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日独、慰安婦システムの比較

2020/4/15

このレポートは、独ソ戦におけるドイツ軍の「戦場の性」を分析したレギーナ・ミュールホイザー著「戦場の性」註1をもとに、日本とドイツの慰安婦システムを比較したものです。

ブランデンブルグ門

ブランデンブルグ門(ベルリン)


目次


1. 独ソ戦の概要

第二次世界大戦はじまる!

1939年8月、ドイツはソ連と独ソ不可侵条約を締結して、翌9月にポーランドに侵攻、イギリス・フランスなどはドイツに宣戦を布告して第二次大戦がはじまりました。ソ連もドイツの後を追うようにしてポーランドに侵攻し、つづいてフィンランドやバルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)を1940年8月までに併合しました。一方、ドイツは1940年4月からデンマーク、ノルウェー、オランダなどに侵攻し、6月にはフランス全土を占領して、ロンドン空襲を行いましたが、イギリスは屈服しませんでした。

独ソ戦開戦

ヒトラーは1940年12月18日、「バルバロッサ作戦」と名づけたソ連との戦いの準備を指令しました。レギーナ氏は開戦の理由を、「共産主義、ユダヤ人、スラブ人を絶滅するというイデオロギーと、英米との消耗戦に勝ち抜く軍事・経済的基盤を得ることにあった」といいます。国際法を一切考慮することなくユダヤ人の殺害や敵住民への戦争犯罪も不問とする「絶滅戦争」と呼ばれました。戦争は4~6週間で片付くだろうという楽観的予測のもと1941年6月22日に侵攻が開始されました註2

独ソ戦結末

ドイツ軍は、北方、中央、南方の3軍に分けて進撃し、北方はバルト三国をおさえてソ連のレニングラードを包囲しましたが、南方はウクライナで苦戦し、中央はモスクワまであとわずかのところまで迫りましたが、冬季をむかえて進撃を中断せざるを得なくなりました。しばらく膠着状態が続きましたが、1942年から43年にかけて行われたスターリングラード攻防戦に破れ、1944年6月のノルマンディー上陸作戦にあわせたソ連軍の攻勢によりドイツ軍は退却を余儀なくされました。1945年4月にはヒトラーが自殺し、5月に降伏して終戦となりました。この戦争による犠牲者(民間人含む)はソ連側2000~3000万人(うち軍人1470万人)、ドイツ側600~1000万人(うち軍人390万人)といわれています註3

<余談>その頃、日本では…

日本は1937年7月、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争に突入、同年12月に南京を攻略しましたが、日中戦争は泥沼化しました。1940年9月、ドイツの快進撃を見た陸軍や松岡洋祐外相は「バスに乗り遅れるな!」と三国同盟を締結します。締結にあたり、三国同盟はいずれソ連を含めた四国同盟にすることが、海軍など締結反対勢力を説得するための材料になっていたのです。松岡は、翌1941年3月から4月にドイツとソ連を訪問し、ソ連では日ソ不可侵条約を締結して鼻高々で帰国します。

日本が三国同盟を締結したのは、ヒトラーが独ソ戦の開戦を決意する3カ月前、そして松岡が日ソ不可侵条約を結んだのはヒトラーがソ連に侵入する3か月ほど前だったのです。ヒトラーは著書「我が闘争」でソ連との戦争が不可欠であることを説いており、いずれドイツとソ連が戦争を始めることをヨーロッパでは多くの人が予想していました。松岡はベルリンからモスクワに移動する際、ドイツ駐在の大島大使からソ連との条約は結ばないようアドバイスを受けていたにもかかわらず、無視しました。スターリンは独ソ戦を控えて東方の安全を確保したかった、松岡はうまく乗せられたのです。この三国同盟が太平戦争開戦の重要なターニングポイントになりました。日本の猪突猛進を象徴するようなできごとでした。

2. 日独の背景比較

レギーナ氏は、慰安婦システムの背景にある歴史的、文化的な違いを5点あげています註4

(1) 売春に対する見方

ドイツでは1517年のルターによる宗教改革以来、売春業は風紀違反であり、社会秩序に対する脅威と見なされてきました。日本では長い間、売春が罪過と見なされることはありませんでしたが、19世紀の終わりごろから、批判的な見方も出始めていました。

