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ハーグ陸戦条約の成立経緯

2023/10/30

ハーグ陸戦条約は、正式名称を「陸戦の法規慣例に関する条約」といい、陸上における戦争のルール※1を定めたものです。この条約は、1899年にオランダのハーグで開催された国際平和会議で採択され、その後1907年に改定されて日本や中華民国を含む多くの主権国家が批准しました。

※1 具体的には、交戦者の資格、戦闘方法や禁止事項、降伏方法、敵国の領土における権力、などを定めています。

背景

18世紀ごろのヨーロッパにおける戦争は「専門家の戦争」であり、絶対君主が所有する軍隊(職業軍人で構成された)により行なわれ、一般民衆が参加することはありませんでした。戦争は領土や各種権益をめぐって行なわれましたが、君主の財産である軍隊の損耗を抑えるため、多くは短期間の戦闘で終わっていました。

それがフランス革命(1789-95年)をきっかけに大きく変化しました。王権打倒に立ち上がった民衆を革命指導者が組織化し、革命に干渉してきた外国と戦ったのです。そのような軍隊を受け継いだのがナポレオンで、彼は徴兵制を強化し、民衆のナショナリズムを煽って強力な民衆軍を作り上げ、一時的にせよヨーロッパのほぼ全域を勢力下におきました。

その後同様に民衆を組織化したのがドイツで、他の国もこれに続き、19世紀には「専門家の戦争」から「民族の戦争」に変わっていきました。さらにこの頃になると産業革命の成果から強力な武器が用いられるようになり、戦争は民衆も巻き込んで残虐な様相を呈するようになってきました。

そのため、1863年に赤十字社が設立されるなど、人道的な活動が行なわれるようになります。

1899年ハーグ国際平和会議

この当時の戦争に関する国際法として習慣や慣行に基づく慣習法はあったものの、成文化されていない曖昧なものでその規制力はほとんどなく、戦争は無秩序状態でした。そこで、1899年にロシア皇帝ニコライ2世の提議※2によってオランダのハーグで開催された国際平和会議では、従来の慣習法を成文化し、各国が承認する条約として成立させることによって、規制力を強化しようとしました。また、この会議では毒ガス攻撃やダムダム弾(傷口を大きくするような弾丸)の使用禁止なども決められました。

※2 ニコライ2世の目的は、軍備増強で拡大した財政を抑えるための軍縮でしたが、軍縮の話は進みませんでした。

マルテンス条項

陸戦条約については専門の委員会が設置され議論されました。しかし、議論を始めてみると、ベルギーやスイスといった小国とドイツやロシアのような大国で利害が対立し、成立が危ぶまれる事態になってしまいました。

このとき委員長だったロシアの国際法学者マルテンスが提案したのが、のちに「マルテンス条項」と呼ばれるものです。彼はこれを議事録に記録することで小国の同意を得ようとしましたが、スイス代表は条約本文にのせることを要求し、結局、それを条件に全会一致でハーグ陸戦条約が成立したのです。ハーグ陸戦条約前文に書かれたマルテンス条項とは次のようなものです。

一層完備したる戦争法規に関する法典の制定せらるるに至るまでは、締約国は其の採用したる条規に含まれさる場合に於ても、人民及び交戦者か依然文明国の間に存立する慣習、人道の法則及公共良心の要求より生する国際法の原則の保護及支配の下に立つことを確認するを以て適当と認む。

このように政治的な理由でできたマルテンス条項ですが、ハーグ陸戦条約成立後、この条項は同条約の趣旨及び目的を示す指針として多くの裁判所により援用され、裁判規範として重要な法的意味を持つようになりました。

その後の戦争規定

ハーグ陸戦条約が初めて適用された戦争は日露戦争(1904-05年)ですが、「文明国入り」を目指していた日本はこの条約を忠実に守り、各国から賞賛を浴びました。

戦争に関する規定はその後も強化されていきます。1928年パリ不戦条約で侵略戦争が禁止され、1929年捕虜の待遇を改善したジュネーヴ条約が成立※3、1949年には国際人道法が成立します。そしてハーグ陸戦条約は、第2次大戦後に国際裁判所によって国際慣習化したと認定され、すべての国に適用されることになりました。

※3 この1929年のジュネーヴ条約を、日本は軍部の反対により批准していません。その理由は、「日本軍においては捕虜にならないよう教育しているため、日本人捕虜は発生せず、日本だけが欧米人捕虜を待遇するという負担を負わなければならなくなる」などといったものです。(参考文献(4))

このような努力にもかかわらず、悲惨な戦争は現在も続いていますが、過去の努力は決して無駄にはなっておらず、さらなる努力を続けていくことが大事だと思います。


参考文献