尿前の関
 ● おくのほそ道 本文
 南部道遙にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎・みづの小島を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。
     蚤虱馬の尿する枕もと
 ● ぼくの細路
 「ぼくの細道」の旅の途中に聞き込んだものだが、面白い話がある。「河合曾良」は仮の名で、本名は徳川光圀、つまり水戸黄門さまだ、という。もちろん、黄門さまと曾良は同じ時代に生きたとはいえ、年齢が違う(黄門さま61歳、曾良41歳)のでありえないことなのだが、もしこの二人が同一人物なら「奥の細道」の旅のさまざまな疑問が解決することになるのが興味深い。
 その疑問のひとつが、ここ「尿前の関」での出来事に関係がある。
 芭蕉と曾良は、この旅で20箇所以上の関所、番所を通ったものと思われるが、庶民の往来が厳しく制限されていたこの時代、よくもそれだけ通過できたものだ。実際、この尿前の関でも不審者と見られて厳しく詮議されているのだ。なんなく通過したところもあるが、俳諧などというわけのわからない「仕事」では胡散臭いヤツ、と見られても仕方がない。が、結局は通過した。それが1箇所、2箇所ならいざ知らず、いくつも繰り返された、とすれば奥の手、つまり例の印籠があったと考えても考えすぎとはいえまい。
 そればかりではない。
 賢明なる諸氏は、すでにお気づきと思うが、日光東照宮参詣にまつわる不思議だ。
 すなわち、徳川幕府の始祖、家康公を祀る日光東照宮は、今日のごとく誰にでも公開されては居なかった。参詣にあたっては、幕閣のしかるべきものの紹介状が必要だったのだ。芭蕉翁と曾良は、それを持っていた。しかも水戸藩の紹介状。かつ参詣の案内人は水戸藩士だった。
 芭蕉翁の出身は伊賀、藤堂藩の郷士である。そのことから芭蕉忍者説が生まれるが、たかが忍者では説明のつかないことがある。すでに述べてきた各地の関所、番所の存在である。二人がこれらを霞のようにすり抜けたというならともかく、不審がられながらも堂々と通過した。これをどうみるか。俳諧師一行というのは世をしのぶ仮の姿、その実態は・・・・ (^O^)
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