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南京事件_なぜ捕虜殺害は起きたのか?

2023/11/4

周知のように南京事件は、捕虜・便衣兵・敗残兵など(以下、捕虜等と呼びます)の不法殺害と一般市民への暴行(殺傷、強姦、掠奪など)により構成されます。拙サイト「南京事件 ~ふつうの大人のためのレポート~」(以下、「拙サイト」と略す)では、この両方について史実派/中間派/否定派それぞれの事実認識などを紹介し、最後に南京事件が発生した原因について述べています。

このレポートは、捕虜等殺害の原因にフォーカスして拙サイトの内容を総括的にまとめたもので、原因の側から捕虜等の殺害事件を眺めることによって、そうした事件が起こった必然性を浮かび上がらせたいと考えています。

揚子江

下関から揚子江を望む(2016年、筆者撮影)
南京陥落後、中国の敗残兵はここを急ごしらえの筏などにつかまって、対岸に逃げていった。


1.捕虜等に関する個別事件一覧

図表1は、「南京戦史」※1が抽出した捕虜等に関する事件(「南京戦史」P342-の第5表)のうち犠牲者数が少なく状況も判明していない2件を他の研究者がピックアップした事件(No.5、No.12)に置き換え、発生日順に並び変えたものです。犠牲者数や処置方法(解放/収容/殺害)は南京戦史の内容を正として記述しています。これ以外の事件を指摘する研究者もいて、これらが南京事件における捕虜等に関する事件のすべてではありませんが、判明している事件のうち、主要なものと考えてよいでしょう。

※1 「南京戦史」は、旧陸軍の将校などによる親睦団体である偕行社が1988年に刊行した図書。偕行社は1983年から軍の公式資料や南京戦に従軍した将兵の記録などを収集し、それをもとに「南京戦史」(非売品)を刊行した。

図表1の全14件の捕虜等の状況を次の4つに類型化(表右端のタイプ欄)すると、それぞれの件数は以下のようになります。全体の3割は解放もしくは収容していますが、残り7割は殺害されています。

図表1 捕虜等に関する主な事件

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出典)偕行社「南京戦史」「南京戦史資料集1」、板倉由明「本当はこうだった南京事件」、秦郁彦「南京事件」、笠原十九司「南京事件」、同左「南京難民区の百日」 をもとに作成。

注)捕虜等の数は史料に記載の数字をそのまま載せているが、研究者によってバラツキが大きいものは幅をもって示している。

捕虜の規模感をつかんでいただくために、図表2に各研究者の中国軍の兵力と戦死者数、捕虜数などの見積もりを示しました。総兵力に占める捕虜(解放されたものは除く)の割合は、板倉氏と南京戦史及び秦氏は総兵力の3~4割ですが、史実派の笠原氏は総兵力の半分以上が捕虜の殺害によって失われたとしています。

図表2 中国軍の兵力と戦闘結果 (単位:千人)

中国軍の兵力

出典)拙サイト4.7.3項(図表4.20)より作成。

2.捕虜取り扱い方針なし!

捕虜殺害に最も大きく影響した原因は、捕虜の取扱いに関する明確な方針がなかったことです。

あるときは捕虜を解放し、あるときは収容し、そして多くは殺害に走ったという状況は、軍として捕虜をどう扱うかという方針が不明確だったことを示しています。殺害に走った理由はいろいろあるでしょうが、収容する体制がないためにやむなく殺害に走ったケースが少なからずあったと思われます。収容体制が不十分だったのは、捕虜取り扱い方針が不明確だったことと無関係ではありません。

(1) 陸軍次官通牒「交戦法規の適用に関する件」

明確な方針がなかった原因の起点はこの通牒にあります。
盧溝橋事件を契機に始まった日中戦争ですが、日本も中国もこれを「戦争」とは認めず、日本は「事変」と呼びました。当時、アメリカは中立法という法律のもと、「戦争」をしている国へ軍需物資などを輸出することを禁止していたので、その適用を避けるためでした。そこで日中戦争開始直後の1937年8月5日、陸軍は各軍に通牒を出して注意を促しました。そこにはこう書かれています。

{ … 帝国現下の国策は努めて日支全面戦に陥るを避けんとするに在るを以て日支全面戦を相手側に先んじて決心せりと見らるるが如き言動(例へば戦利品、俘虜等の名称の使用或いは軍自ら交戦法規を其の儘適用せりと公称し其の他必要已むを得ざるに非ざる諸外国の神経を刺激するが如き言動)は努めて之を避けて…}(「南京戦史」,P337)  注)太線は筆者

