末の松山
 ● おくのほそ道 本文
 それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造て末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、 籬が島もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、「つなでかなしも」とよみけん心もしられて、いとヾ哀也。
 其夜目盲法師の琵琶をならして、奥上るりと云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚らる。
 ● ぼくの細道

 一、野田の玉川

   夕去れば汐風越してみちのくの
      野田の玉川千鳥鳴くなり   (能因法師)

   時移ればコンクリートでみちのくの
      野田の玉川千鳥居なくなり  (さかわ)

 二、沖の石

   わが袖は汐干に見えぬ沖の石の
      人こそしらね乾く間もなし  (二条院讃岐)

   わが目にはどぶ池にしか見えぬ沖の石の
      人は知らねえ邪魔でしかねえ (さかわ)

 三、末の松山

   契りきなかたみに袖をしぼりつつ
      末の松山なみこさじとは   (清原元輔)

   契りおきし歌枕尋ね来て見れば
      末の松山ただの墓地とは  (さかわ)
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