(2) 公娼制

上記のようにドイツでは、売春を罪悪視する一方でそれを完全に禁止することはなく、売春婦は社会から隔離されて街娼のようなかたちで存在していました。一方、日本では公娼制により性病検査が義務付けられていたものの遊郭での営業が認められていました。

(3) 人身売買

ドイツの人身売買人が売買していたのは、東欧の貧しいユダヤ人女性が多く、売先は北米、中南米、中近東などでした。日本は、貧しい農村の娘たちが"からゆきさん"として、シベリアからシンガポール、東南アジアに進出し、日本の娼館で働いていました。

(4) 植民地における売春

ドイツは統一国家の形成で他の西欧諸国に後れをとり、植民地は19世紀の終わりから20世紀初頭にかけて、南太平洋の島嶼や東西アフリカなどに小規模なものがありました。植民地にあった現地女性による売春宿は、人種の交雑を防止するために利用を制限され、代わりにドイツ人売春婦が送り込まれました。日本はドイツのような生物学的な人種差別はなく、貧困にあえぐ朝鮮人女性が日本や日本人がいる国の遊郭に売られました。

(5) 人種主義

ヒトラーはドイツ民族を「アーリア人」とよぶ卓越した民族であり、その生物学的な純度を保持することを重要な政策として推進しました。売春も形式的には否定していましたが、さほど厳格ではありませんでした。日本では中国人や朝鮮人蔑視はありましたが、性的接触を禁止するような動きはありませんでした。

売春に関する考え方には宗教が大きく影響しており、特にプロテスタント系キリスト教国では売春に対して否定的な見方が強かったようです。(アメリカやイギリスはどちらかというとプロテスタント系のようです) かといって、売春を全面的に禁止するのではなく、公式には禁止するけど実態は黙認、というスタイルをとる国が多かったようです。

3. 慰安婦システムの比較

ドイツの慰安婦システムについて軍の史料は多少あるようですが、証言があるのは軍医など一部の軍関係者だけで、利用者である兵士の証言も、慰安婦の証言もほとんどなく、営業状況はよくわかっていません。そのせいか、レギーナ氏は慰安婦システムそのものについて比較はしていませんが、私の知見をもとに両者の差異を整理してみました。

(1)相違点

(a) 設置の目的

ドイツ軍が慰安婦システムを設置した公式の目的は、①性病対策、②防諜対策、③人種交雑の防止、の3点ですが、日本軍は、①強姦防止、②性病対策、③防諜対策、などを目的としました。ドイツの目的に強姦防止がないのは、強姦を容認していたからだと思われます。戦場での女性に対する暴力は戦争につきもので兵士に対するご褒美ようなものという考えが支配的だったのと、独ソ戦でドイツは兵士が民間人に対して犯罪を犯しても軍の規律や部隊の安全を損なわないかぎり訴追すべきでない、という命令が出されています註5

(b) リクルート

日本では、慰安婦は日本本土だけでなく、朝鮮半島などの植民地や中国、東南アジアなど占領地から行われ、一部には就職詐欺のような方法や誘拐・拉致によるものもありました。ドイツの場合、ほとんどの慰安婦は占領地で徴募したようです。

秦郁彦氏は「ソ連ではしばしば強制徴用された。ドイツ本国への強制労働を拒否した若い女性は代りに慰安所で働かされた」註6 と言いますが、レギーナ氏は、「女性たちの徴募状況は、ほとんどわかっていないが、自ら応募した女性が多かったと推測される。街娼だった女性のほか、戦争による飢餓などから自分と家族を救うために応募した女性もいた。フランツ・ザイトラーは、若い女性は恐れられていたドイツへの労働動員よりも軍用売春施設を選択したと考えている(もっとも彼は証拠となる史料を一つも引用していない)」註7 と述べています。

