ましょう。
 『てるてる坊主の歌』は、『少女の友 創刊100周年記年号 明治・大正・昭和ベストセレクション』(実業之日本社)237ページで見る事ができます。 また、大正十年『少女の友』六月号は実業之日本社に合本の状態で保存されているので見る事ができます。(挿画は『少女の友 創刊100周年記年号』カバー表紙。中原淳一装画)

 <タイトルについて> 『てるてる坊主の歌』を改作したので、『てるてる坊主』に改題しました。

 <歌詞について>
 『てるてる坊主の歌』は四番までありますが、『てるてる坊主』では一番を削除し、三番までの曲になりました。「そなたの首をチョンと切らう。」は「そなたの首をチョンと切るぞ」に改作しました。

 <速度表示と伴奏について>
 『てるてるぼうずの歌』は速度表示や伴奏はありませんが、『てるてる坊主』には、四分音符=69の速度表示があり伴奏がついています。

 <拍子について>
 『てるてる坊主の歌』は、前半八小節は四分の二拍子で、後半八小節は四分の四拍子です。『てるてる坊主』では、四分の二拍子に統一しました。

 <『童謠小曲』第二集の「てるてる坊主」はこれだ>

▲「お酒も」となっている
 
▲「きんのー」「おさけも」「くびをー」になっている

奥付には
大正十一年十二月十日初版発行
(大正十二年十二月廿日 二版)

 <調について>
 『てるてる坊主の歌』は、前半八小節はh moll (ロ短調)で、後半八小節はa moll (イ短調・ヨナ抜き短音階)に転調する曲です。後半は、ヨ・ナ抜き短音階を使ったため、前半より暗い感じになっています。

         (参考)

 ▲ h moll (ロ短調)の音階

 ▲ a moll (イ短調・ヨナ抜き短音階)

 『てるてる坊主の歌』は後半が低すぎて歌いにくいので、『てるてる坊主』では一音高くしました。これで、歌いやすくなりました。
 『てるてる坊主』では、拍子を四分の二拍子に統一したので、調もh moll (ロ短調)に統一し、わらべうたの音階を使って<わらべうた調童謠>に仕上げました。田舎風で素朴な響きが心を打ちます。

  (参考) テトラコード2つからなる わらべうたの音階 h moll (ロ短調)

  ・わらべうたのメロディーは、洋楽の音階や、ヨナ抜き音階とは全く別の性質の音階でできている。
  ・わらべうたの場合は、メロディーの範囲が狭いので三つの音、または四つの音が多いが、フレーズの終りや曲の終りは(レ)か(ラ)です。
  ・わらべうたの基本の音階は二つのテトラコードからできている。民謡音階は類似しているが音の範囲が広い。

 ●雑誌『少女の友』掲載の『てるてる坊主の歌』の楽譜には、前半(二調)、後半(ハ短調)と書いてありますが間違い。前半はロ短調で、後半はイ短調が正しい。これは、誰が書いたのでしょう。発表以来この間違いを誰も指摘しなかったのは、なぜでしょうか。楽譜を見れば、すぐわかることです。
  ●町田等監修『カチューシャの唄よ、永遠に』(郷土出版社)208ページの記述も次のように間違っています。
 “「てるてる坊主の歌」ではニ長調からハ短調への転調だったものが、「てるてる坊主」では、ニ長調からロ短調への転調に変わっている”
 いったいこの間違った記述は、誰が書いたのでしょう。(著者・斉藤武雄 高橋渡 中山卯郎 町田等 山崎盈)

 <晋平のひとくふう>
 『てるてる坊主』を歌ってみると前半四小節「てるてるぼうず てるぼうず あしたてんきに しておくれ」は明るい感じを受けます。それは、晋平がひとくふうしたからです。二、三小節目のGis (G音のシャープ)に注目してみましょう。
 まず、シャープを付けないで歌ってみましょう。何も問題ありませんが、暗い。
 次にシャープを付けて歌ってみましょう。短調ですが明るい響きです。小田原市在住のピアニストでピアノ教師の佐藤みゆきさんは、“G音のシャープは「ちょっとしゃれた音」”という解釈です。
 これで、伝統的なわらべうたの感じが出ました。

 <リズムと小節数について>
 『てるてる坊主の歌』は、前半は八分音符と四分音符、後半は二分音符と四分音符などを使って作曲されていますが、『てるてる坊主』では、八分音符を十六分音符に、四分音符を八分音符にというように躍動感のあるリズムに改作しました。そのため十六小節だった楽譜が、十二小節になっています。

 <「キンノー」「クビヲー」と歌うように決めていた>
 最後の「はれーたら」から四小節も、一部旋律が改作されています。『てるてる坊主の歌』の楽譜では、「キンノー」「クビヲー」の歌詞付けは、「タンタンターアー」のリズムになっていて、最初から「キンノー」「クビヲー」と歌うように決めていた事がわかります。これは、「おさけも」の歌詞付けを考えた時、「タタタタ」のリズムに改作したのだと思います。「金」「首」をひとまとまりの言葉として歌います。
              
▼昭和十二年(1937年)講談社発行『童謠画集』の川上四郎の挿画


▲昭和35年(1960年)12月 講談社の絵本『童謡画集(4)』より 蕗谷虹児画


▲てるてるぼうず てるぼうず/絵は鈴木寿雄。「童謡画集(3)」1960年11月25日刊
 講談社ゴールド絵本より

 【レコードの歌】
 中山卯郎編著『中山晋平作曲目録・年譜』(豆ノ樹社、昭和55年2月29日発行)によると、レコード番号/東亜、歌手/佐野伊久恵、発売年/大12という情報があります。
 晋平が専属契約していたビクターから、昭和三年に発売された晋平自身の伴奏 による平井英子盤も、坂田真理子、村山美恵子、中村美沙子たち童謡歌手(『甦える童謡歌手大全集』(ビクターエンタテインメントによる)も、「金」「首」を、ひとまとまりの言葉として「きんのー」「くびをー」と歌っています。そして「おさけも」と歌いました。この時はまだ、「おさけも」となっていたということがわかります。オリジナルを追求して歌うなら「きんのー」「おさけも」「くびをー」と歌います。

  【北島さんのレコード情報】
 以下は、北海道在住のレコードコレクター北島治夫さん所有のレコードと北島さんによるメモ。
  ・(ニッポノホン16772)「露地の細路」(裏面「てるてる坊主」林秀子、のちの平井英子)。
  ・(コロムビア C18)「てるてる坊主」平井英子。(裏面「ニャン二ャン踊り」大川澄子)
  ・(ビクター 50503)「「あの町この町」(裏面が「てるてる坊主」平井英子)。
  (註T)ヒコ―キ 7510「お客さま」「夕焼小焼」のレコードでは林英子の名前。
  (註U)林秀子の名で録音したものが、ニッポノホン16772で出て、戦後のコロムビアC18のレコードはこの録音の再発で、16772及び14942の刻印がある。

  「露地の細路」の項目に<平井英子について>があります。

曲名 てるてる坊主
    歌手・平井英子/伴奏・中山晋平/
    レコード番号 ニッポノホン16772-B
    録音年月日 昭和2年(1927年)12月/
    発売年月日 昭和3年(1928年)1月25日(2月新譜)。

 データは郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謠』(KKベストセラーズ)による。
  “中山晋平は、「ニッポノホン16772」を録音した後、当時設立されたばかりの日本ビクター蓄音器株式会社の専属となり、この曲も再び録音されたので、一時期は市場に「ニッポノホン」盤と「ビクター」盤が併存していました。
 「ニッポノホン」盤は一年ほどで「コロムビア」盤と商標名を変更して戦争末期まで製造が継続され、戦後も再発売されて長く市場にあり、EP盤でも発売されるほどの長寿命レコードでした”(郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』による)
 
  【「お酒を」にしたかった】
 長野県北安曇郡池田町八幡神社境内に童謠碑があります(昭和三十八年(1963年)九月二十二日除幕)。鏡村自筆で、「あまい おさけを」となっています。鏡村は、色紙を頼まれると、「おさけを」と書きました。ここは、改作したかったのでしょう。
 歌碑に使われている詩は、『てるてるぼうずの館 浅原六朗文学記念館』で見る事ができます。またパンフレットの写真でも見る事ができます。 現在は、「おさけを」と歌われるほうが多くなっています。
 与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)の詩は「お酒を」となっています。

  ▲浅原六朗自筆「あまい おさけを」

   ▲北安曇郡池田町の八幡神社境内の歌碑

 【歌い継ぐ】
  次世代にも歌い継ぐことを目的に編集された『日本童謡唱歌大系』第一巻(東京書籍監修 藤田圭雄 中田喜直 阪田寛夫 湯山昭1997年11月28日 第一刷発行の楽譜は、「きんのー」「おさけを」「くびをー」と歌うようになっています。


      『日本童謡唱歌大系』の楽譜

  【浅原鏡村の略歴】
 作詞者の浅原鏡村は、本名を六朗といいます。童謡作品は『てるてる坊主』一篇だけなので、童謡の分野ではあまり知られていません。
  ・明治二十八年(1895年)二月二十二日、長野県北安曇郡池田町村一丁目、酒造業「飯田屋」の四男として生まれました。名前は浅原六朗。
  ・明治三十三年(1900年)、幼い頃を、広々としたあずみ野を隔てて北アルプスの山々が見渡せる村で過ごしました。生家は酒造業飯田屋で裕福でしたが、五歳の時、父が事業に失敗して没落。一家上京。六朗のみ叔母の家に預けられ、心に深い悲しみを負いました。
  ・明治四十一年(1908年)、十三歳になってようやく、福島県平町(現・いわき市)で牧師をしていた父の許に移り、ミッションスクールに入学。
  ・大正五年(1916年)、二十一歳の時、早稲田大学大学部文学科英文学科に入学。
  ・大正八年(1919年)、二十四歳の時、早稲田大学大学部文学科英文学科第二部を卒業し、実業之日本社に入社。

  (註)卒業と入社の年は、「てるてる坊主の館 浅原六朗文学記念館」パンフレットの浅原六朗略年表による。

 <作詞の事情> 1983年(昭和58年)9月15日(木)朝日新聞長野版 「ふるさとのうた 16」には、次のように書いてあります。
 “浅原が松本城に立ち寄った際、城内から眺めた北アルプスの夕日の美しさにうたれ、宿泊した浅間温泉の宿で作詞したという。”
 内田静枝コラム「『少女の友』編集者は文学者であれ」。『少女の友 創刊100周年記年号 明治・大正・昭和ベストセレクション』(実業之日本社)237ページによると次のようです。
 “第三代主筆の浅原鏡村が新人時代に、当時の主筆・岩下小葉の命で作ったものだとか。”
 ★以上の文章は、“作詞したという”、“作ったものだとか”となっていて、はっきりしません。読売新聞文化部『唱歌・童謡ものがたり』(岩波書店)によると、「六朗の手記」というものがあり、それに書いてあるようです。「六朗の手記」を見たいものです。所蔵図書館を捜査中(2010/05/11)。

  ・大正十年、編集をしていた月刊雑誌『少女の友』(実業之日本社)の六月号に鏡村のペンネームで『てるてる坊主の歌』を発表しました(詩と曲同時)。
  ・東亜レコードから歌手の佐野伊久恵(大正十二年発売)によって全国に広められました(中山卯郎編『中山晋平目録・年譜』(豆ノ樹社)による)。 この曲がヒットしたので、大好きな故郷の池田町と生涯親しい関係になることができました。
  ・昭和三年(1928年)、三十三歳の時、実業之日本社を退職し、作家活動に入り、詩、小説、文芸評論などの分野で活躍。百冊近い著書を残しました。
  ・戦後は思うところがあり筆を折り、自宅で俳句同好会「俳句と人間の会」を主宰していました。
  ・昭和五十二年(1977年)十月二十二日、脳血栓のため、八十二歳で亡くなるまで、日本大学芸術学部など三つの大学の教壇に立って文学を教えました。

 若い人との付き合いを好み、講義の後で学生たちとお茶を飲みながら文学談義をするのが何よりの楽しみだったようです。
 『太陽』1974年1月号(新年特別号)128特集 日本童謡集(1973年12月12日発行、平凡社)には、「今月の人」のコーナーに、昭和四十八年頃の元気な写真が掲載されています。解説には、「『てるてる坊主』は、今も月四、五万円の著作権料が入るとかで、夫人を喜ばせている」と書いてあります。鏡村を知る貴重な資料です。
 資料の雑誌『太陽』(平凡社)は、小田原市在住の内田敬子 さんから提供していただきました。ありがとうございました。

 【『少女の友』について】
 実業之日本社発行の『少女の友』は、明治四十一年二月創刊。
  ・初代主筆=星野久(筆名 水裏・すいり)創刊号〜大正八年八月号。
  ・第二代 第四代主筆=岩下天年(筆名 小葉・しょうよう) 大正八年九月号〜大正十三年五月号。昭和三年一月号〜昭和六年五月号。
  ・第三代主筆=浅原六朗(筆名 鏡村)大正十三年六月号〜昭和二年十二月号。
  ・第五代主筆=内山基 昭和六年六月号〜昭和二十年九月号。
  ・第六代主筆=中山信夫 昭和二十年十・十一月合併号〜昭和二十三年九月号。
  ・第七代主筆=森田淳二郎 昭和二十三年十月号〜昭和三十年六月号。 昭和三十年六月号が最終号。
 『少女の友』では編集長職を「主筆」と呼びます。実業之日本社では「編集者は文学者であれ」というモットーのもと、編集者も誌上で作品を発表し、読者をリードすることを課していました。つまり、「主筆」は単なる編集長ではなく、執筆陣のトップでもあるという矜持が込められた名称なのです。・・・今なお歌い継がれている童謠「てるてる坊主の歌」も、こうした中から生まれた作品です。第三代主筆の浅原鏡村が新人時代に、当時の主筆・岩下小葉の命で作ったものだとか。
 『少女の友』の編集者たちは読者から「先生」と呼ばれていました。単なる通称ではありません。詩心を持ち、読者のために苦心を重ねた彼らは、名実ともに「先生」だったのです。(内田静枝)コラム「『少女の友』編集者は文学者であれ」より抜粋。
 『少女の友 創刊100周年記年号 明治・大正・昭和ベストセレクション』(実業之日本社)237ページ。

 ●「大正十年に『少女の友』編集部の主筆になった」とする出版物は間違い。「大正十年」は、「てるてる坊主の歌」が六月号に掲載された年で、浅原は編集部の一員であったが、まだ主筆ではなかった。「第三代主筆=浅原六朗(筆名 鏡村)大正十三年六月号〜昭和二年十二月号」が正しい。

 【記念館や歌碑】
  ・昭和五十七年(1982年)六月一日、長野県北安曇郡池田町大字池田に『浅原六朗文学記念館』『てるてる坊主の館』が開館しました。


  ・昭和三十六年(1961年) 六十六歳の時、長野県松本市城山公園に歌碑建立。“たまたま立ち寄った松本城から眺めた北アルプスの夕日の美しさの感動をうたったもの”とされているためです。
  ・昭和三十八年(1963年)九月二十二日、六十八歳の時、浅原六朗の出身地、北安曇郡池田町の八幡神社境内において童謠碑の除幕式が行われました。 生前に一曲で二基の歌碑が建ちました。知る人もいない故郷というむなしい気持ちを、喜びに変えてくれたことでしょう。『てるてる坊主』は、幼い頃の六朗の哀しい心であり、大人になった鏡村の救いでした。

 

  ・和歌山県すさみ町の「日本童謠の園」には、みんなが選んだ日本の代表的な童謠七曲の中の一曲として歌碑が建てられています。
 文化庁編『親子で歌いつごう日本の歌百選』(東京書籍)には、選ばれていません。


