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内務省警保局長通牒が意味するもの

2022/1/12

慰安婦問題の否定派は、「軍や警察は慰安婦の徴募が適正に行われるように指導していた」註1として、1938年2月23日の内務省警保局長通牒や同年3月4日の陸軍省副官通牒を証拠としてあげます。

確かに、内務省警保局長通牒は、内地の警察に宛てて、支那(中国)への渡航を認める婦女の条件や手続きなどを定めており、陸軍省副官通牒では北支方面軍などに対して、慰安婦の徴募は警察と連携を密にして行え、と指示しています。

しかし、これらの文書がどのような経緯で発行されたかを見れば、それが額面通りの意味ではないことがわかります。

このレポートでは、京都橘大学教授永井和氏の論稿をもとに発行の経緯を整理し、文書がなぜ発行されたかを明らかにするとともに、発行後に何が起きたかも紹介します。

内務省警保局長通牒

目次


1.経緯概要

1937年12月13日、南京が陥落すると陸軍は慰安所の本格展開を開始しました。慰安婦の徴募を陸軍の御用業者などを通して国内の周旋業者に依頼する一方、その受入れ態勢を上海領事館警察などと取り決めました。慰安所の設置を陸軍上層部が決定したのがいつかはわかりませんが、事前に業者には協力依頼が秘密裏に出ていたと思われます。

これを受けて3千人とも言われる大量の慰安婦募集活動が、国内各地で始まりましたが、1937年8月に外務次官から出された通知により、売春を営む女性や業者を中国に渡航させることは事実上できませんでした。しかし、軍が慰安所を設置することが事実であることを確認した内務省は、それを黙認する方針を決定しました。

大阪と兵庫県は業者が内務省を通して事前に根回しをしたので、慰安婦の渡航を認める身分証明書を発行しましたが、他の警察はこれを知らなかったため、軍がそのようなものを作るはずはないと考え、業者に任意同行を求めて事情聴取をしたり、説得して募集をやめさせたりしました。群馬、和歌山、高知、茨城、宮城、福島などから内務省にあてた状況報告の書状が残っています。

こうした混乱を収拾するために出されたのが、「内務省警保局長通牒」です。内務省は21歳以上の娼婦経験者であること、軍の諒解などの言葉を使わないこと、などを条件に渡航を黙認するよう指示しました。内務省がこの通知を出してまもなく、陸軍省は現地にいる軍に対して、「周旋業者の選定に留意すること、警察と協力して徴募にあたること」などを通知しました。

図表1. 内務省警保局長通牒出状関連図

内務省警保局長通牒出状関連図

2. 関連文書一覧

本レポートで利用する史料は下表のとおりです。No.1~11が、通牒発行前に出状されたもので、No.14~17が発行後のものです。
このレポートでは、各文書の要約又は一部のみを引用しますので、全文は 拙慰安婦問題サイトの小資料集を参照願います。(このページのヘッダ部にある「小資料集」をクリックすれば表示されます)

図表2. 内務省警保局長通牒関連史料

内務省警保局長通牒関連史料

3. 通牒発行までの経緯

(1) キックオフ

陸軍の慰安所本格展開がいつごろ陸軍上層部で決定されたかを明示した文書はみつかっていませんが、和歌山県知事の報告文書(史料No.7)に、1937年秋頃に周旋業者が陸軍幹部に会って慰安婦募集を要請された、という業者の証言が掲載されていますので、その頃には決定していたと思われます。

軍が具体的に動き始めたことは、南京を攻略した上海派遣軍参謀長飯沼守が日記に記しています。

{ 12月19日 … 迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す}(「南京戦史資料集」,P220)

{ 12月25日 … 長中佐上海より帰る。青幇(ちんぱん)の大親分黄金栄に面会、上海市政府建設等の打合せ為し先方も大乗気、又女郎の処置も内地人、支那人共に招致募集の手筈整ひ年末には開業せしめ得る段取りとなれり。}(「南京戦史資料集」,P226)