捕虜という言葉は使うな!と言いますが、捕虜を取るなとも殺せとも解放せよとも言っていません。これでは現場は困惑するでしょう。

なお、立川京一氏によれば、日本陸軍は1938年に捕虜は採らないという方針を決定したが、一方で捕虜を収容する施設は設けていたという註1

(2) 松井総司令官の方針

南京を攻略した中支那方面軍の総司令官松井石根大将の方針は「解放せよ!」ということだったようですが、捕虜の取り扱い方針について公式な形では表明していません註2。結局、捕虜の取扱いは、現場任せになったのです。

(3) 「捕虜はせぬ方針なれば…」

これは第16師団長の中島今朝吾中将の言葉として有名ですが、12月13日の日記にこう書いています。

{ 大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くること、…}(「南京戦史資料集1」、P326)

陸軍次官通牒の内容は当然知っていたはずで、その影響を受けた可能性があります。

中島師団長は同じ13日の日記に、捕虜の試し斬りをしたことを書いており、捕虜に対する考え方の一端がうかがえます。

{ 本日正午高山剣士来着す 捕虜7名あり直ちに試斬を為さしむ 時恰も小生の刀も亦比時彼をして試斬せしめ頸二つを見込〔事〕斬りたり}(同上、P324)

16師団麾下の第30旅団(旅団長 佐々木到一少将)は、12月14日の城内掃蕩命令において、「各隊は師団の指示ある迄捕虜を受付くるを許さず」と、師団長の方針に沿ったとみられる命令が示達されています註3

(4) 捕虜の収容体制

中支那方面軍の捕虜収容体制について詳しくは分っていませんが、南京戦史は中央刑務所(第一監獄所)はじめ南京城内外の収容所に中国兵の負傷者を含めて約6千余人を収容した、と推定しています註4。そのうち数千人は上海に移して労役に使った、という証言註5もあります。一方で、捕虜担当将校が出張している間に捕虜が殺害されてしまった、という証言註6もあるようです。捕虜収容体制が十分でなかったことは幕府山の捕虜の対応をみても明らかです。

幕府山の捕虜(詳細は拙サイト4,3,2項参照)

12月14日に15千人に及ぶ大量の捕虜を収容した山田支隊はその処置に困り最終的には殺害することになるのですが、その経緯については諸説あります。以下は筆者の推定によるものです。

この捕虜の処置についての軍本部の方針は、南京の警備のために残留する「16師団に収容させる」でしたが、16師団に山田支隊が確認したところ「みな殺せ」と言われ、本部からも色よい回答をもらえませんでした註7。16師団がなぜ断ったのか、中島師団長の方針もあるでしょうが、1万を超すような大量の捕虜を収容するには体制が不十分だったことは間違いないでしょう。

結局、山田支隊は揚子江岸に捕虜を連行し、機関銃で射殺することになります。(解放するために連行したが、騒がれたので殺害した、という説もあります。)

(5) 第一線部隊の困惑

「南京戦史」は第一線部隊の困惑を次のように記し、責任は本部及び方面軍にあると主張しています。

{ 華中戦線の日本軍全軍としてみれば、「捕虜とも呼ぶな」との次官通牒は受けているものの、「捕虜を処分せよ、殺せ」とは誰も決めていない。ただ兵団毎にその部隊長、参謀らの考えによって指導されたというのが実情であった。
投降する者に当面する部隊にとっては兵力は乏しく戦闘に手一杯である。上級司令部としても、これを収容する機構も扱うべき予備の兵力の用意もない。ましてこれに食わせる食料の準備など皆無なのが現実の姿であった。投降兵は勝利の証などと喜んでおられる状態ではなかった。
敵を撃滅することだけを念頭において戦っていた第一線諸隊は、多数の投降兵出現にさぞ困ったであろう。その対応がまちまちであったことは一に戦況によるとはいえ前述の指示の不的確、対応準備の欠如が大きな要素といえよう。そしてその責は一に中央部及び方面軍が負わねばならないものともいえよう。}(「南京戦史」、P345)

3.その他の原因

(1) 早すぎた入城式

安全区の掃討を担当することになった第9師団歩兵第7連隊は、12月14日に{ 各隊の俘虜は其掃蕩地区内の1カ所に収容すべし之に対する食料は師団に請求すべし}(「南京戦史資料集1」、P621) と捕虜(便衣兵)を収容することを命じています。しかし、15日夜8時30分に出された命令では、{ 連隊は明16日全力を難民地区に指向し徹底的に敗残兵を捕捉殲滅せんとす }(「同上」,P622) となり、敗残兵の「殲滅」を目的とするように変わっています。