秦氏もフランツ・ザイトラーの論稿をもとに書いていますが、レギーナ氏はその論稿をあまり信用していないようです。ドイツの強制労働は日本で行われたいわゆる"徴用工"などと比べものにならないほど恐ろしかったらしいので、地元で慰安婦をやったほうがはるかにいい、と考えた女性たちもいたのかもしれません。

ドイツの慰安婦徴募方法は、日本以上にわかっていないようです。フランスなど西部戦線では既存の売春宿を接収して使い、ソ連など東部戦線ではそうした施設がなかったので、街娼を連れてきたけれど、素人の女性も多く、しかも強制と自発の境界は流動的だったようです。

(c) 慰安所の管理

日本軍の慰安所の多くは、慰安婦の徴募から日常的な運営まで業者に業務委託されたのに対して、ドイツ軍の慰安所は軍事的施設として軍が直轄する施設であり、慰安婦の徴募から慰安所の運営まで軍の直営でした。ただ、慰安所の運営は言葉の問題から現地の民間人 ―― なかには女性もいた ―― に委託したケースもあったようです。

売春施設の設置は軍の地域本部の責任の下で行われ、陸軍警ら隊(憲兵のことか?)が巡回し、衛生将校は施設の活用状況などを定期的に地域本部に報告することを求められました。
また、施設の営業時間や衛生義務、その他の利用規則などを定めた規定一覧は陸軍総司令部から発布されています註8

(2) 類似点

(a) 性病対策

慰安婦の性病検診は日本もドイツも軍医が定期的に行っていました。日本は週1回程度のようですが、ドイツの場合は、週2回、多いところでは週3回行われていました。感染が確認された場合、女性は現地の病院に入院させられ、完治すれば売春施設に戻されました。これは日独同様です。
ドイツの性病対策の結果については、効果があった、と主張する人たちと、あまりなかったとする人たちに分れました註9

(b) 利用規則

秦氏は、日本軍の利用規則に酷似している、といいます。{ ザイトラーが収録しているドイツ軍慰安所の利用規則を見ると、強制登録制、経営者と慰安婦の取り分は折半、利用料金の統制、コンドーム使用と事後の消毒、酒類の持ち込み禁止、暴力禁止、憲兵による監視、慰安婦の外出制限など、日本の例に酷似している。}(秦「戦場の性」,P151)
レギーナ氏は利用規則の内容を引用していませんが、秦氏の内容は正しいと思われます。

(c) 料金

秦氏は、「入場料は2~3マルク、高級慰安所は5マルク」、レギーナ氏は「ほとんどわかっていないが、もぐりの売春婦の値段は2~3マルク…」と述べていますので、その程度の金額だったのでしょう。ちなみに1940年当時の1マルクは当時の1円とほぼ同価値註10なので、日本軍慰安所の兵士向け価格1.5~2円とほぼ同程度とみてよいでしょう。

(d) 慰安所廃止論

日本軍内部には、軍が「醜業」を営むことについて批判的な意見がありましたが、ドイツでも売春施設は軍の威信を傷つけるという意見がかなりあったようです。例えば、訓練兵に対する責任を負っていた最先任軍医は書簡で次のように書いています。

{ 売春施設の欠点、つまり、不快なほどの大人数がつめかけ、そしてとりわけ、数多くの若い兵士や普通ならこのようなところに来ないような人たちが戦友に連れてこられて、娼婦との性行為を強要されるという看過できない事態 ―― これらの明白な否定的側面は、管理運営の方法を変えても改善することはできない。それゆえ当方の判断では、国防軍による売春宿の設置を禁止し、兵士による売春宿の利用を処罰の対象にすることが正しいことと思われる。}(レギーナ「戦場の性」,P141)

(3) 不明点

(a) 規模

慰安所の数や慰安婦の数は、日本の場合も明確な数を把握できているわけではありませんが、ドイツの方はもっとわからないようです。秦氏は、ザイトラーの著書には1942年で500か所と書いてある、と述べていますが、レギーナ氏はわからないと述べています。{ 国防軍がソ連占領地域で売春施設をどれくらい設置したのかという問いへの答えは、今後の研究プロジェクトに委ねければならない。}(レギーナ「戦場の性」,P142)

