出 雲 崎
 ● おくのほそ道 本文
   銀河ノ序
 北陸道に行脚して、越後ノ国出雲崎という所に泊まる。彼佐渡がしまは、海の面十八里、沿う葉を隔てて滄波を隔て、東西三十五里に、よこおりふしたり。みねの嶮難、谷の隅ぐままで、さすがに手にとるばかり、あざやかに見わたさる。むべ此嶋は、こがねおほく出てあまねく世の宝となれば、限りなき目出度嶋にて侍るを、大罪朝敵のたぐひ、遠流せらるるによりて、ただおそろしき名の聞えあるも、本意なき事におもいて、窓押開きて、暫時の旅愁をいたわらんとするほど、日既に海に沈で、月ほのぐらく、銀河半天にかかりて、星きらきらと冴たるに、沖のかたより波の音しばしばはこびて、たましいけづるがごとく、腹ちぎれて、そぞろにかなしびきたれば、草の枕も定まらず、墨の袂なにゆえとはなくて、しぼるばかりになん侍る。
    荒海や佐渡によことうあまの川
 ● ぼくの細道
 「おくのほそ道」で、新潟をあまりにそっけなく扱ったことに悔いたのだろうか、芭蕉は、後に「銀河ノ序」として、上記の文章を付け加えている。

 この一文に見る限り、かなりの強行軍で新潟を駆け抜けたが、芭蕉は新潟の海、佐渡島のある景色に感動し、心に刻んでいたといえる。
 ただし、あくまでも後日の追加のためか、翁の記憶違いと思われることもある。その最大は、この「天の川」の句を作ったのは「出雲崎」としている点だ。
 曾良の日記によれば、出雲崎に泊まった日の天候は、昼間こそ快晴だが夜は雨。それも相当強く降った模様で、とても「天の川」は見えなかったと思われる。
 では、ここに描かれた佐渡島と天の川の景色はどこか。弥彦ではなかったかと私は思う。
 だが、芭蕉翁の泊まった宝光院からでは佐渡島は見えない。弥彦山が視界をさえぎるからだが、その弥彦山に、芭蕉翁は登ったのではないか。私は弥彦神社の裏手からこの山に登り佐渡島を眼前にして、「絶対ここだ!」と感じた。
 ただし「銀河の序」および「…天の川」の句は、かなり情緒的、観念的だ。旅行記として正確に書く必要はないので、この詩の天啓的ひらめきを受けたのが出雲崎としても一向に差し支えないと思う。


 ところで、出雲崎といえばあの良寛さんで知られる。良寛さんは曹洞宗の僧として庶民の相談相手として活躍した人で、特に子供の教育にはかなりの功績があったようだ。また、俳句はもとより漢詩や和歌、また書芸にも通じていたようだ。
 良寛さんの句に、
     新池や  蛙飛び込む  音もなし
 というのがある。誰でも気づくように、芭蕉翁の「古池や…」を下敷きにしたものだが、発想の豊かさが感じられる。
 こんなのもある。
     名月や  庭の芭蕉と  背くらべ
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