す か 川
 ● おくのほそ道 本文
 とかくして越行まゝに、おうくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すか川の駅に等窮といふものを尋て、四、五日とヾめらる。先「白河の関いかにこえつるや」と問。「長途のくるしみ身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず。
    風流の初やおくの田植うた
 無下にこえんもさすがに」と語れば、脇・第三とつヾけて三巻となしぬ。
 ● ぼくの細道
 白河を後にした芭蕉翁は、この日は矢吹に宿を取った。この間約15キロほど。途中、時間を食う事件があったわけでも、歩き疲れたわけでもない。次の須賀川まで足を延ばしても20キロを少々超える程度だ。その須賀川には、実はかねてから訪問を予定している人物がいるのだ。
 にもかかわらず手前で宿を取ったのは、到着時刻が人を訪問するにはふさわしくなかったからだろう。
 相良等躬。等躬とはもともと親しい関係にあったが、須賀川宿の駅長(宿役人のトップ)にして各種物資の流通を扱う問屋であったらしい。要するに土地一番の顔役だ。そういう人を訪ねるのだから、時刻や姿かたちを改める必要があった。
 芭蕉翁はそういうことにも気を配る常識人だった。

    十念寺

 須賀川滞在中、芭蕉は付近の名所古跡を訪ね歩いている。そのひとつ、十念寺。
 浄土宗の寺で、1500年代に創建された古刹。
 十念とは、十種の思念を行う行法。十種とは、念仏、念法、念僧、念戒、念施、念天、念休息、念安般、念身、念死。
 まあ、小難しいことはどうでもよい。
 この寺には、右下のような句碑がある。
 句碑、と一言で言うが、句碑とか歌碑、文学碑というものは、ただ建てればいいってもんじゃない。その言葉の芸術性を損なわない背景、雰囲気ってもんが大事だと思う。
 某所で見た句碑にいたっては、隣り合って墓参り用の水汲み場があり、ひしゃくが立てかけてある有様だった。
 その点、須賀川周辺に建てられた句碑は、おおむね及第点を越えているといえる。中でもこの十念寺の句碑は立派だ。

     神炊館神社

 「しんすいかん」神社、と読んでも間違いではないが、それは通称で、正しくは 「おたきや」神社、と読む。
 珍しい名前だ。珍しいはずで、日本全国、ここしかない名前だそうだ。
 全国にひとつしかないこの名前は、その昔主祭神、建美依米命が、新米を炊いて神に感謝した、という故事に由来する。
 ということは、本社、末社のない単立神社か?
 そうでもない。
 人はこの神社を「諏訪明神」もしくは「お諏訪さま」と呼ぶ。これは知っているぞ。信州諏訪湖沿岸に本拠を置き、全国に末社を有する諏訪大社のことだ。
 室町時代、須賀川の城主二階堂為氏が、信州の諏訪神を遷座合祀したことによるという。
 曾良の日記にも「諏訪明神」と書かれているところを見ると、古くからそれが通称となっており、曾良にも芭蕉にも、「おたきや」とは読めなかったのかもしれない。(^○^)

 芭蕉は、この神社に一句を奉納している。

   うらみせて  涼しき瀧の  心哉

 右写真は、神炊館神社の句碑を拡大したもの。冒頭の「宗祇戻」とは、宝暦4年、白河の俳人何某が編集した俳句の本で、芭蕉の肖像とともに上記句が掲載されている。句の文字は、この神社に奉納されていたものを復刻したもので、芭蕉真筆。
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