石 巻 |
● おくのほそ道 本文 |
十二日、平泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがへて、石の巻といふ湊に出。「こがね花咲」とよみて奉たる金花山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つヾけたり。思ひかけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、 遙なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ。 |
● ぼくの細道 | |
![]() 当時、石巻は仙台藩を初めとする太平洋岸諸藩の貿易港として大いににぎわっていた。それにともなって街道もはっきりしていただろうから間違いようはなかっただろう。 石巻に着いた二人は「日和山」に登った。日和山というのは、船頭が船を出すために日和を見るための台地で、全国の主に港町に見られる。「奥の細道」の旅では、このあと、酒田でも「日和山」に立ち寄っている。 翁は、この日和山から金華山が見えたと書いているが、これは翁の間違いで、石巻からは望遠鏡を使っても金華山は見えない。が、日和山からの展望がすばらしいことは事実だ。「数百の廻船」が行き交い、民家がひしめき合うさまは松島と違った意味で翁の感動を誘ったのだろう。 |
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![]() 要するに翁は、「奥の細道」がどんなに心細い旅かを表したかったのだろう。しかし「奥の細道」の本当の心細さはもっと違ったところにあったと思う。 言葉の問題である。 翁、曾良の「江戸弁」は奥州人に通じたのか。逆に、「東北弁」は江戸人に理解できたのか。そのことについては、翁も曾良も何も触れていないので、結果的には何とか通じたものと考えるしかないが、ずいぶんと不自由したのではなかろうか。もっとも現代においてもカタコトの英語を頼りに世界旅行を楽しむ人も居るくらいだから、あたしのような臆病者が考えるほど、言葉の壁は厚くないのかもしれない。 |
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