(b) 前借金の有無

日本の公娼制度では、慰安婦は最初に前借金を借りて、それを返すまで慰安所で働くことになっていましたが、ドイツの場合そうした制度があったかどうかは不明です。(なかったか、あっても一般的ではなかったような気がします…)

(c) 客数

日本の慰安所では、一人の慰安婦が一日に相手する客数は多いときで30人以上、平均で5人程度ではないかと思われますが、ドイツでどのくらいだったかはわかりません。レギーナ氏によれば、「性的サービスの需要が供給可能な売春婦の数を超えている」、とか「昼休みと夕方に順番待ちをする兵士の列が道路にまで延びている」という報告があるので、混雑状況は似たようなものだったと思われます。
日本の慰安所が忙しかったのは日曜などの休日で平日はすいていたようですが、ドイツは昼休みや夕方も混雑していたのですね。

(d) 慰安婦の生活状況

慰安婦の休日や行動の自由がどの程度あったかなどについて、日本軍慰安所は場所によりけりでしたが、ドイツの場合はよくわかっていません。

4. 独ソ戦における戦場の性

レギーナ氏は、独ソ戦の「戦場の性」を、①性暴力(レイプ)、②取引としての性、③合意の上での関係、の3つに分け、証言や史料などからその実態を明らかにしています。

(1) 性暴力(レイプ)

{ ドイツの戦争計画では、軍の糧食を確保するために、ソ連から経済的に掠奪することは最初から前提にされていた。しかし、兵士たちは進駐後まもなく、軍事的指令による徴発の範囲を越えて、独断で商店、農家、家屋、住居を襲うようになった。そうした略奪のさいに女性と少女たち自身もたちまち獲物になり得たことは、明らかである。}(レギーナ「戦場の性」,P68)

レイプは、占領地にいた女性に対してだけでなく、強制労働に狩りだされた人たち、ゲットー(居住区)や収容所にいたユダヤ人、パルチザンやソ連軍の女性兵士や女性スパイ、などに対しても行われました。レイプの証言などをみると、ユダヤ人という特殊な環境をのぞけば日本軍とうりふたつです。レギーナ氏は次のように総括しています。

{ 部隊の指揮官は、兵士たちに性暴力をふるうことができる空間を解放した。兵士は、敵の女性たちに対して全面的な自由裁量権を持つと信じていた。日常化していく戦争のなかで、兵士は退屈や不安を感じたり抑うつ気味になったりした。そのなかで言葉による、またのぞき見的な、あるいは身体的な性的侵害行為は、精神的鬱屈を取り除き、自己の権力を確認させる機会を個人や集団に与えていた。その場合、レイプだけが問題なのではなく、裸体の強要、性器の接触、身体開口部の探索も、加害者にある程度のうさばらし、魅惑、征服感を与える性暴力の形態であった。性暴力行為の残忍さは集団の中でエスカレートし、際限がなくなった。多くの男性は、以前にはおそらく考えもしなかったような形で性を体験したと思われる。}(同上,P225<要約>) なお、ソ連軍は追撃戦でドイツ軍と同じかそれ以上にひどいレイプを行っています。

(2) 取引としての性

ドイツ軍が占領した地域は、占領前にソ連軍が食料などを持ち去ったり、焼いたりし、占領後はドイツ軍が容赦なく徴発を行いました。そのため、多くの住民が餓死したとされます。そのような環境で女性たちは自分と家族の食料を得るために、自らの身体を売りました。ドイツ軍はこれをもぐりの売春婦として取り締まりました。
なお、軍の慰安所も"取引としての性"のひとつとして位置づけられています。

(3) 合意の上での関係

バルト三国やベラルーシなど、ソ連に批判的感情をもつ地域では、駐屯していたドイツ兵が現地の女性と恋愛関係になり、結婚までこぎつけるカップルがたくさんできました。軍はこうした交際を禁止しましたが、結婚の許可を求める申請が出されるようになりました。ドイツ政府はこれを原則として認めませんでしたが、現地当局は認めるように求め、結局、ケースバイケースで対応することになりました。

5.まとめ

ドイツの元慰安婦はなぜ名乗り出ないのか?