著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫
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木の葉のお船

作詞 野口雨情
作曲 中山晋平

池田小百合なっとく童謠・唱歌
(2009/07/05)


池田小百合編著「読む、歌う 童謠・唱歌の歌詞」(夢工房)より

 童謡の会で指導するのに、「お國が遠いネ」と歌うのか、「お國は遠いネ」と歌うのか、研究してみる事にしました。
 まず、大阪国際児童文学館に『コドモノクニ』と『童謠小曲』に掲載されている「木の葉のお船」の複写を依頼しました。国立音楽大学附属図書館には『金の星童謠曲譜集』に掲載されている「木の葉のお船」の複写を依頼しました。
奥付
  【『コドモノクニ』の検証】
  ・雑誌『コドモノクニ』(東京社)大正十三年(1924年)四月一日発行。巻号(通巻号数)3巻4号。
  ・タイトル「木(こ)の葉のお船」(曲譜付)。収録12−13ページ。詩と曲は同時発表。詩は「歸(かえ)る」とルビがふってある。
  ・歌詞の二番は「お國が遠いネ サ遠いネ」となっている。
  ・楽譜の二番は「オクーニガートホイネ サトホイネ」となっている。
 ◎晋平は雨情が書いた詞「お國が」で作曲した。作曲の際「お國は」に改変したのではない。原典にこだわって歌うのなら「オクーニガー」と歌うのが正しい。
  ・奥付には、大正十三年四月一日発行 大正十三年三月一日印刷納本。定価四十銭と書いてある。
  ・大阪国際児童文学館所蔵。『コドモノクニ』四月号の表紙と、「木の葉のお船」の挿絵は岡本帰一が描いています。
 私、池田小百合は、大阪国際児童文学館から送られて来たカラーコピーの絵のすばらしさに感動しました。表紙の男の子と女の子は、活き活きとしています。木の葉に乗った燕も、かわいくて夢があります。岡本帰一の実力が納得できます。
 
  【『金の星童謠曲譜集 第九輯』の検証】
  ・中山晋平曲 野口雨情詩『金の星童謠曲譜集 第九輯 あの町この町』(金の星社)大正十四年(1925年)四月二十五日発行/国立音楽大学附属図書館所蔵。装丁・竹久夢二。
  ・詩が「歸(かへ)る」と、ルビがふってある以外は全ておなじ。
  ・奥付には、大正十四年四月廿二日印刷 大正十四年四月廿五日発行。定価八十銭と書いてある。

  【『童謠小曲』の検証】
  ・中山晋平 曲『童謠小曲』第十集(山野樂器店)に収録。装丁は加藤まさを。大きさ24×17センチ。
  ・奥付には、大正十一年十月十日印刷 大正十一年十月二十日発行 大正十五年十月十日四版。(定価五十銭)と書いてある。(四版・大阪国際児童文学館所蔵)
  ・詩は「かへる燕は」と平仮名になっている。
  ・歌詞の二番は「お國が」となっていて、『コドモノクニ』と同じですが、楽譜の二番は「オクーニハー」に変わっています。中山晋平は、自分の楽譜集に収録する時、明るい響きになるように「オクーニハー」に変えたのです。「これで歌ってください」と言っているのです。ビクターレコード歌手・古賀さと子は、「お國は遠いネ」と歌っています。『甦える童謠歌手大全集』で聴く事ができます。発売日不明。

楽譜の
歌詞づけ
で、「オク
」と記
している

 【どちらが初出か】
 おや? ●この『童謠小曲』第十集の奥付を見ると、大正十一年(1922年)十月二十日発行で、『コドモノクニ』大正十三年(1924年)四月一日発行より早い。この奥付は、おかしい。
 それで調べてみる事にしました。 大阪国際児童文学館のインターネット「資料詳細」を見ると、推定初版1922/10/20 記載初版1922/10/20と書いてあり、奥付を疑っています。
 国立音楽大学附属図書館所蔵の『童謠小曲』第十三集も、初版が1929(SO4)4.10なのに、所蔵している二版も同じ日付なので(日付ママ)と書いてあります。係りの人が整理中におかしい事に気が付いたのでしょう。この疑いは正しい。
 なぜなら、私、池田小百合が所蔵している中山晋平 曲『童謠小曲』第七集(山野樂器)の奥付には、大正十五年四月一日印刷 大正十五年四月十日発行と書いてあるからです。第十集の発行が、第七集より早いはずがありません。第十集の奥付の記載は間違っています。
 ちなみに第一集の発行は大正十一年(1922年)十月二十日。

 <第十集の奥付について>  「童謠小曲」奥付参照
 「木の葉のお船」「證城寺の狸囃子」掲載。「たあんきぽうんき」「かもめ」「梅の小枝」「遠眼鏡」計6曲。
  ・大阪府立図書館(国際児童文学館)所蔵の奥付
    大正十一年(1922年)十月二十日発行。
    この発行日の記載は第一集のもので、第十集の初版ではない。
    大正十五年(1926年)十月十日四版(大阪所蔵)。
    ※中山晋平作曲目録によると「大15.4」。

  【小松耕輔編『日本童謠曲集』は】
 小松耕輔編『世界音樂全集 第十一巻 日本童謠曲集』(春秋社)昭和五年発行の歌詞の一番は「かへる燕は」、二番は「お國が」で、楽譜は「オクーニハー」となっています。これは『童謠小曲』と同じです。しかし、歌詞のタイトルは「木の葉のお舟」で、歌詞中は「お船」になっている。楽譜のタイトルは「木の葉のお船」。

 【初吹き込み】
 ビクターレコード番号32848/歌手・平山美代子 中山梶子/昭和八年発売。

 【その他のレコード】
 ビクターレコード番号52848−A/歌手・平山美代子 高山得子 斎藤榮子/日本ビクター管弦楽団(小田原市在住のMさん所蔵)。
 このレコードは初吹き込み歌手の平山美代子が歌っているので、かぎりなく初出レコードに近い貴重な物です。発売日は不明。
 レコードを所蔵しているMさんは、さらに音源と共に歌詞カードも送ってくださいました。この歌詞カードのタイトルは「木の葉のお舟」で、小松耕輔編『日本童謠曲集』掲載の歌詞と同じです。この本から歌詞を抜粋したもののようです。すると、レコードの発売日は昭和五年以降ということになります。歌は歌詞カードのとおり「お國が」です。これが原典による歌い方です。 いろいろな出版物やCDで「木の葉のお舟」というタイトルを見かける事がありますが理由がわかりました。それは、小松耕輔編『日本童謠曲集』の歌詞を使っているからです。私、池田小百合が以前から言っているように、この本は、童謡の研究者は必見です。

 ★北海道在住のレコードコレクター北島治夫さんによると、「戦災で横浜のビクター工場、会社の発売資料など消失してしまったため戦前盤の録音、発売年月日については追跡不可能です。戦後盤ですら、月報などの情報がないものはわかりません」。レコード童謠は、詳細がほとんどわかっていません。

  【歌について】
 秋が来て燕が木の葉のお船に乗って南の国に帰るというメルヘン。ハ長調、4分の2拍子。リズミカルに弧を描く旋律が、燕の宙返りや波に乗って揺れる木の葉を描写しています。「サゆれるネ」と歌い上げる晋平流の民謡調童謠です。

  【「木の葉」の読み方について】
 「木の葉」を何と読みますか。
 「きのは」でも間違いではありません。でも、「このは」が本来の読み方です。「木」は、一字だけで 読むときは「き」ですが、「木陰・こかげ」「木立・こだち」のように、他の言葉と 合わさって一つになった言葉(複合語)では、「こ」と発音します。「梢」の漢字をあてる「こずえ」も、木の枝の末端、「木末・こずえ」のことでした。
 「木の葉」「木の実」など、「の」を付けて、下に続く語を説明する形をとった場合 も、「こ」と言います。木の葉の間からもれてさす日の光を表す「木もれ日」は、 「こもれび」と読みます。古くは「く」とも言ったようです。「果物」は、もともとは「木だ物」の意味です。「だ」は、現代の日本語では「の」にあたります。「木の物」ということです。
 ところで、「だ」が「の」の意味で使われている言葉に、もう ひとつ、「けだもの」があります。「毛だ物」、つまり、体中に毛が生えた動物を表 した言葉です。
 (読売新聞2010年10月1日掲載 用語委員会・関根健一著『なぜな に日本語』を参考にしました。)

  【ツバメについて】
 北半球の広い範囲で繁殖する。日本には夏鳥として春先に飛来する。四月末までには本土の多くの地方でその姿を見る事ができる。北海道では、五月に入ってからみられるようになる。
 日本で繁殖するツバメの主な越冬地は、台湾、フィリッピン、ボルネオ島北部、マレー半島、ジャワ島など。渡去の時期は、日本海を除く関東以北の地方では九月も半ばで、十月末には日本から姿を消してしまう。(参考文献 百瀬成夫著『日本の動植物季節前線図』(丸の内出版)による)。
 インターネットサイトには、飛べなくなったツバメを助けて育てた記録日記が多数出ているのに驚きました。別れのつらさがひしひしと伝わってきます。

 【『童謠小曲』(山野樂器)の奥付
  ・中山晋平曲『童謠小曲』、加藤まさを装画。山野楽器店より大正十一年十月から 昭和五年八月にかけて、第1集から第17集まで刊行された。


 <第一集>「砂山」掲載。「七面鳥さん」「げんげ草」「みそっちょ」計4曲。
  ・大正十一年(1922年)十月二十日発行の版は国立音楽大学附属図書館所蔵。
  ・二版(1923年11月20日発行)は大阪国際児童文学館所蔵。
  ※中山晋平作曲目録によると「大11.10」。

 <第二集>「てるてる坊主」掲載。「狐のだんぶくろ」「かりがね」「ほたる」計4曲。
  ・大正十一年(1922年)十二月十日発行(二版・1923.12.20大阪所蔵)
  ・昭和四年(1929年)八月十日発行(国立所蔵)
  (註)中山晋平記念館によると「てるてる坊主」の掲載されている「第二集は大正十一年十二月十日発行。大正十二年ではありません」(平成16年3月19日)。
   (註)与田凖一編『日本童謡集』岩波文庫の「挿絵目次」には、「加藤まさを てるてる坊主」(『中山晋平童謠小曲』(第二集)大11・12より)と書いてある。これは貴重な記録です。
  ※中山晋平作曲目録によると「大12.1」。これは間違い。

 <第三集>「シャボン玉」「黄金むし」掲載。「みぞれ」「舌切雀」計4曲。
  ・大正十二年(1923年)一月二十五日発行(大阪所蔵)
  ※中山晋平作曲目録によると「大12.1」。

  <第四集>「けんけん毛虫」「雛祭り」「南京玉」「鈴なし鈴虫」計4曲。
  ・大正十二年(1923年)五月二十日発行(2版・1923.12.20国立)
   ※中山晋平作曲目録によると「大12.2」。

   <第五集>「肩たゝき」掲載。「風鈴」「神様のお手」「鳥籠」計4曲。
  ・大正十一年(1922年)十月二十日発行。この発行日の記載は第一集のもので、第五集の初版ではない。(5版・1928.1.20大阪所蔵)。
   ※中山晋平作曲目録によると「大12.5」。

   <第六集>「搖籃ゆらり」「乙鳥の姉さん」「夏の雲」「ピアノは小人」「霰と霙」計5曲。
  ・大正十三年(1924年)五月三十日発行(国立所蔵)。
  ・大正十一年(1922年)十月二十日発行。この発行日の記載は第一集のもので、第六集の初版ではない。(4版・1926.10.10大阪所蔵)
   ※中山晋平作曲目録によると「大12.5」。

   <第七集>「あの町この町」「兎のダンス」掲載。「チンチン雀」「榧の實」「あがり目さがり目」計5曲。
  ・大正十五年(1926年)四月十日発行(池田小百合所蔵)
  ※中山晋平作曲目録によると「大15.4」。

   <第八集>「雨降りお月」「雲の蔭」掲載。「啄木鳥」「おねんね時」「雀踊り」計5曲。
   ・大正十五年(1926年)四月十日発行(大阪)
   ※中山晋平作曲目録によると「大15.4」。

   <第九集>「アメフリ」「こんこん小狐」掲載。「鶯の夢」「春が來る」「カッコ鳥」計5曲。
   ・昭和四年(1929年)二月十日発行(国立所蔵)
   ・昭和七年(1932年)八月十日発行(国立所蔵)
  ・大正十一年(1922年)十月二十日発行。この発行日の記載は第一集のもので、第九集の初版ではない。(4版・1926.10.10大阪所蔵)。
   ※中山晋平作曲目録によると「大15.4」。

    <第十集>「木の葉のお船」「證城寺の狸囃子」掲載。「たあんきぽうんき」「かもめ」「梅の小枝」「遠眼鏡」計6曲。
   ・大正十一年(1922年)十月二十日発行。この発行日の記載は第一集のもので、第十集の初版ではない。(4版・1926.10.10発行。大阪所蔵)。
   ※中山晋平作曲目録によると「大15.4」。

    <第十一集>計6曲。「椿」「こほろぎ」「母さんここよ」「異人の花見」「うば車」「かやかり」
   ※中山晋平作曲目録によると「昭2.6」。

    <第十二集>計5曲。「雀」「芒と月」「なに見てねむる」「豆のトン積み」「笛の音」
   ※中山晋平作曲目録によると「昭2.6」。

    <第十三集>計5曲。「道中双六」「寳船」「ねんねのうた」「兵隊ゴッコ」「鼠蛙鬼」
    ・昭和四年(1929年)四月十日(2版・1929.4.10日付ママ・国立) 2版なのに初版と同じ日付はおかしいので、日付ママと記載されている。
   ※中山晋平作曲目録によると「昭3.6」。

     <第十四集>計5曲。「秋風」「村まつり」「元日」「南京ことば」「吹けよ春風」
   ※中山晋平作曲目録によると「昭3.6」。

     <第十五集>計4曲。「チュウリップ兵隊」「汽車汽車走れ」「りんご」「手の鳴る方へ」
   ※中山晋平作曲目録によると「昭5.8」。

     <第十六集>「蛙の夜まはり」掲載。「かくれんぼ」「ころがりお月さん」「おしゃべり燕」「夕やけこやけ」 計5曲。
   ※中山晋平作曲目録によると「昭5.8」。

     <第十七集>計5曲。「朝の鈴」「霜夜の鼬」「動物園で」「牧場の羊の歌」「人形のお顔」
   ※中山晋平作曲目録によると「昭5.8」。

 (結論)●奥付が間違っているようです。本当の初版年月日を知りたいものです。時間を沢山使いました。「間違っている」ということが判明しました。これが研究というものでしょう。

著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫
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黄金虫

作詞 野口雨情
作曲 中山晋平

池田小百合なっとく童謠・唱歌
(2010/08/25)


池田小百合編著「読む、歌う 童謠・唱歌の歌詞」(夢工房)より


 この研究は、タイトルが「黄金虫」と「黄金むし」の二種類あるのはなぜだろうという単純な疑問からスタートしました。

 【童謠の発表】
 野口雨情と中山晋平による作品です。雑誌『金の塔』(大日本佛教コドモ會) 大正十一年(1922年)七月号(第二巻第七号)に発表されました。詩と曲は同時。
 表紙の絵は川島昌介。
 (註)雑誌『金の塔』は、大阪府立中央図書館 国際児童文学館所蔵。中山晋平記念館では所蔵していません。


 【『金の塔』をくわしく見ましょう】
  ・目次のタイトルは「黄金虫」。
  ・詩のタイトルは「黄金蟲」。
 七・五調二行ずつ六連でできています。
 句読点は無く、最後に句点「。」がある。詩の終わりの印です。
  ・楽譜のタイトルは「黄金虫」。
  オリジナル楽譜のタイトルは「黄金虫」です。

