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本荘城 ほんじょうじょう

別名
鶴舞城、尾崎城
時代
江戸時代
分類
近世平山城
規模
面積:147000㎡、標高:29.6m、比高:約20m
現状
市指定史跡/本荘公園・市役所
場所
秋田県由利本荘市尾崎
最終訪城日
2010年4月29日

江戸時代の初めに最上氏家臣の楯岡満茂が築いた城だが、最上氏改易後に天領となる。後に六郷氏が入って本荘藩の藩庁となった。

城史

年代 出来事
1612年 最上氏家臣の楯岡満茂が尾崎山に城を築き、天鷲城より居城を移した。
1622年 御家騒動により最上氏が改易となると由利郡は天領となった。
1622年 徳川秀忠の逆鱗に触れて宇都宮15万石を召し上げられた本多正純だが、替わりに最上氏改易で天領となった由利5万石が与えられた。だが、正純はこれを固辞しているため本荘城へは入城していない。
1623年 六郷政乗が常陸国から由利2万石へ移封されて本荘藩が成立し、本荘城は藩庁となった。この時、城は大幅に縮小整備され、南西部に連なっていた郭群は放棄された。
1868年閏4月~7月 「戊辰戦争」では当初は本荘藩は奥羽越列藩同盟軍に参加していたが、後に久保田藩、亀田藩と共に新政府軍へと参加し、総督府の命令で列藩同盟軍の庄内へと攻め込んだ。だが、小砂川の戦い(閏4月)、三崎口の戦い(7月)で庄内藩に敗れ、逆に本荘に攻め込まれることになった。
1868年8月6日 列藩同盟軍の庄内藩は本荘へと攻め込み、本荘藩は装備でも数でも庄内藩に劣ったために敗れ、本荘藩主の六郷政鑑は城に火を放って久保田藩へと逃れた。
1868年9月29日 庄内藩が由利より撤退し、それに伴い本荘は新政府軍によって奪還され、六郷政鑑は再び本荘へと戻った。
1869年 版籍奉還と共に廃城となったという。

縄張り

城は子吉川下流の左岸に広がる丘陵地帯の北端部に築かれており、2箇所の堀切によって丘陵を切断して構築されている。しかし、後に一の堀切より南部は放棄され、丘陵の突端部とその北麓だけを縄張りとして再構築されている。丘陵の頂上に本丸があり、その一段下に帯郭状に二の丸が造られている。三の丸は丘陵北麓の平地部にあり、周囲は土塁と水堀に囲まれていた。

【本丸搦手口】
丘陵の上にある本丸跡には土塁と3箇所の虎口跡が良く残っており、北の大手口と南の搦手口は食い違い虎口となっている。東の虎口は食い違いというよりは、目隠し土塁(一文字土居)のある虎口となっている。

【二の丸三日月堀】
本丸南西部の切岸直下に三日月堀が残っており、今も水を蓄えて池のようになっている。ただ、堀というよりはどちらかというと「水の手」のような気がしないでもない。

【堀切】
丘陵は堀切で切り離されており、一の堀切から東北部が六郷氏時代の城跡となっている。楯岡氏時代の縄張りはもっと広く、鶴舞球場となっている場所もかつての郭で、さらに南西部に二の堀切が残っている。なお、どちらの堀切も今は車道となっている。

【三の丸表門】(復興)
平地部分の三の丸にはかつて表門があった場所に城門が建てられているが、これは新しく木造で造られた復興城門で、どちらかというと模擬に近く、忠実に復元したものではない。それでも門自体は良く出来ているので、なかなか見ごたえがある出来だった。

【三の丸外堀】
平地部分の三の丸の外側は水堀で囲まれており、市役所より西側の水堀が現存している。また、堀に沿って土塁も残っている。

関連施設

【修身館】
本荘城の歴史資料を展示している。建物の名称は本荘藩の藩校に由来している。隣の「本丸の館」はイベントスペース。
<開館時間>9:00~17:00
<休館日>月曜日・年末年始
<入館料>無料
<駐車場>無料(本荘公園第1~3駐車場)
<場所>秋田県由利本荘市尾崎地内

アクセス

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