(2) 受け入れ態勢決定

上海では、総領事警察も交えて慰安婦の受け入れ態勢について協議したものと思われますが、その結果が「皇軍将兵慰安婦女渡来につき便宜供与依頼の件」という上海総領事警察から長崎県水上警察署長宛ての書信(史料No.2)に記載されています。それによれば、総領事警察は業者および女性の身許確認と営業許可判断、渡航上の便宜供与などを行い、憲兵隊は業者と女性の現地までの輸送手配、武官室(特務機関)は慰安所の準備や衛生検査などを担当することになっています。

1937/8/31の外務次官通達「不良分子の渡支取締方に関する件」(史料No.1)により、「素性、経歴、平素の言動不良」の者に対して警察は渡航に必要な身分証明書を発行しないことを命じており、まともにやれば売春業者や娼婦は渡航できません。そこで、この文書により便宜供与、すなわち制限緩和を求めたのです註2

徴募活動を行う業者には上海総領事館が発行する身分証明書を持たせる、女性は本人と親の同意が得られていること、などが規定されていました。警保局長通牒で指定される年齢制限や売春経験有無の条件はありません。

(3) 周旋業者活動開始

こうして業者たちの活動が始まりました。一例を、秦郁彦氏の著書から引用します。

{ 千田夏光「従軍慰安婦・慶子」の主人公「慶子」は、福岡の大浜遊郭という私娼窟で働いていた。… 福岡連隊の「御用商人」として同行した石橋某のスカウトに応募して上海に渡った。
石橋は他の同業者たちとともに、12月に上海の兵站司令部の主計将校から前渡金一千円を渡され、各自15名ずつ集めて来いと依頼され、北九州を走り回って、十八人の女をかき集め、十日後には上海に戻ってきたという。」(秦郁彦「慰安婦と戦場の性」、P71)

ちなみに、千田夏光「従軍慰安婦・慶子」によれば、長崎港を出港したのは12月30日深夜、女たちは「軍需貨物」として陸軍の輸送船に乗せられました。同行した18人のうち11人は朝鮮人だったといいます註3

(4) 群馬県知事からの報告(1938/1/19発信 史料No.4)

この文書は、神戸で娼妓数十名を抱える貸座敷業を営む大内藤七という男が、前橋の芸娼妓酌婦等紹介業の男を訪ねて酌婦の募集を依頼してきたが、本当に軍の依頼なのかどうか不明だし、公序良俗に反するようなことを公然と吹聴するのは皇軍の威信を失墜させるものであるので、前橋警察署には厳重取締するよう指示した、ついては大内の言動などについて報告する、というものです。大内は次のように述べています。

{ 日支事変は一時駐屯の体勢となったが、中国人娼婦と遊ぶことにより性病にかかる者が多くなってきている。そこで慰安所を作ることになり、我々を通して約3000名の酌婦を募集することになった。既に昨年(1937年)12月中旬から実行され目下2-300名が稼働中だが、兵庫県や関西方面では県当局も応援している。今月26日には2回目の酌婦軍用船(神戸発)を送る予定で目下、募集中。}(上記史料の一部を現代語に要約)

大内が所持していた契約書などのヒナ形が添付されています。(詳細はページヘッダの「小資料集」をクリック)

この契約はいわゆる「年季契約」で、稼ぎ高にかかわらず年限まで勤める必要がありました。日本人慰安婦のほとんどは、毎月の本人所得を稼ぎ高の4~5割として、その所得から前借金を返済して、終わった時点で離職できる契約を選んだと見られます。(詳しくは、拙サイト「慰安婦問題」2.5.3項を参照)

なお、このような年季契約は「身売り」とよばれ、当時の法解釈で民法上は「公序良俗」に反して無効とされましたが、刑法上は「人身売買」の犯罪とはなりませんでした註4

(5) 「醜業婦渡支に関する経緯」メモ(日付、発信者不詳)

標記の史料(史料No.3)は、作成者も日付も不明ですが、内務省幹部から兵庫県警に業者の活動に「便宜をはかる」よう依頼があったことがわかります。以下、その要点です。

(6) 和歌山県知事からの報告(1938/2/7発信 史料No.7)