この変化の最大の理由は、12月17日に行われる入城式の安全確保でした。この入城式では上海派遣軍の司令官で皇族の朝香宮鳩彦親王の安全を絶対に確保しなければならず、敗残兵の掃討、特に城内の便衣兵の掃討は激烈かつ粗雑になりました。

17日に入城式を決行することに参謀たちは反対しました註8が、松井司令官は{ 明日予定の入城式は尚時日過早の感なきにあらざるも、余り入城を遷延するも面白からされは、…}(「南京戦史資料集1」,P18-P19) と、決行を決めました。

(2) 日本軍の捕虜観念註9

日本軍には「生きて虜囚の辱めを受けず」という規範があり、捕虜になることを禁止していたため、捕虜に対して侮蔑感を持っていました。また、日本は先進国、中国は後進国という差別意識からくる中国人侮蔑だけでなく、上海戦で苦しめられた中国兵に対する憤激の情もありました。さらに、日本軍では上位者から下位者に対する今でいうパワハラが常態化しており、最下位の者はそのはけ口を自分よりさらに下位にいる捕虜や中国人民衆に求めるという連鎖が起きやすくなっていました。

もちろん、こうした風潮に反発し、捕虜に対して人道的対応を求める人たちもたくさんいましたが、日本軍の精神主義はこうした軟論を勇ましい硬論によって押しつぶすことに作用したと思われます。

4.まとめ

これまで述べてきたように、捕虜殺害に至った最大の原因は日本軍の捕虜に対する取扱いが不明確だったことであり、入城式が早急だったことが特に安全区の掃討を粗雑にしました。そして、その背景に日本軍の捕虜観念があったことは間違いありません。こうしてみると、捕虜殺害は起こるべくして起こった、といえるでしょう。

具体的なことは示さずに現場の裁量に任せるというやり方は、日本軍・日本人の特質註10で、それは組織の下位層の自律性を高めるとともに、臨機応変に最適な解決方法を見出しやすいという長所としての側面もあります。しかし、南京攻略戦の正当性や中国軍の暴虐性を内外に向けて示すためにも、捕虜の取扱いという問題に対して統一的な指針を示しておくべきでした。

松井司令官は、戦後になって東京裁判対策としてしたためた「支那事変日誌」において、捕虜に対しては寛容慈悲の態度をとり、中国官民に皇軍の威徳を認めさせた上で日本に帰服させようとしたと述べています。しかし、それを実現するために司令官としてやるべきことが十分でなかっただけでなく、日中関係が「皇軍の威徳により帰服させる」ような状態でなかったことを見抜けませんでした註11

このレポートでは、捕虜殺害の合法性についてはふれませんが、概要だけ簡単に記しておきます。

南京事件の存在を肯定する研究者たちは、ハーグ陸戦条約の「俘虜は人道をもって取り扱うべし」と、普遍的な慣習国際法である「裁判を経ずに俘虜を処罰することはできない」を前提に、図表1に掲げた捕虜等殺害事件の全部もしくは大部分が不法だったとしていますが、南京事件の存在を否定する一部の研究者はこれらの殺害事件すべてが合法であった、と主張しています。

否定論の論拠は大きく2つあって、一つはハーグ陸戦条約を前提にそれらの法で許されている緊急的な状態があったなどと主張する東中野修道氏らですが、彼らの主張する「緊急的状況」を裏付ける史料はほとんどなく、法の解釈論も論理的に否定されています。

もう一つは、戦数論――戦争の目的達成や重大な危険のためには成文化された戦争法の制約から逃れられるという理論――が慣習国際法として成立していた、として合法性を主張するもので、国際法学者の佐藤和男氏に代表されるものです。しかし、否定派寄りの北村稔氏でさえ、{ 戦数理論などは、軍事行動で自らを有利に導く必要から生じる如何なる行為に対しても、説明できる理屈(言い訳)を考えておこうというものである…}(北村稔「南京事件の探求」、P108) と手厳しい。なお、佐藤和男氏は、「緊迫した軍事的必要」が存在したと言いつつ、その具体的内容については「本稿では詳述する余地がない」と言及していません。