▲丹浪昌介が描いた挿絵は、女の子と男の子が水飴を持って喜んでいます。
大正時代の子供たちにとって水飴はぜいたくなごちそうであったに違いありません。
  <『金の塔』の楽譜について>
  ・楽譜のタイトルは「黄金虫」です。
  ・二短調、四分の二拍子、九小節(メロディーは八小節)の小曲です。
  ・七・五調の詩に晋平が付けたメロディーは、たった八小節の長さですが、歌の速度がゆっくりなので、あまり短く感じません。
  ・最初の四小節「こがねむしは〜くらたてた」までは、十六分音符中心で作られていて、快活に歌います。後半の四小節「あめやで〜かってきた」までは八分音符中心で作られていて、ゆったりとした広がりがあり対照的です
  ・短調の曲ですが、決して暗くなく、むしろ可愛らしい感じのする曲です。
  ・「あめやで」から右手がオクターブ上を弾くように工夫されています。歌う人は音程を外さないように注意が必要です。
  ・「あめやで」が、この歌の山です。「あ」で声を張り上げる事によって、歌の印象をさらに深めています。

  おや? 伴奏七小節目の右手三番目の音符は、E音になっていますが、F音の間違いです。弾いてみると、音が重なるので間違いだとわかります。
 現在出版されている全ての楽譜は、F音に直されています。

 【『童謠小曲』に収録】  
 中山晋平の『童謠小曲』第三集(山野楽器店)大正12年1月25日発行には 「シャボン玉」と共に「黄金むし」のタイトルで収録されています。なぜ、「む し」を平仮名にしたのでしょうか?
  ・目次、歌詞、楽譜のタイトルは「黄金むし」です
  ・歌詞は『金の塔』と同じ七・五調二行ずつ六連でできています。
   句読点は無く、最後に句点「。」がある。終わりの印。
  ・楽譜も『金の塔』と同じですが、伴奏七小節目の右手三番目の音符は、F音 に訂正してあります。これが正しい。

 【「黄金むし」のタイトルの考察】
  (そのT)「虫」「蟲」の漢字が難しいので、子供にも読めるように平仮名で「むし」とした。

  (そのU)初出の『金の塔』では、目次と楽譜のタイトルが「黄金虫」で、詩は「黄金蟲」となっているので、『童謠小曲』第三集収録の時、「虫」「蟲」のどちらでもない「むし」に統一して「黄金むし」としたのではないか。

  (そのV)『金の塔』の「黄金虫」の楽譜には、一ヶ所間違いがあり、それを正したので、初出の楽譜と区別するために、タイトルを「黄金虫」から「黄金むし」にしたのではないか。

  (そのW)中山晋平がタイトルを「黄金むし」にした理由がわからないので、中山 晋平記念館に教えていただく事にしました。
  “『金の塔』の初出で(虫)としてみたけれど、童謠だと(虫)は、きつい感じになって平仮名にしたのではないか。多分特に何かあって(虫)が(むし)になったわけではないと思います”中山晋平記念館 (野村) 2010/08/24 

  【与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)の検証】
  与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)には、出典を「金の塔」大11・7と記述していますが、岩波文庫に掲載されている詩は、「金の塔」の詩ではありません。編集をした与田凖一は、自分で「金の塔」の「黄金蟲」の詩を見ていないのです。
 初出「金の塔」は、三行詩ではない。七・五調二行ずつ六連でできています。詩には句読点はなく、最後に句点「。」がある。これは詩の終わりの印です。
 与田凖一編『日本童謡集』では、●句読点があり●三行二連にまとめてある。この間違った句読点や構成は与田凖一が手を加えた物でしょうか?
 与田凖一編『日本童謡集』は、絶大な人気で、上笙一郎編『日本童謡事典』でも使われています。「金の塔」掲載の「黄金蟲」の調査をすれば、すくわかることです。
 多くの出版物で目にする「●句読点がある」、「●三行」、「●全二節」の作品という記載は間違いです。

 【レコードによりヒット】
 中山卯郎編著『中山晋平作曲目録・年譜』(豆ノ樹社、昭和55年2月29日発行)によると、曲名/黄金むし、レコード番号/ニッポノホン15109、歌手/外山國彦、発売年月/不詳。 「ビクターレコードは50558・平井英子・昭4.1がある」と書いてあります。

 <レコード情報>
 以下は、北海道在住のレコードコレクター北島治夫さん所有のレコード。
   ・VICTOR 50558-B こがねむし 平井英子 伴奏 中山晋平のレーベル。
  平仮名で「こがねむし」と書いてある。
  A面は「元日」 平井英子 伴奏 中山晋平。
   ・VICTOR 8B4 黄金虫 中村愛子 山本芳樹 編曲
   ・VICTOR B284 黄金虫 古賀さと子 清水保雄 編曲

  「日本ビクターレコード邦楽総目録(昭和十三年版)」では、タイトル「黄金むし」、演奏者・平山美代子(アンサンブル伴奏)となっています。
 (註)レコード番号J-30003-A「黄金むし」平山美代子(日本ビクター管弦楽団伴奏)。Jナンバーのものは「児童レコード」となっていて8インチ盤。ほかに、国歌レコード タイトル「黄金虫」、唄・倉島まり子、ピアノ・倉島六郎、クラリネット・宮内和泉があります。

【雨情が作詩した時の状況】
 野口雨情の詩には、「赤い靴」や「シャボン玉」のように、哀れな物語がついているものが多い。「黄金虫」にも、自身の境遇が語り継がれている。大正四年の離婚によって雨情一家は離散状態にあった。

  <息子・野口雅夫によると>
 “家が没落して土蔵は修理することもできず、朽ち果てた板蔵は隣村の醤油屋に売ることになりました。父は悲しそうに解体されて荷馬車で運ばれてゆくのをじっと見つめていました。その父の姿を今でも忘れません。家にはいるなり
 「雅夫、筆と紙とを持って来い」と言うのです。その時のことが後の「黄金虫」の原型になったのだと思います。その時の寂しさをまぎらわすために書いたのかも知れませんが、父の心境がわかるような気がします。”
 野口雅夫著 特集随筆「没落をうたった「黄金虫」父・雨情の童謡」より抜粋。『太陽』1974年1月号(新年特別号)128特集 日本童謡集(1973年12月12日発行、平凡社)に掲載。
 この時、どのような事を雨情が書いたのかわかっていませんが、家が没落の事態になっても、まだ詩を書き続けたというのに執念を感じる一方で、家族の生活をかえりみない雨情が想像できます。奥さんは苦労の連続だったことでしょう。「子供に 水飴 なめさせた。」の一節に雨情の父親としての心情がうかがえ、救われます。

  <おもしろい発想>
 冒頭の「黄金虫は 金持ちだ」という一節は、「黄金・こがね」のイメージから「金持ち」を想像したのでしょう。雨情らしい、おもしろい発想です。
 コガネムシを擬人化し、子供に対する親の愛情を盛り込んだ事で成功した詩です。
 子供の頃の雨情の家は豊かで、飴売りが来ると父親が飴を買い与えていた。それがとても楽しみで、雨情は自分でも飴屋をしたいほど入れ込んで飴屋の箱をほしがったりしました。幼い頃の懐かしい思い出や、蔵を失う哀しみが、走馬灯のように蘇って来て、この詩が生まれたのでしょう。

▲立野道正・絵、昭和13年講談社の絵本「童謠画集と手本」より

  【いろいろな「黄金虫」】
  (1)輪唱で歌うと、新しい感覚の「黄金虫」になります。
  (2)伴奏はやさしく、美しく、和音進行がブルグミュラー作曲の「アラベスク」と同じです。簡単なアレンジで「アラベスク」を伴奏にして「黄金虫」を歌う事ができます。
 (3)エイベックスのCD『にほんのうた第二集』では、遠藤賢司が「黄金虫」をロック調で歌った珍しいアレンジを聴く事ができます。私、池田小百合は、ビックリしました。思いがけないアレンジで「黄金虫」が新しくなっていたからです。晋平も驚いたことでしょう。でも、奇抜な「証城寺の狸囃子」を作曲した晋平なら、「これは、おもしろい!」と大喜びしているかもしれません。

著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫
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肩たたき

作詞 西条八十
作曲 中山晋平

池田小百合なっとく童謠・唱歌
(2011/01/08)


池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より


 この歌の最大の魅力は、肩たたきの音、「タントンタントンタントントン」という擬声語が入っていることです。そのような歌は他にありません。肩をたたく時の歌として日本中で親しまれました。時代が進んだ今でも、肩をたたく時、口をつくのは、この歌です。みなさんは最後まで正確に歌えますか?


   【初出】 『幼年の友』(実業之日本社)大正十二年五月号に中山晋平の楽譜付きで掲載されました。
  <「幼年の友」>
 明治四十二年一月創刊から昭和初期まで継続して刊行された伝統のある月刊誌。雑誌『赤い鳥』大正七年七月一日創刊よりはやい。表紙や口絵に仕掛けがあったり、誌面のお話をもとに読者に絵をかかせる懸賞が人気を集めたりしていました。
  ←『幼年の友』(実業之日本社)大正十二年五月号 詩と曲同時掲載
  (註)これは与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)で見ることができます。
 
  <歌詞>は、句読点がある。「いつぱい」が平仮名。
 二行、五連でできています。一、二、五連の一行目は子供の母への語りかけです。三、四連の一行目は情景描写です。
 この詩の中で「眞赤な罌粟が笑つてる」が一番優れています。「咲いている」では普通ですが、「笑つてる」としたので名作になりました。

  <楽譜>は、二長調(D Dur)、ヨナ抜き長音階。掲載楽譜は五段になっていて、メロディーの変化がわかりやすい。特に「たんとんたんとんたんとんとん」の変化が一目でわかります。「はずみをつけて」の表示はありません。

  <挿絵>は、着物を着た女の子が母親の肩をたたいています。母親の髪は丸髷です。時代を反映しています。背景には罌粟の花が描かれています。


 【『童謠小曲』に収録】 中山晋平 曲『童謠小曲』(山野楽器店)に収録。

 <第五集>「肩たゝき」掲載。「風鈴」「神様のお手」「鳥籠」計四曲。
  ・大正十一年(1922年)十月二十日発行。この発行日は第一集のもので、第五集の初版の発行日ではありません。(五版は昭和三年(1928年)一月二十日 大阪府立中央図書館・国際児童文学館所蔵)。
  ※『中山晋平作曲目録・年譜』によると「大12.5」。
     ▼中山晋平 曲『童謠小曲』奥付

  【『中山晋平作曲目録・年譜』の間違い】
 この目録には、<第二集>のように、間違いがあります。
 
  <第二集>「てるてる坊主」掲載。「狐のだんぶくろ」「かりがね」「ほたる」計4曲。
  ・大正11年(1922年)12月10日発行(二版・1923.12.20大阪府立中央図書館・国際児童文学館所蔵)

  ・大正11年(1922年)12月20日発行(二版・1923.12.20国立音楽大学図書館所蔵)

  ・昭和4年(1929)8月10日発行(国立音楽大学図書館所蔵)

  (註)中山晋平記念館によると「てるてる坊主」の掲載されている「第二集は大正11年12月10日発行。大正12年ではありません」(平成16年3月19日)。
  (註)与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)の「挿絵目次」には、「加藤まさを てるてる坊主」(『中山晋平童謠小曲』(第二集)大11・12より)と書いてある。これは貴重な記録です。
  ※中山晋平作曲目録によると「大12.1」。これは間違いです
  「第二集は大正11年12月10日発行が正しい。大阪府立中央図書館・国際児童文学館や国立音楽大学附属図書館で確認できます」


▼加藤まさを・装画。
中山晋平曲『童謠小曲』
(山野楽器店)
<第五集>の表紙。

 着物姿のお母さんが
若くて美人。
女の子は頭に大きな
赤いリボンをつけている。
 大正末期から昭
和二十年代頃まで
頭に大きなリボンを
つけるのが
流行った。

 お母さんは針仕事を
していたようです。
▲『童謠小曲』の「肩たゝき」の歌詞   句読点がない。三行ずつ五連になっている。「一杯」が漢字。

  ▲『童謠小曲』の楽譜  「はずみをつけて」の表示はない。

  【旋律についての検証】
  まず、楽譜を見ましょう。
  ・ホ長調(E Dur)、ヨナ抜き長音階。初出は二長調(D Dur)、 ヨナ抜き長音階です。二長調では低いのでホ長調に移調し、伴奏を付けたのでしょう。
  ・「肩たたき」なので、四分の二拍子です。伴奏の右手はメロディー、左手は四分音符で「タン」「トン」と二拍を刻んでいきます。「タン トン タン トン」という肩をたたく様子を表現した四分音符のリズムに特長があります。
  ・三回出てくる「かあさん」は同じ旋律。ほかにも、「タントンタントンタントントン」が同じ部分があります。
  ・五連ある、それぞれの連の最初の一行目(四小節)は、言葉のアクセントにそって作られています。四小節の部分が五回変化して歌われます。 さらに、「いっぱい」「まっか」「わらって」の「いっ」「まっ」「らっ」=(四分音符)もアクセントに注意して作曲しています。
 言葉のある部分は、アクセントにそって歌えばよいのですが、「タントンタントンタントントン」は、どうでしょうか?

