写真で見る睦月

西の山から見る町並み

睦月の山を8の字に縫っている農道(通称スカイライン)の西側より 撮影したものだ。民家はこの南向きの平地にのみ密集しているのである。 写真左下辺りが小中学校である。写真中央やや右の辺りが港で、現在、埋立て工事中である。

東の山から見る町並み

写真左上は島を離れて行くフェリー「なかじま」

東の海岸

夏は海水浴場として使われる砂浜海岸である。 正式に海水浴場としての宣伝・設備もないため、穴場と言えば穴場かも?
梅の子の昔話

屋島や壇ノ浦の戦いに敗れた平家の一部の武将達は瀬戸内海を各方面に落ちていった。 最後の戦いに敗れた平家の軍勢の多くは海底の藻屑と消えたが、一部は瀬戸内海の各島に 逃れ再起を計ろうとした。その中の船団が睦月の沖で嵐に遭い、わずか7名の武将が北側の海岸 (つまり梅の子付近)に漂着した。その頃、平家追討の命を受けた源氏の追っては睦月島にも手を伸ばしていた。 7名の武将は梅の子に立てこもり、源氏の追っ手はこれを取り囲んだ。7名の武将は 弓を射、弓がなくなると石を投げ、追っ手の多くは、死んでいった。そこで、追っ手は ある夜、梅の子に火攻めをかけた。紅蓮の炎に包まれ6人の武将は焼死したが、ただ一人 全身を炎に包まれながら、頂上から炎の尾を引き、海に飛び込んだ武将がいた。      右下へつづく
そのことがあってから、少しして睦月の島に「馬の太夫」が現れだした。馬の太夫は 黒馬に乗って音もなく現れ、石のつぶてで次々と追っ手の軍勢を倒していく怪人で 全身を白い包帯で包み、その顔は誰も見たことがなかった。欄外に補足あり

東側から見る梅の子

左が睦月本島・真中が梅の子・右は無人島の芋子島である。 忽那一族が建てたといわれる梅の子城城跡がある。 戦国末期において、忽那諸島東部を防衛し斎灘を航行する船を睨む役割を果たしていたものと思われる。 また、梅の子城跡と時を同じくして、睦月島本島にも城跡がありこちらを梅の子本城跡などと呼んでいる。
南西の端にある崩れ鼻

睦月島の南西の端にある岬である。平成2年の台風19号で大きな被害を受けた中島町であるが この崩れ鼻も、写真中央の岩(亀岩)が頂上付近から10m程ずれ落ちている。 この沖合いはメバルやタイの釣りのポイントに当たる。
未来への掛け橋

写真左が中島本島の岬、写真右が睦月島の西端(熱の鼻)将来2つの島を繋ぐ橋が計画されている。 さらに、いつの日か、山口県と愛媛県を結ぶ架橋ルートになる可能性も。
玉善寺の夫婦楠

楠は、中国原産のクスノキ科の常緑大高木で、巨大になること、芳香があることなどから 寺院の境内に植えられることが多かった。この玉善寺の楠は樹齢300年を越えるものと 推定されている。目通りは7m余りで、二股に分かれて伸びるさまは、夫婦の仲睦まじい 姿を連想させることから、「めおとくす」と呼ばれるようになった。5月から6月にかけて 白い花を咲かせる偉容は、はるか沖合いからも認められ、睦月のシンボルとなっている。 胸高幹周 約7m  樹高推定30m  樹齢 推定300年
睦月の水がめ

通称「池の土手」と呼ばれている。島の水がめである。 小さい頃、よくフナを釣りに出かけたものである。 赤いフナや、身体がフナで尻尾が金魚のような「金魚ふな」さらには鯉なども釣れた。 また、海釣りのメバルの餌に川海老を獲りに行ったりもしたところです。
睦月小中学校

左が小学校・右は中学校である。現在は過疎化がすすみ学生が少ない為、複式学級になっている。 隣の島の(野忽那)小学校ではシーサイド留学と称して日本各地から里親にホームステイし 勉強に励む小学生がいる。睦月でも見習ってみてはと思うのだが・・・。
島の山々に広がるだんだん畑

昔、伊予絣の行商の島として知られたのち、温州みかん・いよかん栽培が盛んになった。 現在も後継者は少ないが、島ながらのだんだん畑が広がっている。正に瀬戸の花嫁???
  


太夫とは「昔、宮廷で、皇族臣下の席次をあらわす称号で、一位以下、五位以上
の者に与えられたものである。
馬の太夫は、平家一族の高位の方であったに違いなく、一説によれば、壇ノ浦で
大錨を背負って入水したとされる、平家の豪将”将門”ではないかと言われている。

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