親 不 知
 ● ぼくの細道
  親知らず  子はこの浦の  波まくら
  越路の磯の  あわと消え行く

 その昔、ここを通ったおり、2歳の愛児を波にさらわれて失った、平清盛の弟、頼盛の妻の歌である。以来この地を「親不知」と呼ぶようになったとか。

 この付近は、北アルプスの北端が直接日本海に落ち込んでいりため、急峻な断崖を形成しており、北陸路を通るには、危険を承知で日本海の荒波に洗われる海岸線を通るしかなかった。
 親子の情をも断ち切る難所、そういう意味だが、今日でもこの付近は、山の中腹を通る国道8号線と、海の上にせり出して通る北陸高速道しかない。

 高田を出発した芭蕉は、名立に泊まるつもりで紹介状も準備していたが、名立はあっさり通り越して能生の旅館(玉や)で足を止めた。高田〜名立〜能生は、それぞれ15キロ程度なので、1日50キロをこなすこともあった芭蕉の健脚では軽かったのだろう。(玉屋は現在でも営業中だが、建物の位置は変わっているという) もっとも、紹介先の家では何かと気詰まりで、かえって商売と割り切った宿屋のほうが気が休まったのかもしれない。
 夕食後、芭蕉は、土地の庄屋の家に招かれて、白山神社に伝わる「汐路の鐘」の話を聞く。潮が満ちると自然に鳴りだし、一里四方に響き渡るというのだが、残念ながら芭蕉の時代にはすでに壊れていて鳴らなかったそうだ。

   曙や  霧にうづまく  鐘の声

 この句はこのときに作ったとされているが、芭蕉作品としては疑わしい。

 話は前後するが、翌日、芭蕉一行は、難所の親不知越えにかかったが、季節はまだ夏、海も穏やかで何のトラブルもなかったようだ。
 それよりも親不知の手前、早川で芭蕉は水難事故に見舞われた。川を渡り損ねてスッテンコロリ、びしょびしょになってしまい、着物が乾くまで裸で川岸に座っていたらしい。
 ま、橋のない当時ではよくある事故だったようだが。(「曾良、そんなことまで書くな」と芭蕉が言ったとか言わないとか)
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