 【エンドレスソングか?】
 一連ずつ比べてみると、エンドレスソングの作りになっていることがわかります。
 一連の「タントンタントンタントントン」と、四連が同じメロディーです。
 二連の「タントンタントンタントントン」と、五連が同じです。
 中間部の三連は低くして変化をつけています。
 同じような節が何度も繰り返されていますが、少し違っています。中山晋平が、繰り返し歌えるようにと工夫したメロディーですが、その違いを、はっきりつかまないと歌えません。特に、何度も出てくる「タントン」の擬音の部分は違うメロディーをつけてしまったので混乱の原因になっています。
 童謠は、楽譜を見て歌うのではなく、耳から聴き覚えて、口から口へ伝えて行くものです。レコードで、ラジオで頻繁に聴いて覚えた時は良かったのですが、しだいに歌えなくなってきています。小さい子には覚えにくく歌いにくい。

  【楽譜の異同の調査】 <変ホ長調、ヨナ抜き長音階>
  ▼変ホ長調(Es Dur)、 ヨナ抜き長音階の自筆楽譜
 「はずみをつけて」の表示はない。よく見ると、冒頭に「四分音符= 」と書いてありますが、数字はありません。「四分音符=88」と書こうとしていたのでしょうか。

  <メロディーを並べてみると変化がわかりやすい> 現在発売されている楽譜は変ホ長調に移調したものが多い。これ以上低くしたり、高くしたりすると歌いにくい。
   ▼「タントンタントンタントントン」のそろった楽譜。 エンドレスになっていることが、はっきりわかります。


  <「お話のやうに」歌う> 熱海市梅園内の「中山晋平記念館」に展示してある自筆楽譜には、「お話のやうに」という重要な演奏方法が書いてあります。言葉のアクセントにしたがって曲が付いています。

 【詩の収録】
 『西條八十童謠全集』(新潮社)大正十三年五月二十五日発行に収録
 <「我家の人々」篇中の詩>  「母さんの眼」・「頬ひげ」・「祖母と鸛(こふのとり)」・「雨夜」・「肩たたき」・「海邊で」・「ねえや」


 初出『幼年の友』と同じ二行五連。句読点が削除してある。一連の二行目「タントン タントン、タントントン」と、読点が削除されないまま掲載されている。最後に終わりの印としての句点が書いてある。
 
 <「肩たたき」西條八十の解説>
 『西條八十童謠全集』(新潮社)に掲載されている西條八十が書いた解説。西條八十は、「この歌には忘れ難い追憶がある」と言っています。これは書き直されて、あらゆる出版物で紹介されている。読者の涙を誘う。
▲西條八十と母トク
▲西条八束の家族。後列は左から
琴(女中)、晴子(母)、八十(父)。
前列左から慧子(次姉)、徳子(祖母)、
ふたば子(長姉)。
1922年(大正十一年)頃

  “大正十二年の秋、四歳の短かい生涯を以てわれらの温かき團欒を去つた亡兒慧子(けいこ)は、私が「幼年の友」のために書いたこの謠を殊のほか愛誦してゐた。 さうしてつねに「母さんお肩をたたきませう、タントン、タントン、タントントン」と廻らぬ口で歌つてゐた。 この謠を聞くと、私の前には彼女のひびの切れた赤い頬ぺたと、その戀しい眼とが浮ぶのである。”

  <西條八十の母トク(徳子)>      
 右の写真は、年老いた母トクに八十がレコードを聴かせようとしている。母のために蓄音器を買ったのでしょうか。母トクは目が不自由だったようです。メガネをかけている写真も残っています。
 西條八十の研究者で、『西條八十』(中公文庫)の著者の筒井清忠氏によると、「西條八十の母親が晩年目が不自由であったことについては、西條八十自身のものをはじめ、記述があったことを憶えていますが、緑内障であったかどうかは判然としない次第です。このことは、拙著には、どこにも記述がございません」(2011年1月24日私信)。
 島田磬也『裏町人生』(創林社 1978年)によると次のようです。
  “昭和二年頃、八十の家の書生となった後の作詞家島田磬也は、目の不自由な八十の母徳子(トク)の話し相手をよくしたが、徳子は「旅行に行く時には、お母さん行ってきます。帰ってくると必ずお土産を持って母さん只今と挨拶します。本当に親孝行な子ですよ。」と八十のことを語ったという。”

 西條八十の息子・八束(やつか)著『父・西條八十の横顔』(風媒社)には次のように書いてあります。
 “私が父の母、徳子の死去を知ったのは、一九三四(昭和九)年八月八日、小岩(江戸川区)の三村の家であった。祖母はいわゆる中気で、家で長く臥(ふ)せっており、享年七十四歳であった。父は旅行に出ている事が多かったが、祖母の臨終のときは東京にいて看取る事ができた。
 私が知っている祖母は盲目であった。視力を喪失したのは五十四歳頃と言われ、私の顔は知らなかった。その頃よくあった、白髪染めが原因という話を聞いていた。祖母は庭に面した南側の居室で、何時も長火鉢の横にじっと座っていた。当時の事で、ラジオを聴いていた記臆はあまりない。ラジオ放送が始まったのは私が生まれた頃であったが、当時は民放もなく、現在のNHK第一放送だけで、聞いて楽しめる娯楽番組などはきわめて少なかったと思う。”
 八十自身は、「白孔雀」二号(一九二二〔大正十一〕年四月)に次のように書き残している。
 “私の六十五歳になる母親は眼を疾んで舊臘(きゅうろう・旧臘=年の暮れ)からと或る病院に入つていたが、三月の初旬、やうやく片眼を抉出(けっしゅつ=えぐり出す事)して後、歸宅した。五つの娘には老母が毎夜その義眼を取り出して枕もとに置いてねむるのが非常な驚異であつたらしかつた。”(註)“五つの娘”は、長女・嫩子(ふたばこ)  

 【「肩たたき」のレコード情報】
 以下は、北海道在住のレコードコレクター北島治夫さん所有。
  ・昭和三年、歌手 村山久子(ニツポノホン 15312 B面)タイトルは「肩叩き」。
  ピアノ 村山道子/ニツポノホン音楽部員。(A面は「ニコニコピンピンの歌」)。
  ・@昭和五年、歌手 平井英子(ビクター 51438 B面)タイトルは「肩たゝき」。
  日本ビクター管弦楽団。(A面は「キューピーピーちゃん」)。
  ・Aビクター B113=再発売(マトリックス番号2002で@と同じ)タイトルは「肩たたき」。
  (裏面は「兎のダンス」)。

  【挿絵は女の子】 どの挿絵も「女の子」が、お母さんの肩をたたいています。詩を見た画家が、「女の子の母親への優しさ」を感じたからでしょう。
▲小学生全集第二十四巻 西條八十編『日本童謠集』(初級用)興文社
  ・文藝春秋社 昭和二年六月二十一日発行。
  ・着物姿、女の子、丸髷のお母さん、罌粟の絵。画家は不明。
  ・歌詞は全文カタカナ、二行五連。各行の最後に句点がある。
 
▲「肩たたき」オカッパ頭の女の子が肩をたたいている。
『童謠・唱歌・流行歌全集』婦人倶楽部新年號附録
 昭和十一年一月号掲載


▲昭和十二年(1937年)講談社発行『童謠画集』の川上四郎の挿画


▲風間四郎・絵「トッパの絵本 新編童謡絵本」6 昭和27年 トッパ。
・着物姿、お母さんと女の子の髪型に注目。子供は後ろを刈り込んだ
「おかっぱ頭」。
お母さんも当時流行った髪型です。
背景には罌粟の花が大きく描かれています。
楽譜はホ長調、ヨナ抜き長音階。「はずみをつけて」の表示はない。

 
▲音羽ゆりかご会監修『日本の童謡・唱歌絵本』(主婦と生活社)平成元年発行
    絵・池田初幸
 女の子がエプロン姿の母親の肩をたたいています。
 男の子は、見ているだけです。
 楽譜は変ロ長調、ヨナ抜き長音階。
 冒頭には、「四分音符=88」と書いてあるが「はずみをつけて」はない。

 
▲かたたたき/絵は黒崎義介。「童謡画集(3)」1960年11月25日刊、講談社ゴールド版より


 【「罌粟」が咲いている時期は?】 歌詞に「眞赤な罌粟が笑つてる」とあります。「罌粟」の季節は五、六月(花期)。つまり初夏です。


 【「肩たたき券」の流行】 
 「母の日」は、肩たたきをする絶好のチャンスです。一時期、「母の日のプレゼント」=「肩たたき券」というものが子供たちの間で流行ったことがあります。だれが考えたのでしょう。お金のかからない、なかなか好いアイディアです。お母さんたちは、それをもらって喜んだものです。親も子も、のんびりしていました。 私の娘たちも小学生の時、「肩たたき券」を作りました。姉妹が、競って凝った券を作るのに、時間の経つのも忘れ、夜遅くまで夢中になっていました。しかし、私はその券で肩をたたいてもらった記憶がありません。
 先日、“掃除中に息子に昔もらった「肩たたき券」が出てきて、なつかしかった”という新聞の投書を見ました。この人も券を使わなかったのでしょう。

  【「肩たたき」をしよう】 
 私、著者池田小百合は、童謡の会を二十年以上主宰しています。毎年「母の日」、五月の第二日曜日に「肩たたき」をします。
  まず、「二人組になってください」と言います。以前は、みんなが楽しくやり、「肩が凝っていたので楽になりました」とか、「久しぶりに肩たたきをして楽しかった。ありがとうございました」などの感想をもらいました。
 しかし、最近では二人組になれない人が何人もあります。二人組になれない人どうしで組を作ればいいのですが、腕組みをしたまま動こうとせず、黙って見ているだけです。「私と一緒にやりましょう」「一緒にやりませんか」と声をかけることはしません。なぜでしょうか? 「肩たたき」が、それほど難しい遊びとは思えませんが。
 元気に歌いながら、みんなの肩をたたきましょう。人とふれあい、弾む会話をするのは楽しいものです。「肩たたき」が、それを教えてくれます。

 【「縁側」にも説明が必要か?】
 最近の家には「縁側」がありません。昔は、どこの家にも縁側がありました。そこに座布団を敷いて、おばあさんが日向ぼっこをしたり、裁縫をしたりするのを目にしました。農家では農作業の合間に、休憩をしたり、おやつを食べたりする場所でした。
 近年、小学生が「♪おーえんがわには」と歌い、運動会の「応援側」と勘違いしている子がいると聞きました。困ったものです。
 「廊下(ろうか)」と「縁側」は違います。私の家は、八畳間と六畳間がふすまで仕切られていて、大勢が集まる時にはふすまを取り外して宴会などができるようになっています。その周りを一間廊下が囲んでいます。奥に便所があります。私は最近まで一間廊下を縁側と思い込んでいました。一間廊下では、父が農作業をして休んだり、祖母が縫物をしたり、来客があればお茶を飲んだり、鬼柚子の収穫期には、鬼柚子がうず高く並べられました。体が小さくて病気がちだった私は、濡れ手拭いを額に乗せられて寝たりしていました。つまり、わが家の一間廊下は縁側のように使われていました。縁側を見た事のない人に、縁側を説明するのは非常に難しい。
  小田原市栢山の『尊徳記念館』に、二宮金次郎生家が保存されています。この生家には「縁側」があります。小学生が遠足で来た時、小田原市観光ボランティアガイドの人は『肩たたき』を歌ってから説明をしてほしいと思います。
  平成二十七年(2015年)五月十五日、『尊徳記念館』に遠足で来ていた小学生たちに『肩たたき』を歌って「縁側」を教えてあげました。理解できただろうか? 帰宅して夫に話すと、「縁側を知らない子どもはいなかっただろう。この辺には、まだ古い家が多いから、どこの家にも縁側がある」と簡単に言われてしまった。私は出過ぎた事をしたと落ち込み、寝込みました。そうです。お弁当を食べようとしていた子どもたちは、どんなに驚いた事でしょう。突然現れたおばあさんに「童謠『肩たたき』の「縁側」はこれです」と言われたのですから。きっと、何が何だかわからなかったに違いありません。
 三省堂国語辞典には「縁側」は、次のように書いてあります。「庭に向いた座敷の外につけた、細長い板敷の部分」。さらに「ヒラメなどの、ひれのつけ根にある骨(のまわりの肉)」。これは、寿司ネタの「えんがわ」のことです。夫は「えんがわ」が好きで、寿司屋に行くと必ず食べます。私も食べた事がありますが、回転ずしの「えんがわ」は、乾燥していてまずかった。「えんがわ」が乾いていた。ますます混乱して来ました。

 【「肩たたき」の像】
  ←中山晋平の故郷、長野電鉄長野線の信州中野駅前に銅像があります。
 「着物の上にエプロンを着た」お母さんの肩を、「髪の毛を三つ編み」にした「短い吊りスカート」の女の子が、たたいています。昭和三十年代に流行ったスタイルです。制作は昭和五十八年十月。
  ・中野市立日野小学校の校庭にも銅像があります。

 【熱海市に「中山晋平記念館」あり】
▲熱海市梅園内「中山晋平記念館」

 熱海市には、もうひとつの「中山晋平記念館」があります。これは、昭和十年に熱海市西山町に別荘として建築されたもので、中山晋平は同十九年、空襲が激しくなった東京・中野区より移住。以後、昭和二十七年に亡くなるまで、ここで多くの作曲をしました。同三十七年、日本ビクター株式会社が遺族より譲り受け一般公開していましたが、平成二年、熱海市が日本ビクター株式会社より譲り受けて平成三年四月、中山晋平が居住していた当時のまま、梅園内に移築しました。ピアノ、蓄音器、レコード、コーヒーカップなどの愛用の品々、写真、書簡、自筆楽譜(『肩たたき』『背くらべ』ほか)、中山晋平全集などが展示されています。展示してある自筆楽譜には、「お話のやうに」という重要な演奏方法が書いてあります。
 だれでも玄関から家の中に入り見学できます。縁側でのんびりすることもできます。


 【中山晋平の略歴
  ・明治二十年(1887年)三月二十二日、長野県下高井郡日野村(現・中野市新野)で生まれました。生家は現在も中野市の「中山晋平記念館」の裏にあります。
  ・明治二十六年、満六歳 下高井郡村立日野小学校入学。
  ・明治三十年、十歳 同小学校卒業。家事手伝い。
  ・明治三十一年、十一歳 下高井郡町村立高井高等小学校に入学。
  ・明治三十六年、十六歳 長野県師範学校講習科第三種の受講をはじめる。 長野県管内尋常小学校准教員の免許を受ける。
  ・明治三十七年、十七歳 下高井郡中野尋常小学校の代用教員、つづいて同郡延徳小学校の代用教員となる。
  ・明治三十八年、十八歳 長野県師範学校入学試験不合格。延徳小学校教員を辞任。早稲田大学教授の島村抱月(ほうげつ)宅の書生になる。
  ・明治四十一年、二十一歳 東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)予科に入学。島村抱月の家から音楽学校に通いました。
  ・明治四十二年、二十二歳 同校本科器楽部(ピアノ専修)に進む。ピアノ教師は橘糸重、幸田延。
  ・明治四十三年、二十三歳 同校教官の吉丸一昌、乙骨三郎を主任として学友会雑誌「音楽」を創刊。友人と編集を担当。「新詩論」を執筆する。
  ・明治四十五年、同校器楽部(ピアノ専修)を卒業。同年の卒業生に声楽部・梁田貞(やなだただし)ほかがいる。東京市浅草区千束小学校音楽専科訓導となる。月報二十円。
  (註)明治四十五年七月三十日、明治天皇が亡くなり、大正となる。
  ・大正二年、二十六歳 芸術座音楽会を同人組織で有楽座で開催する。
  ・大正三年、二十七歳 島村抱月の依頼で晋平作品の第一号となる「カチューシャの唄」(島村抱月・相馬御風 作詞)を作曲。トルストイ作『復活』の劇中歌として女優・松井須磨子が歌い大流行しました。島村家を出て、巣鴨の貸家に移る。
  ・大正四年、二十八歳 ツルゲーネフ作『その前夜』劇中歌「ゴンドラの唄」(吉井勇 作詞)を作曲。母ぞう郷里で死去。
  ・大正六年、三十歳 トルストイ作『生ける屍』の劇中歌「さすらいの唄」(北原白秋 作詞)ほかを作曲。江南敏子と結婚。
  ・大正七年、三十一歳 東京府下代々幡村代々木に移る。ハウプトマン作『沈鐘』の劇中歌「森の娘」(島村抱月・横山正雄 作詞)を作曲。島村抱月死去。
  ・大正八年、三十二歳 メリメ作『カルメン』の劇中歌「別れの唄」(北原白秋作詞)ほかを作曲。松井須磨子死去。芸術座解散。第一次世界大戦終結。 児童雑誌『小学女生』に童謠作曲を掲載しはじめる。野口雨情、森垣二郎と民謡の旅を楽しむ。
  ・大正九年、三十三歳 『金の船』に野口雨情と童謠を掲載開始。
  ・大正十年、三十四歳 東京府豊多摩郡中野町三五〇八に自宅を新築して移る。 「船頭小唄」「てるてる坊主」など作曲。 以後、「里ごころ」「黄金むし」「砂山」「シャボン玉」「からくり」「肩たたき」「背くらべ」「あの町この町」「木の葉のお船」「波浮の港」「兎のダンス」「雨降りお月」「出船の港」「証城寺の狸囃子」「たあんきぽうんき」「アメフリ」など次々に作曲。
  ・大正十二年、三十六歳 桑原卯郎を養子とする。
  ・大正十五年、三十九歳 新作民謡を佐藤千夜子と放送。
 (註)大正十五年十二月二十五日、大正天皇が亡くなり昭和となる。
  ・昭和二年、四十歳 野口雨情、佐藤千夜子、平井英子と台湾へ旅行。 弟哲造と郷里の日野小学校にピアノを寄贈する。藤原義江アメリカで「出船の港」をビクターレコードに吹き込む。「出船の港」が流行する。
  ・昭和三年、四十一歳 日本ビクター蓄音器会社と専属契約をし、主な作品を順次吹き込む。郷里の中野小学校にピアノを寄贈する。
  ・昭和四年、四十二歳 小説「東京行進曲」の映画化のための主題歌を作曲。「東京行進曲」が流行し、ビクターレコードは二十五万枚も売れ、歌手の佐藤千夜子は大スターになりました。新潟県十日町などの地方新民謡を各地に旅して作曲。童謠「毬と殿さま」、「蛙の夜まはり」なども作曲。西條八十ビクター専属となる。
  ・昭和五年 四十三歳 静岡県熱海の「熱海節」のほか、神戸、高松、岡山などの新民謡を作る。姪、藤井梶子を養女とする。「中山晋平作曲全集・民謡篇」を出版する。佐藤千夜子イタリアへ留学。童謠「キューピーピーちゃん」作曲。
  ・昭和六年、四十四歳 東京府豊多摩郡中野町本町通りに新居を建築し、移る。「おみやげ三つ」作曲
  ・昭和七年、四十五歳 「丸の内音頭」をはじめとする音頭ものの作曲はじまる。
  ・昭和八年、四十六歳 箱根仙石原に夏の家を建てる。「東京音頭」の歌と盆踊り、全国的に大流行。「皇太子さまお生れなつた」を作曲。
  ・昭和九年、四十七歳 長崎 秋田 軽井沢 岡山などの新民謡制作のため各地へ旅行。
  ・昭和十年、四十八歳 熱海に冬の家を建てる。「作曲生活二十年記念音楽会」がビクター主催で東京宝塚劇場で開かれる。西條八十、ビクターからコロムビアに移籍。
  ・昭和十一年、四十九歳 妻敏子死去。翌年喜代三(今村タネ)と結婚。鈴木三重吉死去。『赤い鳥』終刊。
  ・昭和十四年、五十二歳 ビクター文芸部相談役となる。大日本音楽著作権協会設立され、監事となる。
  ・昭和十六年、五十四歳 日本音楽文化協会創立され理事となる。翌年、理事長となる。昭和十九年には副会長となる。少国民文化協会の参与となる。文部省検定音楽教科書の作曲をはじめて受ける。「雨ふり」(松永みやお 作詞)、「田植」(井上赳 作詞)。 (註)小学校、国民学校となる。太平洋戦争はじまる。
  ・昭和十七年、五十五歳 日本蓄音機レコード文化協会の参与となる。北原白秋死去。
  ・昭和十八年、五十六歳 熱海の家に疎開。大日本音楽著作権協会の理事となる。翌年、理事長となる。
 (註)昭和二十年、終戦。野口雨情死去。
  ・昭和二十三年、六十一歳 日本音楽著作権協会会長に就任。再び新民謡を作曲、旅行にもでかける。
  ・昭和二十七年、六十五歳 NHK第二回紅白歌合戦審査委員長を委嘱される。台東区千束小学校校歌を作る。NHK「懐かしのメロディー」に自作を自ら解説して放送する。東京、井の頭公園に野口雨情の記念碑完成し、雨情会会長として除幕式を挙行。東京で発病、熱海に戻り加療を始める。
  ・昭和二十七年(1952年)十二月三十日、国立熱海病院で膵臓炎のため六十五歳で亡くなりました。
  (註)長野県中野市大字新野には、生誕百年を記念して、昭和六十二年に開館した「中山晋平記念館」があります。さらに静岡県熱海市梅園内には、もうひとつの「中山晋平記念館」があります。