レギーナ氏の本の「訳者あとがき」で監訳者の姫岡とし子氏は、次のように述べています。

{ 戦時性暴力の被害者が家父長制的文化のなかで沈黙を強いられ、さらに被害者であるのに罪悪感をもたされ、近親者や近隣住民の排除の対象になってきたという構造は、アジアの場合もヨーロッパの場合も同じである。…
ナチ犯罪の追求よりスターリン体制の非道さを告発することに熱心な現在の旧ソ連地域で、しかもフェミニズム運動も雇用の確保など別の課題で手いっぱいの現状では、独ソ戦下の性暴力が究明課題になったり、その被害者のための支援組織が作られたりすることは、残念ながらほとんど考えられない。その間に被害者はほとんど亡くなっている。}(レギーナ「戦場の性」,P240)

レギーナ氏自身は旧ソ連の女性の証言の内容などから、彼女たちは周囲から自らドイツ人との性的関係を求めたのだろうと疑われており、その体験を話すことは大きなリスクになっている、と述べています。(同上,P30)

日独の慰安婦システムの裏にあるもの

日本とドイツの慰安婦システムは、目的や慰安婦の徴募方法、経営形態に違いはあるものの、軍専用の売春施設という意味ではほぼ同じようなものであったといえるでしょう。たまたま、第二次世界大戦で全体主義(ファシズム)を掲げた両国が米英などとは異なる仕組みをもっていたことには何か共通するものがあったのではないでしょうか。

レギーナ氏は、ドイツ軍が慰安所を設置した隠れた目的を指摘しています。それは、「兵士として死ぬ準備ができていなければならないとすれば、無条件に"愛する"(=性欲)自由を持たなければならない」というヒトラーの言葉に表れています。つまり、性欲の充足は兵士たちの能力を引き出すための手段であり、それを抑圧することは兵士の戦闘能力をそぐことになる、という考え方です。さらに、軍がその自由を与えることにより、兵士の忠誠心に軍が報いていることを知らしめようとしたのです。(レギーナ「戦場の性」,P22-P23<要約>)

日本の場合も、慰安所設置の表向きの目的は強姦防止や性病対策でしたが、それと同時に兵士の性的、精神的慰安というのもあったはずです。それは裏を返せば、ドイツと同様に兵士のモチベーションを維持し、戦闘能力を引き出すためでもあったと考えられます。同じようなことは戦後の企業や官公庁にもありました。保養所の設置や社員旅行などいわゆる社員・職員への「福利厚生」サービスの提供です。こうしたサービスを提供することにより、組織の一体感や組織員同士の交流を促進し、それが組織のために24時間働く「企業戦士」を養成することに貢献しました。このように人間のプライベートな領域まで入り込んで人を管理するやり方は組織管理の手法のひとつだとは思いますが、日本軍やドイツ軍の場合、兵士のモチベーションや精神力に依存しなければ戦争に勝てない、というあせりが軍上層部にあったのではないでしょうか。

しかし、アメリカやイギリスは、こうした方法はとらず、兵士には軍としての厳しい規律を適用しましたが、プライベートな部分はあくまでも兵士個人の責任、というスタンスを維持しました。それが秦氏が「自由恋愛型」とよぶ外部の売春宿を利用する方式だったのです。そこには、英米の合理性だけでなく、侵略戦争と防衛戦争、全体主義と民主主義、のちがいが、影響しているのではないか、そんな風に思います。


註1 レギーナ・ミュールホイザー著「戦場の性」

著者は1971年生まれのドイツ人。歴史学、ジェンダー史が専門の女性学者。この本は第二次世界大戦の独ソ戦における強姦などの性暴力について、当時のドイツ軍の考えかたや兵士の心理などを分析したもので、大変な力作である。詳細は、「慰安婦問題」のサイトの「参考文献」を参照願う。