和歌山県知事発信の「時局利用婦女誘拐被疑事件に関する件」(史料No.7)では、同県の田辺警察署が挙動不審な男たちを事情聴取した内容と、他の警察に照会した結果などが記載されています。以下、その内容を現代語で要約しています。

田辺警察署の事情聴取

1938年1月6日、飲食店街を徘徊する挙動不審の男3人に、婦女誘拐の容疑ありとして任意同行を求めた。3人は大阪の貸席業者金澤と佐賀、海南市の紹介業平岡と名乗り、自分たちは軍部の命令で上海の皇軍慰安所に送る酌婦の募集をしている、と答えた。金澤の自供によれば、1937年秋頃、大阪の貸席業者など3人が荒木大将と右翼の大物頭山満と会合し、上海に内地から3000人の娼婦を送ることが決まった、という話を聞き、募集活動を行っているところである。すでに大阪九条警察署と長崎県外事課の便宜供与を受けて70名を上海に送った、という。

そこで、九条警察署に照会したところ、皇軍慰問所の有無はわからないが、被疑者の身許が確認できたので、逃亡の恐れなしと判断して、1月10日に全員釈放した。

九条警察署からの返信(1938/1/8発信 史料No.9)

九条警察署からは、内務省から大阪府警察部長に依頼があったので、便宜を与え、第一団を1月3日に渡航させた、金澤という男は当署管内居住者で身許不正者ではない、という回答がありました。これは上記(5)の経緯メモにある通り、内務省から便宜供与の働きかけがあったことを示唆しています。

長崎県外事課からの返信(1938/1/20発信 史料No.8)

12月21日付けの上海日本総領事館警察からの書信を添付し、その書信が定める必要書類を所持している者に対しては上海への渡航を許可することにした、と回答しています。

(7) その他の県の報告

高知県知事(1938/1/25発信 史料No.5)

内務大臣に対して、「業者が軍の威信に関するようなことを言うのを禁止し、醜業目的での渡航には身分証明書は発給しないようにすべき」と提言しています。

山形県知事(1938/1/25発信 史料No.6)

大内藤七の依頼を受けた酌婦紹介業者を新庄警察署が見つけたが、「そのようなことを軍部がやるとは信じがたい、このようなことが公然と流布されれば銃後の一般市民、特に応召家庭を守る婦女子の精神に悪影響を及ぼすだけでなく、婦女身売り防止の精神にも反するもの」と説得した結果、業者は募集活動を断念した、と報告しています。

茨城県知事(1938/2/14発信 史料No.10)

茨城県出身で神戸で貸座敷業を営む大内藤七が、地元の周旋業者とともにある料理屋で2人の女性を酌婦として1月19日に上海に送った。大内は上海派遣軍の依頼であると吹聴したが、本当に軍の依頼なのかは確認できず、醜業を目的にすることは明らかであり、こうした公序良俗に反し皇軍の威信を失墜するようなことは、最重点で取り締まるよう各警察署に指示した、と報告したあと、大内藤七の所持していた契約書などのヒナ形を添付しています。内容は群馬県警察とほぼ同じなので省略します。

宮城県知事(1938/2/15発信 史料No.11)

群馬県知事信を見て注意していたところ、2月8日に県下の周旋業者宛てに酌婦約30名の周旋を依頼する郵便はがきが届いた。業者には周旋の意志がないことを確認した、と報告しています。

4. 通牒の内容

内務省警保局長通牒(1938/2/23発信 史料No.12)

秦郁彦氏は次のように述べています。

{ 内務省は、「募集周旋等が適性を欠くと、帝国と皇軍の威信を傷つけ、婦女売買に関する国際条約にも抵触する」ので、条件付きで「婦女の渡航は…必要已むを得ざるもの」として当分の間黙認することとし、各県へ通達した。… 陸軍省外務局とか、内務局という自嘲的な言葉もささやかれていたご時世に、軍の威光に逆らうのは所詮むりである。}(秦郁彦「慰安婦と戦場の性」,P56)

以下は、警保局長通牒の内容を現代語で要約したものです。全7項のうち、1~4項が慰安婦に関するものであり、5~7項は周旋業者に関するものになります。本来、不可能な慰安婦の渡航を一定の条件下で「黙認」しつつ、このような募集を軍が行っていることは秘匿せよ、という趣旨です。