著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫
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背くらべ

作詞 海野 厚 
作曲 中山晋平

池田小百合なっとく童謠・唱歌
(2011/02/03)

池田小百合編著「読む、歌う 童謠・唱歌の歌詞」(夢工房)より

 【「端午の節句」の歌】
 五月五日は端午の節句です。三月三日の女の子の成長を祝う桃の節句・雛祭りに対して、男の子が元気に育つようにと、刀や兜を飾り、鯉のぼりをあげて、御馳走を作って祝います。「こいのぼり」の歌と共に歌われるのがこの「背くらべ」です。

 【初出について】
 研究者が一番信頼している参考文献の与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)には、「―大8・? 」と書いてあります。これは、何月かわからない。そして、発表の単行童謠集、雑誌、新聞がわからないという事です。
 では、大正八年に作られた、または、発表されたのは確かなのでしょうか。この本の『浜千鳥』にも「―大8・? 」と書いてありますが、間違いで、―「少女号」大9・1が正しかったという例からすると、「―大8・? 」は、信用できない記述かもしれません。
 与田凖一が、もっと確かな事を記録しておけば、よかったのですが、すでにその時、わからなかったのでしょう。
 しかし、藤田圭雄著『日本童謡史T』(あかね書房)では、「与田凖一の『日本童謡集』によれば・・・」と、「―大8・? 」の情報を、調査をせず、そのまま紹介しています。

 “『せいくらべ』ができたのは、大正八年。厚二十三歳の時だった。”と書いてあるのは、毎日新聞学芸部著『歌をたずねて』(音楽之友社)。ここでも、何月かとか、発表の単行童謡集、雑誌、新聞は不明。この毎日新聞の記者が調査すれば、正確な情報が得られたでしょうに、調査しませんでした。

 “七五調六行全一節の詞が「東京日日新聞」の投稿に入選したのが初出といわれております。”と書いてあるのは、郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』(KKベストセラーズ)。何年何月何日の新聞なのでしょうか?

 “一説によれば、作詞されたのは大正八(一九一九)年頃とのことですが、『東京日日新聞(現・毎日新聞)』に投稿して入選した作品とのことです。”と書いてあるのは、海沼実著『童謡心に残る歌とその時代』(表紙はNHK出版、奥付は日本放送出版協会)。

 そこで東京日日新聞を調査することにしました。

  <大正八年、東京日日新聞の調査>
 日付はわかっていません。 2011年1月31日、厚木市中央図書館に新聞はありませんでした。ここで、国立国会図書館を紹介してもらいました。2011年2月3日、東京・永田町の国立国会図書館に行きました。
 フイルムに収録されている大正八年三月から六月までを見ました。文芸欄のページには、連載小説「焔の舞」眞山果・作、出版紹介、日日俳壇、日日歌壇(北原白秋・選)、日日文藝などがありましたが、詩人や子供、一般の大人が作った詩を掲載するコーナーはありませんでした。日日俳壇や日日歌壇は一般の人の投稿欄ですが、日日文藝は芥川龍之介や久米正雄、菊池寛、武者小路実篤、佐藤春夫などが文藝評論を書いていました。
 <大正八年、東京日日新聞の調査>は、わからなかったという結果で終わりました。研究とは、今日のように努力しても報われず、何の結果も得られないこともあるものです。

 <大正八年、『少女号』の調査>
 長田暁二著『日本の愛唱歌』(ヤマハミュージックメディア)には、“「背くらべ」の詞は大正8年(1919年)、雑誌『少女号』に発表された”と書いてありますが、発見されている『少女号』には掲載されていません。海野厚は、『少女号』にかかわっていません。厚は、大正八年春ごろから児童雑誌『海國少年』(海國少年社)に作品を発表し、大正九年六月号復刊にはじまり、少年向作品の創作と、編集、経営に身心をすり減らすほどに打ち込んだ。『少女号』に作品を出す訳がない。
 そもそも『少女号』の何月号に掲載されたかはっきり書いていないのは不自然で、このデータはおかしいのですが、“大正八年、『少女号』に掲載”の記述は、多くの出版物で使われています。
  (註)現在発見されている大正八年の『少女号』は以下のものです。これらの『少女号』には「背くらべ」は掲載されていません。発見されていない大正八年の五月号に掲載されているのでしょうか。見たいものです。
  ・大正八年四月号(第四巻四号)
  ・大正八年九月号(第四巻九号)
  ・大正八年十一月号(第四巻十一号)

  〔結論〕現在、大正八年の『東京日日新聞』、大正八年の『少女号』に「背くらべ」発表の記録が確認できません。すると、童謠楽譜『子供達の歌』三冊は、貴重な資料ということになります。 静岡市教育委員会が出版した海野厚の研究書『背くらべ 海野厚詩文集』昭和58年2月1日発行には、『子供達の歌』の紹介はありますが、『東京日日新聞』や『少女号』の情報は書いてありません。

 <清水かつら作「背くらべ」は、これだ>
 清水かつらの研究者の別府明雄さんから、「海野厚の詩は『少女号』には掲載されていないようです」という返事と、新母性雑誌『樂園』に掲載されている「背くらべ」の詩のコピーをいただきました(2011年2月16日)。ありがとうございました。
 過去の研究者が、この清水かつら作「背くらべ」と海野厚作「背くらべ」を取り違えている可能性がありそうです。詩の内容も、発表時期・掲載誌も全然違います。曲は付かなかったようです。



▲清水かつら作「背くらべ」   ▲新母性雑誌『樂園』四月・第四號(兒童文化社)昭和十一年四月十五日発行 表紙


  (註)「花岡學院」について 「花岡學院」は、文部省令による寄宿制尋常小学校。保健養護教育常設林間學校。入学随時。東京市板橋区練馬土支田町一丁目三六八にあった。日本最初の私立の林間学校で、男女共学、生徒数が二十名前後の寺子屋式だった。
 清水かつらは、昭和八年四月、私立花岡学院の講師に就任し、虚弱児童並びに特異児童の芸能教育(作文・詩の指導)を担任する。この間、児童文化社を創立し、雑誌『楽園』を刊行、母子共楽の野外教育を提唱する。

 【なぜ、「をととしの」なのか?】 歌詞を、くわしく見ましょう。
  なぜ、「去年の」節句でなく、「をととしの」なのでしょうか?
 食事中、私が夫に尋ねると、「この詩は七五調でできているから、<きょ・ね・ん・の>だったら四文字で字足らずだよ。同じように<きのうくらべりゃ>の所も、<きょう>でもよかったのに、<きのう>としたのは、七文字の文字数の関係からだよ」と答えた。
 私が「それって、本で読んだの?」と聞くと、「今、聞かれたから、とっさに考えたのさ。歌っている時は、不自然さがないから、こんなこと考えないね。 この歌は、<おととしの>だから、二年も帰郷していない親不孝の歌だよ。<にいさんが はかってくれた>と、弟から見たかたちの詩にしたので、弁解がましいところがなく、いい童謠になったが、もし自分の事として書いていたら、つまらない歌になっていたね。しかし、よくわからないところがあるから、<「背くらべ」の謎>とか、<「背くらべ」の不思議>という本が書けそうだね」。・・・一般の人でも、これくらいは簡単に言う。研究者は、その上を行く必要がある。

▲大正3年10月 厚中学5年の秋。
鷹匠3丁目の家の前。初代、母、春樹、厚。
厚の羽織の紐の位置に注目。
 読売新聞文化部著『愛唱歌ものがたり』(岩波書店)には、次のように書いてあります。
  “厚は十九歳で故郷・静岡市を離れて上京しているが、詞が「をととし」なのは、作詞当時、実際に二年間帰郷できなかった事実があったからである。
 東京で俳句や童謠の世界にのめり込み、雑誌編集などに没頭していた厚は、病弱だったこともあり一九一九年(大正八年)を最後に帰郷していない。・・・詩人はちょうど東京で「静岡に住む弟は、この二年でどれだけ大きくなっただろう?」と想像する状況にあったという。”
  “一九一九年(大正八年)を最後に帰郷していない。”という証言と、“『せいくらべ』ができたのは、大正八年。厚二十三歳の時だった。”と書いてある毎日新聞学芸部著『歌をたずねて』(音楽之友社)は、一致します。後述しますが、実際には大正九年の一月に帰郷しています

 【日常語を使用】 端午の節句には、「粽(ちまき)」を作り、みんなで食べて祝う習慣がありました。この歌には、「たべたべ」や「くらべりゃ」など日常語が使われて親しみを感じさせます。

 【「くらべりゃ」と「モタレリャ」の表記】
 『子供達の歌 第三集 背くらべ』(白眉出版社)大正十二年五月二十八日発行の楽譜は、「くらべりゃ」「モタレリャ」と書いてあります。
 (註)「りゃ」は、「れば」が変化した俗語的表現です。
  ●歌詞は「くらべれゃ」「凭れれりゃ」となっています。これは誤植です。
  (註)池田小百合著『読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞』(夢工房)では、楽譜にそって「くらべりゃ」「凭れりゃ」としました。
 
 ニッポノホン16826 歌・平井英子 ピアノ伴奏 中山晋平の歌詞カード   →
  ●「くらべれや」「凭れりや」と書いてあります。
  (註)レコードは、北海道在住のレコードコレクター北島治夫さん所有。歌詞カードのコピーをいただきました。ありがとうございました。

 【「羽織の紐の丈」の解釈】 海野厚は、七人兄弟の長兄で、三人の妹と三人の弟がいました。一番の歌詞は、厚が十七歳年下の末弟の春樹の気持ちに成りかわって作ったものです。
 読売新聞文化部著『愛唱歌ものがたり』(岩波書店)で、海野春樹は「この歌は日本の風景を一般的に描いたものではありません。兄が弟の私の気持ちに成り代わって作ってくれた具体的な歌なのです」と言っています。

  <「羽織の紐の丈」=「羽織の紐」の長さなのか?>
 読売新聞文化部著『愛唱歌ものがたり』(岩波書店)の記者に対して、春樹は次のように言っています。
  「末弟の私は小学生三、四年生で、ちょうど羽織の紐が気になる年頃だった。そして、その年齢の子どもが二年で伸びる身長が、まさに羽織の紐の長さと一致するんです」。

 〔検証〕
  詩を、「二年で伸びる身長が、まさに羽織の紐の長さと一致する」と解釈すると、どうなるでしょう。 “二年前の節句の時、兄に計ってもらった背の高さが柱に傷となって残っている。その傷を見て、自分は大きくなったものと思っていたが、昨日(二年後)、自分で測って比べてみたら、何のことはない、「やっと」羽織の紐の長さしか伸びていなかった”ということになります。これでは悲しい詩になってしまいます。「自分で測って」の所を「兄が」としても、「羽織の紐」の長さ説では、身長がその程度伸びただけだったという悲しい詩になります。
  (註)「何のこと」は、「何のことはない」の省略形。

 <「羽織の紐の丈」=兄の「羽織の紐」の位置>
  二年前の節句の時、兄に計ってもらった背の高さが柱に傷となって残っている。その傷を見て、自分は大きくなったものと思っていたが、昨日(二年後)、兄と比べてみたら、何のことはない、自分の背の高さは、やっと兄の羽織の紐の位置(ちょうど胸乳の位置)まで届いただけだった。兄さんのような立派な体格の大人に早くなりたいなあというものです。
 「羽織の紐」は、子供たちが着物を着て日常遊んでいた時代のことですから、今の子供たちには理解できないことかもしれません。

  <決定的な挿絵は、これだ>
 『子供達の歌 第三集 背くらべ』(白眉出版社)大正十二年五月二十八日発行
        ▼第三集『子供達の歌 背くらべ』表紙 諏訪かげよし 装幀
 まさに、<兄の「羽織の紐」の位置>に弟が描かれている。お皿には「粽」の絵。


▲一番「くらべゃ」二番「凭れりゃ」が誤植。カットは竹製の物差しのメモリ。

 奥付には第四集の目次が掲載してある。以下続刊とある。
 第四集『子供達の歌 港の燈』は準備ができていたようです。 しかし、大正十二年の関東大震災の影響で『子供達の歌』は廃刊となってしまった。

