白河の関 |
● おくのほそ道 本文 |
心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかかりて、旅心定りぬ。いかで都へと便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心をとどむ。秋風を耳に残し紅葉を俤にして、青葉の梢、猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そいて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。 |
● ぼくの細道 |
![]() 一、境の明神 これより北、白川領。 すなわち、みちのく=未知の国である。現代で言えば、栃木県と福島県あるいは関東地方と東北地方の分岐点、その国境が小高い丘白坂峠だ。 江戸を出発して約一ヶ月、さあ、ここからが本番だ。芭蕉はようやく「おく」に足を進めた。あまりの待遇のよさに、黒羽で半月を過ごしてしまったが、もう甘えてはいられぬぞ…… 国境に二つの明神社が10メートルくらいの間隔で隣り合って並んでいる。境の明神と呼ばれているが、両方ともれっきとした名前がある。関東側から云うと、手前が玉津島神社で向こう側は住吉神社。もっとも奥州側からいうと、やはり手前が玉津島で、関東側が住吉になる。つまり、歩いてきた方向により、神社の名前が変わるのだ。紛らわしいので二つセットで「境の明神」と呼ばれている。 どちらも無住で、神社と言うよりは、少し大きめの名も無き御社と言った感じだが、驚くなかれ、この二社の創建は延暦8年(789)だという。なんと1200年、奥州路を行き交う人々の安全を守ってきているのだ。 芭蕉翁の心が引き締まったのもうなづける。 |
![]() 都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞふく 白河の関 (能因法師) 古来、屈指の歌枕として知られる白河の関だが、実はそれがどこにあったのかわかっていなかった。候補がいくつかあり、そのうち有力なのは、冒頭の「境の明神」付近、その後確定された現在地、後述の「関山」の三つだった。 結局芭蕉翁は三つとも回ったのだが、あたしは…… ま、いいか。(^0^) とにかく芭蕉翁の時代には、関そのものは、すでにどこにあったかもわからなくなっているにしても、この地が「みちのく」との境にあって、これより先は「心定め」て足を踏み入れねばならない結界のようなものだったのだろう。 曽良の句は、竹田某なるものが陸奥へ下る際、白河の関にさしかかって、衣装を改め、冠を正して関に向かった。そのわけを尋ねると、多くの名歌を生んだ地をどうして普段着で通ることが出来ましょうか、と応えたという逸話を受けて「晴れ着に着替えることは出来ないが、せめて卯の花を晴れ着代わりに髪に挿しましょう」と詠ったもの。 |
三、関 山![]() 白河の関跡を訪れた後、二人は、関山(満願寺)に立ち寄っているが、このことは「おくのほそ道」には書いていない。取り立てて書き残すほど重要ではなかったからだろうが、僕にとっては日記に書いて記憶にとどめておきたい?大事な山であった。 大して高い山ではない。その辺にある里山のひとつである。が、ここも「関」の山と呼ばれている。関とは、いうまでもなく白河の関のことである。これもまた行方不明の「白河の関」の候補だった ところでこの山の頂上に満願寺なる寺があった。残念ながら火災で焼失し、跡地には小さなお堂が建つのみだそうだが、訪れる人は少なくないという。 歩いて登るのが本筋であり登山道もあるが、悪路だが車道もあると聞き、つい乗用車で踏み込んでしまった。大失敗だった。急坂にスリップし、態勢を立て直そうとバックしたのが間違いのもと、ものの見事に路側に脱輪してしまった。 JAFを呼んで待つこと一時間。四駆のジープタイプの救援車でやってきたおにいさん曰く「脱輪出動は珍しくないけど、乗用車でよくもここまであがってこれたものとそっちのほうが奇跡的だ」って。怖いもの知らずも限界があるってことだね。頂上への道はまだ続いていたが、ここはあきらめて次のポイントへ急ぐことにした。 後で考えたのだが、待ち時間、作業時間を合わせると、早めに車を捨てれば、登山道を徒歩で頂上まで行ってこれたのにね。(^0^) |
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