支那渡航婦女の取扱に関する件

最近、支那各地における料理店、飲食店、カフェ、貸座敷などに従事する婦女の渡航が増えているが、内地でそうした婦女の募集をする者のなかに軍当局の諒解があるかのように言う者もいる。婦女の渡航は必要已むを得ざるものであるが、帝国の威信と皇軍の名誉を害するだけでなく銃後の出征兵士家族に悪影響を与え、さらには婦女売買に関する国際条約にもとることがないよう、次の事項に準拠して取り扱うよう通知する。

1.醜業を目的とする婦女の渡航は、現在内地で娼妓其の他事実上醜業を営み、満21才以上かつ性病その他伝染性疾患のない者で、北支・中支方面に行く者に限って、当分の間これを黙認し、身分証明書を発給する。

2.身分証明書の発給時、契約期間が満了したら速やかに帰国するよう申し渡すこと。

3.醜業を目的として渡航する婦女は必ず本人が警察署に出頭し身分証明書の発給を申請すること。

4.その際、親又は戸主の承認を得ること。

5.稼業契約その他事項を調査し、婦女売買又は略取誘拐等がないよう留意すること。

6.これら婦女の募集に際して軍の諒解等を言う者は厳重に取り締まること。

7.募集に際する広告宣伝、虚偽・誇大な表現は取り締まること。また、募集に従事する者は、正規の許可又は在外公館の発行する証明書等を所持している者に限ること。

陸軍省副官通牒(1938/3/4発信 史料No.13)

内務省の通知後まもなくして、陸軍省副官から北支方面軍および中支派遣軍参謀長宛てに、慰安婦を募集する者の人選を適切に行うとともに、募集にあたっては警察や憲兵と連携を密にして進めよ、という趣旨の通知が出されました。

永井氏は、この通牒の意義を次のように述べています。

{ 警察の憂慮を出先軍司令部に伝えると共に、警察が打ち出した募集業者の規制方針、すなわち慰安所と軍=国家の関係の隠蔽化方針を、慰安婦募集の責任者ともいうべき軍司令部に周知徹底させるため発出した指示文書であり… }(永井「日本軍の慰安所政策について」、Ⅳ地方警察の反応と内務省の対策)

5.通牒後の状況

内務省の通牒は、守られていたのかどうか、中国の日本領事館の報告などをみると極めて疑問です。

(1) 上海の受け入れ態勢変更

1937年12月に上海総領事警察と軍関係者の会議では、上海に到着した慰安婦はまず、総領事警察で写真、承諾書、印鑑証明書、戸籍謄本、調査書の5つの書類をチェックし、問題がなければ軍に引き渡すことになっていました。しかし、1938年4月16日の議事録(史料No.14)によれば、軍専用慰安所の慰安婦についてはこれらのチェックは軍が行うことに変更されました。

軍でその業務を行ったのは慰安所の管理担当です。漢口で慰安係長をしていた山田清吉氏は回想録でその模様を次のように述べています。

{ 慰安婦が漢口へ到着すると、楼主とともに必要書類をもって兵站慰安係へ出頭する。係の下士官は、彼女たち本人の写真、戸籍謄本、誓約書、親の承諾書、警察の許可書、市町村長の身分証明書などを調べ、所定の身上調書をつくり、それに前歴、父兄の住所、職業、家族構成、前借の金額などを書き入れる。… 内地から来た妓はだいたい娼婦、芸妓、女給などの経歴のある二十からニ十七、八の妓が多かったのにくらべて、半島から来たものは前歴もなく、年齢も十八、九の若い妓が多かった。「辛い仕事だが辛抱できるか」とたずねると、あらかじめ楼主から言われているのか、彼女たちはいちように仕事のことは納得しているとうなずいていた。}(山田清吉「武漢兵站」,P86-P87)

戦地の兵站であれば、チェックできるのは持参した書類の範囲でしかないでしょう。しかし、その書類をごまかして持ってくる者もいたようです。山田清吉氏は、前歴や年齢を偽って記載した事例註5を回想しています。本来は警察がチェックすべきことが、チェックできていないことをうかがわせます。