  〔結論〕
  「羽織の紐を成長の差を測る物差し」のように使う「羽織の紐」の長さ説は、一般に圧倒的な支持を得ているようですが、『子供達の歌 第三集 背くらべ』の表紙絵(諏訪かげよし 装幀)を見れば、「羽織の紐」の長さ説は間違いとわかります。
 この時代は大家族ですから、背くらべも兄弟みんなでやっていて、「やっと兄の胸まで届いただけだった」という「羽織の紐」の位置説の方が、弟のいじらしさがあふれてくるような気がします。

 【『子供達の歌』を発刊】 
 「子供に楽しい歌を」という考えから作品を世に問うかたちで、白眉出版社から童謠楽譜集『子供達の歌』を発刊します。掲載曲の作詞は、すべて最年少の海野 厚で、作曲者は小田島樹人、中山晋平、声楽家で作曲もした外山國彦(指揮者、外山雄三の父)でした。この四人は編集室の名をとって「“鳩の笛”社同人」と称し、期待された新創作集団でした。

  『子供達の歌 第一集 赤い橇』(白眉出版社)大正十一年十二月十八日発行▼表紙 諏訪かげよし 装幀

 復刻版は大正十三年三月五日再版をもとにしたため、第四集までの目次が掲載してあります。裏表紙には鳩の笛社の“鳩の笛”のマークが黒で入れてあります。


 
 
 下川原(シタカワラ)鳩笛
 鳩笛;弘前市を中心に津軽の土地に育った
人達には忘れがたい幼児の伴侶。
 歴史は古く、藩制時代に遡る。
 津軽の人々は、連綿するその音に魅せられ、
この玩具をしゃぶって育って来ました。
鳩笛への愛着なのです。
(青森市桜川 つがる工芸店 説明書より)


  『子供達の歌 第二集 七色鉛筆』(白眉出版社)大正十二年一月二十八日発行 ▼表紙 諏訪かげよし 装幀

 奥付には第三集の目次が掲載してある。裏表紙の鳩の笛社の“鳩の笛”のマークは赤で印刷されています。

  ●鮎川哲也著『唱歌のふるさと 花』音楽之友社に、“≪七色鉛筆≫には曲がつかなかったらしいが”と書いてあるのは間違いです。外山國彦(とやまくにひこ)が作曲しています。厚が自分達七人兄妹を歌ったものでしょう。

 海野厚の代表曲「おもちゃのマーチ」(小田島樹人作曲)も第二集に掲載されています。露地の細路は中山晋平作曲。

  ●長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)に“大正十二年七月、「東京日日新聞」に掲載されました。当時この新聞には「家庭マガジン」という欄があって、詩人や子供が作っていた詩をよく載せていました”と書いてあるのは間違いです。『子供達の歌 第二集 七色鉛筆』(白眉出版社)大正十二年一月二十八日発行に掲載が正しい。すでに大正十二年一月発行に掲載された詩を、大正十二年七月、「東京日日新聞」で掲載するはずがない。この間違いは、いろいろな出版物で使われてしまっています。

 【「お詫びの文」の検証】
  『子供達の歌 第三集 背くらべ』(白眉出版社)大正十二年五月二十八日発行には、奥付の前のページに「お詫びの文」がある。これは、編集者の海野厚が書いたものです。掲載曲が第二集の奥付の予告と違うので、お詫びの文が掲載されています。 「背くらべ」についても書かれています。この文は重要です。 前半は、第三集に掲載した曲と、予定していた曲が違うというものです。後半は、第三集に収めた「背くらべ」についての文です。
  “集中の背くらべは、初め一節だけの歌詞で作曲しましたところ、蓄音機のレコード吹込のため、いま一節歌詞が必要になつて、作曲出来後、第二節をつけることになりました。それゆゑ、出来るだけの注意はしたつもりですが、なほ多少無理な個處があるかも知れません。場合に依つては、一節の歌だけで充分と思ひます。さういふことにお含み置き下さい。”大正十二年五月

 弟・海野欣也によると、「当時東京目黒に一緒に住んでいた。中山晋平に二番を作れと言われたと言って帰って来た兄は早速その夜、創作にかかった。翌朝目をさまして兄の机上を見たら、清書された二番の歌詞があった。あの歌は、みんな私たち兄弟姉妹のことを歌った生活記録。」(昭和45年3月5日朝日新聞静岡県版「歌を求めて」(3)掲載)。
 以上の文章は、次のように書き直され、鮎川哲也著『唱歌のふるさと 花』(音楽之友社)ほかの出版物に出典を明らかにしないまま使われています。内容は同じことですが、弟の証言であるという重要な事が書かれていません。
  “「背くらべ」は、もともと全一節だけの詩でした。中山晋平が曲をつけて、外山国彦の歌でレコードを吹き込む計画になった時、晋平から短すぎると言われ、帰宅した厚が一夜で第二節を書いたと伝えられています”。

  “それゆゑ、出来るだけの注意はしたつもりですが、なほ多少無理な個處があるかも知れません。”と付記しているのは、アクセントのことでしょう。すでに一番には曲がついていて、それを厚が見て歌い、二番の歌詞を書いたことになります。
  さらに、“場合に依つては、一節の歌だけで充分と思ひます。さういふことにお含み置き下さい。”とまで書いている。急ごしらえだったので、気がかりだったのでしょう。


 <第二節も優れている>
 歌の二番は、外に目を転じ、静岡市曲金の自分の家の「富士の間」から見た富士山と竜爪(りゅうそう)山の背くらべを書いたものです。厚が育った頃の家は立派なもので、各部屋にはそれぞれ名前がつけられていて、その中の一つに「富士の間」がありました。
 「一は、やつぱり、富士の山。」と言い切って、故郷・静岡県の富士山を讃えています。東京で故郷を思う厚の気持ちが感じられます。清々しい優れた歌詞です。
  (註)「てんでに」は、「それぞれに」の意の副詞。

 【一番と二番が違う時期に書かれた】
  一番と二番が違う時期に書かれためずらしい歌です。もともと一番で完結していたので、『子供達の歌 第三集 背くらべ』掲載にあたって、厚は、“場合に依つては、一節の歌だけで充分と思ひます”と注釈をつけています。
 野口雨情作詞、中山晋平作曲の「雨降りお月さん」(『コドモノクニ』大正十四年一月号)と「雲の蔭」(『コドモノクニ』大正十四年三月号)も違う時期に書かれたものです。アクセントの違う「雲の蔭」は、「雨降りお月さん」のメロディーでは歌うことができないので、晋平は少し変えて、変奏曲風に作曲しました。雨情が「雨降りお月さん」の楽譜に「雲の蔭」の歌詞を当てはめて作っていたら、もっと歌いやすい「雲の蔭」になっていたかもしれません。しかし、雨情は楽譜の事など気にもかけていなかったことでしょう。「雲の蔭」の詩そのものは優れています。晋平は、雨情に書き直しをさせることは、できませんでした。

 そう考えると、私たちが何気なく、すんなり歌っている「背くらべ」の二番は、厚がアクセントにそった言葉を吟味して苦労した作品だったことになります。二番の歌詞を世に問うのは、本当に心配だったのです。
 厚が心配したとおり、一番は「かわいい感じの詩」に仕上がっていますが、二番は「まじめで唱歌的な感じの詩」で、一番となじまないという評価があることも事実です。

 【「背くらべ」は「雨降りお月さん」にそっくり】 
 中山晋平が作曲した楽譜を詳しく見ましょう。
  ・二長調(D Dur)でできている。二長調では歌うのに高いので、ハ長調(C Dur)に移調した楽譜が出版されています(『音楽4年』教師用指導書(教育出版)17(教出)音楽4050ほか)。移調すると清々しさが半減してしまいます。
 前奏には四音(ファ)も七音(シ)も使われている。だから、明るく新鮮に聞こえるのです。歌に入ると四音は使われているが、七音は使われていない。この四音と七音は、いずれも経過音として使われている。
  ・晋平は、わくわくと心が弾むような明るい三拍子の曲に仕上げました。「タタタンタン」が主に使われています。第一拍目を二つに割った三拍子のリズムなので、柔らかな雰囲気を作っています。「粽たべたべ」からの八小節の左手の伴奏は、その前の三拍子とは対照的にレガートで弾いて、曲を引き立てます。
  ・三部形式ですが、旋律の上では各部に共通点はありません。四小節のフレーズ二つずつで三つの部分に分かれています。
  ・「背くらべ」の前奏は、後日、「雨降りお月さん」(『コドモノクニ』大正十四年一月号)では、形を変えて華やかに登場します。中山晋平は、この前奏が、とても気に入っていたようです。前奏の一小節目に使われている上昇する音階は、スタカートの音に気を付けてリズミカルに弾いて歌い出しの感じを出します。
  ・「やっと、羽織の」が、この歌の山になるように歌います。

 【レコードの発売】  
 レコード情報は北島治夫さんからいただきました。北島さんは「ニッポノホン16826」と「ビクターB114」の2枚を所有されています。
 <ニッポノホン15109> 歌 外山国彦 ピアノ伴奏 中山晋平。 吹込み曲「からくり」「しゃぼん玉」「黄金虫」「背くらべ」「月夜の畑」。 (昭和館監修「SPレコード60000曲総目録」アテネ書房2003より)。中山卯郎編著『中山晋平作曲目録・年譜』(豆ノ樹社発行)によると「ニッポノホン15109、歌手 外山國彦 発売年月不詳」となっているが、大正十二年七月発売が現在一般的な情報。
  <ニッポノホン16826> A面「背くらべ」、B面「計りごゑ」 歌 平井英子 ピアノ伴奏 中山晋平。大正時代のレコードとしては珍しく前記のような歌詞カードが付いていた。「ニッポノホン鷲印レコード」「株式会社日本蓄音器商会」と書いてある。
 <ビクターB114>小澤直與志編曲   歌 杉田和子 椎橋睦子 中村浩子。一番を杉田が、二番を三人が歌っている。

 以下のデーターは、郡修彦著『親子で読んで楽しむ日本の童謡』(KKベストセラーズ)による。
 曲名 背くらべ/編曲 小沢直與志/歌手 杉田和子 椎橋睦子 中村浩子/伴奏 日本ビク ター管絃楽団/レコード番号V-40105-B(C-1038-1)/ 録音年月日1948年2月12日/発売年月日 1948年7月。

 【「せいくらべ」歌い方について】
 <ビクターB114>の杉田和子は、「せえくらべ」「せえのたけ」と歌っています(レコードを聴いた北島さんによる)。 「背」の母音が伸びて、「せえ」となります。
 <ニッポノホン16826>の平井英子は、「せいくらべ」「せいのたけ」と歌っています(レコードを聴いた北島さんによる)。 平井英子の歌い方は、中山晋平が指導したものです。楽譜には「せいくらべ」「せいのたけ」と書いてあります。
 (註)平安時代末、本来、「せ」は、外側をいう「そ」であって、身長をいう単語ではありません。「身の勢、極めて大き也。」(今昔物語集・三・一〇)とあるように、身体つきをいう漢語「勢(セイ)がその「せ(背)」と混同されて、「せい(背)」となったもの(中村幸弘編著『読んで楽しい日本の童謡』(右文書院)より抜粋)。

  【「はかって」「やーっと」歌い方について】 さらに、「はかって」「やーっと」は、レコードを聴いた北島さんによると、“杉田和子、平井英子両者の歌は、「っ」の部分が引っ込んで「はか×て」というように聞こえます。音符をきちんと歌うには「はかぁって」「やぁっと」と歌うのですが”。
 私、池田小百合が主宰している童謠の会では「はかぁって」「やぁっと」と歌っています。つまる音「っ」を音符で書きあらわす時、童謠『あめふりくまのこ』を作曲した湯山昭は、「はっぱ」は、八分休符を使っています。ここは、一度口を結んで、「は×ぱ」と歌います。「はぁっぱ」と歌ったら変です。しかし、八分休符を無視して「はぁっぱ」と歌う人が多いのは困ったものです。

 【ラジオ第一放送の記録】
  昭和二年九月三日(土)午後六時三十分より(子供の時間)に、中山晋平が作曲した童謠「せいくらべ」「夏の雲」「おねんね時」「證城寺のたぬきばやし」全八曲が、林英子の歌、中山晋平の伴奏で放送になった(朝日新聞復刻版番組表による)。
  (註)平井英子について
  ・大正七年(1918年)一月十三日生まれ。
  ・大正十五年(1926年)ニッポノホン16772「露地の細道」「てるてる坊主」は、林秀子の名前で録音。
  ・昭和三年(1928年)頃、両親が離婚。林姓から平井姓になった。 電気録音の開始とともに中山晋平に見出されてビクターに録音。
  ・昭和九年引退。
  (北海道在住のレコードコレクター北島治夫さんに教えていただきました)。

 【教科書にも掲載】  
 『三年生の音楽』(教育芸術社)昭和29年文部省検定(昭和30年発行)。ハ長調。挿絵は、半ズボンとスカートの昭和の子供です。


  ・『音楽4年』教師用指導書(教育出版)17(教出)音楽4050。ハ長調。昭和40年代では3年生や4年生の教材だったようです。
  ・平成に入ると掲載されなくなりました。教育芸術社「小学校の音楽4」平成十六年に一例のみ掲載例があります。

 【海野厚(うんのあつし)の略歴
  ・明治二十九年(1896年)八月十二日、静岡県安部郡豊田村曲金(現・静岡市曲金 まがりがね)で生まれました。本名を厚一(こういち)といい、四男三女の長男でした。

  <厚の生家について>
  厚の父、海野伊三郎は、安倍郡豊田村の北原海野家の十一代当主で、明治五年(1872年)生まれ。土地を千町歩所有する豊田村一番の大地主だった。年貢米が年に八千俵(今の貨幣価格に換算すると一億七千九百万円)、屋敷三千坪、米蔵七棟、文倉庫一棟あり、江戸末期、駿府城の城代家老がたびたび借金を申し込みに来たという。また、(静岡史)によると、農工銀行(現・みずほ銀行)の株をかなり持っていたらしい。伊三郎は品のある風貌であったが筋骨柔弱、村人からお地蔵さんとあだ名されるほどのお人よしだった。住まいは静岡市曲金にあり、どの部屋からも富士山がよく見えた。京都と江戸を往復する文人たちが度々立ち寄って十日から二十日、長い時には半年も滞在した。
  明治二十六年(1893年)、伊三郎の父・忠厚が六十歳で亡くなったので、伊三郎二十一歳の時、遊佐と結婚した。二人の間には、長男 第十二代当主・厚(厚一)、次男 第十三代当主・亮之助、三男 分家・欣也、長女・三千代、次女・初代、三女・千々代、四男 第十四代当主・春樹、四男三女が生まれた。
 

▲『しずおかの女たち』第八集
(静岡女性史研究会 2014年発行)
表紙

左の写真は上記の本より

 ・明治三十六年(1903年)四月、豊田村立西豊田小学校尋常科に入学。厚の家は、小学校まで他人の土地を踏まずに通ったといわれるほどの大地主だった。この小学校は現在も同所静岡市曲金にあり、校内に、「背くらべ」全歌詞を刻んだ童謠碑がある。(昭和三十六年十一月建立)。厚は秀才で、小学校の成績は全て甲(最優秀に相当する)でした。地元の小学校を卒業。
 ・明治四十三年(1910年)四月、県立静岡中学(現・県立静岡高校)入学。五月五日、祖母米子死去。享年七十二歳。厚は八月十二日で満十四歳になった。明治四十三年秋から四十五年春までの春か秋の季節に、安倍郡曲金村の家を取り壊し、処分して、静岡市鷹匠町三丁目、百坪の土地を求めて引っ越しをした。この頃の詳細は、わからない。

