イっちゃってる人のいかがわしさ

 マラソンの高橋尚子選手である。走ってるところを見ている限りは、おおすげーなー、ぐらいにしか感じなかったんだけれども、レースの終了後、またその後のあちこちのテレビ局のかけもち取材などでのインタビューを聞くたびに妙な違和感のようなものを彼女(とその恩師の小出監督)から感じていたんだった。それは、うまく説明できないのでオレは「胡散臭い」といい、友人は「イっちゃってる」と表現していたものだったんだけれど、先日よたろーさんのサイト、三馬鹿大将2000GT内の出門英さんのコラム、「教祖様」を読んで思い切り納得してしまった。まちがって読み取ってるかもしれないけれど、高橋尚子と言う人は「小出教」の熱心な信者であり、教祖である小出監督には何の疑問も持たず、その指導を実践しているだけの人物なのではないか、というふうに見えて、そう考えるとなぜワシらが彼女に「胡散臭い」だの「イっちゃってる」だのという感想をもってしまうかがかなりすんなり説明できるような気がするのだな。

 高橋尚子を「小出教」の熱心にして優秀な信者、と捉えて見ればなにが見えるか。たとえが非常にヤバげで申しわけないんだけど、彼女を例のカルト教団の若い信者たちに準えて見ればなんとなく理解ができるのではないか。マスコミの取材に対する判で押したような立て板に水のコメント、自分の行動(レース)に対する全くの迷いのなさってのは、たとえば盛り場でパフォーマンスしてる若い女の子のオ○ム信者が見せる明るくはきはきしているがゆえの「イっちゃった」雰囲気にかなり通じるものがあるんではないか。ついでにいうなら小出氏のほうも、やればハズすことが判ってるのに、寒いパフォーマンスをやらかしてしまう件の教祖様の軽はずみさをしっかり身につけておられるように見えますな(^^;)

 誤解のないように言うておきますけど、ここでわたしゃ高橋尚子は洗脳されているなどと言う気はさらさらないんでありますよ。ワタシが言いたいのは、何かを信じる、って行為を突き詰めていくと、最後には"世間"って言葉で括られるありふれたさまざまな物ごとから、どうしても一歩別のエリアに足を踏み出していかざるをえん物なのかなあ、ってことでありまして、それは本人にとって生涯を通じて幸福なんであろうか、ってことは考えてしまうけど、まあそれは人のことだからとやかくは言わん。ただ、何かを突き詰めた人間は往々にして常人からは胡散臭く見えてしまわざるを得んのではないかという気はしてきてる。

 目標がある時に、ある線から先を完全に他人の指導に依存して、それをただ信じて進んでいく、ってことができる人間を、わたしゃどうにも胡散臭く感じてしまう。そこまで信じられる指導者に会えなかったってこともあるかもしれないけれど、それってどこかで自分の"個"を封殺しているってことにはならないのだろうか。"明るく爽やか"だからいいってモノでもあるまい。その"明るく爽やか"もまた、"教祖"によってそうあるべきだと言われてのことだとしたら、それもやっぱりその人本来の個性といえるんであろうか。いったん"イっちゃった"人ってのはのちのちこっちに帰って来れるんだろうか。うーむ気になる。

2000/10/9

あなたのホームページを鑑定します (Prev)   コラムメニューに戻る (Back)   原告側の証人 (Next)  トップに戻る (Top)