註2 独ソ戦開戦

{ ヒトラーが独ソ戦を決断したのは、ボルシェヴィキ、ユダヤ人、スラブ人を絶滅するというイデオロギーだけが理由ではない。そこには、①和平の呼びかけにも応じず、度重なる本土空襲にも屈しないイギリスの現状、②1942年にアメリカが積極的に介入してくるという判断、③食糧問題の解決、という要因があった。電撃戦によってソ連を征服することで、英米との消耗戦に勝ち抜く軍事・経済的基盤を得るとともに、ウクライナなどの穀倉地帯を押さえようとしたのである。…
ヒトラーは、1940年12月18日、総統命令第21号「バルバロッサ作戦」を発令。この戦争は単なる武器による戦い以上のものであり、2つの世界観の対決とされた。開戦前からソ連住民数千万人が餓死することが前提となっていた上、国際法を一切顧慮することなく、… ユダヤ人を殺害することとされ、敵住民への兵士たちの戦争犯罪も事実上不問とされた。}(レギーナ・ミュールホイザー「戦場の性」,PXXX)

註3 独ソ戦犠牲者数

Wikipedia「独ソ戦」による。

註4 日独の売春に対する見方

レギーナ「戦場の性」の"日本語版への序文"で述べている5つの相違点を平たい日本語に要約した。

註5 独ソ戦で強姦はOK?

{ 敵の女性の性的征服は明らかに、軍事的成果に対する報酬の一形態だった。ルート・ザイフェルトは、戦闘直後の短い混沌とした期間に女性への暴力を勝者に許すのは、歴史上何度も繰り返されてきた、記述されない戦争の掟の一部であったことを指摘した。}(同上,P57)

{ ソ連侵攻6週間前の1941年5月13日に、… 戦時裁判権の行使および特別措置に関する命令」を発した。戦時裁判権命令によって、ドイツ兵が東部出征中に民間人に対して犯罪を犯しても、軍の規律や部隊の安全を危険にさらさない限り、訴追されるべきではないと定められた。}(同上,P93)

註6 ドイツ軍慰安所(秦郁彦氏)

秦氏が参照したのは、フランツ・ザイトラー「売春・同性愛、自己毀損――ドイツ衛生指導の諸問題1939-45」という本で、残念ながら日本語版はでていない。秦氏はその超概要を、著書「慰安婦と戦場の性」P150-P151 で紹介している。

註7 ドイツ軍慰安所(レギーナ氏)

レギーナ氏は「戦場の性」P134-P135 で、いくつかの証言を紹介している。

註8 売買春システムの構築

{ 1940年7月のフランス占領直後にOKH(陸軍総司令部)は、売春婦の追跡と管理売春施設の設置という二つの命令をドイツ支配下にあるフランス全土に発布した。売春施設設置のための規定一覧は、営業時間の設定から衛生義務、さらには酒類の販売禁止にまでおよんだ。売買春の管理にOKHがこのような影響力を行使することは、インザ・マイネンが述べているように二重の意味があった。一つは、占領地域における国防軍売春施設の設置は、軍首脳部の中央からの計画および指示によるものであったこと、いまひとつはOKH本営で、一種の「占領地の標準的な売春施設」の基準が作られたことである。}(同上,P131)

註9 性病対策の結果

秦氏は、{ 効果は満足すべきものがあったと1943年1月27日付の国防軍総司令部報告は自讃している。}(秦「戦場の性」,P151) と述べるが、レギーナ氏は効果を疑問視する報告もあったという。{ 同じ時期(1943年1月27日)にソ連占領地域の国防軍は、売春施設の1年余りの経過について総括した。明らかになったのは、さまざまな部隊が売春施設が性病の感染率低下に基本的に役立つということに疑問を表明し、売春施設がむしろ国防軍の威信を損なうとした。}(レギーナ「戦場の性」,P132)

註10 マルクの為替レート

当時のマルクは、「ライヒスマルク」といい、1ドル=4.2ライヒスマルクだった。(Wikipedia「ライヒスマルク」)
1941年の円/ドルレートは、1ドル=4.2円だった。(Wikipedia「円相場」)