 <財産を失う>
 鮎川哲也著『唱歌のふるさと 花』(音楽之友社)によると、次のようです。
 “明治のなかばのころ、婿養子として入った人が投機癖の持ち主だったため資産は食いつぶされようとした。厚の父はこの人を追放して家運を盛り返そうとした。厚はそうした時代に生まれ育ったが、家はまだまだ立派なものでした。後年、家を処分しなくてはならなくなるが、庭には樟(くす)の大木が何本もあって、きこりは幾日もかかってようやくこれらの木を筏(ばっ)た。”

 『しずおかの女たち』第八集によると次のようです。
 “伊三郎の二番目の姉安子は生後、小児麻痺のために手足が不自由であった。そこで遠州の名家出身の山崎友三郎を婿養子とした。明治二十二年に豊田村村長をしていたという記録もあるが、友三郎は大変な一発屋で関東銀行を起こしたり、製紐工場や醤油屋を始めたり、果ては山師の口車に乗って銅山や硫黄山に手を出すに及んで、家産はみるみる減っていった。
 伊三郎は、この危機を見て、友三郎を分家し、農工銀行の重役であった位置によって株の売買を手がけたが、撤回は及びもつかず失敗への拍車をかけることになった。また、村人の連帯保証人などを頼まれて、その連帯責務のために家産を傾けるにいたった”(大塚佐枝美著 海野厚とその母遊佐―「背くらべの歌」によせて)より抜粋。

  海野春樹編著『北原・海野家の歴史』(海野厚作品刊行会1988年)によると次のようです。
 “友三郎は、安子が生後、小児マヒのため手足が不自由となり、足腰が立たないのを承知で入り婿したぐらいだから、はじめから海野家の財産で一勝負をするつもりだったらしい。安子の父は、友三郎たちのために静岡市栄町に分家を建てさせた。栄町御殿と噂にのぼる広大な庭園を備えた屋敷で、後の外科・司馬病院の地。・・・その後、栄町御殿は間もなく人手に渡り、友三郎はいずれかへ出奔。安子は東鷹匠町の鳥のいる小屋に入って好きな手芸や裁縫を教えた。後年は、子供たちの居る横浜に移ったが、大震災に遭い海路清水へ、そして法蔵寺に不自由な身を寄せた後、余生を終る”。
 [註]『北原・海野家の歴史』の中に聞き書きがある。“・・・友三郎は、安子がひどいリュウマチで足腰が立たないのを承知で入籍した位だから、・・・”と。「リュウマチ」ではなく、「小児麻痺」が正しい。

 厚の兄弟が「静岡には悲しい思い出ばかり」というように、父の伊三郎氏は残った書画骨董を細々と回転していたし、女の子は嫁ぎ先で胸を病むものが多かった。厚がそのナイーヴな神経に、長男としての責任感とようやく芽生えた詩心とを懸けて、悩みはじめていたことは想像にかたくない(海野春樹・毎日放送アナウンス部長による)。

 ・大正二年、三月十三日に春樹が生まれる。厚は八月十二日で満十七歳になった。静岡中学四年。厚が句作をはじめたのは、中学生の頃らしい。静岡中学では新聞部に属していたと伝えられる。その資料は皆無にひとしい。右の写真は静岡中学時代、新聞部の仲間と厚(右)。
 ・大正四年、三月に静岡中学を卒業。受験勉強のため上京。東京市麻布区我善坊町に住み、予備校に通う。七月に京都の第三高等学校を受験するが失敗。麻布区我善坊町から麻布区市兵衛町に下宿したが、その家が、後に結城史耕の家と判る。
  「ホトトギス」の例会に行き、小田島樹人(おだじまじゅじん)と知り合った。
 ・大正五年、七月初旬、はじめて赤坂丹後町の渡辺水巴(わたなべすいは)主宰の句会・曲水吟社の例会に出席。七月中旬、再び京都の第三高等学校を受験するが、不合格。九月、再び受験生活に入るべく上京。赤坂区新坂町八二北村方に移る。ここに大正九年、田端の海國少年社に移るまで居た。
 小田島樹人と共に曲水吟社の同人になります。渡辺水巴は俳壇の一派として『曲水』という雑誌の刊行を始めるところだった。
 厚は、浪人中で時間があったので、編集や選句の手伝いをした。厚の俳号は長頸子(ちょうけいし)という。容貌的に頸が長い感じであったが、「長頸烏喙之徒」なる漢語に由来する。
 小田島樹人とは、連夜のごとく俳句論をたたかわせたりして、親友となっていた。小田島樹人は、音楽学校で作曲の勉強をした人でしたが、当時は俳句にのめり込んでいたらしい。
▲厚、中学3年の秋(明治43年10月)、生家の裏庭で。中央が厚。父・伊三郎、母・右遊佐、左端より亮之助、
三千代、初代、千々代、欣也。末弟・春樹はまだ産まれていない。

  (註T)鮎川哲也著『唱歌のふるさと 花』(音楽之友社)には、「曲水社」と書いてあります。藤田圭雄著『日本童謡史』(あかね書房)では、「曲水吟社」と書いてあります。どちらかが間違い。 静岡市教育委員会が発行した海野厚の研究書『背くらべ 海野厚詩文集』昭和58年2月1日には、句作の頁に「曲水吟社」と記してありました。「曲水吟社」が正しい。
  (註U)小田島樹人は、「曲水」の同人で作曲家。厚が短い生涯で心を許しあった人。「おもちゃのマーチ」の作曲者。小田島が厚を友人の中山晋平に紹介した

 <「あの頃のこと」>
 『背くらべ』(静岡市教育委員会社会教育課)によると次のようです。
  “一九一六(大正五)年、七月初旬、はじめて赤坂丹後町の渡辺水巴(すいは)主宰の句会、「曲水吟社」の例会に出席。三高受験を控えて東京を離れるのが寂しくなり、「高等学校受験のために京都へ立たねばならないことを先生に話した。・・・先生は『京都はいいですね・・・然し、それはなるべく落第なさるように・・・』と続いて先生は笑われたが、この諧謔は、びしりと私には嬉しかった”。
 七月中句、再び京都三高を受験する。この時のようすは海野欣也氏(太洋無線常任監査役)によると「兄は三高を受けた時、“英語の試験かと思って入場したら、数学だったので出て来たよ”と言っていた。はじめから気乗りしなかったのだろう」。勿論不合格。九月、再び受験生活に入るべく上京。赤坂区新坂町八二北村方に移り、早稲田の文科に入った。
 まもなく父の伊三郎と弟の亮之助も上京し、親子三人で目黒の雅叙園の近くに家を借り、自炊生活を始めた。父にしてみれば東京で事業をおこそうという考え、亮之助も中央大学に通いながら小説の勉強をつづけた。
 母親の遊佐は、厚が長男なので東大を出して偉くしたいと思った。当時は法科万能時代で、法科に入って官吏になってもらいたかった。
  厚は国元へは法科に入ったということにして実際は早稲田の文科に入った。しかし、講義は面白くなく、楽しめない日々で、結局は浜町の流觴居の水巴の所に足しげく通い、「曲水」の編集を手伝った。

  ・『曲水』の編集・発行を手伝っていた頃、すでに早稲田大学大学部文学科英文学科の学生になっていた。
 中学、大学で同期だった新間嘉兵衛(静岡市本通り)の談話があります。
 「厚一君は、変人だった。中学時代はよく一緒に無銭旅行をし、東海道の旧跡を訪ねた。大学時代は東京の下宿を訪ねたが、昼は寝て夜起き出し、電灯を消してロウソクの火をみつめ、黙って一言も語らずに一夜を明かしたことがよくあった。それで二人は満足した」(「毎日新聞」県版・昭和33年2月24日付)。
 俳句のこと、故郷のことを考えていたのでしょうか。

【長頸子の俳句10選】 選者・池田小百合

 大正五年から大正六年にかけて作った句より選抜。

 夜長の灯寝つかぬ鶏にとどきけり
 松仰げば蒼天渡る鳥迅(とりはや)し
 網干すやこの高浪に鳥渡る
 庭掃いて僧隠れ去る萩高し
 冬薔薇の日も頼(たの)めなき落葉かな
 六人の句座に火桶(ひおけ)やひそとある
 枯芝に水鳥あげて日和(ひより)かな
 暖国に大雪ありし二月かな
 雛段に置く亡き人の手鞠かな
 夜桜や人笑ひ行く塀の外 

 <七五調にこだわった>
 前記【なぜ、「をととしの」なのか?】の所に、私の夫の発言があります。注目してみましょう。
 「この詩は七五調でできているから、<きょ・ね・ん・の>だったら四文字で字足らずだよ。同じように<きのうくらべりゃ>の所も、<きょう>でもよかったのに、<きのう>としたのは、七文字の文字数の関係からだよ」。
     柱のきずは、をととしの、
      五月五日の、背くらべ。
 二年も帰郷していない親不孝の歌ととらえるより、「背くらべ」は、厚が句作に没頭していたので、できた詩と考える方が妥当のようです。
 厚が<をととしの>、そして<きのう>という言葉を書いた時、「背くらべ」は厚の自信作となりました。
  では、二番はどうでしょうか?
      柱に凭れりゃ、すぐ見える、
      遠いお山も、背くらべ。
 二番の一行目の「柱に凭れりゃ」は八文字で、完全な七五調になっていません。 『子供達の歌 第三集 背くらべ』で、“場合に依つては、一節の歌だけで充分と思ひます。”と言っているのは、そのためかもしれません。

 『子供達の歌 第二集 七色鉛筆』のタイトルにもなっている「七色鉛筆」を検証してみましょう。七五調です。自信作なので、タイトルに使ったのでしょう。
       お聴きなさいな、七色の、
       色鉛筆は兄妹よ。

 では、『子供達の歌 第一集 赤い橇』のタイトルになっている「赤い橇」は、どうでしょう。七五調です。
 やはり、きれいにそろっていて、自信作でしょう。諏訪かげよしの装幀も、みごとです。
       かんからり、かんからり、ちんからからり。
       鳴り鳴りとほる橇の鈴

  ・大正七年七月、『赤い鳥』(「赤い鳥」社発行)が創刊。大学在学中から児童雑誌『赤い鳥』に投稿をはじめました。


   <『赤い鳥』の調査>
 すでに、静岡市教育委員会が出版した海野厚の研究書『背くらべ 海野厚詩文集』昭和58年2月1日発行に調査の結果が報告されている。
  “厚童謠の『赤い鳥』に載ったものは、1-2に2篇、1-4に1篇、1-6に1篇、2-5に1篇、合わせて5篇、うち4篇が発刊後隔月に載ったにもかかわらず、残る1篇は翌年の5月号で、かつこれは「推奨童謠」になっていない。大正8年1月から4月にかけて他に多忙な事があったとは年譜記事から考えられないし、5ヵ月間投書をしなかったのではなく投書がすべて没になり、5ヵ月ぶりに採用された1篇も単に入選にすぎなかったことで、厚の投書熱がさめたとも考えられる。ただし、『赤い鳥』に対してである。(その代り当時出ていた『海國少年』5月号に詩を投稿した形跡があり、同誌への傾斜は翌大正9年にかけて深まっていく。)
 厚が北原白秋と「共同創作をするほどの親近な関係」にあったことを示す資料は見当たらない。”
  (註)藤田圭雄著『日本童謡史』(あかね書房)に、“厚が北原白秋と「共同創作をするほどの親近な関係」にあったかもしれない”と書いてある。
  ・・・この調査では、『海國少年』5月号に「背くらべ」が載ったとは書いていないが、どうだったのでしょう?



  1-2『赤い鳥』大正七年八月號(第一巻第二號)、「鳩」(推稱)、海野厚一。
 「いかにも夕方のお寺の森らしくて、蚊のうなりや鳩の啼き聲が聞えるやうです。少々訂正しました。おしまひで、ぽつぽう、ぽつほうと啼かした方がいゝ原作のやうに「お家へかへろ」では餘情がありません。同君の鳩の唄は在來のに即き過ぎてゐて却て劣ります」(北原白秋・評)。


  1-2『赤い鳥』大正七年八月號(第一巻第二號)、創作童謠に「鴉、鴉」入選掲載、海野厚一。
  1-4『赤い鳥』大正七年十月號(第一巻第四號)、「廻り燈籠」入選掲載、海野厚一。 「海野君の「廻り燈籠」は才筆」(北原白秋・評)。

  1-6『赤い鳥』大正七年十二月號(第一巻第六號)、「天の川」(推奨)、海野厚一。 本號推奨童謠作者 東京市赤坂區新坂町八二北村方(推奨二回)
  (註)雑誌『赤い鳥』では、大正七年十月号から「推稱(すいしょう)」が「推奨(すいしょう)」になった。

 大正七年十二月号には、厚一の名前で「天の川」が推奨になった。選者北原白秋は、「募集童謠について」の中で「傳習を離れた新鮮さがあり、調子もよく童謠としてはすぐれたものです」と高く評価しています。

       ▼雑誌『赤い鳥』(赤い鳥社)大正七年十二月号。

▲「天の川」の詩碑。
海野家の菩提寺、静岡市の法蔵寺(ほうぞうじ)にある。
  詩の左下には、次のような説明が書いてあります。
  “天の川は 北原白秋が「赤い鳥」誌上で激賞した
厚初期の作で作品群の原点に位置する”、
清々しい立派な詩碑です。
 私、池田小百合は、過去に作られた多くの碑の中で、
この碑が一番気に入っています。
 伴野薫(厚の姪)さんからの手紙によると“姉と私が母・
三千代の供養のために建てました。除幕式に間に合わ
せたくて私が岡崎の山奥まで石屋さんと行き見つけました。
<富士山の形>をしています。”と教えていただきました。
私は、ますますこの碑が好きになりました。

 <大正八年『赤い鳥』五月号「子雀」は、これだ>
 大正八年『赤い鳥』(2-5)五月号、創作童謠欄に「子雀」が入選。以後、同誌に厚一の作品の掲載はない。
▼大正八年『赤い鳥』五月号

      子雀   
          東京 海野厚一
   桑の葉が伸びる、
   雀が巣立つ。

   巣立つた雀、
   障子の穴から 覗いて見たら、
   一羽、二羽、三羽、
   チユンチユン飛んでゐる。

  〔『赤い鳥』まとめ〕
  募集童謠には五篇(推奨二回、入選三回)掲載。海野厚一の名前で書いている。「鳩」(鳩 あおばと)、「鴉、鴉」(鴉 からす)、「廻り燈籠」、「天の川」(白い鳥)、「子雀」(雀 すずめ)、「廻り燈籠」以外は、鳥が唄われている。
 ●『芸術生活』(芸術生活社、昭和三十七年六月号)の草柳大蔵著「五月になるとわが歌が」“「赤い鳥」には『雁』を投稿して一席に入り、同人に加えられた”と書いてあるが、これは間違い。『雁』の投稿は無い。「赤い鳥」には一席や同人は無い。

 <大正八年、九年の海野厚の行動について>
 静岡市教育委員会が出版した海野厚の研究書『背くらべ 海野厚詩文集』昭和58年2月1日発行の<大正八年、『赤い鳥』の調査>の結果の報告文の中に注目すべき一行があります。
  “大正8年1月から4月にかけて他に多忙な事があったとは年譜記事から考えられない。”というものです。
 実際の年譜記事でも、一月は年賀状を書き、二・三月は俳句を作り、四月・五月・六月は曲水吟社の四月・五月・六月例会に出て俳句を作っている。 七月に弟欣也の旧制松山高校入学試験に付添い、道後温泉に遊ぶ。弟欣也入試合格。八月・九月・十月の間、例年になく帰郷度々、青春の日々を過ごしている。十一月・十二月も「曲水」にかかわり、俳句を作る生活が続く。
 