註釈

註1 日中戦争時の捕虜取り扱い

立川氏はその論文の本文で、{ 東京裁判に提出された武藤章の尋問調書によれば、1938年に … 支那事変では捕虜そのものは捕らないという方針を採用、したがって正式の捕虜収容所も設けなかった。}と述べたあと、その註釈で{ 実際には中国人捕虜はいたし、正式の捕虜収容所ではないにせよ、中国人捕虜を収容する施設も存在した。}という。

註2 松井総司令官の方針

{ 公式文書には捕虜取り扱いの方針乃至準縄らしきものは全くない。僅かに対象の専属副官・角良晴少佐の談話によりその意図を知るのみである。即ち「捕虜は武装を解除した後、解放せよ」という意図であったという。}(「南京戦史」、P338)

註3 第30旅団の命令

「南京戦史」、P341

註4 捕虜数

{ 直接の当事者である榊原参謀が「17日頃、中央刑務所に収容された当初の捕虜の数は約4,5千と思う」と証言しているが、この証言を尊重し、中央刑務所(注.第一監獄所のこと)その他南京城内外の収容所にその後追加収容された捕虜、1月5日頃捕虜として収容された約500の傷者も含めた総数を約6千余人と推定した。}(「南京戦史」、P366)

註5 捕虜は上海で使った…

{ 榊原主計氏の証言 「私は仕事の関係上、多少捕虜収容所に出入りしましたが、翌年の1月ごろ、上海地区の労働力不足を補うため、多数の捕虜を列車で移送し、約半数の2,3千人を残したように記憶しております。」(「南京戦史」,P376)

註6 捕虜が殺害されてしまった…

{ 翌年1月上旬南京に出張した参謀本部の稲田中佐が榊原派遣軍参謀から、「収容所の捕虜を上海で労役に使うつもりでいて、数日出張した留守に殺されてしまった」(稲田正純談)と聞いている。}(秦郁彦「南京事件」、P125)

註7 山田支隊と軍、16師団との交渉

山田少将の日記には、12月15日、本間少尉を南京(おそらく16師団)に派遣したが、皆殺せと言われた。翌16日相田中佐を軍に派遣した、とあるが、色よい返事はもらえなかった模様。(詳細は拙サイト4.3.2項)

<12月15日の飯沼参謀長日記>{ … 山田支隊の俘虜東部上元門附近に1万5,6千あり、尚増加の見込と、依て取り敢へず16Dに接収せしむ}(「南京戦史資料集1」、P216)

註8 入城式は時期尚早!

上海派遣軍参謀長の飯沼少将は日記に次のように記している。

{ (12月14日) … (中支那)方面軍参謀長より電話にて17日入城式を為す考にて掃蕩をせられたき希望ありしも当軍としては殿下のご意図に依り無理をせさる如く掃蕩中にて現況にては十七日は不可能なる旨返答せし。
(12月15日) … 長参謀16Dと連絡した結果同師団にては掃蕩の関係上入城式は20日以降にせられたき申出ありと重ねて方面軍に事情を説明せしむ。}(「南京戦史資料集1」,P215-P216)

註9 日本軍の捕虜観念

秦郁彦「南京事件」,P196- 藤原彰「南京の日本軍」,P75-P82

註10 組織下位層の自律性

戸部良一他「失敗の本質」,P278-

註11 松井大将「支那事変日誌」抜粋

{ (南京攻略戦にあたり、)我軍の軍紀風紀を厳粛ならしめん為め懇切なる訓示を与へたり。本訓示中特に予自ら加筆せる末文左の如し。  敵軍と雖既に抗戦意思を失ひたるものに対しては最も寛容慈悲の態度を採り、尚一般官民に対しては常に之を宣撫愛護するに努め、皇軍一過所在官民をして皇軍の威徳を仰き、欣て我に帰服せしむるの概あるを要す }(「南京戦史資料集1」,P47-P48)

南京戦に先立って松井大将は、同盟通信社の松本重治上海支局長と会見している。

{ 松本「… 南京を占領してしまったら、日中戦争が全面戦争になります。中国側は長期戦を覚悟しています、日本側はそれをできるだけ避け、一撃で話し合いをつけたいというのでしょう。… しかし問屋はおろすまい。だから、南京まで行かないうちに停戦をでかすことが上策である …」
松井「… 俺もひそかに考えていることがあるのだ。… 上策としては南京に行かずに戈を収めるにある。これについて、俺は日夜心胆を砕いているところだ。…」}(松本重治「上海時代・下」、P344-P345)

参考文献

※ 1993年12月に「南京戦史資料集2」が刊行されているので、こちらは「…資料集1」と呼ぶことが多い。