壷 の 碑
 ● おくのほそ道 本文
 壷碑 市川村多賀城に有。
 つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺計歟。苔を穿て文字幽也。四維国界之数里をしるす。「此城、神亀元年、按察使鎮守符将軍大野朝臣東人之所里也。天平宝字六年、参議東海東山節度使、同将軍恵美朝臣朝かり修造而。十二月朔日」と有。聖武皇帝の御時に当れり。むかしよりよみ置る歌枕、おほく語伝ふといへども、山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り、代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、 羇旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。
 ● ぼくの細道
 壷の碑・・・・ 伝説の碑だ。
 よくは知らないが、本来は坂上田村麻呂が巨石の表面に鏃で文字を書き付けたという伝説?に基づくもので、日本の中央云々、ということが書いてあるらしい。「つぼ」というのは地名と思われるが、それがどこかはまったくわかっていない。
 そこで、古来、多くの歌人により歌枕として取り上げられてきたが、どこにあるのかわからないものの代名詞、枕詞として使われてきた。
 たまたま江戸時代初期、多賀城跡から目的、意味の不明な石碑が発見されたため、これが「壷の碑」ではないかと考えられた。もっともそれについては、著名な歌枕を自領内に置こうとする仙台藩の強い意志があったらしい。
 伝説の歌枕、ということになれば、わが芭蕉翁も当然無関心ではいられない。古代陸奥政庁のおかれた多賀城跡などそっちのけで「壷の碑」に出会えた感激をつづっている。
 「壷の碑」ではないか、と名乗りを上げた巨石が、実はもうひとつある。南部説である。
 残念ながら、発見が芭蕉翁の時代よりずっと後のことだから、翁はこれを知らないのだが、もし知っていたら「奥の細道」の旅はもっと北の南部領まで続いたかもしれない。
 というのは、私見だが、南部の石碑のほうが本物の「壷の碑」に近いと思えるからだ。
 さて多賀城跡、芭蕉翁は「壷の碑」に出会えた感激のあまり城跡の様子に触れていないが、この政庁があったために、多くの役人=歌人が陸奥の旅をしたことを考え合わせれば、この城跡に咲く一掬の花に歴史の無常を感じることができたのではないだろうか。
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