 ●読売新聞文化部著『愛唱歌ものがたり』(岩波書店)のように、“東京で俳句や童謡の世界にのめり込み、雑誌編集などに没頭していた厚は、病弱だったこともあり一九一九年(大正八年)を最後に帰郷していない。”というのが定説になっていますが、実際には大正九年の一月に帰郷している
 (註)『背くらべ』(静岡市教育委員会、1984年出版)によると、毎年帰っている。

 六月に『海國少年』復刊。七月か八月には帰郷滞在し、静岡市東小学校の催し物会場で『海國少年』のPR活動をしている。 これより先、厚は『海國少年』の創作、編集、経営に身心をすり減らすほどに打ち込んだ。大正九年は、俳句を作っていない。大正十年四月には曲水吟社は静岡市とその周辺に吟行を試みているが、参加していない。

  ・早稲田大学を中退。大正九年、厚の父が休刊していた児童雑誌『海國少年』(海國少年社)の経営を引き受けることになり、厚も編集・経営をしましたが、 この雑誌は二年もたたないうちに挫折して廃刊となりました。編集員は五人、海野順風、富士川海人、賢木原羊耳、樺島勝一、諏訪景是(諏訪かげよし)で、 厚の父親(海野伊三郎)が社主になっていた。樺島勝一が表紙絵を担当し、諏訪景是は少年少女小説や、少年詩の挿絵を担当した。 厚は『海國少年』誌では、順風(じゅんぷう)という筆名を使っていた。大正六年には百三句にのぼった作句が、この年はゼロであったというから、 厚が雑誌の編集と経営に打ち込んでいたことがわかる。大正十年の八月号で内容が一新され、編集者の名が消え、厚の名だけが発行人として残るが、 それも形の上だけだった。  
 (註) 雑誌『海國少年』は大正五年一月に発刊され、すくなくとも大正八年五月号までは発行し、 その後いつからかは不明だが、一時休刊となり、大正九年六月号から復刊(近代文学館蔵の現在資料による)。
 「海國少年社」は、東京府北豊島郡滝野川町田端西台通六三二〜六三四番地。二階二間を通して借りてあった。

 <大正八年、『海國少年』の調査>
 これも、静岡市教育委員会が出版した海野厚の研究書『背くらべ 海野厚詩文集』昭和58年2月1日発行に調査の結果が報告されている。
  “大正八年『海國少年』5月号に詩を寄稿したと考えられる記事が、同誌(5-4)投稿欄に見えるが、確かめるすべがない。”
 静岡市教育委員会の著者は、近代文学館と国立国会図書館で資料の調査をしている。
 “『海國少年』は、10年4月号から7月号までの4冊しか見ることができない”
 この4冊は近代文学館蔵書。調査当時は見ることができたのですが、現在は、近代文学館は閉館になってしまい見ることができません。 ・・・この調査でも、『海國少年』5月号に「背くらべ」が載ったとは書いていないが、どうだったのでしょう? 
 詩の内容からして、『海國少年』に掲載された可能性が一番大きそうです。大正八年『海國少年』5月号を見たいものです。

 <『海國少年』について草柳大蔵の意見>
 草柳大蔵著「五月になるとわが歌が」『芸術生活』(芸術生活社、昭和37年6月号)には、次のように書いてあります。
 “早大在学当時、「海国少年」に児童小説を書いていたが、そこの社長から「ひとつ雑誌そのものを経営してみないか」といわれると、自分の理想を力一杯に実現できるチャンスとばかり一も二もなくとびついた。社長にしてみれば、ロンドン軍縮会議のあとをうけて、世間は一種の沈滞期に入り、「海国少年」などという海外雄飛の夢をのせた雑誌の先きゆきは見込みがなかった。が、厚にはそれだけのヨミがない。ところが、厚ばかりか父親の伊三郎氏も「海国少年」の経営に乗り気だった。
  「天野廉が海野家の残り資産をあずかっていたのですが、あるとき伊三郎がやってきて“雑誌を経営するのだから金を出してくれ”と真顔でたのんだといいます。天野廉も“厚が来たのなら断わるつもりだったが、伊三郎の真剣な顔をみては断われなかったよ”と語っていました」(欣也氏)
 父は“社主”、厚は“社長兼編集長”の肩書をつけて、いよいよ「海国少年」を経営しはじめたが、やはり理想の手にソロバンははじけずで、二年あまりで挫折した。このとき海野家の残り資産は、欣也氏のために確保された一万円の公債をのぞいて、すっかり無に帰した。伊三郎氏がなぜ“社主”をのぞんだかはわからない。東京での最後の一旗(ひとはた)を夢みたと解釈するのは、旧大地主の姿として、あまりに切なすぎる。 ”

  ・大正十一年、終の棲家の東京府荏原郡目黒町下目黒369番地に移る。
▲諏訪かげよしが描いた
海野厚の肖像画
  ・その後、「子供に楽しい歌を」という考えから作品を世に問うかたちで、白眉出版社から童謠楽譜集『子供達の歌』を発刊します。装幀は諏訪かげよし。
  『子供達の歌 第一集 赤い橇』大正十一年十二月十八日発行
  『子供達の歌 第二集 七色鉛筆』大正十二年一月二十八日発行
  『子供達の歌 第三集 背くらべ』大正十二年五月二十八日発行に「背くらべ」が掲載されました。
 大正十二年の関東大震災の影響で『子供達の歌』は廃刊となってしまいました。

  <厚の肖像画>
 『子供達の歌』の表紙を描いた諏訪かげよしは、大正十一年六月頃、厚の肖像画を描いている。 諏訪かげよしは、厚が亡くなる直前(大正十四年四月)に自殺しました。

 【中山晋平が「背くらべ」に作曲】
 作曲者の中山晋平は、大正三年に「カチューシャの唄」(島村抱月 相馬御風 作詞)でデビューし、大成功をおさめ、翌年作った「ゴンドラの唄」(吉井勇作詞)も好評を博して、名を不動のものとしました。 その後も新しい作品を次々と作曲。
 同十年に発表した「船頭小唄」(野口雨情 作詞)も世界的な大不況の陰鬱なムードの中で大流行し、当時の晋平は売れっ子作曲家になっていました。
 結核を患っていた厚の病状が悪化し、床に伏せることが多くなったので、晋平は元気づけようと「背くらべ」に曲を付け、レコードを出そうと計画しました。そして、北原白秋の「アメフリ」(「アメフリ」の項参照)と海野厚の「背くらべ」の作曲に取りかかっていましたが、「背くらべ」の作曲を優先させました。

 「背くらべ」の詩と楽譜は『子供達の歌 第三集 背くらべ』大正十二年五月発行に掲載され、レコードは二ヵ月後の七月に発売されました。みんなが厚の病状を心配していました。

 ・『曲水』に俳句を掲載する他、『令女界』でも活躍。例えば大正十二年七月、『令女界』(2-7)に抒情小曲「ときめき」が載る(図参照)。
 厚の詩が載った最後の『令女界』は大正十三年十月、3巻10号。少女詩「いつわり」が載った。


  ・大正十三年十月二十一日、父伊三郎が下目黒にて死去。
  ・大正十四年、このころから厚の体は、ますます衰弱し、ペンが握れなくなり寝込むことが多くなりました。
  ・大正十四年三月、母遊佐、静岡鷹匠町の家を整理、一家を挙げて上京、厚の家から五百メートルほど離れた下目黒326番地の借家に居を定めた。 四月、諏訪かげよし自殺。諏訪は、『海國少年』誌以来、厚の作品の多くを手がけ、『子供達の歌』シリーズの表紙画や、厚の肖像画を画いた。
  ・大正十四年(1925年)五月二十日、父の死に遅れる事七か月、妻子なく、東京・下目黒369番地にて肺結核のため二十八歳十か月の若さで亡くなりました。
 本名は厚一。童謠雑誌『赤い鳥』投稿の詩は厚一、詩(作詞)作品は厚、俳句の号は長頸子、『海國少年』誌では順風という筆名を使っていた。

  『子供達の歌』は、わずか三集でしたが、厚が最後の力をふりしぼり、児童雑誌『海少年』の経験を活かして編集出版したものです。

 中山晋平が、「背くらべ」と同時に作曲にとりかかっていた北原白秋の「アメフリ」には楽しいメロディーがついて、雑誌『コドモノクニ』(東京社)の大正十四年十一月号に発表されました。「背くらべ」同様、人気の愛唱歌となり歌い継がれています。

 厚は、「背くらべ」が今でも歌われていることを喜び、先に曲をつけてもらったことを晋平に感謝していることでしょう。
 「背くらべ」と「アメフリ」には、こんなドラマがあったのです。


      おはなし   海野 厚 <遺稿>

    おばさま、 おばさま
    こんばんは、

    こないだ、 垣根の鬼灯が   鬼灯=ほおずき
    赤い提灯、 つけました

    お家(うち)にや、 涼しい風が吹き

    玉蜀素畑(もろこしばたけ)の姉さんは
    もうせん お嫁にいきました

    おばさま  おばさま
    さやうなら

   静岡に帰る遺骨を品川駅に見送った渡辺水巴の句
 やがて皆も行く道に待つ君涼し   渡辺水巴

   五十回忌に渡辺水巴の未亡人桂子の句
 五〇ネンチマキノウタノアタラシキ  渡辺桂子

   五十回忌に曲水吟社理事の青木よしをの句
 生き残りきく友の忌の茶摘唄   青木よしを

   五十回忌に同郷の俳人加藤余石の句
 子どもの日柱の疵も五十年   加藤余石

 以上の四句は、静岡市教育委員会が出した海野厚の研究書『背くらべ 海野厚詩文集』(昭和28年2月1日発行)に掲載されています。いずれも優れた句です。私、池田小百合は感動しました。みなさん、いかがですか。

 「背くらべ」は、楽譜とレコードが発売され、ラジオで繰り返し放送されただけでなく、音楽の教科書にも掲載されたので、次第に広まり、みんなの愛唱歌になりました。これからも、歌い継いで行きたい一曲です。

 【歌碑】
 柱状の海野厚碑は海野家の菩提寺、静岡市の法蔵寺にあります。
 鮎川哲也著『唱歌のふるさと 花』(音楽之友社)掲載写真より添付。
  「童謠詩人 海野厚碑」
 「背くらべ おもちゃのマーチ等の作詞者海野厚は本名厚一
 この地に生れ育って海野家十二代を継ぐ」
 「一八九六年八月十四日生 一九二五年五月二十日没」と書いてあります。
 
  ●「一八九六年八月十四日生」は間違い。
 「一八九六年八月十二日生」が正しい。
 法蔵寺に電話で問い合わせると、女の人が出て「すぐ間違いに気が付いて直しました。今は「十二日生」となっています。その写真は、工事の人が入る前のものです。写真を撮影した直後に直しました。」とのことでした。
 写真は訂正前のものです。 鮎川哲也著『唱歌のふるさと 花』1992年5月25日発行の音楽之友社に問い合わせても編集者やカメラマンについてはわかりませんでした。鮎川哲也氏も亡くなっています。

  長野県中野市 中山晋平記念館の庭にも歌碑があります。

 海野厚の母校である西豊田小学校にも歌碑があります。
 昭和三十六年十一月三日除幕。【写真→】
 表面:せいくらべ 海野厚、一・二番の歌詞。
 裏面:開校八十五周年記念 昭和三十六年十一月三日 静岡市立西豊田小学校児童会 PTA

 【すぐれた資料】
  静岡市教育委員会社会教育課編著『背くらべ 海野厚詩文集』(静岡市教育委員会)昭和58年2月1日発行。この本は、国立国会図書館、静岡市立中央図書館所蔵。 詳しく正確に書かれていて、文献として優れています。海野厚研究者は必見です。中古本でも購入不可。私、池田小百合は、国立国会図書館まで、この本を見に行きました。重要な事が沢山書かれていて感動でした。
 鮎川哲也著『唱歌のふるさと 花』(音楽之友社)には“大阪に住む、末弟で大学教授の春樹氏には「背くらべ・海野厚詩文集」と題した一巻がある。厚の伝記のほかに少年小説から詩、俳句までを集めた充実した内容の物”と書いてある。
 海野厚の妹で、長女に当たる三千代さんの娘の伴野薫(とものかおり・厚の姪)さんからの手紙によると、“『背くらべ 海野厚詩文集』は、海野春樹・叔父が長い間かかってまとめたものです。公的なものとして残したいという考えで、厚の全ての物を、当時の市の教育委員会へ寄付し、教育委員会で詩文集として作り、それを私共が買い取るという形をとりました。その後、長田文化堂がなくなり、VIPで仕上げるという事で、もう市にも残っていません。いつもテレビなど、取材に見えるたび、お持ちになったまま帰って来ませんので図書館のみとなりました。”(2013年6月29日着の伴野薫さんの書簡より)
  (註)私、池田小百合にも、「池田小百合なっとく童謠・唱歌」を見たと言って、新聞・テレビ・ラジオ・図書館司書・一般の人からも取材や質問があります。回答すると、「ワッかりましたぁー!どうもぉ」と電話が切れます。資料を送っても、受け取ったかどうか返事がない事が多い。出版社に貸した貴重な雑誌を仕事が終わっても返してもらえず、繰り返し催促し、泣きついた末、半年以上かかって、やっと返してもらったことがあった。他の童謠や唱歌の遺族の方からも、同じ事をされたと聞いています。

  【春樹その後】
 「背くらべ」の詩のモデルとされる。大正二年三月に生まれた末弟の海野春樹は、半生を通じ放送の仕事に携わって来た。うち六年間は静岡の地にあって柚木の局舍へ通った。戦後は西千代田に住み、三子を得た。後半生を大学教員として過ごした。元大阪芸術大学教授。平成十三年(2001年)五月四日に亡くなりました。享年八十八歳。
  (註) 海野厚の姪の伴野薫(とものかおり)さんから海野春樹編集『北原・海野家の歴史』(海野厚作品刊行会、昭和六十三年四月三十日発行)を送っていただきました。貴重な資料を、ありがとうございました。【下の海野家写真もこの本から】

 <「北原」の称号について>
 “「北原」というのは海野本家の別称として広く使われていたようで、のちのちの明治大正にも生きていた。筆者(海野春樹)自身長じてのちしばしば耳にしたから、昭和までも世間の記憶に残っていたかもしれない。商家でも造り酒屋でもない家故に、これは特殊な呼称といわざるを得ないが、世上類例がないこともなく、多く家屋敷のある地名、アザ(字)の名の転用であるようだ。曲金村には見当らないが、資料として小鹿村に北原、北原山、対応語として南原も見られ、国吉田には西の原坪、東原坪の名が記される。
 小鹿村に多くの所持地があったものであろうか? 別称のそれと「北原伝助」のそれとは異なる由縁からのものか、なんらかの結び付きがあるものか?両系図の記事中他にこの語は見当らない。二代 忠常(久左衛門忠常)は多くの土地を法蔵寺に寄進との記録が同寺に残る”(『北原・海野家の歴史』初代 忠宗から二代 忠常へ、「北原」の称号)抜粋。

▲明治38年11月撮影。父・伊三郎と息子たち。
中央が長男・厚一、右が次男・亮之助、
左が三男・欣也、四男・春樹はまだ生まれていない。
▲大正初期に撮影。海野三姉妹。
中央が長女・三千代(伴野薫さんの母親)、
左が次女・初代、右が三女・千々代。

  【背くらべを家庭で】
 昔の教師用指導書(『音楽4年』(教育出版)17(教出)音楽4050)には、“音楽の時間だけの「背くらべ」でなく、家庭で親子のひと時に、この歌を歌うことによって、心の交流を深めることができれば、すばらしい事だと思う”と書いてありますが、気が付けば、今の新築の家や、アパートには「柱」がありません。子供には、まず、「柱」や「背くらべ遊び」の説明が必要かもしれません。みなさんは、どのように説明しますか?


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