弥 彦 |
● ぼくの細道 |
![]() しかし私は、ここに芭蕉のしたたかな顔を見る。 北陸路、特に新潟は、芭蕉はほとんど素通りしているかのように書いている。「此間九日」とあるが、実際には16日。ただあまり歓待されず、不愉快だったようだ。その不快の念を自分の病気に置き換えたのではないか。 ここまでの旅で、乞食坊主同然の二人の旅に、多くの人々がいかに細やかな人情で接してくれたか、それを思う。これ以後のことだが、越後では、手紙が着いていないといい、あるいは忌中だからとの理由で宿を断られたことが一再ならず。考えれ見れば断られるのが当たり前だったのだ。 芭蕉の旅は、人生そのものだった。旅には、喜怒哀楽、人生のさまざまな断面がある。人の非情を恨んではいけない。己の内にこそ、その非情を見るべきだ。だからこそ、翁は後に「旅に病んで夢は枯野を駆け巡る」と辞世の句を残したではないか。 ![]() ちなみに「荒海や……」の句。あまりにも有名だが、この時期、日本海は荒海ではなく、また佐渡と天の川が同時に見えることはない、新潟で歌ったものではないだろう、といわれている。その通りだろう。芭蕉翁は情景描写詩人ではない。必要なら夜空に太陽を掲げることもやりかねない。 芭蕉翁は、冷たくあしらわれた新潟に、渾身の名作を捧げる、という最高の献辞をもって答えたといえる。 (写真上=弥彦山から佐渡を望む。左=弥彦神社) |
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