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高水寺城 こうすいじじょう

別名
郡山城、斯波御所、斯波館
時代
南北朝時代~江戸時代
分類
中世山城
規模
標高:180m、比高:約85m
現状
城山公園
場所
岩手県紫波郡紫波町二日町字古館
最終訪城日
2011年5月2日

斯波家長によって築かれた山城で斯波氏代々の居城。斯波氏滅亡後、南部利直が盛岡築城中に一時居城とした。今は城山公園となっている。

城史

年代 出来事
1243年 足利家氏が陸奥国斯波郡へ下向して高水寺城を築いたと伝えられているが、実際は代官が下向して斯波郡を管理していた可能性が高いとされる。
1335年 足利尊氏から奥州管領に任じられた斯波家長は、陸奥国斯波郡へと下向して高水寺城を築き、北朝の勢力拡大に努めたという。
1545年 斯波詮高は滴石郷にて南部晴政を打ち破り、斯波氏最大の版図を築き上げた。
1549年 斯波氏と南部氏の間で小競り合いが起きるが和議が成立する。以後、1572年頃まで度々小競り合いを繰り返した。
1572年 斯波氏は南部氏との争いに敗れて見前郷を失い、九戸政実の弟の弥五郎を養子に迎えることで和解した。弥五郎は高田村を与えられたため高田吉兵衛を称し、高水寺城の南西部の出丸部分(吉兵衛館)に住んだという。
1586年 高田吉兵衛は斯波詮元と不和となったために出奔して南部氏の元に戻った。怒った斯波詮元は南部領へと攻め込むが、南部軍に敗れて退却し、逆に反撃を受けて滴石郷などを失うことになった。
1588年 斯波氏家臣の岩清水右京らが南部氏に寝返ったため、斯波詮元は討伐のために岩清水城等を攻め落とした。しかし、その後は反撃にあって斯波氏は高水寺城に退却し、南部氏の軍勢が高水寺城を包囲したため、斯波氏は城を脱出して山王海へと落ち延びたという。
1591年 南部氏は高水寺城を修築し、郡山城と名を改め、中野康実を城代として置いた。
1598~1632年 南部信直の代より盛岡城の築城が始まるが、その後度々川が氾濫して作業は難航したため、南部利直の頃には郡山城を居城として作業を指揮していたという。
1667年 城は廃城となって取り壊され、古材は盛岡城の整備に流用されたという。

縄張り

城は北上川右岸の独立丘陵に近い形の山の上に築かれており、山頂に広い本丸、南側に二の丸があって周囲を帯郭が取り巻き、山の斜面にはいくつもの腰郭が設けられている。現在は中心部が城山公園として整備されているが、郭跡が良く残っており、横堀も確認できる。

【本丸】
城山の最高所に広い本丸があり、北東部に愛宕神社が祀られている。遺構としては縁の部分に土塁のようなものが確認できる程度。北側からは岩手山を望むことが出来る。

【模擬石垣】
現在、本丸の西側斜面の一部に石垣があるが、これは後世の模擬石垣で遺物ではない。ただ、南部氏が改修した時に石垣が積まれたとされ、廃城後に石材として全て盛岡城に運ばれたという。

【二の丸(若殿屋敷)】
本丸より一段低い帯郭から堀切を挟んだ南側に二の丸があり、御殿(若殿屋敷)があったとされている。現在はただの空き地になっているが、南側からは北上川と紫波の市街地が一望できる。

【横堀】
城山公園の麓の駐車場のすぐ側に大きな横堀の跡が残されている。現在は水堀のようになっている部分があるが、構造的には空堀だったと思われる。

【郭群】
山の斜面には大小の帯郭・腰郭が構築されており、西側は公園として通路が設けられるなど整備されているが、東側は雑木林の中に埋もれている郭も多い。

アクセス

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