(2) 山海関からのクレーム(1938/5/12発信 史料No.15)

山海関の領事館では、1938年5月10日、料理店主が同伴する芸妓4名のうち3名が21才未満であることを発見しましたが、彼女たちは北海道旭川警察署発行の身分証明書をもっていました。外務省から北海道庁長官に事情を明らかにするよう申し入れています。

※山海関 万里の長城の東端、渤海沿岸の町で華北と東北の境。

(3) 中国各領事館からの報告

この2つの文書は、外務省条約局長から内務省警保局長に宛てたもので、中国にある領事館からの報告書を転送しています。

済南、張家口、芝罘、山海関からの報告(1938/6/30発信、史料No.16)

次のような問題を指摘しています。

・醜業に従事することが明らかであるにもかかわらず、女給、女中などと偽って身分証明書を取得している者がいる。身分証明書発給の際、しっかり確認して欲しい。

・内地から醜業に従事するために渡航する場合、いったん朝鮮または満州にわたってから、北支に入る者も少なからずいる。

北京、南京からの報告(1938/7/14発信 史料No.17)

主な指摘事項は次の通りです。

・外地における酌婦稼業とは、内地における娼妓稼業と同じであることを本人ならびに親権者に説明すること。(「話が違う!」と領事館に駆け込む者多し)

・内地で伝えられるほど、中国での収入は多くない場合もある。

6.まとめ

永井氏は、内務省警保局長通牒と陸軍省副官通牒の意義を次のようにまとめています。

{ 問題の警保局長通牒は、軍の依頼を受けた業者による慰安婦の募集活動に疑念を発した地方警察に対して、慰安所開設は国家の方針であるとの内務省の意向を徹底し、警察の意思統一をはかることを目的として出されたものであり、慰安婦の募集と渡航を合法化すると同時に、軍と慰安所の関係を隠蔽化するべく、募集行為を規制するよう指示した文書にほかならぬ、というのが私の解釈である。さらに、副官通牒は、そのような警察の措置に応じるべく、内務省の規制方針にそうよう慰安婦の募集にあたる業者の選定に注意をはらい、地元警察・憲兵隊との連絡を密にとるように命じた、出先軍司令部向けの指示文書であり、そもそもが「強制連行を業者がすることを禁じた」取締文書などではないのである。}(永井「日本軍の慰安所政策について」、はじめに/問題の所在)

内務省は軍がそのような施設を保有することは国際的にも国内的にも問題が多いと考えていましたが、軍≒国家の方針に逆らうこともできず、軍も納得できる一定の条件をつけることによって最小限の体面を保持すると同時に、その事実をできるかぎり隠蔽しようとした、というところではないでしょうか。したがって、本気で慰安婦の渡航を規制しようという気はなかった、と考えるのが自然です。

それは通達後、年齢や職業などを偽って渡航した女性たちが少なからずあった、という報告が寄せられていることと整合します。

さらに永井氏は次のようにも述べています。

{ この通牒は、一方において慰安婦の募集と渡航を容認しながら、軍すなわち国家と慰安所の関係についてはそれを隠蔽することを業者に義務づけた。この公認と隠蔽のダブル・スタンダードが警保局の方針であり、日本政府の方針であった。なぜなら、自らが「醜業」と呼んではばからないことがらに軍=国家が直接手を染めるのは、いかに軍事上の必要からとはいえ、軍=国家の体面にかかわる「恥ずかしい」ことであり、大っぴらにできないことだったからだ。このような隠蔽方針がとられたために、軍=国家と慰安所の関係は今にいたっても曖昧化されたままであり、それを示す公的な資料が見つかりにくいというより、そもそものはじめから少ないのは、かかる方針によるところ大と言えるであろう。その意味では、慰安所と軍=国家の関係に目をつむり、できるかぎり否認せんとする自由主義史観派の精神構造は、この通牒に看取される当時の軍と政府の立場を、ほぼそのまま受け継ぐものと言ってよい。}(永井「日本軍の慰安所政策について」、Ⅳ。地方警察の反応と内務省の対策)

このことは、慰安婦の徴募や慰安所の経営を業者に委嘱したことと無関係ではないと思われます。すなわち、これらの業務をやっているのは業者であり、軍や政府は関与していない、という形式にすることによって、業者の行動を一定の範囲で黙認する一方、それらはあくまでも業者主体でやっていることである、という体裁をつくることができるからです。それが、慰安婦徴募や慰安所経営を「現場任せ」にした理由でもあったのでしょう。
この通牒は、こうした軍・政府の慰安婦システム運営に関する基本方針を確認するという性格をもった文書だったのです。

なお、この通牒もしくは類似の通達が朝鮮や台湾で出されたという記録はみつかっていません。軍にとって、朝鮮人慰安婦は以下により、とても魅力的でした。

・性病の危険が極めて少ない若い娼婦未経験者を徴募できる

・将兵が戦地で知り合いの素人女性に出会う、という不祥事を防止できる

日本では、出征兵士の家族やその隣人に対して、軍がこうした施設を経営することを隠蔽する動機がありましたが、朝鮮ではそのような動機はきわめて薄弱だったといってよいでしょう。それは、日本人慰安婦の多くが娼婦経験者であったのに対して、朝鮮人慰安婦は素人が多かったこと、そのために騙されて連れていかれた人が多かったことにつながります。


註釈

註1 否定派の主張

小林よしのり氏は、陸軍副官通牒の全文を掲載した上で、次のように述べています。

{ これは違法な徴募を止めさせるためのものだ }(小林よしのり「慰安婦」,P139

また、有馬哲夫氏は、内務省警保局長通牒の重要なポイントは次の2点にあるという。

{ (第五項により)本人の意に沿わない人身売買や誘拐などがないよう厳重なチェックを受ける…
(第七項により)周旋業者の方も、誇大広告や嘘で女性側を騙すことを禁じられており、身元が怪しい場合は、騙して連れてきた女性たちを警察や官憲に引き渡さなければならなかったのだ。}(有馬「慰安婦はみな合意契約…」,P160)

註2 上海総領事警察の文書の意義

{ まともに申請すれば、「醜業」と蔑視されている売春業者や娼婦に対して身分証明書の発給が許されるはずはない。だからこそ、その隘路を回避するために、上海の領事館警察から長崎水上警察署に対して、陸軍慰安所の設置はたしかに軍と総領事館の決定に基づくものであり、決して民間業者の恣意的な事業ではないことを通知し、業者と従業女性の中国渡航にしかるべき便宜をはかってほしいとの要請( … )がなされたのである。この依頼状の性格は、前記外務次官通達の定める渡航制限に緩和措置を求めたものと位置づけられる。}(永井「日本軍の慰安所政策について」,Ⅱ陸軍慰安所の創設)

註3 慰安婦出航

千田夏光「従軍慰安婦・慶子」,P59-P70

註4 契約条件

{ このような条件でなされる娼妓稼業契約は「身売り」とよばれ、これが人身売買として認定されておれば、大内の行為は「帝国外ニ移送スル目的ヲ以テ人ヲ売買」するものにほかならず、刑法第226条の人身売買罪に該当する。しかし、当時の法解釈では、このような条件での娼妓契約は「公序良俗」に違反する民法上無効な契約とはされても、少なくとも日本帝国内にとどまるかぎりは、刑法上の犯罪を構成する「人身売買」とはみなされなかった。}(永井「日本軍の慰安所政策について」,Ⅲ2北関東・南東北での募集活動)

註5 書類を偽って作成していた事例

{ みつ子の友だちが軍の接待婦となって漢口へ行くという話をきき、一緒に行く約束をしたが、警察では前歴がなければ渡航を許可しないという。そこで、前にカフェーで働いたことがあると嘘をついて許可をとった。}(山田清吉「武漢兵站」,P89-P90)

{ 朝鮮から妓をつれて帰った泰平館の楼主が、まだ十七、八に見える女の子をつれて兵站に来た。戸籍謄本を見ると十六才である。これでは営業の許可できない。楼主は、貧しい田舎の習慣で出生届がおくれたので、実際は満十八歳だという。}(同上、P100)

参考文献